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310話「仕事と、それ以外」

翌朝。


 樹里が目を覚ましたとき、カーテンの隙間から明るい光が差し込んでいた。


 枕元の時計を見る。


 午前七時十二分。


 休日にもかかわらず、普段とほとんど変わらない時刻に目が覚めた。


 身体を起こした瞬間、昨夜のことが蘇る。


 静かな公園。


 神谷の告白。


 自分が返した言葉。


 何度も重ねた唇。


 駅までつないでいた手。


『……付き合った』


 声に出した途端、それまでよりも現実味が増した。


 仕事の相棒だった神谷と、恋人になった。


 昨日までと何を変えればいいのか、樹里には分からない。


 ベッドから出ようとしたとき、枕元のスマートフォンが震えた。


 画面には、神谷の名前が表示されている。


 電話ではなく、LINEだった。


「おはようございます、樹里さん」


 最初の一文を見ただけで、樹里の手が止まる。


 会社では日高さん。


 昨夜、会社の外では樹里さんと呼んでいいかと聞かれた。


 自分で許したにもかかわらず、文字で見ると落ち着かない。


「昨日は、ありがとうございました。無事に帰宅されましたか?」


 樹里は入力欄を開いた。


〈おはようございます。無事に帰宅しました〉


 そこまで打つ。


 仕事の連絡と何も変わらない。


 一度消した。


〈おはようございます。昨日はありがとうございました〉


 神谷と同じ文章になった。


 再び消す。


〈おはようございます〉


 それだけを残した。


 恋人へ送る朝の挨拶として、正しいのか分からない。


 樹里が続きを考えている間に、神谷から新しいメッセージが届く。


「昨日のことを、後悔していませんか?」


 樹里の眉が僅かに動いた。


 返信に迷っている時間が長すぎたため、不安にさせたらしい。


〈していません〉


 今度は、すぐに送信する。


 続けて文章を打つ。


〈無事に帰宅しました。悠真さんも、無事に帰られましたか?〉


 送信ボタンへ触れる前に、自分が入力した名前を見つめた。


 昨夜、一度だけ口にした呼び方。


 消そうとして、指を止める。


 二人で歩幅を合わせると言ったばかりだった。


 神谷だけに、呼び方を変えさせるわけにはいかない。


 樹里は、そのまま送信した。


 既読はすぐについた。


 だが、返事が来ない。


 一分。


 二分。


 何かおかしなことを書いただろうか。


 樹里が送った文章を読み返していると、ようやく返信が届いた。


「すみません。名前で呼んでいただけたことが嬉しくて、何と返せばいいか考えていました」


『……バカ』


 誰もいない部屋で呟く。


「俺も、無事に帰宅しています」


「それから、昨日の返事は夢ではなかったんですね」


〈夢ではありません〉


「安心しました」


〈何度確認するのですか?〉


「すみません」


〈謝らないでください〉


「分かりました」


 そこで会話が止まる。


 次に何を送ればいいのか、樹里には分からなかった。


 神谷からも、新しい言葉は届かない。


 二人とも、仕事の連絡なら迷わない。


 確認する内容も、報告する順番も決まっている。


 だが、恋人同士が休日の朝に何を話すのかは、どの資料にも書かれていなかった。


 樹里はしばらく画面を見つめた。


 やがて、自分から文字を打つ。


〈今日は、何をされる予定ですか?〉


 送信したあとで、質問として堅すぎる気がした。


 それでも、取り消しはしなかった。


「午前中に掃除をして、午後は買い物へ行く予定です。樹里さんは?」


〈仕事の資料を整理します〉


 返信は、すぐに届いた。


「今日は休日です」


〈自宅にある資料を整理するだけです〉


「高槻案件の資料ですか?」


〈はい〉


「月曜日でも間に合いますよね」


 樹里は画面を見つめた。


 黒澤から言われた言葉が蘇る。


 誰もやらないと、自分がやる。


 神谷にも、同じことを考えているのだろう。


〈午前中だけにします〉


「本当ですか?」


〈努力します〉


「それでは足りないと、黒澤部長に言われました」


 樹里の口元が僅かに緩んだ。


〈では、正午までに終わらせます〉


「分かりました」


 短いやり取り。


 恋人らしい会話なのかは分からない。


 それでも樹里は、スマートフォンを置く前に、もう一通送った。


〈悠真さんも、ゆっくり休んでください〉


「はい。樹里さんも」


 名前を呼ばれるたびに、まだ胸の奥が落ち着かない。


 だが、嫌ではなかった。


     ◇


 月曜日。


 樹里は普段と同じ時刻に出社した。


 営業部へ入る。


『おはようございます』


「おはようございます」


 すでに来ていた社員たちから挨拶が返る。


 神谷も自分の席にいた。


「おはようございます、日高さん」


『おはようございます、神谷さん』


 それだけだった。


 視線を合わせる時間も、普段より短い。


 神谷はすぐにパソコンへ向き直り、樹里も自分の席へ座った。


 高槻案件の契約後に届いた連絡。


 施工会社の入場記録。


 七社の移転準備。


 確認する仕事は残っている。


 樹里は普段どおり、資料を開いた。


 神谷も、必要な報告を社員から受けている。


 仕事の進め方は、何も変わっていない。


 少なくとも、二人はそう見せているつもりだった。


 朝礼が終わったあと、陽菜が樹里の席へ近づいた。


『日高先輩』


『何ですか?』


『神谷さんと、何かありました?』


 樹里の手が止まりかける。


『何もありません』


『返事、早くないですか?』


『仕事をしてください』


『してますよ』


『では、席へ戻ってください』


『まだ聞きたいことがあります』


『業務に関することですか?』


『違います』


『でしたら、休憩時間にしてください』


 陽菜は樹里の顔を覗き込んだ。


『やっぱり変』


『何がですか?』


『日高先輩も神谷さんも、いつもより仕事しかしてない』


『会社では、仕事をするものです』


『そうですけど』


 陽菜は、今度は神谷を見る。


 神谷も、こちらの会話が聞こえているはずだった。


 それでも一度も顔を上げない。


『打ち上げのあと、二人でどこか行きましたよね?』


『少し話をしただけです』


『何の話ですか?』


『櫻井さん』


『はい』


『席へ戻ってください』


『怪しい』


『中井さん』


 樹里が、離れた席にいる中井を呼ぶ。


「はい」


『櫻井さんを連れていってください』


「陽菜さん」


『中井くんまで何?』


「日高さんがお困りです」


『困ってる顔じゃないよ』


「顔に出ないだけかもしれません」


『中井くん、総長のこと分かってきたね』


『櫻井さん』


『今は会社でした』


 陽菜は慌てて口元を押さえた。


 近くにいた社員が、不思議そうにこちらを見る。


『今のは忘れてください』


 何を忘れればいいのか分からず、社員は戸惑いながら頷いた。


 中井が陽菜の腕を軽く引く。


「戻りましょう」


『あとで絶対聞くから』


『話すことはありません』


『それも怪しい』


 陽菜は中井に連れられ、自分の席へ戻った。


 樹里は小さく息を吐く。


 そのとき、神谷と目が合った。


 神谷の口元には、僅かに笑みが浮かんでいる。


 樹里が目を細めると、神谷はすぐに仕事へ戻った。


     ◇


 昼休み。


 神谷は樹里へ、社内の連絡機能を使って短い文章を送った。


〈本日、黒澤部長へ報告したいのですが、よろしいでしょうか〉


 樹里は内容を理解した。


 八月から、神谷は営業部長になる。


 樹里は、神谷の指揮下で働くことになる。


 恋人になった事実を隠したまま、その日を迎えるべきではない。


〈はい。私も同席します〉


〈ありがとうございます。午後一時にお時間をいただきました〉


〈承知しました〉


 午後一時。


 二人は揃って、小さな会議室へ入った。


 黒澤は先に席へ着いている。


「二人で話とは、珍しいな」


「お時間をいただき、ありがとうございます」


『ありがとうございます』


「高槻の件か?」


「違います」


「特別案件の役割についてか?」


『それも違います』


 黒澤は、向かいに座る二人を見比べた。


「なら、何だ」


 神谷が一度、樹里を見る。


 樹里も、小さく頷いた。


「日高さんと、交際することになりました」


 黒澤は何も答えなかった。


 驚いているようには見えない。


 ただ、確認するように二人の顔を交互に見ている。


「いつからだ」


「先週の金曜日です」


「打ち上げの日か」


「はい」


「どちらから言った」


「私です」


「何と」


「黒澤部長」


 神谷の声が僅かに硬くなる。


「そこまで報告する必要はありますか?」


「ないな」


『でしたら、聞かないでください』


「日高さんまで、そんな顔をするな」


『どのような顔でしょうか』


「怒ってる顔だ」


『普段と同じです』


「そうか」


 黒澤は椅子の背へ身体を預けた。


「それで、俺に報告した理由は?」


「八月から、私が日高さんの直属の上司になるからです」


『私の評価や業務分担に、神谷さんの判断が関わります』


「分かってるなら話は早い」


 黒澤の表情から、冗談が消える。


「付き合うこと自体を、会社が止める理由はない。二人とも独身で、合意している。就業規則にも反していない」


「はい」


「ただし、八月からは上司と部下だ」


『承知しています』


「仕事中に特別扱いをするな。良い方にも、悪い方にもだ」


「はい」


「交際しているから仕事を軽くするのも駄目だ。反対に、周りへ疑われたくないから日高さんにだけ厳しくするのも駄目だ」


「承知しました」


「日高さんも、神谷の指示が気に入らないからといって、私生活の問題にするなよ」


『そのようなことはしません』


「今はそう思っていても、仕事と感情は完全には分けられない」


 樹里は黙って黒澤を見る。


「分けられると思い込む方が危ない。影響する可能性があると、最初から分かっておけ」


『はい』


「日高さんの人事評価と昇給、昇進に関する判断は、神谷一人では行わせない」


「黒澤部長にも確認していただけますか?」


「八月からは、総務部長として俺が確認する。必要なら、もう一人別の管理職も入れる」


『特別案件統括担当の評価もですか?』


「あれは営業部だけの仕事じゃない。社長と俺も見る」


「分かりました」


「日高さんへの案件の割り振りも、記録を残せ。なぜ任せたのか。ほかの社員では駄目なのか。業務量は適正か」


「はい」


「休暇や勤怠の承認についても、当面は副責任者か総務で確認する」


 神谷が頷く。


「承知しました」


「それから、仕事へ問題が出た場合は、どちらかの異動も検討する」


 樹里の目が僅かに動く。


『交際していることだけを理由に、ですか?』


「違う。仕事に影響が出た場合だ」


『どの程度でしょうか』


「ほかの社員の評価が不公平になる。同じ部署で働くことによって業務上の判断が歪む。周囲が意見を言えなくなる。そういう状態だ」


『分かりました』


「そこまでしても、付き合うんだな」


 黒澤が二人を見る。


「はい」


 神谷は迷わず答えた。


 樹里も、神谷のあとに続く。


『はい』


「なら、俺から止めることはない」


 黒澤は腕を組んだ。


「社長と人事には、俺から報告する。会社全体へ公表する必要はないが、管理上必要な人間には伝える」


「お願いします」


『お願いいたします』


「二人から何かあるか?」


 神谷が口を開く。


「交際していることで、日高さんの評価が下がることはありませんか?」


「それはない」


「私が部長へ就任することで、日高さんに不利益が出るなら――」


『神谷さん』


 樹里が止める。


『私のことを理由に、営業部長を辞退するつもりですか?』


「辞退するとは言っていません」


『今、そのように聞こえました』


「不利益が出る場合の話です」


『私の評価は、私の仕事で決まります』


「分かっています」


『でしたら、先に私を守ろうとしないでください』


「ですが――」


「そこまで」


 黒澤が二人の間へ入る。


「神谷。今のは日高さんの言うとおりだ」


「はい」


「守ることと、本人の代わりに決めることは違う」


 神谷は口を閉じた。


「日高さんも」


『はい』


「一人で問題ないと決めるな。何かあったら話せ」


『承知しました』


「恋人になった翌日から、いつもの二人だな」


「申し訳ありません」


『神谷さんが余計なことをおっしゃるからです』


「日高さんのことを考えて――」


『それを先に決めないでくださいと言っています』


「分かりました」


「本当に大丈夫か?」


 黒澤の問いに、二人の言葉が止まる。


 やがて樹里が答えた。


『話し合います』


「何をだ」


『意見が違う場合は、どちらかが勝手に決めず、二人で話します』


「仕事でも、私生活でもか」


『はい』


 神谷も頷く。


「俺も、そうします」


「ならいい」


 黒澤は、そこでようやく表情を緩めた。


「二人とも、おめでとう」


 それまでの厳しい口調とは違う。


 上司としてではなく、二人を長く見てきた人間の言葉だった。


「ありがとうございます」


 神谷が頭を下げる。


 樹里は一瞬遅れて続いた。


『……ありがとうございます』


「ずいぶん時間が掛かったな」


『何のことでしょうか』


「神谷が倒れた頃には、こうなると思ってた」


「その頃からですか?」


「日高さんが、仕事以外であれだけ誰かを気にするのは珍しかったからな」


『仕事の責任者でしたので』


「まだ言うのか」


『事実です』


「はいはい」


『適当に返さないでください』


「もう報告は終わった。戻っていいぞ」


 黒澤が手を振る。


「失礼します」


『失礼いたします』


 二人が立ち上がり、会議室の扉へ向かう。


「神谷」


 黒澤に呼び止められ、神谷が振り返る。


「日高さんを止めろとは言ったが、付き合えとは言ってないからな」


「分かっています」


『黒澤部長』


「冗談だ」


『分かりにくいです』


「二人とも、仕事へ戻れ」


 黒澤は笑いながら二人を追い出した。


     ◇


 営業部へ戻ると、陽菜がすぐに二人を見た。


『また二人で会議室に行ってましたよね?』


「黒澤部長への報告です」


『何の?』


「まだ、お話しできません」


『まだ?』


 陽菜が神谷の言葉を拾う。


『いつか話せるってことですか?』


 神谷は答えに困り、樹里を見る。


『櫻井さん。仕事をしてください』


『絶対、何かある』


『ありません』


『さっきは、まだ話せないって言ったじゃないですか』


『神谷さんが言葉を間違えただけです』


「申し訳ありません」


『何で日高先輩が決めるんですか?』


『櫻井さん』


『はい。戻ります』


 陽菜は自分の席へ戻った。


 それでも、何度も二人を振り返っている。


 樹里と神谷は、普段どおり仕事を始めた。


 呼び方も変えない。


 必要以上に近づかない。


 視線を交わし続けることもしない。


 だが、仕事中に分からないことがあれば話す。


 意見が違えば、相手へ伝える。


 その関係まで変えるつもりはなかった。


 定時になり、社員たちが帰り始める。


 陽菜は中井と一緒に、先に営業部を出た。


 陸と萌も、それぞれ挨拶をして帰っていく。


 樹里は机の上を片づけ、鞄を持った。


 神谷は、まだパソコンを閉じていない。


『神谷さん』


「はい」


『本日の仕事は、まだ残っていますか?』


「あと一通、メールを送れば終わります」


『そうですか』


「何かありましたか?」


『いえ』


 樹里は一度、出口へ向かいかけた。


 数歩進んだところで、足を止める。


 振り返ると、神谷はまだ樹里を見ていた。


『終わるまで、どれくらい掛かりますか?』


「五分ほどです」


『では、下で待っています』


「俺を、ですか?」


『ほかに誰がいるのですか?』


「すみません。確認しただけです」


『今日は、一緒に帰りませんか』


 神谷の表情が変わる。


「はい」


『会社を出てから合流します』


「分かりました」


『それでは、先に失礼します』


「お疲れさまでした」


『お疲れさまでした』


 樹里は一人で営業部を出た。


 五分後。


 会社から少し離れた場所で、神谷が追いつく。


「お待たせしました」


『それほど待っていません』


「一緒に帰ろうと言っていただけるとは思いませんでした」


『嫌でしたか?』


「逆です」


『以前も、同じことをおっしゃっていましたね』


「何度でも言います」


 二人は駅へ向かって歩き始めた。


 会社が見えなくなったところで、神谷が樹里の隣へ近づく。


 それでも、すぐには手を取らない。


 樹里はその手を見たあと、自分から指を重ねた。


「樹里さん」


『何ですか?』


「今日は、呼んでも怒られないんですね」


『会社の外ですから』


「そうでしたね」


『悠真さん』


「はい」


『歩くのが、少し速いです』


「すみません」


『謝らなくても構いません』


 神谷が歩く速さを僅かに落とす。


 樹里も、少しだけ足を速めた。


 二人の歩幅が揃う。


 仕事と、それ以外。


 完全に切り離すことはできない。


 だからこそ、曖昧にはしない。


 違いがあれば、言葉にする。


 どちらかが勝手に相手を守ろうとせず、二人で決める。


 恋人になって最初の平日。


 二人は昨日までと同じ道を、昨日までとは違う関係で並んで歩いていた。

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