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309話「同じ歩幅で」

神谷が樹里を連れてきたのは、ホテルから歩いて十分ほどの場所にある小さな店だった。


 大通りから一本外れた、静かな通り。


 店内には低い音で音楽が流れ、客の姿も少ない。


 二人は奥にある窓際の席へ案内された。


『よく来られるのですか?』


「以前、一度だけ黒澤部長に連れてきていただきました」


『黒澤部長と、ですか』


「取引先との食事が終わったあとに、少しだけ」


『今日と同じですね』


「人数は違います」


『二人だけの打ち上げでしたね』


「はい」


 神谷はメニューを樹里へ渡した。


「何を飲まれますか?」


『あまり強いものは必要ありません』


「先ほども飲んでいましたからね」


『神谷さんもです』


「俺も軽いものにします」


 二人は酒と、簡単な料理を一つずつ頼んだ。


 注文が終わる。


 店へ入ってから、神谷はまだ話したいことを口にしていない。


 樹里も急かさなかった。


 やがて二人分のグラスが運ばれてくる。


「改めて、お疲れさまでした」


『お疲れさまでした』


 二つのグラスが、静かに触れる。


 大勢で囲んだ先ほどの乾杯とは違う。


 歓声も拍手もない。


 それでも神谷にとっては、こちらの方が高槻案件の終わりを強く感じられた。


「四月に、最初の資料を渡されたときのことを覚えていますか?」


『はい。十七社分の契約と工事日程が、ほとんど整理されていませんでした』


「今より、随分少ない資料でしたね」


『量は少なくても、不明な点は今より多くありました』


「日高さんは、最初から引き受けるつもりでしたか?」


『仕事でしたので』


「やはり、そう答えますよね」


『ほかに何と答えればいいのですか?』


「無理だと思った、でも構いません」


『思いませんでした』


「自分ならできると?」


『できるかどうかを考える前に、何が必要かを確認しました』


 神谷が小さく笑う。


「日高さんらしいです」


『神谷さんは、どうだったのですか?』


「正直に言えば、怖かったです」


『そうは見えませんでした』


「見せないようにしていました」


『なぜですか?』


「俺が不安な顔をすれば、周りも不安になると思いました」


『それで、一人で高槻興産へ通っていたのですか』


「その頃は、自分で何とかすることが責任だと思っていました」


『倒れるまで、ですか』


「はい」


 神谷はグラスへ視線を落とした。


「日高さんにも、随分迷惑を掛けました」


『迷惑だとは思っていません』


「ですが、俺がいない間も仕事を進めてくださった」


『必要なことを行っただけです』


「戻ったときには、俺がいなくても進められる状態になっていました」


『神谷さんが聞いた話と、残した記録があったからです』


「それでも、最初は悔しかったんです」


 樹里の指が止まる。


『悔しかったのですか?』


「はい。自分が必要とされていないように感じました」


『そのように思ったことはありません』


「今は分かっています」


 神谷は顔を上げた。


「日高さんが、俺の代わりをしようとしていたわけではないことも。俺が戻る場所を残すために、仕事を止めなかったことも」


『私は、そこまで考えていません』


「そうかもしれません」


『否定しないのですか?』


「日高さんは、自分がしたことを小さく言うので」


『事実を申し上げています』


「では、俺がそう受け取ったということにしてください」


 樹里は反論しなかった。


 窓の外を、何人かの通行人が通り過ぎていく。


 料理が運ばれ、二人はしばらく仕事の話を続けた。


 十七社を回った出張。


 大野設備との交渉。


 管理費を分けた会議。


 施工会社から届いた追加見積もり。


 話すことはいくらでもあった。


 どれも簡単な仕事ではなかった。


 だが、今振り返れば、どの場面にも隣に同じ人がいた。


『神谷さん』


「はい」


『私も、怖かったです』


 神谷の表情が変わる。


『十七社すべての条件をまとめられなかった場合、高槻興産だけではなく、その会社で働く方々にも影響が出ます』


「はい」


『自分の判断が間違っていたら、何人もの生活を変えることになる』


「それでも、日高さんは迷っているように見えませんでした」


『見せなかっただけです』


 先ほど神谷が答えた言葉と同じだった。


『迷っていると知られれば、仕事を任せてもらえないと思っていました』


「俺と同じですね」


『同じではありません』


「どこが違いますか?」


『神谷さんは、相手へ不安を見せないためです。私は、自分が弱いと知られたくなかっただけです』


「今は、話してくださいました」


 樹里は何も答えなかった。


「日高さんが迷うことを知っても、俺は仕事を任せられないとは思いません」


『そうですか』


「むしろ、少し安心しました」


『なぜですか?』


「俺と同じように迷いながら、隣を歩いていたんだと分かったからです」


 樹里は神谷を見る。


 歩くという言葉に、岐阜で過ごした夜が蘇った。


 同じホテルの部屋。


 並んで腰掛けたソファ。


 神谷が待ち続けてくれた時間。


『以前、神谷さんへお伝えしたことを覚えていますか?』


「どの言葉でしょうか」


『神谷さんは、ずっと私の歩幅に合わせてくれたと』


「覚えています」


『私も、少しは神谷さんの歩幅に合わせると言いました』


「はい」


『少しずつですが、進んでいるつもりです』


「分かっています」


『本当に分かっていますか?』


「日高さんから二人で食事へ誘っていただきました」


『一度だけです』


「俺の家にも来てくださいました」


『仕事のあとです』


「同じ部屋へ泊まることも、許してくださいました」


『ほかに空いている部屋がありませんでした』


「今も、こうして二人で来てくださっています」


『神谷さんが話したいとおっしゃったからです』


「全部、理由をつけますね」


『事実です』


 樹里はそう答えながら、僅かに目を逸らした。


 神谷は、それ以上追及しなかった。


「それでも、ありがとうございます」


『まだ礼を言うのですか?』


「日高さんが進んでくださった分は、すべて受け取りたいので」


『重くありませんか』


「全く」


 神谷の答えに迷いはなかった。


 樹里はグラスへ口をつける。


 酒のせいだけではなく、頬が少し熱くなっていた。


『それで、話したいこととは何ですか?』


 神谷の手が止まる。


「今からですか?」


『そのために来たのではないのですか?』


「はい」


『高槻案件の話だけで終わるつもりでしたか?』


「覚悟を決めるための時間が必要でした」


『まだ決まっていないのですか?』


「決めています」


『では、聞きます』


 神谷は樹里を見つめた。


 今ここで伝えることもできる。


 だが、近くにはほかの客がいる。


 樹里が答えを出せなかったとき、逃げる場所を奪いたくなかった。


「店を出てからでも構いませんか?」


『なぜですか?』


「二人だけで話したいんです」


 樹里は僅かに目を伏せた。


 神谷が何を話そうとしているのか。


 もう分からないふりはできなかった。


『分かりました』


     ◇


 店を出たのは、午後十時を過ぎた頃だった。


 夜の風は、酒を飲んだあとの頬に心地よかった。


 二人は駅とは反対の方向へ、しばらく並んで歩いた。


『駅は、向こうではありませんか?』


「分かっています」


『どこへ向かっているのですか?』


「少しだけ、静かな場所へ」


 大通りの音が遠ざかる。


 やがて二人は、小さな公園へ入った。


 夜の園内に人の姿はない。


 街灯の下に置かれたベンチの前で、神谷が足を止める。


 樹里も、少し離れた位置で立ち止まった。


「日高さん」


『はい』


「営業部長への就任は、八月一日です」


『知っています』


「それまでに、どうしても伝えておきたいことがありました」


『先ほどの話ですか?』


「はい」


 神谷は緊張を隠すように、一度息を吐いた。


「部長になったあとで伝えれば、立場を利用したように感じさせてしまうかもしれません」


『私は、仕事と私生活を分けて考えます』


「分かっています。それでも、俺が嫌なんです」


 樹里は黙って神谷を見る。


「以前から、何度も好きだと伝えてきました」


『はい』


「待つとも言いました」


『覚えています』


「ですが、今日は気持ちだけを伝えるつもりではありません」


 神谷の声に、迷いはなかった。


「高槻案件が成功したからではありません。日高さんに助けていただいた感謝を、恋愛感情と混同しているわけでもありません」


 樹里は視線を逸らさない。


「仕事で意見が合わない日もありました。腹が立ったこともあります」


『私もあります』


「そうですよね」


『続けてください』


「はい」


 神谷は僅かに笑ったあと、再び真剣な表情へ戻った。


「自分のことを後回しにして、誰かのためなら無理をするところも。何でも一人で抱えようとするところも。正しいと思ったら、俺の話でも簡単には聞かないところも」


『悪いところばかりではありませんか?』


「そういうところも含めて、好きです」


 樹里の言葉が止まる。


「仕事をしている日高さんだけではありません」


 一歩も近づかないまま、神谷は続ける。


「一人の女性として、日高さんが好きです」


 何度も聞いた言葉だった。


 だが、今夜はその先がある。


「俺と、付き合ってください」


 樹里は答えなかった。


 夜の公園に、遠くを走る車の音だけが聞こえる。


 神谷は返事を急かさない。


 それでも、以前とは違う。


 今夜は、待つという言葉で終わらせるつもりはなかった。


「今すぐ答えてほしいと言えば、困らせるかもしれません」


『はい』


「ですが、曖昧なままにはしたくありません」


『はい』


「断られても、仕事へ持ち込むことはありません」


『それは分かっています』


「部長になってから、日高さんが断りにくくなるようなこともしません」


『神谷さん』


「はい」


『少し、黙っていただけますか?』


「……すみません」


『謝らないでください。考えたいだけです』


「はい」


 神谷は口を閉じた。


 樹里は、自分の中にある言葉を探した。


 怖くないわけではない。


 神谷の気持ちを受け入れれば、今までと同じ場所には戻れなくなる。


 仕事の相棒。


 会社の先輩と後輩。


 その関係だけではなくなる。


 いつか失うかもしれない。


 自分のせいで傷つけるかもしれない。


 神谷が思っているような人間ではないと、知られるかもしれない。


 考えれば、立ち止まる理由はいくらでもあった。


 だが、そのすべてを知っても、神谷は待っていた。


 無理に手を引かなかった。


 樹里が立ち止まれば、自分も足を止めた。


 その人が今、初めて明確な答えを求めている。


『私は』


 樹里が口を開く。


 神谷は黙ったまま待っている。


『今でも、人と同じ速さで歩けるとは思っていません』


「はい」


『気持ちを言葉にするのも、神谷さんより時間が掛かります』


「はい」


『付き合っても、何をすればいいのか分からないと思います』


「俺も、すべて分かっているわけではありません」


『今は、黙ってください』


「申し訳ありません」


 樹里は一度、息を整えた。


『神谷さんを、待たせることもあると思います』


「はい」


『上手く言えずに、傷つけることもあるかもしれません』


 神谷は何も言わない。


『それでも』


 樹里は、神谷を真っ直ぐ見た。


『これからは、神谷さんに私の歩幅へ合わせてもらうだけではなく、私も神谷さんの歩幅を見たいと思っています』


 神谷の目が僅かに見開かれる。


『どちらかが先へ行くのでも、どちらかが待ち続けるのでもなく』


 樹里は、迷いながらも言葉を止めなかった。


『二人で歩幅を合わせて、同じ方向へ歩いていきたいです』


 今までなら、はいと答えるだけで終わらせていたかもしれない。


 自分で決めたことさえ、相手へ伝える言葉を選べなかった。


 だが、それでは神谷が求めた答えにはならない。


『私も、神谷さんが好きです』


 樹里は、初めて自分の意思として告げた。


『仕事をしているときだけではありません』


 胸の奥に隠してきた気持ちを、一つずつ言葉へ変える。


『私を待ってくれる神谷さんも。間違っているときに止めてくれる神谷さんも。自分の考えを曲げずに、私とぶつかってくれる神谷さんも』


 神谷の顔を見ていることができず、樹里は一瞬だけ視線を落とした。


 それでも、逃げなかった。


『一人の男性として、好きです』


「日高さん」


『ですから』


 樹里は、もう一度神谷を見る。


『私でよければ、付き合ってください』


 神谷はすぐに答えなかった。


 樹里の言葉を、聞き逃さないように受け止めている。


『返事をしていただけますか?』


「……はい」


 神谷の声が僅かに震えた。


「よろしくお願いします」


『はい』


「ありがとうございます」


『礼を言うところですか?』


「今は、言わせてください」


『そうですか』


 神谷が一歩、樹里へ近づく。


 樹里は動かなかった。


 逃げることも、後ろへ下がることもしない。


「抱きしめてもいいですか?」


『以前は、聞かずに抱きしめたこともありました』


「今は、関係が変わったので」


『付き合う前より、遠慮するのですか?』


「嫌がることはしたくありません」


 樹里は自分から、神谷との距離を一歩縮めた。


『嫌ではありません』


 神谷の腕が、ゆっくりと樹里の背中へ回る。


 強く抱き寄せるのではなく、逃げられるだけの余裕を残した腕だった。


 樹里は、その距離を自分から埋めた。


 額を神谷の胸元へ預ける。


 神谷の心臓が、普段より速く動いている。


『緊張しているのですか?』


「しています」


『私もです』


「そうは見えません」


『見せないようにしています』


 同じ言葉を、今度は腕の中で交わした。


 神谷の手に、僅かに力が入る。


「日高さん」


『はい』


「キスをしてもいいですか?」


 樹里はすぐには答えなかった。


 神谷の胸元から顔を上げる。


 目が合う。


 これまでにも、神谷と唇を重ねたことはある。


 だが、今は意味が違う。


 待っている神谷へ応えるだけではない。


 自分も触れたいと思っている。


 樹里は、神谷の上着を指先で掴んだ。


『お願いします』


 神谷が顔を近づける。


 樹里も目を閉じ、僅かに背伸びをした。


 どちらか一方が、残された距離をすべて埋めたわけではない。


 二人が同時に近づき、唇が重なった。


 最初は、触れるだけの静かなキスだった。


 一度離れ、互いの表情を確かめる。


「日高さん」


『もう一度、お願いします』


 今度は樹里から求めた。


 神谷の腕が腰へ回り、樹里の身体を引き寄せる。


 再び唇が重なる。


 先ほどより長く。


 抑えてきた時間を、少しずつ埋めるように。


 樹里の指が、神谷の上着を強く掴む。


 離れようと思えば、いつでも離れられた。


 それでも樹里は目を閉じたまま、神谷の唇を受け入れた。


 息をするために僅かに離れる。


 その距離さえ惜しむように、もう一度触れる。


 神谷が急ぐことはなかった。


 樹里が応える速さに合わせる。


 樹里も、任せるだけではなかった。


 神谷の肩へ腕を回し、自分から距離を縮めた。


 二人の唇が完全に離れたとき、どれだけ時間が経っていたのかは分からなかった。


 神谷は樹里を抱いたまま、額を寄せる。


「……本当に、いいんですよね」


『今さら確認するのですか?』


「まだ信じられなくて」


『私は、自分の言葉で答えたつもりです』


「はい」


『聞こえていなかったのですか?』


「すべて聞こえていました」


『でしたら、何度も確認しないでください』


「努力します」


『そこは、分かりましたと答えるところです』


「分かりました」


 神谷が笑う。


 樹里の口元も、僅かに緩んだ。


「会社の外では、樹里さんと呼んでもいいですか?」


 樹里の顔が再び赤くなる。


 岐阜のホテルで、一度だけ呼ばれた名前。


 あのときは、受け止めることができなかった。


『……好きにしてください』


「嫌ではありませんか?」


『何度も聞かないでください』


「すみません」


『それから』


「はい」


『私も、会社の外では呼び方を変えた方がいいのでしょうか』


 神谷の表情が止まる。


「無理に変える必要はありません」


『そうですか』


「いつか、呼びたいと思ったときで構いません」


『また、私の歩幅に合わせるのですか?』


「そのつもりでした」


『それでは、先ほど私が言ったことと違います』


 樹里は少し迷った。


 口にしようとしても、慣れない呼び方が喉の奥で止まる。


 神谷は急かさない。


 その姿を見て、樹里は小さく息を吸った。


『……悠真さん』


 神谷の目が大きく見開かれる。


『何ですか、その顔は』


「もう一度、呼んでいただけますか?」


『嫌です』


「なぜですか?」


『一度で聞こえたでしょう』


「聞こえましたが」


『なら、十分です』


「分かりました」


 神谷は嬉しさを隠せないまま答えた。


 樹里は照れを隠すように、神谷の胸元へ顔を戻す。


 二人は、もう一度だけ静かに抱き締め合った。


     ◇


 駅へ向かう帰り道。


 神谷が樹里の隣へ並ぶ。


 肩と肩の間には、僅かな距離があった。


 近づきたい。


 だが、付き合い始めた途端に手を取れば、樹里を困らせるかもしれない。


 神谷が迷っていると、樹里の手が動いた。


 指先が、神谷の手へ僅かに触れる。


 偶然ではない。


 樹里は前を向いたまま、自分から神谷の手を握った。


「樹里さん」


『何ですか?』


「いえ」


『何もないなら、呼ばないでください』


「呼びたかっただけです」


『そうですか』


 樹里は手を離さなかった。


 二人は同じ方向へ歩き始める。


 神谷が、僅かに歩く速さを落とす。


 それに気づいた樹里が、少しだけ足を速めた。


『無理に合わせなくても構いません』


「樹里さんもです」


『では、どうしますか?』


「二人で決めましょう」


『そうですね』


 どちらかが待ち続けるのではない。


 どちらかが引っ張り続けるのでもない。


 速すぎれば、少し遅くする。


 遅れれば、少しだけ急ぐ。


 それでも合わないときは、立ち止まって話す。


 二人の手は、駅へ着くまで離れなかった。


 高槻案件を通して、仕事の相棒になった二人は。


 同じ夜。


 互いの歩幅を見ながら、その先の人生を歩く恋人になった。

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