308話「祝う夜」
金曜日の夜。
高槻興産との大型案件を成功させた打ち上げは、駅前にあるホテルの宴会場で行われることになった。
普段の飲み会で使う店とは違う。
広い個室。
白い布が掛けられた円卓。
一人ずつ名前の記された席札。
並んでいる料理も、陽菜が想像していたものより豪華だった。
『本当に会社のお金なんですよね?』
陽菜は席に着く前から、並べられた料理を見ていた。
「今さら心配するのか」
黒澤が答える。
『あとから給料から引かれたりしません?』
「しない」
『この肉も食べていいんですか?』
「飾りじゃないからな」
『持って帰っても?』
「ここで食べろ」
陽菜の隣では、中井が椅子を引いて待っていた。
「陽菜さん。立ったままでは疲れますから、先に座ってください」
『まだ来たばっかりだよ』
「今日も一日働いていました」
『中井くんもでしょ』
「俺は大丈夫です」
『あたしも大丈夫』
「分かっています。それでも座ってください」
『はいはい』
陽菜が椅子へ座る。
その前には、酒ではなく、炭酸の入った葡萄ジュースが置かれた。
『これ、シャンパンみたい』
「間違えて飲むなよ」
黒澤が言う。
『間違えませんよ』
「櫻井さんなら、雰囲気で飲みそうだからな」
『あたしを何だと思ってるんですか?』
「酒があれば、とりあえず口をつける人間」
『妊娠してから一滴も飲んでません』
「分かってる」
黒澤は、以前と変わらない調子で答えた。
だが、陽菜の前に酒が置かれていないことを最初に確認したのは黒澤だった。
同じ円卓には、神谷、樹里、佐藤、陸、萌が座っている。
隣の卓には、凛、柚希、彩花と、高槻案件へ関わった社員たちが集まっていた。
八月から総務部長になる黒澤と、現在総務部にいる彩花。
営業部長になる神谷。
特別案件統括担当となる樹里。
三人の新しい立場も、今夜まとめて祝うことになっている。
参加者が揃うと、黒澤が会場の前へ立った。
「それじゃあ、始めるぞ」
手にしているのは、ビールの入ったグラスだった。
「今日は、高槻興産北側区画の契約成立を祝う会だ」
社員たちが黒澤を見る。
「何度も言ったが、契約したから全部終わりというわけじゃない。工事は続く。移転もある。その後は、管理と新規募集が始まる」
『乾杯の前から仕事の話ですか?』
陽菜が口を挟む。
「大事な話だ」
『みんな分かってますよ』
「なら、黙って聞け」
『はい』
「だが、今日くらいは、自分たちの仕事が成功したと思っていい」
黒澤は営業部の社員を順に見た。
「神谷と日高さんだけじゃない。相手の話を聞いた人間。資料を作った人間。日付を確認した人間。電話をした人間。誰か一人が抜けても、十七社全部の合意は揃わなかった」
陸と萌が、僅かに姿勢を正す。
「会社にとって、過去最大規模の案件になった。よくやってくれた」
黒澤はグラスを持ち上げた。
「それから、来月から少し立場は変わるが、営業部を離れても俺は社内にいる。困ったときは総務へ来い」
『相談料はいくらですか?』
陽菜が尋ねる。
「まだ覚えてたのか」
『もちろんです』
「櫻井さんだけ有料にする」
『何であたしだけ?』
「来る回数が多そうだからだ」
会場に笑いが起きる。
「それじゃあ、高槻案件の成功と、これからの島川不動産に」
黒澤が全員を見渡した。
「乾杯」
「乾杯」
『乾杯』
いくつものグラスが持ち上がる。
陽菜も、葡萄ジュースのグラスを中井のものへ軽く合わせた。
『お疲れさま、中井くん』
「陽菜さんも、お疲れさまでした」
『今日はいっぱい食べようね』
「はい。ただ、生ものは念のため確認してからにしてください」
『先生から、絶対駄目とは言われてないよ』
「分かっています。ですが――」
『中井くん』
「はい」
『あたしの分まで気にしてたら、中井くんが楽しめないでしょ』
「俺は、陽菜さんが安心して食べられれば楽しめます」
『またそういうこと言う』
「何か間違っていますか?」
『間違ってないけど』
陽菜は少し困ったように笑い、中井の皿へ肉料理を取り分けた。
『じゃあ、中井くんもちゃんと食べて』
「ありがとうございます」
『それ食べたら、次はあたしの分ね』
「はい」
『順番、逆じゃない?』
「陽菜さんが先で構いません」
『本当に変わらないね』
中井が陽菜の皿へ料理を取り分ける。
その様子を、向かいにいる黒澤が見ていた。
「中井」
「はい」
「結婚しても、そのままでいろよ」
「そのつもりです」
『黒澤部長。急にどうしたんですか?』
「別に」
『酔ってます?』
「まだ一杯目だ」
『異動が寂しいんですか?』
「櫻井さん」
『はい』
「肉を食べろ」
『話を逸らした』
陽菜は笑いながら、目の前の料理へ箸を伸ばした。
◇
乾杯から三十分もすると、席はほとんど意味をなくしていた。
社員たちはグラスや皿を持ち、それぞれ話したい相手のところへ移動している。
陸は、高槻案件の資料を最初に渡された頃のことを神谷へ話していた。
「最初は、何を確認すればいいのかも分かりませんでした」
「今は分かりますか?」
「全部ではありません」
「全部分かる人はいません」
「日高さんでもですか?」
「日高さんなら、全部分かろうとはすると思います」
神谷の言葉に、少し離れた場所にいた樹里が振り返る。
『神谷さん。聞こえています』
「申し訳ありません」
「でも、日高さんは本当に全部確認していましたよね」
陸が尋ねる。
『必要な範囲だけです』
「十七社分ですよね?」
『必要でしたので』
「やっぱり全部じゃないですか」
陸の言葉に、周囲から笑いが起きる。
樹里は反論しようとしたが、隣にいた彩花が先に口を開いた。
「日高。今日は諦めなさい」
『何をだ』
「祝われること」
『私は何も拒否してない』
「素直に喜んでいる顔にも見えないけど」
『喜んでる』
「それなら笑えば?」
『笑ってる』
「どこが?」
彩花が樹里の顔を覗き込む。
樹里は僅かに身を引いた。
『彩花、近い』
「同期が評価されたんだから、もう少し見てもいいでしょ」
『意味が分からない』
「相変わらずね」
彩花は笑い、自分のグラスへ口をつけた。
そこへ陽菜が加わる。
『彩花さん、日高先輩は喜んでますよ』
「分かるの?」
『分かります』
『櫻井さん』
樹里の声が少し低くなる。
『何ですか?』
「どこを見て、喜んでると思うの?」
『いつもより、目が少し優しいです』
『変わりません』
『あと、高槻社長に褒められた話をしたとき、三秒くらい黙りました』
『数えていたのですか?』
『はい』
「それは、相当嬉しかったんじゃない?」
彩花が言う。
『彩花、余計な分析をするな』
『でも、高槻社長に任せてよかったって言われたんですよね?』
『神谷さんと二人に、です』
『だから、二人ともすごいんじゃないですか』
陽菜は神谷へ顔を向けた。
『神谷さんも、もっと喜んでください』
「喜んでいます」
『日高先輩と同じこと言ってますよ』
「俺は、少しくらい顔に出ていると思います」
『出てます。日高先輩よりは』
『比べる必要はありません』
樹里が止める。
その近くでは、萌が料理を取り分けていた。
自分の皿へ載せる前に、空いている小皿を二つ用意する。
「陸くん、こっちも食べる?」
「いいの?」
「私が取るついで」
「ありがとう、萌さん」
萌は陸へ一皿を渡し、もう一皿を自分の席へ置いた。
「川原さん」
神谷に呼ばれ、萌が振り返る。
「管理費のことに気づいてくださって、ありがとうございました」
「もう、何度もお礼を言っていただきました」
「今日が最後です」
「本当ですか?」
「恐らく」
「では、受け取っておきます」
萌が僅かに笑う。
「八月からも、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。神谷部長」
「まだ早いです」
「練習です」
「川原さんも、そういうことを言うんですね」
「櫻井先輩から、少しは冗談を言った方がいいと教わりました」
『あたし?』
離れたところから、陽菜が反応する。
『そんなこと教えた?』
「直接は言われていません」
『じゃあ、あたしのせいにしないでよ』
「良い意味です」
『本当?』
「はい」
萌の真顔を見て、陽菜が笑った。
『ならいいけど』
◇
隣の卓では、凛と柚希が、十月の結婚式について話していた。
「柚希ちゃん、もう服は決めた?」
「まだ。零ちゃんと一緒に見に行くつもり」
「二人で合わせるの?」
「全く同じにはしないけど、並んだときに合うものがいいかなって」
「楽しそうだね」
「凛ちゃんは?」
「青柳さんが、前日からこっちに来る予定」
「凛ちゃんの家に泊まるの?」
「うん」
凛は平静を装って答えた。
柚希が顔を近づける。
「何か嬉しそう」
「普通だよ」
「日高さんみたいなこと言ってる」
「一緒にしないで」
「でも、顔に出さないところは似てるよ」
「出てる?」
「少しだけ」
凛は誤魔化すようにグラスを持ち上げた。
「陽菜さん、綺麗だろうね」
「うん。絶対綺麗だと思う」
「泣くかな?」
「陽菜さんより、日高さんが泣くかも」
「日高さんが?」
「スピーチするんでしょ」
「そう聞いてる」
二人は同時に、樹里を見る。
樹里は彩花と陽菜に挟まれ、何かを問い詰められていた。
「想像できない」
凛が言う。
「私も。だから見たい」
「怒られるよ」
「本人には言わないから大丈夫」
柚希は楽しそうに笑った。
◇
佐藤のスマートフォンが、小さく震えた。
画面には、美園からのLINEが届いている。
『楽しんでる?』
「はい。美園さんは、まだRoseですか?」
『今、最後のお客さんが帰ったところ』
「もう閉店されるんですか?」
『片づけたらね』
続けて、もう一通届く。
『終わったら寄る?』
佐藤の口元が自然に緩んだ。
「遅くなっても大丈夫ですか?」
『明日は少し遅く開けるから』
「では、終わったら伺います」
『待ってる』
短い言葉だった。
それでも、佐藤は何度も画面を見返した。
「佐藤さん」
中井に呼ばれ、佐藤が顔を上げる。
「何か良いことがありましたか?」
「分かりますか?」
「先ほどまでと、顔が違います」
「美園さんから連絡がありました」
「そうでしたか」
「終わったら、Roseへ行きます」
「仲直りできて、本当によかったですね」
「はい」
佐藤は迷わず答えた。
「今度は、逃げられても離さないつもりです」
「その言葉は、美園さんにも伝えたんですか?」
「まだです」
「伝えた方がいいと思います」
「そうですね」
佐藤はスマートフォンをしまった。
今夜、美園に会ったら伝える。
これから先も、自分から離れるつもりはないと。
◇
宴会の終わりが近づいた頃、陽菜が全員へ声を掛けた。
『写真を撮りましょう』
「今からか?」
黒澤が時計を見る。
『まだ時間ありますよ』
「誰が撮るんだ」
『ホテルの人にお願いしました』
「準備がいいな」
『結婚式の参考にしたいので』
「何の参考になるんだ?」
『並び方とか』
社員たちは、会場の前方へ集まった。
黒澤が端に立とうとすると、陽菜が腕を掴む。
『黒澤部長は真ん中です』
「神谷でいいだろ。次の部長なんだから」
『今はまだ黒澤部長です』
「八月からは違う」
『だから今、真ん中なんです』
黒澤は抵抗したが、陽菜に中央へ連れていかれた。
その隣には神谷。
反対側には樹里が立つ。
『日高先輩、もっと近く』
『十分近いです』
『一人分空いてます』
『空いていません』
『空いてます』
陽菜は樹里の背中を押し、黒澤の隣へ動かした。
『櫻井さん。押さないでください』
『動かないからです』
「日高。諦めなさい」
彩花が後ろから言う。
『彩花まで何だ』
「写真くらい、ちゃんと入ればいいでしょ」
陽菜は中井の隣へ立つ。
中井が、陽菜の身体へ誰かがぶつからないよう、さりげなく手を添えた。
陸と萌は前列。
凛と柚希、彩花、佐藤も、それぞれ空いている場所へ入る。
「撮りますよ」
ホテルの従業員がカメラを構えた。
「皆様、もう少し中央へお願いします」
『ほら、日高先輩』
『聞こえています』
「笑ってください」
樹里の表情が僅かに固くなる。
『日高先輩』
『今度は何ですか?』
『高槻案件、成功しましたよ』
陽菜が言った。
樹里が、ほんの少しだけ笑う。
その瞬間、シャッターが切られた。
黒澤を中央に。
新しく営業部長になる神谷。
特別案件を任された樹里。
その周りには、高槻案件を一緒に進めた社員たちが並んでいる。
誰か一人だけの成功ではない。
そのことが、一枚の写真に残った。
◇
午後九時。
打ち上げは、黒澤の挨拶で終わった。
社員たちが会場の外へ出ていく。
佐藤はRoseへ向かうため、駅とは反対の方向へ歩き出した。
凛と柚希は、結婚式に着ていく服の話をしながら駅へ向かう。
彩花は、総務部の社員と一緒に帰っていった。
陸と萌も、それぞれ頭を下げて去っていく。
陽菜は中井の腕を掴み、出口の近くに立っていた。
『日高先輩、帰らないんですか?』
『皆さんが出てから帰ります』
『また仕事みたいなことしてる』
『忘れ物がないか確認しているだけです』
『ホテルの人が確認しますよ』
『分かっています』
陽菜は、その少し後ろにいる神谷を見た。
神谷は帰る準備を終えている。
だが、樹里と同じように、ほかの社員が出ていくのを待っていた。
『中井くん』
「はい」
『帰ろっか』
「もうよろしいんですか?」
『うん』
陽菜は樹里へ顔を向ける。
『日高先輩、お疲れさまでした』
『お疲れさまでした。気をつけて帰ってください』
『はい』
「日高さん、神谷さん。お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
『お疲れさまでした』
陽菜と中井が並んで歩き出す。
角を曲がる直前、陽菜が一度だけ振り返った。
神谷は、まだ樹里のそばにいる。
陽菜は何も言わず、中井とともに会場を離れた。
やがて、出口の前には神谷と樹里だけが残った。
『神谷さんは、帰られないのですか?』
「日高さんへ、お話ししたいことがあります」
『新しい営業部のことでしょうか』
「違います」
『高槻案件についてですか?』
「それも違います」
樹里は神谷を見る。
仕事以外で、神谷が改まって話したいこと。
すぐには思い当たらなかった。
「このあと、少しだけ付き合っていただけませんか」
『どこへでしょうか』
「近くに、静かに話せる店があります」
『二次会ですか?』
「二人だけの打ち上げ、ということにしてください」
神谷は、樹里から視線を逸らさなかった。
断られる可能性も考えていた。
それでも、今夜を逃せば、また仕事を理由に言葉を先へ延ばしてしまう。
営業部長になる前に。
樹里の上司という立場が決まる前に。
一人の男として、伝えなければならなかった。
『分かりました』
樹里が答える。
『少しだけでしたら』
「ありがとうございます」
二人は並んで歩き始めた。
高槻案件の成功を祝う、大勢での夜は終わった。
その先に。
仕事の相棒として始まった二人の関係を変えるための、もう一つの時間が待っていた。




