307話「肩書より先に」
翌朝。
樹里が出社すると、机の上に社内電話のメモが置かれていた。
午前九時。
社長室。
黒澤同席。
それ以外の用件は書かれていない。
『黒澤部長』
「何だ」
『こちらの件ですが』
樹里がメモを見せる。
「ああ。九時になったら一緒に行く」
『高槻興産の報告でしょうか』
「行けば分かる」
『昨日も、神谷さんへ同じことをおっしゃっていましたね』
「そうだったか?」
『とぼけないでください』
「何の話かは、俺から言えない」
『良い話ですか?』
「どうだろうな」
黒澤は曖昧に答えた。
樹里は、その表情から何かを読み取ろうとしたが、黒澤はすでに自分のパソコンへ向き直っている。
『神谷さんは、ご存じなのですか?』
「知ってることもあるし、知らないこともある」
『分かりにくいです』
「九時まで待て」
『承知しました』
樹里は自分の席へ戻った。
神谷へ視線を向ける。
昨日、黒澤と二人で会議室へ入ったあとから、僅かに様子が違っていた。
仕事に問題があるわけではない。
施工会社から届いた入場予定表も、普段どおり確認している。
だが、机の引き出しへ何度も視線を落としていた。
「日高さん。何かありましたか?」
視線に気づいた神谷が尋ねる。
『九時に社長室へ来るよう言われています』
「社長室へ?」
『黒澤部長も同席されるそうです』
「そうですか」
『神谷さんは、内容をご存じですか?』
「いえ」
返事は早かった。
嘘をついているようには見えない。
『昨日、黒澤部長と何を話されたのですか?』
「高槻案件の引き継ぎです」
『それだけですか?』
「今は、それしか申し上げられません」
『今は?』
神谷が言葉に詰まる。
「申し訳ありません」
『謝る必要はありません。話せない内容なら、これ以上は伺いません』
樹里は自分のパソコンを立ち上げた。
それでも、机の上に置かれたメモが気になった。
◇
午前九時。
樹里は黒澤とともに社長室へ入った。
「失礼します」
『失礼いたします』
「二人とも、座ってくれ」
社長に促され、応接用の椅子へ座る。
テーブルの上には、樹里の名前が記された資料が置かれていた。
『私の人事評価でしょうか』
「そうだ」
社長が即答する。
「高槻興産の案件について、正式な評価が終わった」
『ありがとうございます』
「契約を取ったことだけを評価したわけではない」
『はい』
「十七社分の契約条件を整理し、施工会社の増額要求から不当な部分を見つけた。過去の資料から代替案も探したそうだな」
『私一人で行ったことではありません』
「それも聞いている」
社長は、黒澤へ一度視線を向けた。
「神谷君と対立したとき、自分の判断だけで進めなかった。現場へ行き、必要な費用については考えを変えた」
『はい』
「山本君や川原さんへ、仕事を任せるようにもなった」
『二人が、任せられる仕事をしているからです』
「以前のお前なら、その二人が作った資料も、最初からすべて確認していたんじゃないか」
黒澤が口を挟む。
『最終確認は必要です』
「やっぱり確認してるじゃないか」
『責任がありますので』
「そういうところの話をしてるんだ」
黒澤は呆れたように言った。
社長が、樹里の前へ資料を差し出す。
「今回の評価を受け、日高さんを管理職へ昇進させる案も出た」
樹里は資料へ視線を落とした。
『管理職、ですか』
「意外か」
『はい』
「嫌なのか」
『まだ、何も申し上げていません』
「では、やりたいか」
樹里はすぐには答えなかった。
部下の仕事を管理する。
部署全体の予定を決める。
社員を評価する。
自分がその立場にいる姿を考えようとしたが、上手く浮かばない。
『私には、判断できません』
「できないとは言わないんだな」
『任せていただけるのであれば、必要なことは行います』
「それを言うから、管理職にするのはやめた」
黒澤が答えた。
樹里が顔を上げる。
『どういう意味でしょうか』
「日高さんは、任せれば全部やるだろ」
『仕事ですから』
「部下の仕事も、部署の責任も、自分で持とうとする」
『必要であれば行います』
「それが問題なんだ」
黒澤は、机の上の資料を指す。
「俺たちが渡そうとしているのは、仕事を増やすための肩書じゃない」
『では、何でしょうか』
社長が口を開く。
「日高さんには、肩書より先に渡したいものがある」
『何を、でしょうか』
「権限だ」
樹里の目が僅かに動く。
「今後、会社が扱う大規模案件や、複数の部署にまたがる案件について、契約と実務を統括する役割を任せたい」
『営業部だけではないのですか?』
「必要であれば、総務や経理からも担当者を選んでもらう。ほかの営業所が関わることもある」
『その方々へ、私から指示を出すということでしょうか』
「案件に関する範囲では、そうだ」
社長は資料の一枚目を開いた。
「名称は、特別案件統括担当。管理職ではなく、社内制度上の担当だ」
『特別案件統括担当』
「これから大きな案件では、誰かの補佐ではなく、日高さん自身の判断として意見を出してもらう」
『最終決定は、どなたが行うのでしょうか』
「営業部が主管する案件では、営業部長だ。ただし、契約や重大なリスクについては、部長へ直接意見を出せる」
『意見が分かれた場合は?』
「理由と根拠を記録に残し、必要であれば役員会で判断する」
『通常の営業業務は、どうなりますか?』
「すべてを外すつもりはない。ただ、特別案件が動いている間は、日常業務の一部をほかの社員へ渡してもらう」
『誰へ渡すかは、営業部長が決めるのですか?』
「営業部長と、日高さんで決める」
樹里は資料を読み進めた。
業務範囲。
権限。
報告経路。
評価方法。
役職は変わらない。
だが、責任だけが増える内容でもなかった。
担当手当と、基本給の見直しも記載されている。
『一つ、確認してもよろしいでしょうか』
「言ってくれ」
『案件全体を把握するためには、各担当者が作成した資料を確認する必要があります』
「全部見るつもりか」
黒澤が尋ねる。
『必要なものは確認します』
「最初から最後まで、一人でか?」
『統括するのであれば、それが責任ではありませんか』
「違う」
黒澤ははっきりと答えた。
「一人で全部やれという意味じゃない」
『ですが、最終的な責任は――』
「日高さんの仕事は、自分ですべて処理することじゃない」
黒澤は樹里を真っ直ぐ見た。
「誰に任せるかを決めるところまでが、日高さんの仕事だ」
樹里は黙った。
「契約を確認する人。現場を見る人。相手の話を聞く人。資料を整理する人。必要な仕事を分けて、それぞれに任せろ」
『任せた結果、間違いがあった場合はどうするのですか』
「直せばいい」
『取引先へ損害が出てからでは遅いと思います』
「だから確認は必要だ。だが、最初から人を信用しないことと、確認することは違う」
高槻案件では、萌が整理した発注記録が増額の不自然さを見つけるために役立った。
陸が修正した仮設動線が、最後の一社との合意につながった。
神谷が現場の事情を聞かなければ、必要な人件費まで拒否していた。
自分一人で確認したものだけでは、最後の答えまで届かなかった。
『私に、それができるとお考えですか?』
「今なら、できる可能性があると思っている」
社長が答えた。
『可能性、ですか』
「できると断言すれば、日高さんはできないと言えなくなるだろう」
樹里は社長を見る。
「最初から完璧にやれとは言わない。分からないことは、営業部長か黒澤君へ相談してもらう」
『黒澤部長へも、ですか?』
「八月からは総務部長だ」
樹里の表情が初めて大きく変わった。
『総務部長へ異動されるのですか?』
「そうだ」
『営業部は、どなたが』
途中まで口にして、樹里は止まった。
昨日、黒澤に会議室へ呼ばれた神谷。
話せない内容があると言った理由。
すべてが一つにつながる。
『神谷さん、ですか』
「正式な発表前だ。まだ営業部では口にするな」
『承知しました』
「驚かないんだな」
『昨日から、神谷さんの様子が僅かに違っていました』
「分かるのか」
『長く一緒に仕事をしていますので』
樹里は、もう一度資料へ目を落とした。
通常の指揮命令は、新しく営業部長になる神谷から受ける。
特別案件では、樹里自身の判断を出す。
互いの意見が異なる場合も、どちらかが黙るのではなく、記録を残して判断する。
高槻案件で二人が行ってきたことを、制度として残す形だった。
「受けてもらえるか」
社長が尋ねる。
『私が受けなかった場合、この役割はどうなりますか?』
「今は、ほかの人間へ任せるつもりはない」
『私のために新設されるのですか』
「今回の実績を見て、会社に必要な役割だと判断した。その最初の担当として、日高さんを選んだ」
『分かりました』
樹里は顔を上げた。
『お受けします』
「そうか」
『ただし、業務を始める前に、権限と責任の範囲をもう一度確認させてください』
「もちろんだ」
『ほかの部署から担当者を選ぶ場合の手順も必要です』
「総務で作る」
黒澤が答える。
『黒澤部長が、ですか?』
「八月からはな」
『書類は得意ではないと、以前おっしゃっていませんでしたか』
「何で知ってるんだ」
『普段の仕事を見ていれば分かります』
「日高さん。引き受けた途端、総務部長に厳しくないか?」
『必要な確認です』
「先が思いやられるな」
黒澤はそう言いながらも、表情には笑みを浮かべていた。
◇
数日後。
月曜日の朝。
島川不動産では、全社員を集めた朝礼が行われた。
営業部だけでなく、総務や経理の社員も同じ場所に並んでいる。
彩花も総務部の列にいた。
社長が前へ立つ。
「八月一日付の人事について、発表します」
社員たちの間に緊張が広がる。
「営業部長の黒澤君は、総務部長へ異動となります」
周囲から、驚きの声が漏れた。
陽菜も目を見開く。
『聞いてない』
隣にいる中井が、小さな声で止める。
「陽菜さん。今は朝礼です」
『でも、黒澤部長が総務って』
「あとで聞きましょう」
彩花は、自分のいる総務部の前方を見る。
黒澤がここへ来る。
今の総務部とは、少し空気が変わるかもしれない。
「後任の営業部長には、神谷君が就任します」
今度は、営業部から大きなどよめきが起きた。
神谷が前へ出て、全社員へ頭を下げる。
「神谷です。まだ至らない点も多くありますが、営業部全体を見て判断できるよう努めます。よろしくお願いいたします」
拍手が起きる。
陽菜は誰より強く手を叩いていた。
陸と萌も、驚きながら拍手をしている。
樹里も、神谷から視線を逸らさず、静かに手を叩いた。
「もう一件、発表があります」
拍手が収まる。
「今後、大規模案件や複数の部署にまたがる案件を扱うため、特別案件統括担当を新設します」
社長が樹里を見る。
「最初の担当として、営業部の日高さんを任命します」
再び拍手が起きる。
樹里は前へ出た。
『日高です。担当する案件について、必要な業務を整理し、各部署と連携して進めます。よろしくお願いいたします』
短く挨拶し、頭を下げる。
朝礼が終わると、営業部の社員が三人の周囲へ集まった。
『黒澤部長。本当に総務へ行くんですか?』
陽菜が最初に尋ねる。
「社長が発表しただろ」
『何で先に言ってくれなかったんですか?』
「正式発表前に言えるわけないだろ」
『でも、あたしたちには』
「櫻井さんに言ったら、五分で全員が知る」
『言いませんよ』
「自信を持って言えるか?」
『……多分』
「ほらな」
陽菜は不満そうに黒澤を見た。
『営業部からいなくなるんですよね』
「会社からいなくなるわけじゃない」
『そうですけど』
「困ったら、総務へ来ればいい」
『相談にお金を取るんじゃないんですか?』
神谷が僅かに目を見開く。
「黒澤部長。聞いていたんですか?」
『何の話ですか?』
「いえ。何でもありません」
黒澤が笑う。
「神谷。もう部長になるんだから、余計なことを言うな」
「就任は八月からです」
『神谷さん』
陽菜が神谷を見る。
『おめでとうございます』
「ありがとうございます」
『部長になっても、急に偉そうにしないでくださいね』
「そのつもりはありません」
『敬語を使えとか言い出したら嫌ですよ』
「今も使っていただいていますよね」
『そうでした』
「櫻井さん」
樹里が呼ぶ。
『神谷さんを困らせないでください』
『日高先輩、もう新しい仕事してるんですか?』
『何のことですか?』
『営業部長を守る仕事』
『違います』
『日高先輩も、おめでとうございます』
『ありがとうございます』
『偉くなったんですか?』
『役職は変わっていません』
『でも、ほかの部署にも指示できるんですよね?』
『案件に関する範囲だけです』
『じゃあ、偉くなってるじゃないですか』
『そのような話ではありません』
陽菜が笑う。
『でも、日高先輩に合ってると思います』
『まだ何も始めていません』
『始まる前から合ってます』
『根拠がありません』
『高槻の仕事で、ずっとやってたことだからです』
樹里は返事をしなかった。
その横へ、彩花が近づく。
「日高」
呼ばれた樹里が振り返る。
『森下さん』
「おめでとう」
『ありがとうございます』
「同期なのに、随分遠くへ行くわね」
『役職は変わっていません』
「知ってる。そういう意味じゃない」
彩花は、樹里の胸元へ視線を向けた。
そこにはまだ、新しい役割を示すものは何もない。
「私も総務で負けないから」
『勝ち負けではありません』
「相変わらずね」
『何がですか?』
「何でもない」
彩花は、黒澤を見る。
「それより、黒澤部長」
「何だ」
「総務へ来ても、営業部のやり方をそのまま持ち込まないでくださいね」
「まだ行ってもいないのに注意されるのか」
「先に言っておいた方がいいと思いまして」
「日高さんの同期だけあるな」
『私とは関係ありません』
「同じようなことを言う」
彩花は満足したように、自分の部署へ戻っていった。
陸と萌も、神谷と樹里へ順番に祝いの言葉を伝える。
「神谷さん。営業部長へのご就任、おめでとうございます」
「ありがとうございます。山本さんには、これからも頼ることが増えると思います」
「はい。頑張ります」
「川原さんも、よろしくお願いします」
「承知しました」
萌は続いて、樹里を見る。
「日高さん。おめでとうございます」
『ありがとうございます』
「特別案件が始まったら、私にもできることはありますか?」
『まだ業務の内容は決まっていません』
「はい」
『ですが、必要なことがあればお願いします』
「分かりました」
萌は頭を下げた。
樹里は、その言葉を断らなかった。
誰に任せるかを決めるところまでが、自分の仕事。
社長室で言われた言葉が、胸の中に残っている。
周囲の社員が自分の席へ戻ったあと、神谷が樹里へ近づいた。
「日高さん」
『はい』
「おめでとうございます」
『神谷さんも。営業部長へのご就任、おめでとうございます』
「ありがとうございます」
『以前から、決まっていたのですか?』
「高槻案件が終わった翌日に、内示を受けました」
『やはり、黒澤部長と会議室で話されたときですか』
「はい。お伝えできず、申し訳ありませんでした」
『話せない内容だと伺っています。謝る必要はありません』
「日高さんのことは、今日まで知りませんでした」
『そうですか』
「特別案件統括担当。日高さんに合っていると思います」
『櫻井さんと同じことをおっしゃるのですね』
「俺には、根拠があります」
『何でしょうか』
「高槻案件を、一番深く理解していたのは日高さんです」
『神谷さんも理解されていました』
「見ていた部分が違いました」
神谷は穏やかに答える。
「これからも、違う部分を見てください」
『営業部長の判断と異なる場合でも、ですか?』
「そのための役割ですよね」
『対立する可能性があります』
「高槻案件でも、しました」
『また声を大きくされるのですか?』
「それは反省しています」
『冗談です』
神谷が黙る。
「日高さん」
『何でしょうか』
「最近、冗談が分かりにくいです」
『黒澤部長にも同じことを言われました』
「少しずつ慣れます」
『慣れる必要はありません』
「これからも一緒に仕事をするので、必要です」
神谷はそう言って、自分の席へ戻った。
樹里は、その背中を見つめた。
八月から、神谷は営業部長になる。
樹里は、その下で働きながら、自分の判断を持つ役割を任される。
上司と部下。
それだけではない。
互いに違うものを見つけ、その違いを一つの答えへ変える。
高槻案件で作った関係は、形を変えながら続いていく。
黒澤が手を叩いた。
「全員、仕事へ戻れ」
営業部が動き始める。
「それから、今週の金曜日は高槻案件の打ち上げだ」
『忘れてませんよ』
陽菜が答える。
「櫻井さんに言ってない」
『あたしが一番楽しみにしてるので』
「分かってる」
『神谷さんと日高先輩のお祝いも一緒ですよね?』
「そのつもりだ」
『黒澤部長の異動のお祝いも』
「それは、まだ早い」
『じゃあ、全部まとめてですね』
「勝手に増やすな」
陽菜の声に、営業部から笑いが起きる。
高槻案件の成功。
黒澤の異動。
神谷の昇進。
樹里へ渡された新しい役割。
金曜日の夜は、これまで積み上げてきたすべてを祝う場所になる。
そして、その夜が終わったあと。
神谷には、役職とも仕事とも関係のない、自分の言葉で樹里へ伝えなければならないことが残っていた。




