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306話「次へ渡す席」

高槻興産との最終契約を終えた翌朝。


 黒澤は、始業前の社長室を訪れていた。


「失礼します」


「入ってくれ」


 島川不動産の社長は、机の上に置かれた報告書から顔を上げた。


「座ってくれ」


「はい」


 黒澤が応接用の椅子へ座る。


 テーブルの上には、高槻興産北側区画の最終報告書が置かれていた。


 契約金額。


 今後の管理収入。


 移転先の仲介によって発生する利益。


 新規区画の募集計画。


 そのどれを見ても、島川不動産がこれまで扱ってきた案件とは規模が違う。


「改めて、ご苦労だった」


「ありがとうございます」


「高槻社長からも連絡があった。神谷君と日高さんを高く評価していた」


「私も、同じ評価です」


「営業部全体も、よく動いたそうだな」


「はい。若手を含め、全員が自分の仕事をしました」


 社長は報告書を閉じた。


「それを踏まえて、以前から話していた人事を進めたい」


「やはり、その話でしたか」


「心当たりがあったのか」


「神谷には話すなと言われましたから」


「それだけで分かったか」


「長く部長をしていますので」


 黒澤は、普段と変わらない調子で答えた。


 だが、表情から冗談は消えている。


「八月一日付で、総務部長へ異動してもらいたい」


 社長が告げた。


「総務ですか」


「不満か」


「私は、細かい書類が得意ではありません」


「知っている」


「人事に向いているとも思えません」


「それも知っている」


「では、なぜ私なんでしょうか」


「書類が得意な人間なら、総務にはすでにいる」


 社長は黒澤を真っ直ぐ見た。


「今の総務に必要なのは、営業部を含め、ほかの部署がどう働いているかを理解できる人間だ」


「部署間の調整ですか」


「それだけではない。評価制度も見直す。働いている人間より、書類を作るのが上手い人間だけが評価される状態にはしたくない」


「私に、人を見る役目をやれと」


「営業部長として、何年もやってきたことだろう」


「営業部の人間を見るのとは違います」


「だから異動させる」


 黒澤は背もたれへ身体を預けた。


「断ることはできますか?」


「できる」


「随分簡単に認めますね」


「断った場合は、理由を書面で提出してもらう」


「嫌なやり方をしますね」


「書類が苦手なんだろう」


 黒澤は苦笑した。


「分かりました。お受けします」


「助かる」


「ただし、営業部の後任について確認させてください」


「神谷君を考えている」


 予想していた名前だった。


「お前が以前、推薦したとおりだ」


「高槻案件が終わるまで、判断を待っていたんですか?」


「それもある。大きな案件の途中で部長を替えるつもりはなかった」


「成功したから、神谷を上げると?」


「成功だけが理由ではない」


 社長は、別の資料を黒澤へ渡した。


 神谷の人事評価。


 高槻興産との仕事が始まる前からの記録も含まれている。


「一度倒れたあとも、案件から逃げずに戻った」


「はい」


「お前が業務から外すことも考えたそうだな」


「責任を感じすぎていましたからね。高槻へ一人で通い続けて、自分がやらなければならないと思い込んでいました」


「それでも、復帰してから仕事のやり方を変えた」


「日高さんと分けるようになりました」


「正確には、日高さんの強みを使えるようになった、だな」


「以前の神谷なら、自分が相手の話を聞いて、自分で条件をまとめようとしていました」


「今回は違った」


「はい。自分では拾えないものがあると認めた。日高さんの判断が自分と違っても、最後には受け入れています」


「後輩の仕事も見ていたそうだな」


「中井や佐藤だけではありません。山本と川原が何をしているのかも見ていました」


「高槻案件の途中でも、ほかの仕事を放置しなかった」


「それは、営業部長になるなら当然です」


「今までのお前と比べてどうだ」


「私よりは真面目です」


「能力を聞いている」


「冗談です」


 黒澤は、神谷の評価表を机へ置いた。


「任せられます」


「即答だな」


「そのために推薦しました」


「神谷君本人が、自分には早いと言ったらどうする」


「言うでしょうね」


「どう説得する」


「説得はしません。嫌でもやれと言います」


「お前らしいな」


「やる前から自信がある人間だけを部長にしていたら、私もここにはいません」


 社長は小さく笑った。


「では、神谷君への内示は任せる」


「承知しました」


「正式な人事発表は、来週の月曜日。異動は八月一日付だ」


「はい」


 黒澤は資料をまとめようとした。


 その前に、社長がもう一冊の資料を出す。


「まだ話は終わっていない」


「ほかにもあるんですか?」


「日高さんのことだ」


 黒澤の手が止まる。


「高槻案件の評価だけを見れば、管理職へ上げる案も出ている」


「そうですか」


「驚かないのか」


「仕事の成果だけなら、当然だと思います」


「お前は、どう考える」


「今、日高さんを部長や課長にするのは違います」


「理由は」


「あの人は、与えられた責任を全部自分で背負います」


「管理職には向かないと?」


「今のままでは、部下へ仕事を渡せません」


 黒澤は、少し考えてから続けた。


「正確には、以前より渡せるようにはなりました。川原へ仕事を教え、山本や櫻井さんたちにも任せています。神谷と役割を分けることもできるようになった」


「なら、管理職でもいいんじゃないか」


「日高さんへ役職を与えれば、部下の仕事だけでなく、部署の責任まで一人で持とうとします」


「神谷君が部長になれば、その下で抑えられる」


「部長の判断より、自分の方が早いと思えば動きますよ」


「今回も、神谷君と意見が対立したそうだな」


「二人で答えを作りました」


「だからこそ、同じ営業部で権限を持たせるべきではないかという意見もある」


「神谷と同じ形の評価にする必要はありません」


 黒澤は、社長が出した資料を見る。


「日高さんは、人をまとめるより、難しい案件の構造を整理する方が向いています」


「特別案件の担当か」


「はい。大規模な案件や、複数部署にまたがる案件について、契約と実務を統括する権限を与える。通常の指揮命令は神谷が行う」


「日高さんの判断と、部長の判断が分かれた場合は」


「最終的には神谷が決めます。ただ、契約や重大なリスクについては、日高さんから直接意見を出せるようにする」


「神谷君を飛び越えてか」


「神谷にも共有したうえで、です。隠れて上へ持っていくような仕組みにはしません」


「日高さんの評価は、神谷君が行うことになる」


「すべてを神谷一人に任せるべきではありません」


 社長が黒澤を見る。


「理由は」


「この先、二人の関係がどうなるかは分かりません」


「仕事以外の話か」


「今は、まだ何もありません」


「今は、か」


「余計なところだけ拾わないでください」


 黒澤は咳払いをした。


「少なくとも、神谷一人が日高さんの評価を決める形は避けるべきです。私か、別の管理職が確認する。特別扱いではなく、権限を持つ担当者への通常の監督としてです」


「お前が総務部長になれば、その役目もできるな」


「そのために、私を総務へ動かすんですか?」


「今、気づいたのか」


「人事は面倒ですね」


「だから、お前に任せる」


 社長は日高樹里と記された資料を閉じた。


「特別案件統括担当。役職ではなく、社内制度上の担当として設ける」


「手当も必要です」


「用意する」


「責任だけ増やしたら、日高さんは何も言わずに引き受けますよ」


「昇給も含めて検討している」


「それなら異論はありません」


「日高さんには、明日伝える」


「私からではないんですか?」


「これは私から話す。お前にも同席してもらう」


「承知しました」


「神谷君には、日高さんのことをまだ話すな」


「分かりました」


 黒澤は二冊の資料を持ち、立ち上がった。


「失礼します」


「黒澤」


「はい」


「営業部を離れることに、未練はあるか」


 黒澤は、すぐには答えなかった。


「ありますよ」


 それでも、表情は穏やかだった。


「長くいましたから」


「なら、なぜ断らなかった」


「あいつらだけで、もう回せると思ったからです」


 黒澤は社長室を出た。


     ◇


 始業直後。


 黒澤は営業部へ戻った。


 陽菜が、すぐにその姿へ気づく。


『黒澤部長。朝からどこに行ってたんですか?』


「少し、社長と話してた」


『高槻の件ですか?』


「似たようなものだ」


『何ですか、その曖昧な答え』


「仕事しろ」


『今からします』


「まだしてなかったのか」


『してましたよ』


 陽菜は不満そうに言いながら、パソコンへ向き直った。


 黒澤は自分の席へ座る。


 営業部を見渡す。


 神谷は、施工会社から届いた入場予定表を確認している。


 樹里は、七社分の管理契約を整理している。


 中井と佐藤は、十社へ送る報告書の発送記録を入力していた。


 陸と萌も、それぞれの仕事を進めている。


 昨日までと変わらない光景だった。


 だが、来月から、自分はこの場所の責任者ではなくなる。


 黒澤は机の中へ手を入れ、以前から保管していた一冊のファイルを取り出した。


 営業部の業務記録。


 取引先の特徴。


 社員ごとの担当案件。


 問題が起きたときの連絡先。


 次の人間へ渡すため、少しずつまとめてきたものだった。


 午前十一時。


「神谷。少しいいか」


「はい」


「会議室へ来てくれ」


「高槻興産の件でしょうか」


「行けば分かる」


 黒澤はファイルを持ち、先に営業部を出た。


 神谷も、そのあとを追う。


 会議室へ入り、扉を閉める。


「座ってくれ」


「はい」


 神谷が黒澤の向かいへ座った。


 机の上には、神谷の人事評価書と、八月一日付の異動案が置かれている。


「先ほど、社長から内示を受けた」


「黒澤部長が、ですか?」


「ああ。八月一日付で、総務部長へ異動する」


 神谷の表情が変わった。


「総務部長、ですか」


「ああ」


「営業部は、どうなるのでしょうか」


「その話をするために呼んだ」


 黒澤は、もう一枚の書類を神谷の前へ置いた。


「同じく八月一日付で、お前が営業部長になる」


 神谷は書類を見つめたまま、動かなかった。


「……私が、ですか?」


「ほかに神谷はいないだろ」


「ですが、急すぎます」


「以前から話は出ていた」


「私は聞いていません」


「内示の前に本人へ話すわけないだろ」


「そうではなく、私にはまだ――」


「早いか?」


 神谷の言葉を、黒澤が先に取る。


「はい」


「俺も、部長になったときはそう思った」


「黒澤部長と私は違います」


「違うな。お前の方が真面目だ」


「冗談を言っている場合ではありません」


「冗談じゃない」


 黒澤の声から、笑いが消えた。


「高槻の案件が成功したから、褒美で部長にするわけじゃない」


「では、なぜ私なのでしょうか」


「一度倒れても、仕事から逃げなかった」


 神谷の目が僅かに動く。


「俺が外すことも考えた。お前は、自分が高槻へ行かなければならないと思い込んで、一人でも通い続けた」


「それは、褒められることではありません」


「ああ。褒めてない」


 黒澤は即答した。


「自分一人で抱えて倒れたことも、そのあと同じやり方で戻ろうとしたことも、部長としては失格だ」


「……はい」


「だが、お前は途中で変わった」


 黒澤は、高槻案件の報告書を開いた。


「日高さんへ仕事を渡した。日高さんが自分と違う判断をしても、使えるものは使った」


「使った、という言い方はしたくありません」


「分かってる。任せたと言いたいんだろ」


「はい」


「山本と川原の仕事も見ていた。中井や佐藤だけじゃなく、部署全体が何をしているかを考えるようになった」


 神谷は黙って聞いている。


「最後の増額の件もそうだ。以前のお前なら、現場を止めないために自分で施工会社を説得し続けていた」


「その可能性はあります」


「日高さんとぶつかって、それでも一緒に現場へ行った。自分の案へ従わせるんじゃなく、二人で別の答えを作った」


「日高さんが、数字を確認してくださったからです」


「そうやって、自分にできないことを認められる人間になった」


 黒澤は神谷を見る。


「部長に必要なのは、何でも一人でできることじゃない」


「分かっています」


「本当に分かってるか?」


「今は、以前より分かっているつもりです」


「なら、やれ」


 神谷は、目の前に置かれた内示書を見る。


「断ることはできますか?」


「社長にも、同じことを聞いた」


「黒澤部長も断りたいのですか?」


「未練はある」


 黒澤は、営業部がある方向へ視線を向けた。


「だが、残る理由にはならない」


「私がいるから、ですか?」


「お前だけじゃない。日高さんも、櫻井さんたちもいる」


 黒澤は、机の上のファイルを神谷へ渡した。


「営業部のことをまとめてある」


「いつから、準備されていたのですか?」


「少し前からだ」


「異動が決まる前ですよね」


「いつまでも俺がいると思われても困るからな」


 神谷はファイルを開いた。


 社員ごとの担当業務。


 取引先との注意事項。


 年間の予定。


 その中には、神谷自身について記されたページもある。


「これは、あとで読め」


「はい」


「それから、一つだけ覚えておけ」


 黒澤の声が低くなる。


「俺がいなくなっても、日高さん一人に全部背負わせるな」


 神谷が顔を上げる。


「あの人は、できるからやるんじゃない」


 黒澤は、一つずつ言葉を置いた。


「誰もやらないと、自分がやる人だ」


 神谷は何も答えず、黒澤を見ている。


「周りが任せれば任せるほど、日高さんは止まらなくなる。自分が苦しいとは言わない。できないとも言わない」


「はい」


「お前の仕事は、それを止めることだ」


「……分かりました」


「日高さんが優秀だから任せる。それだけで終わるな。何を渡して、何を渡さないかを決めろ。必要なら、あの人の仕事を取り上げろ」


「反発されると思います」


「されるだろうな」


「黒澤部長でも、何度も言い返されていました」


「だから、お前に渡すんだ」


「理由になっていません」


「俺より、日高さんの話を聞けるだろ」


 神谷は、すぐには答えなかった。


 仕事上の意味だけで言われている。


 今は、それ以外の言葉を返すべきではない。


「努力します」


「努力じゃ足りない」


「では、止めます」


「それでいい」


 黒澤は椅子の背へ身体を預けた。


「正式な発表は、来週の月曜日だ。それまでは誰にも話すな」


「日高さんにもですか?」


「当然だ」


「承知しました」


「受けるんだな」


 神谷は、内示書をもう一度見た。


 自信があるわけではない。


 営業部全体を背負えると言い切ることもできない。


 それでも、自分には早いという理由だけで、誰かへ渡すことはしたくなかった。


「お受けします」


 黒澤が頷く。


「八月から、頼む」


「はい」


「あと、今までのように俺を頼れると思うなよ」


「総務部長は、社内にいらっしゃいますよね」


「細かい相談は有料にする」


「会社員同士で、金を取らないでください」


「冗談だ」


「分かりにくいです」


「お前も日高さんみたいなことを言うようになったな」


 黒澤は笑った。


「戻るぞ。長く二人でいると、櫻井さんが何を聞かれたのか探りに来る」


「ありそうですね」


 二人が会議室を出る。


 営業部へ戻った瞬間、陽菜が顔を上げた。


『何の話だったんですか?』


「ほらな」


 黒澤が呟く。


「高槻案件の引き継ぎだ」


『二人だけで?』


「部長と担当者だからな」


『怪しい』


「仕事しろ」


『してます』


 陽菜は不満そうに二人を見た。


 樹里も一度だけ神谷へ視線を向ける。


『何かありましたか?』


「いえ。高槻案件について、黒澤部長から確認を受けただけです」


『そうですか』


 樹里は、それ以上尋ねなかった。


 神谷は黒澤から受け取ったファイルを、自分の机の引き出しへ入れる。


 今はまだ、誰にも話すことができない。


 来月から、自分が営業部長になること。


 黒澤が、この部署を離れること。


 そして、樹里を一人で背負わせるなと託されたこと。


 机の向こうでは、樹里がすでに次の資料を開いていた。


 高槻案件が終わったばかりだというのに、休む様子はない。


 神谷は、その姿を見つめた。


 黒澤の言葉が、今までよりも重く胸へ残る。


 誰もやらないと、自分がやる人。


 それを止めるのが、自分の仕事になる。


 部長として。


 そして、まだ言葉にしていない気持ちを抱える、一人の男として。

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