305話「任せてよかった」
七月八日。
午前九時四十分。
高槻興産本社へ向かう車の中で、神谷と樹里は最後の確認を続けていた。
運転は神谷が担当している。
後部座席には黒澤が座り、二人の会話を黙って聞いていた。
「十七社からの同意確認書は、すべて原本が揃っています」
『再整備後に戻る七社の覚書も確認しました。昨日、最後の一社から押印済みの書類が届いています』
「施工会社との追加費用に関する覚書は?」
『高槻興産と施工会社の双方が、昨日付で押印しています』
「人員は確保できたそうです」
『予定していた人数ですか?』
「必要な資格を持つ作業員が六人。来週から現場へ入ります」
『契約書は確認されましたか?』
「はい。施工会社から写しが届いています。先払いの条件も、協議した内容と一致しています」
『でしたら、工程変更は行わずに済む可能性が高いですね』
「現場監督からは、当初の工程を維持できると回答がありました」
『可能性ではなく、維持していただきます』
「その言い方を、今日の施工会社にはしないでくださいね」
『事実です』
「日高さん」
『冗談です』
神谷が一瞬、樹里を見る。
「今のは、冗談だったんですか?」
『前を見てください』
「はい」
後部座席から、黒澤の笑い声が聞こえた。
「日高さんも冗談を言うようになったんだな」
『言っていません』
「今、自分で冗談だと言っただろ」
『神谷さんに前を見ていただくためです』
「余計に分かりにくいな」
黒澤は呆れたように言った。
「まあ、今日くらいは肩の力を抜け」
「契約が終わるまでは無理です」
『同感です』
「お前たちは、最後まで同じところだけは似てるな」
車は、高槻興産本社の駐車場へ入った。
神谷が車を停める。
三人とも、降りる前に一度だけ資料を確認した。
契約書。
重要事項の確認資料。
十七社分の同意確認書。
工程表。
管理業務の範囲を記した一覧。
四月から積み上げてきた内容が、一つの鞄へ収められている。
「行くぞ」
黒澤の言葉に、神谷と樹里が頷いた。
◇
午前十時。
高槻興産本社の大会議室で、最終契約の確認が始まった。
高槻興産側には、高槻社長、法務担当者、北側区画を担当する社員が並んでいる。
施工会社の担当役員も同席していた。
島川不動産の前に置かれている契約書は、一冊ではない。
既存契約の整理。
入居企業の移転支援。
移転先物件の仲介。
再整備後の管理業務。
新規区画の募集。
施工会社との工程調整。
それぞれの業務と責任が、複数の契約書と覚書に分けられている。
高槻興産の法務担当者が、条項を一つずつ読み上げた。
神谷は全体の進行と各社への説明内容を確認する。
樹里は、手元の契約書と読み上げられる文章を照合していた。
日付。
契約期間。
対象となる区画。
管理費。
業務範囲。
責任の所在。
どれか一つでも違えば、押印することはできない。
「日高」
高槻社長が呼ぶ。
『はい』
「何かあるか」
『管理業務委託契約書の第十二条について、確認してもよろしいでしょうか』
「言ってみろ」
『契約開始日は七月二十六日となっていますが、七社のうち一社だけ、共用設備の管理開始日が別に定められています』
「覚書の方か」
『はい。専有区画と基本管理は七月二十六日からですが、共用設備の一部は、使用開始日の翌日から管理費へ加算します』
法務担当者が覚書を確認する。
「契約書には、個別の覚書を優先する旨を記載しております」
『承知しています。ただ、請求時に誤りが出ないよう、対象となる会社名と設備区分を別紙へ明記した方がよいと思います』
「すでに別紙四に記載しています」
法務担当者が該当する資料を開いた。
樹里も同じページを確認する。
『失礼しました。確認できました』
「ほかには」
『ありません』
「神谷」
「はい」
「十七社への説明は終わっているな」
「すべて完了しています。契約内容と工程、追加費用の扱いについて、各社から書面で同意をいただきました」
「工事が遅れた場合はどうする」
「追加人員が来週から現場へ入ることが決まっています。現場監督からは、当初の工程を維持できると回答を得ました」
「回答どおりに進まなかった場合を聞いている」
「再整備後に戻る七社の専有区画を優先する工程へ切り替えます。営業開始に必要な通路と共用部分を先に完成させます」
「七社への影響は」
「安全面を満たせない場合は引き渡しを行いません。その場合に必要となる一時保管場所や機材の再配送費用についても、負担する側を覚書で定めています」
「誰が確認する」
「高槻興産、施工会社、島川不動産の三者です」
「島川不動産が見るのは、契約と費用だけか」
「いいえ。現場へも定期的に入り、工程と入場記録を確認します」
「その担当は」
「私が責任者になります。日高さんには、契約と支払い条件を確認していただきます」
「お前が現場で、日高が数字か」
「はい。ただし、情報は双方で共有します」
高槻社長は神谷と樹里を順に見た。
「分かった」
契約内容の確認が続く。
午前十一時二十分。
すべての条項が読み終えられた。
修正を求める者はいない。
契約書が、高槻社長の前へ運ばれる。
一枚目へ署名し、印を押す。
乾いた音が、静かな会議室に響いた。
二枚目。
三枚目。
すべての契約書へ、高槻興産の印が押されていく。
続いて、島川不動産側の署名と押印が行われた。
最後の一冊を閉じた法務担当者が、双方へ向かって頭を下げる。
「以上をもちまして、高槻興産北側区画再整備計画に関する契約の締結を完了いたします」
神谷は、ゆっくりと息を吐いた。
隣にいる樹里は、目の前に並べられた契約書を見つめている。
四月に渡された、膨大な資料。
十七社への聞き取り。
移転条件。
機材の問題。
長年の取引先。
管理費。
施工会社からの増額要求。
一つの問題を終えるたびに、次の問題が現れた。
そのすべてが、今は署名と印の入った契約書へ変わっている。
高槻社長が立ち上がった。
「施工会社には、契約どおりに進めてもらう」
「承知しました」
担当役員が頭を下げる。
「追加した人員と費用は、入場記録を確認してから支払う。約束した資料が一つでも欠ければ、残額は出さない」
「承知しております」
「現場には、無理をさせるな。人を増やした分、予定より先に進めようと考える必要もない」
「現場監督へ伝えます」
施工会社の二人が先に会議室を出た。
高槻興産の法務担当者も、契約書を保管するため席を立つ。
会議室に残ったのは、高槻社長と担当者、島川不動産の三人だけだった。
「黒澤」
「はい」
「よく、こいつらを最後まで使ったな」
「途中で何度も止めたくなりましたけどね」
「俺もだ」
高槻社長は、神谷と樹里を見る。
「最初は、お前たちにこの話を回したことを後悔した」
二人は何も答えなかった。
「日高は、契約と記録ばかり見ていた。神谷は、人の話を聞くことに時間を掛けすぎた」
『申し訳ありません』
「謝れとは言っていない」
樹里の言葉を、高槻社長が止める。
「日高が出す条件は正しかった。だが、正しい条件だけでは、十七社は残らなかった」
続いて神谷を見る。
「神谷は相手の事情を聞いた。だが、聞くだけでは、会社の金も工期も守れなかった」
「はい」
「お前たちは、何度も違う方向を見ていた」
高槻社長は、締結された契約書へ手を置いた。
「だが、今は違う」
樹里と神谷が顔を上げる。
「最後は、同じものを持ってきた」
契約を守る条件。
現場を止めない方法。
どちらかを捨てた答えではない。
二人でなければ作れなかったものだった。
「お前たち二人に任せてよかった」
神谷の表情が僅かに変わる。
樹里は、すぐに言葉を返せなかった。
高槻社長から厳しい言葉を受けたことは、何度もある。
書類を返された。
考え直せと言われた。
人を見ろと叱られた。
だが、真正面から任せてよかったと言われたのは初めてだった。
「神谷、日高」
「はい」
『はい』
「契約を取って終わりだと思うな」
「承知しています」
「ここから工事が終わり、十七社が新しい場所で仕事を始めるまでが、お前たちの仕事だ」
『承知しました』
「その後は管理が続く。新規区画の募集もある。一年や二年で終わる話じゃない」
「はい」
「今日だけは成功したと思っていい。だが、明日からは次を見ろ」
「ありがとうございます」
『ありがとうございます』
二人は揃って頭を下げた。
黒澤は隣で、その姿を見ていた。
「高槻社長」
「何だ」
「今の言葉、もう一度言ってもらえませんか」
「断る」
「部下が褒められるところを、録音しておけばよかったと思いまして」
「余計なことを考えるな」
「残念です」
黒澤が笑う。
張り詰めていた会議室の空気が、ようやく緩んだ。
「帰って部下に報告しろ」
「はい」
「十七社分を働かせたんだ。今日は少しくらい早く帰してやれ」
「そのつもりです」
「ただし、工事の確認は忘れるな」
「結局、休ませる気はないでしょう」
「仕事だからな」
高槻社長は、当然のように答えた。
◇
高槻興産本社を出る。
正午を少し過ぎていた。
神谷は契約書の控えが入った鞄を、後部座席へ慎重に置いた。
樹里も、その横へ資料を置く。
「日高さん」
『何でしょうか』
「終わりましたね」
『契約は終わりました』
「今だけは、それで十分です」
『工事は続きます』
「高槻社長から、今日だけは成功したと思っていいと言われました」
『明日からは次を見ろとも言われました』
「日高さんは、都合の悪い方だけ覚えますね」
『両方覚えています』
「では、成功したと思っていますか?」
樹里は、契約書の入った鞄を見る。
『……はい』
「そうですか」
『神谷さんは?』
「成功したと思っています」
『即答ですね』
「四月から、この日のために動いてきましたから」
神谷は、僅かに笑った。
「日高さん。ありがとうございました」
『私一人で行った仕事ではありません』
「分かっています。それでも、日高さんに伝えたかったんです」
樹里は神谷を見る。
『私も、神谷さんがいなければ、十七社すべての合意は得られなかったと思います』
「それは、礼だと思ってもいいですか?」
『事実を申し上げただけです』
「そういうことにしておきます」
黒澤が、後部座席の扉を開けた。
「二人で何を話してるんだ」
「今回の仕事についてです」
『それ以外に何があるのですか?』
「いや。何でもない」
黒澤は後部座席へ乗り込んだ。
「会社に戻るぞ。全員が待ってる」
◇
午後一時半。
三人が営業部へ戻ると、入口の近くにいた陸が真っ先に気づいた。
「お帰りなさい!」
その声で、営業部の全員が顔を上げる。
陽菜が席を立った。
『どうでした?』
神谷が答える前に、樹里が口を開く。
『最終契約は、問題なく締結されました』
一瞬の静寂。
次の瞬間、営業部に大きな拍手が起きた。
『やった!』
陽菜の声が、その中へ重なる。
中井も佐藤も手を叩いている。
萌は驚いたように周囲を見たあと、隣にいる陸と顔を見合わせた。
「終わったんですね」
「はい!」
『日高先輩』
陽菜が樹里へ近づく。
『本当に全部終わったんですよね?』
『契約は終わりました』
『今は、契約以外の話をしてません』
『でしたら、終わりました』
『おめでとうございます』
『櫻井さんたちにも、同じ言葉を返します』
『あたしたちにも?』
『皆さんが関わった案件です』
樹里は、営業部にいる全員を見た。
『ありがとうございました』
樹里が頭を下げる。
陽菜が目を見開く。
神谷も、樹里の隣へ立った。
「俺からも、お礼を言わせてください。皆さんがそれぞれの仕事を進めてくださったから、今日の契約を迎えられました。ありがとうございました」
二人が揃って頭を下げる。
拍手が、先ほどよりも大きくなった。
黒澤は自分の席の前へ立ち、全員を見渡した。
「これで、高槻興産北側区画の契約は成立した」
営業部が静かになる。
「移転先の仲介。再整備後の管理。新規区画の募集。今期の売上だけじゃない。この先、何年も島川不動産へ利益を残す契約だ」
黒澤は一度、神谷と樹里を見る。
「会社からも、正式に過去最大規模の案件として報告を受けている」
『過去最大ですか?』
陽菜が尋ねる。
「ああ。契約金額だけじゃない。十七社を一つの計画で動かし、その後の管理まで任された実績を含めてだ」
『じゃあ、打ち上げも過去最大ですよね?』
「どうしてそうなる」
『仕事の規模に合わせないと』
「櫻井さんは、最初からそれしか考えてないだろ」
『そんなことないですよ。半分くらいです』
「十分多い」
黒澤は呆れたように息を吐いた。
「だが、打ち上げはやる」
『本当ですか?』
「今回は会社から費用が出る」
営業部から歓声が上がる。
「来週の金曜日だ。店はこれから決める。業務に支障が出ない範囲で、全員参加にしたい」
『あたし、飲めないですよ』
「櫻井さんは食べろ」
『高いものでもいいですか?』
「限度はある」
『過去最大なのに?』
「話を戻すな」
周囲から笑いが起きる。
黒澤は手を叩いた。
「今日は定時で帰れ。残って仕事をしたら、日高さんでも追い出す」
『なぜ、私の名前を出すのですか?』
「一番残りそうだからだ」
『必要な確認があります』
「明日やれ」
『ですが――』
「高槻社長からも、今日は早く帰せと言われてる」
樹里の言葉が止まる。
「取引先の指示だ。従え」
『そのような指示ではなかったと思います』
「俺はそう受け取った」
『都合よく解釈しないでください』
「とにかく、今日は帰れ」
黒澤はそう言って、自分の席へ戻った。
営業部には、まだ成功の余韻が残っている。
陸と萌は、自分たちが関わった資料を見ながら話していた。
佐藤は十七社分の契約一覧へ、締結済みの印をつける。
中井は、陽菜が座る前に椅子を引いた。
『中井くん。自分の席に戻らなくていいの?』
「戻ります。その前に、少し休んでください」
『ずっと座ってたよ』
「先ほど立っていました」
『それくらい平気』
「朝から会議の準備もしていました」
『分かった。座るから』
陽菜が椅子へ座る。
中井は満足したように頷き、自分の席へ戻った。
神谷はその光景を見たあと、隣にいる樹里へ声を掛ける。
「日高さん」
『何でしょうか』
「打ち上げには、参加されますよね?」
『全員参加と聞きました』
「それなら安心しました」
『私が不参加だと思われたのですか?』
「高槻興産の確認を理由に、会社へ残る可能性があると思いました」
『そこまで仕事だけを優先しているつもりはありません』
「そうですか」
『何ですか?』
「いえ。よかったと思っただけです」
神谷は自分の席へ戻った。
樹里は、その背中を僅かに目で追った。
◇
定時を過ぎると、黒澤は宣言どおり、残ろうとする社員を営業部から追い出した。
樹里も最後まで抵抗したが、契約書の控えだけを所定の場所へ保管し、退社することになった。
営業部から人がいなくなる。
黒澤は一人で自分の机を確認し、帰る準備を始めた。
そのとき、内線電話が鳴る。
「はい。営業部、黒澤です」
「黒澤君。まだ残っているか」
電話の相手は、島川不動産の社長だった。
「はい。今、帰るところです」
「高槻興産の契約は、無事に終わったそうだな」
「先ほど、報告書をお送りしました」
「確認した。よくやってくれた」
「ありがとうございます。神谷と日高さん、それから営業部全員が動いた結果です」
「そのことで、話がある」
黒澤の手が止まる。
「明日の朝、社長室へ来てくれ」
「何時でしょうか」
「八時半だ」
「承知しました」
「神谷には、まだ何も話すな」
黒澤の表情から、先ほどまでの笑みが消える。
「分かりました」
「では、明日」
通話が切れた。
黒澤は受話器を置き、自分の席から営業部を見渡した。
神谷の机。
樹里の机。
陽菜たちの机。
高槻案件の資料は、すでに整理されている。
「まだ早いと思ったんだけどな」
誰もいない部屋で、黒澤が呟く。
社長室へ呼ばれる理由に、心当たりはあった。
自分の異動。
そして、そのあとを任せる人間のこと。
黒澤は電気を消し、営業部を出た。
高槻興産との大きな仕事が終わったその日に。
島川不動産でも、次の人間へ仕事を渡すための話が、静かに動き始めていた。




