303話「払う理由」
翌朝、九時。
高槻興産本社の会議室には、普段より多くの資料が並べられていた。
高槻社長と、高槻興産の担当者。
施工会社からは、担当役員と見積もりを作成した社員。
島川不動産からは、黒澤、神谷、樹里が出席している。
長机の中央には、施工会社が提出した追加見積書が置かれていた。
「それでは、始めてくれ」
高槻社長が言う。
最初に口を開いたのは、施工会社の担当役員だった。
「今回お願いしております追加費用につきましては、資材価格、燃料費、人件費の上昇に伴うものです。当初の見積もりを作成した時点では予測できなかった変動が重なっております」
用意された資料が配られる。
「特に人員の確保が難しくなっております。このまま当初の金額で工事を続けた場合、予定していた作業員を揃えることができず、工期へ影響する可能性があります」
「可能性ではなく、どれだけ遅れる」
高槻社長が尋ねる。
「現段階では、正確な日数をお答えすることはできません」
「なら、追加費用を払えば、予定どおり終わるのか」
「最大限努力いたします」
「聞いているのは努力するかどうかじゃない。終わるのか、終わらないのかだ」
施工会社の担当役員が言葉に詰まる。
「必要な人員を確保できれば、当初の工程を維持できると考えております」
「金を払っても、人が揃う保証はないということか」
「人材の確保については、現在も調整中です」
高槻社長の目が細くなった。
「保証できないものに、先に全額を払えと言っているのか」
「工事を進めるためには、事前に人員を確保する必要があります。そのための費用です」
「神谷」
「はい」
「お前は、どう考えている」
神谷は手元の資料を開いた。
「現場で人員が不足していることは事実です。特に、資格を必要とする作業については、一人が複数の区画を移動しながら対応していました」
「工期に影響するか」
「現在の人数が変わらなくても、七社すべての区画を予定どおり完成させることは難しいと考えます。作業員がさらに一人でも抜ければ、遅れは大きくなります」
「なら、払うべきだと思うか」
「必要な人員を確保するための費用は、協議するべきだと考えています」
施工会社の担当役員が小さく頷く。
「ただし、提示された金額の全額を支払うことには同意できません」
その表情が止まった。
「どういうことでしょうか」
「今回の追加見積もりには、人員確保と関係のない費用が含まれています」
「資材価格や運搬費も上昇しています」
「それについては、日高から説明いたします」
神谷から視線を向けられ、樹里が資料を机の中央へ出した。
『こちらが、最初に提出された見積書です。次に、資材の発注記録と搬入記録です。最後が、今回提出された追加見積書になります』
三つの資料には、同じ番号が振られている。
『追加見積書では、こちらの鋼材が現在の価格で計算されています。しかし、発注されたのは五月二日。現場へ搬入されたのは五月二十三日です』
「支払いは、まだ完了しておりません」
見積もり担当者が答える。
『支払日ではなく、仕入れ価格を確認しています』
「現在の市場価格が上昇していることは事実です」
『この鋼材を、現在の価格で仕入れたのですか?』
「それは――」
『発注書と納品書の提出をお願いしましたが、昨日までに届いていません』
「社内で確認しております」
『確認できていない金額を、追加費用として請求したということでしょうか』
見積もり担当者は答えなかった。
樹里は次の項目を示す。
『配管資材についても同様です。こちらはすでに全量が搬入されています。それにもかかわらず、現在の価格との差額が追加されています』
「工事全体の原価が上昇しておりますので、個別の資材だけで判断されるのは――」
『当初の見積もりから利益が減ったため、その不足分を別の項目へ上乗せしたのですか?』
施工会社側の二人の表情が変わる。
「そのようなことはございません」
『では、実際の仕入れ価格を提示してください。現在の市場価格ではなく、御社が支払った金額です』
「すぐには用意できません」
『増額を求める以上、先に用意されるべき資料だと思います』
会議室が静かになる。
高槻社長は、樹里が並べた資料を一枚ずつ確認した。
「ほかにもあるのか」
『はい。すでに発注または搬入されている資材は、十二項目あります。追加された夜間作業の費用についても、現在の工程には夜間作業が含まれていません』
「今後、必要になる可能性があります」
施工会社の担当役員が反論する。
『必要になった段階で、理由と人員数をご提示ください。実施されるか分からない作業の費用を、先に支払うことはできません』
「しかし、事前に人を押さえるためには費用が必要です」
『通常の作業員と、夜間作業員は分けて考えるべきです』
樹里は追加見積書の金額を示した。
『資材費と、実施が決まっていない夜間作業の費用を外した場合、増額要求は当初の三分の一以下になります』
「その金額では、必要な人員を確保できません」
「では、何人を確保するために、いくら必要なのでしょうか」
神谷が尋ねた。
「見積書に記載しております」
「記載されているのは、追加人員一式という項目です。資格も人数も、作業日数も分かりません」
「人員の配置は、現場の状況に応じて変わります」
「変わるのであれば、先に全額を決めることはできません」
「ですが、契約してから支払うまでに時間が掛かれば、人員はほかの現場へ移ります」
「その点については、こちらから案があります」
神谷は、前夜に樹里と作成した資料を配った。
「まず、現場から必要な資格、人数、作業日数を提出していただきます。それに基づき、追加人員を確保するための契約金の一部を先に支払います」
「一部とは、どの程度ですか?」
「三割です」
「それでは、作業員を押さえることはできません」
「残りは、現場への入場が確認された時点で支払います」
「弊社が先に負担することになります」
『当初の工事費は、すでに契約に基づいて支払われています』
樹里が言う。
『今回協議しているのは、追加費用だけです。実際に入らなかった人員の費用まで、先に高槻興産へ負担させることはできません』
「しかし、我々も人を確保するために契約を結ばなければなりません」
「でしたら、その契約書を確認させてください」
神谷が続ける。
「資格、人数、単価、期間。実際に必要となる費用が確認できれば、先に支払う割合については再度協議します」
「下請け会社との契約書を提出しろと?」
「すべてを開示していただく必要はありません。ほかの現場や取引先に関する部分は伏せていただいて構いません」
『ただし、今回の工事に必要な費用は確認させていただきます』
施工会社側の二人が、小声で話し合う。
高槻社長は口を挟まず、その様子を見ていた。
やがて施工会社の担当役員が顔を上げる。
「人員については、その条件で検討できます。ただし、資材費をすべて外すことには同意できません」
『すべてを外すとは申し上げていません』
樹里は未発注資材の一覧を差し出した。
『今後仕入れる資材について、当初の見積もり時点から価格が上昇しているのであれば、実際の価格差を協議します』
「現在の価格表を基準にしていただきたい」
『実際の仕入れ価格を基準にします』
「仕入れ先によって差があります」
『ですから、納品書を確認します』
「そこまで細かく確認されては、事務処理だけでも時間が掛かります」
『金額だけを記載した追加見積書を受け入れた方が、時間は掛かりません』
樹里の声は変わらない。
『ですが、それで高槻興産へ正しい説明はできません』
「今回の価格上昇は、弊社の責任ではありません」
『価格が上昇したことを責めているのではありません。上昇していない費用まで含めている理由を伺っています』
「工事全体で見れば、利益が――」
見積もり担当者が口にしかけたところで、隣に座る担当役員が止めた。
しかし、途中まで出た言葉は消えない。
高槻社長が、低い声で尋ねる。
「利益が、何だ」
「……当初想定していた利益を確保することが難しくなっております」
「それを、うちに負担させるつもりか」
「人員不足と価格上昇がなければ、このようなお願いはしておりません」
「仕事を取るために見積もりを下げたのは、そちらの判断だろ」
「当時は、適正な金額だと判断しておりました」
「判断を誤った責任まで、俺に払えと言うのか」
「そのような意図ではございません」
「なら、日高が求めた資料を出せ」
高槻社長は、追加見積書を机へ置いた。
「実際に上がった金は払う。必要な人を入れるための金も、条件が正しければ出す」
施工会社の担当役員を見る。
「だが、そちらが最初に減らした利益を取り戻すための金は出さない」
「……承知しました」
「まだ終わっていない」
高槻社長の声がさらに低くなる。
「この話を断れば工期が遅れると、契約直前に言ってきたな」
「事実をお伝えしたつもりです」
「事実なら、なぜもっと早く言わなかった」
「必要な人員を確保するため、直前まで調整しておりました」
「調整していた記録を出せ。いつ、どの会社へ、何人を求めたのか。断られた理由もだ」
「そこまで必要でしょうか」
「必要かどうかを決めるのは、金を払う側だ」
担当役員は返事をしなかった。
「出せないなら、人員不足を理由にした追加費用は認めない」
「分かりました。提出いたします」
「期限は今日中だ」
「今日中ですか?」
「そちらが返事を求めた期限は、明日だろ。判断してほしいなら、判断できるものを先に出せ」
「……承知しました」
高槻社長は神谷へ顔を向ける。
「人員を確保できなかった場合の案は」
「工程の順番を変更します」
神谷は別の資料を開いた。
「再整備後に戻る七社の専有区画を優先し、入居後でも工事が可能な共用部分を後ろへ回します」
「それで七月末に間に合うのか」
「現場監督の試算では、四社の区画についても、引き渡し予定日までに完成できる見込みです」
「共用部分は、どれだけ遅れる」
「最大で十二日です」
「その間、七社は営業できるのか」
「動線と安全性を設計側に確認しました。こちらに記載した部分を先に完成させれば、営業開始に影響はありません」
『ただし、資材の搬入時間を分ける必要があります。七社の営業時間外に限定し、通路を使用する際は誘導員を配置します』
「その費用は」
『増員ができず、工程を変更した場合は施工会社の負担とします』
「なぜ弊社の負担になるのでしょうか」
担当役員が反論する。
『必要な人員を確保できなかったことによる工程変更だからです』
「人員不足は、業界全体の問題です」
『それでも、契約した工期を守る責任は御社にあります』
「日高さん」
神谷が静かに呼ぶ。
樹里は神谷を見る。
「誘導員の費用については、増員に必要な金額との比較が必要だと思います」
『施工会社だけの負担にするべきではないとお考えですか?』
「工程変更は、高槻興産と七社への影響を抑えるための選択でもあります。施工会社の責任だけで発生するとは言い切れません」
『しかし、原因は人員を確保できなかったことです』
「はい。ただ、増員できない可能性があると分かったうえで、こちらも工程変更を選びます」
再び、二人の意見が分かれる。
昨日までなら、互いに自分の主張を続けていたかもしれない。
だが樹里は、すぐには反論しなかった。
神谷が見ている資料へ目を落とす。
『誘導員が必要となる時間は、一日何時間ですか?』
「搬入がある日の、営業開始前と終了後です」
『日数は』
「最大で六日間です」
『費用の上限を決められますか?』
「はい」
『施工会社だけではなく、高槻興産も一部を負担するということですか?』
「工程を変更した方が、仮店舗や倉庫を用意するより大幅に安くなります」
樹里は計算表を確認した。
工事が遅れ、四社の移転先を一時的に用意する場合。
賃料。
機材の再配送。
仮店舗の設備。
その合計に比べれば、誘導員を配置する費用は僅かだった。
『分かりました』
樹里が答える。
『工程変更を高槻興産が選択した場合に限り、誘導員の費用を折半します。ただし、事前に上限を決めます』
「同意します」
神谷が頷く。
二人のやり取りを、高槻社長は黙って見ていた。
「施工会社は、それでどうだ」
「持ち帰って検討させていただけませんか」
「いつまでだ」
「明日の午前中までに」
「遅い」
「社内の承認が必要です」
「なら、今ここで電話しろ」
「しかし――」
「契約を止めたのは、そちらだ。返事を待たされる側が、そちらの都合に合わせる理由はない」
施工会社の担当役員は、しばらく黙っていた。
やがて席を立ち、会議室の外へ出ていく。
見積もり担当者も、そのあとを追った。
扉が閉まる。
高槻社長は、神谷と樹里が作成した提案書を再び開いた。
「神谷」
「はい」
「最初は、全額ではなくても払うべきだと言っていたそうだな」
「はい」
「日高は、払う必要はないと」
『はい』
「それが、どうしてこの案になった」
「二人で現場を確認しました」
『神谷さんにも、見積もりの内容を確認していただきました』
「相手の案を受け入れたのか」
「違います」
神谷が答えた。
「日高さんの判断をそのまま採用したわけではありません」
『私も、神谷さんの案へ譲ったわけではありません』
「なら、これは何だ」
『必要な費用と、支払う必要のない費用を分けました』
「現場を止めないことと、不当な増額を認めないこと。その両方を残した案です」
高槻社長は二人を見た。
「最初から、そうしろ」
厳しい言葉だった。
だが、その声には僅かに満足した響きがあった。
「お前たちは、二人とも自分が正しいと思うと面倒だ」
神谷は答えに迷った。
樹里は表情を変えない。
「だが、違うものを見ているからこそ、見落としを拾える」
高槻社長は提案書を閉じた。
「まだ褒めてはいない。施工会社を納得させて、工事を予定どおり進めてからだ」
「承知しました」
『承知しました』
黒澤は隣で、何も言わずに二人を見ていた。
自分は余計な口を出さない。
昨日宣言したとおり、協議が始まってから一度も話していない。
それでも、二人が同じ案を説明する姿を見て、その表情は僅かに緩んでいた。
約二十分後。
施工会社の二人が会議室へ戻ってきた。
「社内で協議しました」
担当役員が席へ着く。
「資材費につきましては、実際の仕入れ価格が確認できる資料を提出します。すでに発注済みのものについて、価格の上昇がなければ増額対象から外します」
『ありがとうございます』
「人員については、必要な資格、人数、日数を現場から提出させます。協力会社との契約が確認できた段階で五割。入場記録を確認後、残りを支払っていただきたい」
「先払いは三割と提示しました」
神谷が答える。
「五割が限界です。それ以下では、協力会社の承認が取れません」
「根拠となる契約書は提出していただけますか?」
「今回の工事に関する部分は提出します」
神谷は樹里を見る。
樹里は施工会社の提示した条件を資料へ書き込んだ。
『契約書で、先に五割の支払いが必要だと確認できるのであれば認めます』
「では、その条件でお願いします」
「残りの支払いは、現場へ入ったことを確認してからです」
「承知しました」
『必要な人数を確保できなかった場合は、工程を変更します』
「誘導員の費用は、先ほどのお話どおり折半でよろしいでしょうか」
『高槻興産が工程変更を選択した場合に限ります。また、事前に合意した上限を超える部分は、御社の負担とします』
「分かりました」
高槻社長が、双方の顔を見た。
「これで終わりか」
「はい」
『はい』
施工会社の担当役員も頷く。
「異論はございません」
「なら、今日中に覚書を作れ」
高槻社長が言う。
「七月八日の最終契約は変えない。工事も止めるな」
「承知しました」
「神谷、日高」
「はい」
『はい』
「十七社への説明も、お前たちがやれ」
「承知しました」
『承知しました』
「追加費用の話がまとまったからといって、勝手に条件を変えたと思わせるな。何にいくら払うのか。払わない金は何か。工程を変える場合は何が起きるのか。全部説明しろ」
「はい」
「一社でも納得しないところがあれば、最終契約の前に俺へ報告しろ」
『分かりました』
協議が終わった。
会議室を出たあと、黒澤が二人の後ろから声を掛ける。
「お疲れ」
「お疲れさまでした」
『お疲れさまでした』
「結局、俺は一言も話さなかったな」
「見ていただけでも、心強かったです」
「神谷。そういう気遣いはいらない」
「本心です」
「日高さんは?」
『黒澤部長がいらっしゃいましたので、問題が起きた場合にも対応できると考えていました』
「二人とも、もう少し上司を頼れ」
黒澤は呆れたように言った。
エレベーターの前で足を止める。
「だが、よくまとめた」
神谷と樹里が同時に黒澤を見る。
「昨日のまま、どっちかが相手を押し切ってたら、この条件にはならなかった」
「はい」
『はい』
「神谷」
「何でしょうか」
「日高さんが書類に強いからって、全部任せるな」
「分かっています」
「日高さん」
『はい』
「神谷が人の話を聞きすぎるからって、時間の無駄だと思うなよ」
『……承知しました』
「返事の前に間があったな」
『気のせいです』
エレベーターの扉が開く。
三人で乗り込む。
「七月八日まで、あと少しだ」
黒澤が言った。
「最後まで二人でやれ」
「はい」
『はい』
扉が閉まる。
追加費用を巡る最後の対立は、終わった。
まだ契約は結ばれていない。
十七社への説明も残っている。
それでも、工事を止めず、不当な要求も認めないための道はできた。
神谷だけでは、現場を守ろうとして譲りすぎていた。
樹里だけでは、守るべき線を引いたまま、人が動けなくなっていた。
二人が違う場所を見ていたからこそ、その間にある答えを作ることができた。
高槻興産との最後の大仕事は、ようやく最終契約へ向かって動き始めた。




