302話「十三通の招待状」
六月最後の週。
同じ形をした十三通の封筒が、それぞれの家へ届いた。
◇
神谷が自宅へ戻ったのは、午後九時を過ぎてからだった。
郵便受けから取り出した封筒の中に、見覚えのある二人の名前が並んでいる。
櫻井陽菜。
中井。
差出人を確認した神谷は、部屋へ入ると、仕事の鞄より先に封筒をテーブルへ置いた。
中には、十月の挙式と披露宴を知らせる招待状が入っている。
日付を見た瞬間、神谷の頭には高槻興産の工程表が浮かんだ。
十月まで仕事を残さないでほしいと、陽菜から言われた日のことも思い出す。
「さすがに、それまでには終わっていますよ」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
高槻案件が予定どおり終われば、営業部の全員が安心して式へ出席できる。
まだ最後の協議は残っている。
だが、招待状に記された日には、仕事の資料ではなく、二人の晴れ姿を見ていたかった。
神谷はスマートフォンの予定表を開き、挙式の日を登録した。
出席。
その二文字まで入力してから、保存する。
招待状は仕事の書類と混ざらないよう、テーブルの中央へ置いた。
◇
樹里の家にも、同じ封筒が届いていた。
樹里は差出人を確認し、すぐに誰からのものか分かった。
封を開ける。
会場名。
開式時刻。
披露宴の開始時刻。
どの文字も整っている。
だが、招待状とは別に入っていた小さな紙だけは、陽菜の字だった。
〈総長、スピーチよろしく〉
『まだ引き受けたとは言ってない』
樹里は紙へ向かって答えた。
その下には、さらに小さな文字が続いている。
〈絶対来てね〉
樹里の指が止まる。
招待状がなくても行くつもりだった。
陽菜が来るなと言っても、式場まで行っていたかもしれない。
それでも、改めて文字で求められると、胸の奥に重いものが残った。
樹里は出欠を知らせる葉書を取り出す。
出席へ印をつけることに迷いはなかった。
迷っているのは、別のことだった。
机の上に置かれたノートパソコンを開く。
画面には、以前作った文書が残っている。
友人代表挨拶。
題名の下は、今も白いままだった。
樹里は陽菜の短い手紙を、パソコンの横へ置いた。
『簡単に書くな』
文句を言いながらも、その紙を捨てることはできなかった。
◇
閉店後。
美園はRoseの戸締まりを終え、店の奥にある自分の部屋へ戻った。
郵便物の中から招待状を見つけ、着替える前に封を開ける。
白い台紙に、陽菜と中井の名前が並んでいた。
『本当に結婚するんだ』
報告はすでに聞いている。
婚約指輪も見た。
妊娠を知ったときには、陽菜を抱き締めた。
それでも招待状を手にすると、すべてが改めて現実になった。
かつて特攻服を着て、誰よりも樹里の後ろを走っていた陽菜が、今は自分の選んだ人と家庭を作ろうとしている。
六年前には、想像できなかった姿だった。
美園は招待状へ添えられた紙を開く。
〈美園さんには最初から最後までいてほしい〉
その一文を読み、美園は困ったように笑った。
『途中で帰るわけないでしょ』
目の奥が熱くなる。
泣くにはまだ早い。
そう思って目元を指で押さえたが、一度浮かんだ涙は消えなかった。
『当日、どうなるんだろ』
陽菜より先に自分が泣いてしまうかもしれない。
樹里がスピーチを始めれば、きっと平静ではいられない。
美園は招待状を鏡の前へ立て掛けた。
毎朝、必ず目に入る場所だった。
◇
佐藤は自宅のテーブルで、招待状を最初から何度も読み返していた。
会社で毎日顔を合わせている二人から届いたものだ。
結婚することも、式が十月に決まったことも知っている。
それでも、自分の名前が記された封筒を受け取ると嬉しかった。
佐藤は出席の欄へ印をつけた。
そのあと、スマートフォンを手に取る。
「美園さん。招待状が届きました」
送信すると、間もなく返信が届いた。
『私にも届いたよ』
「もちろん出席されますよね」
『聞く必要ある?』
「ありませんでした」
『佐藤くんも来るんでしょ』
「はい」
『じゃあ、一緒に行こうか』
佐藤の手が止まった。
招待されたのは、それぞれ個人としてだ。
だが、美園の言葉は、二人で式へ向かうことを当たり前のように考えている。
「はい。一緒に行きたいです」
『決まりね』
短いやり取りを終えたあとも、佐藤は画面を見つめていた。
結婚式の日、美園はどのような服を着るのだろう。
普段の店で見せる姿とは、きっと違う。
その隣を、自分が歩ける。
佐藤にとっては、それだけで十分に楽しみだった。
「美園さん」
もう一通、送ろうとして手を止める。
綺麗でしょうね。
そう打ちかけた文章を消した。
当日、本人へ直接伝えればいい。
佐藤は招待状を傷つけないよう、机の引き出しへ大切にしまった。
◇
柚希は、玄関で封筒を見つけると、靴を脱ぐ前に差出人を確認した。
「陽菜さんからだ」
部屋へ入り、鞄を置く。
中から出てきた招待状を見た瞬間、自然と笑顔になった。
十月の土曜日。
会場までの地図。
受付時間。
すぐにスマートフォンを取り出し、零へ電話をかける。
「零ちゃん、もう家に着いた?」
「今、着いたところっす」
「郵便受け、見た?」
「まだ見てないっす」
「見てきて」
「今からっすか?」
「うん。大事なものが届いてるから」
「何すか?」
「見れば分かるよ」
通話をつないだまま、零が玄関へ戻っていく。
少し待つと、郵便受けを開ける音が聞こえた。
「あ」
「届いてた?」
「届いてるっす」
「結婚式、一緒に行こうね」
「まだ開けてないっすよ」
「でも行くでしょ?」
「行くっすけど」
「じゃあ決まり」
柚希は招待状を見ながら、当日の服を考え始めていた。
「零ちゃんは、何を着る?」
「そんなの、まだ分からないっす」
「今度、一緒に見に行こう」
「自分のもっすか?」
「当たり前でしょ」
「柚希さんが決めてくれるなら、助かるっす」
「じゃあ、私が選ぶ」
柚希は嬉しそうに答えた。
陽菜と中井を祝えることも。
その場所へ零と一緒に行けることも。
どちらも楽しみだった。
◇
電話を切ったあと、零は改めて封筒を開いた。
結婚式へ招待された経験は、ほとんどない。
綺麗な招待状をどう持てばいいのかさえ分からず、指先へ余計な力が入る。
中には、陽菜からの短い手紙も入っていた。
〈零、柚希ちゃんと絶対来てね〉
「絶対って」
零は小さく笑った。
少し前まで、自分は冬美の名前を見るだけで、身体が動かなくなっていた。
違法な改造はできないと告げたあとも、胸の中から怖さが消えたわけではない。
それでも、陽菜たちは何も問い詰めず、零が自分で断ったことを認めてくれた。
樹里は、店を守ったのは零だと言った。
陽菜は、もう一人で抱えるなと怒った。
美園は、怖かったことを恥じなくていいと教えた。
自分が三人と同じ場所に立っていいのか。
以前なら、そう考えていたかもしれない。
だが、陽菜は招待状の中で、来てほしいとは書かなかった。
絶対に来いと書いている。
「分かったっすよ」
零は出席の欄へ印をつけた。
少し曲がった丸を見て、書き直そうとする。
だが、すぐにやめた。
陽菜なら、これくらいの方が零らしいと言って笑う気がした。
◇
黒澤が帰宅すると、郵便受けに白い封筒が入っていた。
差出人を見た瞬間、以前の朝礼を思い出す。
「本当に送ってきたのか」
呼ばれたら行く。
そう答えた。
すると陽菜は、その場で呼ぶと決めていた。
封を開けると、正式な招待状が入っている。
黒澤は日付を確認し、自宅のカレンダーへ書き込んだ。
営業部から二人が同時に休む。
ほかの社員も大勢出席する。
業務の調整だけを考えれば、面倒な一日になる。
それでも、部長としてではなく、二人を見てきた一人として出席したかった。
「高槻の仕事を残したら、恨まれるな」
神谷と樹里の顔を思い浮かべる。
七月八日の最終契約。
それが終われば、十月まで案件を持ち越すことはない。
黒澤は迷わず出席へ印をつけた。
余白へ何か書こうとして、ペンが止まる。
結婚しても仕事は今までどおりだ。
そんな言葉しか思い浮かばない。
「式の日くらい、仕事を忘れさせるか」
書きかけた文字を消し、代わりに短く記した。
〈二人とも、おめでとう。当日を楽しみにしています〉
普段の自分には似合わない、真面目な文章だった。
◇
名古屋の自宅へ戻った青柳も、招待状を受け取っていた。
凛から、陽菜と中井が結婚することは聞いている。
招待されるとは思っていたが、実際に自分の名前が書かれた封筒を見ると、少し意外だった。
青柳は島川不動産の社員ではない。
陽菜と特別長い付き合いがあるわけでもない。
それでも、凛の隣にいる人間として、二人の大切な日に呼んでもらえた。
招待状を開いた直後、凛からLINEが届く。
「招待状、届きましたか?」
「今、開けたところです」
「私にも届きました」
「出席しますよね」
「青柳さんの予定は大丈夫ですか?」
「今から空けます」
「仕事が入るかもしれませんよ」
「入れません」
青柳はスマートフォンの予定表を開く。
「当日は、こちらから朝一番で向かいます」
「前日に来られませんか?」
「凛さんの家へ泊まってもいいなら」
返信が止まった。
少しして、短い文章が届く。
「構いません」
青柳は笑いながら、十月の日付へ予定を入れた。
「では、前日から伺います」
「待っています」
結婚式の予定が、青柳にとっては凛と過ごす予定にも変わっていた。
◇
凛は自宅のテーブルに、二通の封筒を並べていた。
一通は、陽菜と中井から届いた招待状。
もう一通は、青柳から以前届いた手紙だった。
離れて暮らしているため、会える日は限られている。
それでも二人の関係は、少しずつ同じ未来へ向かっている。
陽菜が中井の隣で笑う姿を思い浮かべる。
陽菜は、凛が自分の気持ちを決められずにいた頃から、何度も背中を押してくれた。
からかうことも多かった。
勝手に話を進められたこともある。
だが、陽菜が何も言わなければ、青柳との今はなかったかもしれない。
「陽菜さん、綺麗でしょうね」
誰もいない部屋で呟く。
その隣には、中井がいる。
自分の隣には、青柳が来る。
凛は出席の欄へ丁寧に印をつけた。
返信用の葉書を封筒へ戻したあと、もう一度取り出す。
余白に、小さく一文を書き足した。
〈お二人の晴れ姿を楽しみにしています〉
書き終えてから、少し堅すぎたかもしれないと思う。
だが、自分らしくない言葉へ変えることはしなかった。
◇
萌は、自宅の机で招待状を見つめていた。
宛名には、川原萌様と書かれている。
入社してから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。
それでも陽菜は、自分を結婚式へ招いてくれた。
職場で一緒だから仕方なく呼ばれたのではないか。
一瞬だけ、そんな考えが浮かぶ。
だが、招待状に添えられた短い紙を見て、その考えは消えた。
〈萌が来てくれたら嬉しい。仕事のことは忘れて楽しんでね〉
「陽菜先輩らしい」
萌は小さく笑った。
すぐに返信用の葉書を取り出す。
定規を使う必要はないと分かっていたが、文字の位置がずれないよう、机の端と葉書を揃えた。
御出席の「御」を二本線で消す。
そのあと、自分の住所と名前を丁寧に記入する。
余白へ祝いの言葉を書こうとして、何度か文章を考え直した。
最終的に残したのは、短い一文だった。
〈お招きいただきありがとうございます。心から楽しみにしています〉
書き終えた葉書を見て、萌は一度頷いた。
翌日の朝、出勤する前に投函する。
忘れないよう、鞄の上へ置いた。
◇
陸が封筒を開けたのは、夕食を終えたあとだった。
招待状だと分かった瞬間、座っていた椅子から立ち上がる。
「本当に来た」
会社で招待すると言われていた。
それでも、自分の名前が書かれた招待状を見ると、急に緊張する。
社会人になってから出席する、初めての結婚式だった。
服装。
祝儀。
受付での挨拶。
何を準備すればいいのか分からない。
陸はすぐにスマートフォンで調べ始めた。
途中まで読んだところで、手が止まる。
「まだ三か月以上あるだろ」
自分へ言い聞かせ、招待状へ戻る。
陽菜がドレスを着て、中井と並んでいる姿を想像する。
会社では、陽菜に助けられてばかりだった。
失敗すれば叱られた。
上手くできたときは、誰より先に気づいてくれた。
最近は、陽菜から仕事を任されることも増えている。
その人の大切な日を、自分も祝うことができる。
陸は迷わず出席へ印をつけた。
「絶対行きます、陽菜先輩」
本人のいない部屋で、声に出して答えた。
◇
彩花が自宅へ戻ると、郵便受けの中で白い封筒が目に入った。
部屋へ入り、封を開ける。
招待状に並んだ二人の名前を見て、彩花は僅かに口元を緩めた。
「本当に、中井と結婚するんだ」
中井が陽菜へ向けていた気持ちは、周囲が気づくほど分かりやすかった。
それに長い間気づかなかったのは、陽菜くらいだった。
今では一緒に暮らし、子どもを授かり、十月には夫婦になる。
時間が進む速さに、少しだけ置いていかれたような気持ちになる。
彩花は出席へ印をつけた。
そのあと、陽菜とのLINEを開く。
「招待状、届いた」
すぐに既読がつく。
『来てくれる?』
「まだ返事してない」
『来てよ』
「どうしようかな」
『彩花さん』
「冗談。行く」
『よかった』
「日高も、当然来るんでしょ」
『来るよ』
「スピーチさせるって話、本気?」
『本気』
「書けてるの?」
『知らない』
「絶対、まだ一文字も書けてないよ」
『何で分かるの』
「日高だから」
陽菜から、笑っている絵文字が送られてくる。
「当日、泣かせなさいよ」
『総長を?』
「そう」
『無理だよ。泣かないもん』
「どうだろうね」
彩花はスマートフォンを置いた。
誰より感情を見せない樹里が、陽菜の結婚をどのような言葉で祝うのか。
それも含めて、十月を楽しみにしていた。
◇
佳菜が帰宅したのは、外が暗くなってからだった。
郵便受けの中にある封筒を取り出し、宛名を見たところで足が止まる。
差出人には、陽菜と中井の名前が並んでいた。
結婚することは聞いている。
式が十月に決まったことも知らされていた。
それでも、陽菜とのやり取りは相変わらず短かった。
日付が決まった。
会場が決まった。
招待状を送る。
必要なことだけが、一つずつLINEで届いた。
佳菜も、それに必要な返事だけを返してきた。
部屋へ入り、明かりをつける。
鞄を置いても、封筒は手に持ったままだった。
綺麗に貼られた封を、破かないように開ける。
中から招待状を取り出す。
新郎。
中井。
新婦。
櫻井陽菜。
並んだ二人の名前を、佳菜は何度も目で追った。
妹が結婚する。
頭では分かっていたことが、印刷された文字になって目の前へ現れる。
佳菜は、招待状とは別に入っていた小さな紙を見つけた。
そこには、陽菜の字で一文だけ書かれていた。
〈よかったら、来て〉
「……よかったら、か」
責めるような言葉ではなかった。
だが、来てほしいと言い切れない距離を、その短い一文から感じ取った。
陽菜が十六歳のとき、両親が亡くなった。
佳菜は、姉として陽菜を守ろうとした。
食事を用意した。
生活費を管理した。
学校へ必要な手続きをした。
帰宅時間を確認した。
自分にできることは、すべてしているつもりだった。
だが、陽菜が何を考え、何を怖がり、誰に助けてほしいと思っているのか。
それを聞くことはできなかった。
姉らしくしなければならないと思うほど、妹との話し方が分からなくなった。
陽菜も、佳菜へ何も求めなくなった。
十八歳になると、陽菜は家を出た。
止めるべきだったのかもしれない。
一緒にいてほしいと言うべきだったのかもしれない。
だが佳菜は、そうした言葉を一つも口にできなかった。
今も同じだった。
おめでとう。
式へ行く。
幸せになってほしい。
伝えたいことはいくつもある。
それなのに、陽菜へ送る文章を考えると、どれも自分の言葉ではないように感じる。
佳菜は返信用の葉書を取り出した。
出席と欠席。
二つの選択肢を見つめる。
自分が行けば、陽菜を困らせるのではないか。
姉らしいことをしてこなかった人間が、親族として前に座っていいのか。
だが、欠席すれば、また同じことを繰り返す。
妹へ近づく方法が分からないから、自分から離れる。
そうしてきた結果が、今の距離だった。
佳菜はペンを取り、出席へ印をつけた。
余白へ祝いの言葉を書こうとする。
しかし、何も書けない。
陽菜が十八歳で家を出た日にも、同じだった。
気をつけて。
困ったら連絡して。
それしか言えなかった。
「姉なのに」
佳菜はペンを置いた。
招待状の隣には、陽菜が書いた短い紙がある。
〈よかったら、来て〉
その文字へ、指先で触れる。
「行くよ」
本人には届かない声で答えた。
佳菜は席を立ち、本棚の奥から古い卒業アルバムを取り出した。
中学校の卒業写真。
そこに写る自分の近くに、日高樹里がいた。
特別親しかったわけではない。
だが、樹里が陽菜のそばにいることは、以前から知っている。
陽菜が自分へ話せないことも、樹里になら話しているのかもしれない。
佳菜は卒業写真に写る樹里を見つめた。
妹のことを尋ねるためではない。
陽菜の知らないところで、姉らしい顔をするためでもない。
ただ、今まで陽菜のそばにいてくれた人へ、伝えたいことがあった。
佳菜はスマートフォンを手に取る。
すぐに連絡することはできなかった。
樹里の連絡先も、今は知らない。
それでも、会う方法を探そうと思った。
十月まで待つのではなく、その前に。
陽菜が人生の新しい場所へ進む前に。
一度だけ、日高樹里と話をしようと決めた。




