301話「同じものを見る」
翌朝。
樹里が島川不動産へ着くと、神谷はすでに駐車場で待っていた。
時刻は七時五十分。
営業部の始業までは、一時間以上ある。
「おはようございます」
『おはようございます』
「すみません。朝早くから」
『私が同行すると答えたのですから、謝る必要はありません』
「では、行きましょう」
神谷が運転席へ乗り、樹里は助手席へ座った。
車が駐車場を出る。
普段なら、高槻興産へ向かう車内で、その日の確認事項を話している。
だが今日は、二人ともすぐには口を開かなかった。
昨日までの意見の違いが、まだ二人の間に残っている。
「日高さん」
『はい』
「現場を見たあとで、昨日と同じ結論になっても構いません」
『そのつもりです』
「最初から考えを変えるつもりがない、という意味ではありませんよね?」
樹里が神谷を見る。
『神谷さんは、私を説得するために連れていくのですか?』
「違います」
『でしたら、私も現場を見て判断します』
「分かりました」
『ただし、判断が変わるとは限りません』
「はい」
それだけ確認すると、再び会話が途切れた。
車は高槻興産の北側区画へ向かう。
敷地へ到着した頃には、すでに作業が始まっていた。
仮囲いの内側から、金属を叩く音が聞こえる。
資材を運ぶ車両が搬入口へ入り、誘導員の指示を受けながら、ゆっくりと後退していた。
神谷と樹里はヘルメットを受け取り、現場監督の案内で中へ入った。
「昨日はありがとうございました」
「こちらこそ。工程を組み替えた場合の試算ですが、まだ途中です」
「午前中に分かれば大丈夫です」
現場監督が樹里を見る。
「こちらが、昨日お話しした日高さんです」
『島川不動産の日高です。本日はよろしくお願いいたします』
「よろしくお願いします」
樹里は現場全体を見渡した。
書類では、北側区画という一つの案件だった。
だが、目の前にある工事は、一つの作業だけで進んでいるわけではない。
床を作っている場所。
配管を通している場所。
壁材が積まれたまま、作業員が一人もいない場所。
複数の工程が、異なる場所で同時に進められている。
『昨日より、人が少ないのですか?』
「いいえ。同じです」
現場監督が答えた。
「本来は、もう一組入る予定でした。今週から六人増えるはずだったんです」
『その六人が、別の現場へ移ったのですね』
「はい」
「現在の人数でも、予定どおり進められる場所はどこですか?」
神谷が尋ねる。
「こちらです」
現場監督は工程表を開き、二人へ示した。
「この三つの区画は、今の人数でも予定どおり進みます。問題は、奥の四区画と共用部分です」
『再整備後に戻る七社のうち、どの会社が使用する区画ですか?』
「一社目、三社目、五社目がこちらです。残りの四社は奥になります」
樹里は手元の資料と照らし合わせた。
『奥の四社が、現在の物件を退去するのはいつですか?』
「すべて七月末です」
神谷が答える。
『引き渡し予定は七月二十六日です』
「はい」
『今のままでは、間に合わない可能性が高いのですね』
「そうです」
現場監督は短く答えた。
樹里は、作業が止まっている区画へ視線を向けた。
誰かが怠けているわけではない。
作業員は、それぞれ自分の持ち場で動き続けている。
それでも、現在の人員では足りない。
書類には、必要人員と現在の人員の差が数字で記載されていた。
だが、その差によって何が起きるのかを、樹里は初めて自分の目で見た。
配管作業をしていた男性が立ち上がり、額の汗を腕で拭った。
もう一人の作業員と短く言葉を交わし、奥の区画へ移動する。
同じ人間が、複数の場所を行き来している。
『一人の方が、別の区画も担当しているのですか?』
「資格が必要な作業は、できる人間が限られています」
『こちらの作業を止めて、向こうへ移動しているということですか?』
「はい。今はそれで回しています」
「この状態が続けば、誰かが休んだだけでも止まりますか?」
神谷の問いに、現場監督は頷いた。
「止まります」
樹里は何も言わなかった。
現場監督が続ける。
「本社が出した増額のやり方が正しいとは思っていません。ただ、人を確保するための金が必要なのは事実です」
『増額される労務費は、すべて新しく確保する作業員へ支払われるのですか?』
「それは、俺には分かりません」
『現場へ配分される金額も分からないのですか?』
「本社からは、人員確保のためとしか聞いていません」
『では、提示された金額を支払っても、現場へ必要な人数が入る保証はないのですね』
「はい」
樹里は神谷を見る。
神谷も同じことを考えているらしく、表情を硬くしていた。
「必要な人数と期間を、現場から出していただくことはできますか?」
「本社の許可があれば」
「一人当たりの単価までは必要ありません。どの資格を持つ人が、何人、何日必要なのか。それだけで構いません」
「それなら出せると思います」
『その人数が確保されたことを、現場で確認することもできますか?』
「入場記録があります。誰が、何日に入ったかは残ります」
『でしたら、増員が確認できた分だけ支払う方法は取れます』
現場監督が樹里を見る。
『先に全額を支払うことはできません。ですが、当初の計画にはなかった人員が実際に入り、その方々を確保するために通常より高い単価を支払う必要があるのなら、その分は協議の対象にできます』
「日高さん」
神谷が呼ぶ。
『何ですか?』
「昨日は、その支払いも認めないとおっしゃっていませんでしたか?」
『現場へ人員が必要なことは確認できました』
「では、増額自体には合意できるということですか?」
『必要な人員が入り、工程を守るために使われたと確認できる部分だけです』
「分かりました」
『まだ案の段階です』
「それでも、昨日より進みました」
神谷の表情が僅かに緩んだ。
樹里はそれには答えず、現場監督へ視線を戻した。
『資材費について伺ってもよろしいでしょうか』
「はい」
『今回、増額対象とされた資材の中に、すでに搬入されているものがあります。こちらです』
樹里は一覧を見せた。
現場監督は該当する資材を確認する。
「これは、先月までに入っています」
『現在の価格で仕入れたものではありませんね』
「少なくとも、現場へ届いたのは値上がり前です」
『増額対象に含めるよう、現場から依頼しましたか?』
「していません」
『誰の判断でしょうか』
「本社です」
『理由は聞いていますか?』
「全体の利益が減る分を、材料費で調整すると聞きました」
神谷の目が変わった。
「利益の調整ですか?」
「俺から聞いたとは言わないでください」
現場監督が声を落とす。
「最初の見積もりが低すぎたんです。仕事を取るために、ぎりぎりまで下げた。人件費が上がらなくても、利益はほとんど残らなかったと思います」
『見積もりを低く設定したのは、施工会社側の判断です』
「はい」
『その不足分を、価格上昇に含めて高槻興産へ負担させようとしているのですね』
「そうだと思います」
樹里は一覧を閉じた。
人が足りないことは事実だった。
新たな費用が必要になることも、否定できない。
だが、その事実を利用し、施工会社自身の見積もり不足まで補おうとしている。
昨日まで一つに見えていた増額要求には、異なる理由が混ざっていた。
現場を止めないために必要な金。
施工会社の利益を守るために上乗せされた金。
同じ追加費用として扱うべきものではなかった。
「日高さん」
『はい』
「一度、外で整理しましょう」
『分かりました』
二人は現場監督へ礼を言い、作業区画の外へ出た。
仮囲いから少し離れた場所で、神谷が足を止める。
「人員を確保するための追加費用は認める」
『実際に増員された分だけです』
「出来高ではなく、入場記録を基準にしましょう。資格と人数、作業日数を確認する」
『通常の単価との差額も、根拠を出していただきます』
「はい」
『すでに発注、搬入されている資材の増額は認めません』
「認める理由がありません」
『未発注の資材については、四月時点との価格差を確認します』
「実際の仕入れ価格が上がっていれば、その分だけ協議する」
『はい』
「夜間作業については?」
『実施前に、必要性と人数を申請していただきます。予定どおり進めば支払いません』
「同意します」
二人の意見の違いが、一つずつ狭まっていく。
樹里は工程表を開いた。
『工事の順番を変える案は、増員できなかった場合の予備として残します』
「先に七社の専有区画を完成させ、共用部分の一部を後ろへ回す」
『ただし、営業開始に必要な安全性が確保できる範囲です』
「設計側の確認が必要ですね」
『高槻興産にも、共用部分の完成が遅れる可能性を説明しなければなりません』
「増員できれば、当初の工程を優先します」
『できなかった場合は、順番を変えて七社への影響を抑える』
「これなら、どちらになっても工事を止めずに済みます」
神谷が手帳へ書き込む。
樹里はその横で、必要な条件を整理した。
昨日、二人は異なる答えを見ていた。
神谷は、人を動かそうとしていた。
樹里は、守るべき線を引こうとしていた。
どちらか一方だけでは、今の案は生まれなかった。
「日高さん」
『はい』
「来ていただいて、ありがとうございました」
『礼を言われることではありません』
「それでも、昨日の俺の説明だけでは、ここまで条件を絞れなかったと思います」
『私も、資料だけを見ていれば、労務費まですべて拒否していました』
神谷が顔を上げる。
樹里が、自分の見方が足りなかったと認めることは珍しかった。
『人が足りないことは、数字にも記載されていました』
「はい」
『ですが、私は、それによって何が止まるのかを見ていませんでした』
「俺は反対に、現場を止めたくないという気持ちで、数字の不自然さを軽く考えていました」
『では、お互いに確認が足りなかったということです』
「そうなりますね」
『これで終わりではありません』
「分かっています」
神谷は僅かに笑った。
「日高さんは、もう少し喜んでもいいと思います」
『まだ施工会社が受け入れると決まっていません』
「それでも、二人の案はできました」
『黒澤部長へ報告してからです』
「では、会社へ戻りましょう」
そのとき、神谷の電話が鳴った。
画面に表示された名前を確認し、すぐに応答する。
「はい。神谷です」
「神谷。日高も一緒か」
高槻社長の声だった。
「はい。現在、北側区画の現場にいます」
「施工会社から追加費用を求められているそうだな」
「ご連絡が遅くなり、申し訳ありません。内容を確認してからご説明する予定でした」
「それで、確認は終わったのか」
「まだ必要な資料は残っています。ただ、こちらから提示する案はまとまりました」
「お前の案か」
「日高と二人で作った案です」
電話の向こうで、高槻社長が短く息を吐いた。
「なら、二人とも明日の朝、本社へ来い」
「施工会社も同席しますか?」
「呼んだ。向こうの担当役員と、見積もりを作った人間を連れてこさせる」
「分かりました」
「神谷」
「はい」
「工期を守るためなら金を出せと、簡単に言うつもりはない」
「はい」
「だが、契約どおりにやれと紙を突きつけて、現場が止まるのも困る」
樹里にも聞こえるよう、神谷は通話をスピーカーへ切り替えた。
「日高。お前も聞いているな」
『はい』
「施工会社を責めるだけの話を持ってくるな」
『承知しました』
「神谷。相手の事情を聞くだけで終わるな」
「承知しました」
「どちらも守れると言うなら、数字と手順で見せろ」
「はい」
『はい』
「明日の九時だ。遅れるな」
通話が切れる。
神谷はスマートフォンをしまい、樹里を見た。
「厳しい席になりそうですね」
『想定していたことです』
「緊張しませんか?」
『神谷さんは、されているのですか?』
「しています」
『そうは見えません』
「日高さんの隣で顔に出すと、余計に頼りなく見えそうなので」
『そのようには思いません』
神谷は一瞬、言葉を止めた。
樹里は工程表を閉じ、歩き始める。
『戻りましょう。今日中に提案書を作成します』
「二人で、ですよね?」
樹里が足を止める。
『そのつもりですが』
「確認しただけです」
『神谷さんが工程と人員について作成してください。私は金額と支払い条件をまとめます』
「完成したら交換して確認しましょう」
『はい』
二人は並んで車へ戻った。
会社へ着くと、黒澤が二人を会議室へ呼んだ。
神谷が現場の状況を説明し、樹里が増額項目の問題を報告する。
そのあと、二人で作った案を机の上へ置いた。
「追加する人員の資格、人数、作業日数を先に決めます」
神谷が言う。
『入場記録と実際の支払いを確認し、条件を満たした分だけ追加費用を支払います』
「増員できなかった場合は、七社の専有区画を優先する工程へ変更します」
『すでに発注された資材と、施工会社の見積もり不足に当たる金額は認めません。未発注の資材は、実際の価格差だけを対象とします』
黒澤は二人の説明を最後まで聞いた。
「昨日は、あれだけぶつかってたのにな」
「現場を見て、分かったことがありました」
『資料を確認して、分かったこともあります』
「どっちの案になった?」
神谷と樹里が顔を見合わせる。
「どちらの案でもありません」
神谷が答えた。
『二人で確認して、作り直した案です』
黒澤は僅かに笑った。
「それならいい」
提案書を二人へ返す。
「明日、俺も行く」
「同席していただけるのですか?」
「最後まで見るのが部長の仕事だからな」
黒澤は椅子から立った。
「ただし、説明は二人でやれ。俺は余計な口を出さない」
「分かりました」
『承知しました』
「施工会社が簡単に受け入れるとは思うなよ」
『そのための根拠を揃えます』
「高槻社長も、味方とは限らないからな」
「分かっています」
黒澤が会議室を出る。
二人だけが残った。
神谷は提案書の工程部分を開き、樹里の方へ向けた。
「ここから先は、一つずつ詰めましょう」
『はい』
「今夜は長くなりそうですね」
『終わるまで行います』
「そう言うと思いました」
『神谷さんこそ、帰るつもりはないのでしょう』
「日高さん一人を残して帰れば、明日の朝、提案書がまったく別のものになっていそうですから」
『勝手に変更はしません』
「本当ですか?」
『必要があれば、相談します』
神谷は小さく笑った。
「それなら安心しました」
二人は並んで資料へ視線を落とした。
守ろうとしているものは、最初から違っていたわけではない。
見ている場所が違っていただけだった。
数字だけでは、人は動かない。
人の事情だけでは、契約は守れない。
片方を捨てて選ぶのではなく、両方を残すための条件を作る。
それが、二人で出した最初の答えだった。




