300話「数字の外側」
午後三時を過ぎた頃、施工会社から追加費用の内訳が届いた。
添付されていたのは、十数枚に及ぶ見積書と価格表だった。
鋼材。
配管資材。
燃料費。
運搬費。
人員確保に伴う追加の労務費。
項目ごとに金額は記載されているが、それだけでは増額が妥当か判断できない。
樹里はすぐに当初の見積書を隣へ並べた。
『神谷さん。資料が届きました』
「こちらにも届いています」
『私が資材費と運搬費を確認します。神谷さんは労務費をお願いできますか?』
「分かりました」
二人の間に、昨日の対立が残っていないわけではない。
それでも、仕事の進め方まで崩すつもりはなかった。
神谷は増員計画と工程表を開き、樹里は資材ごとの単価を比較する。
当初の見積もりが作られたのは、四月の初めだった。
そこから現在までに価格が上がっているものは、確かにある。
だが、すべてを現在の価格で計算してよいわけではない。
樹里は納品予定表を確認し、施工会社から過去に提出された発注記録を探した。
四月中に発注されたもの。
五月に納品されたもの。
すでに現場へ搬入されているもの。
それらまで、今回の価格表を基準に増額されていた。
『おかしい』
小さく漏れた声に、陽菜が顔を上げる。
『何かあったんですか?』
『施工会社が増額の根拠として出した資材のうち、半分以上はすでに発注されています』
『値上がりする前に?』
『はい。少なくとも、この単価で仕入れたとは考えられません』
樹里は該当する項目へ印をつけていく。
当初の見積書。
資材の発注日。
今回提示された価格表。
三つを並べると、違いは明らかだった。
「日高さん。こちらも一ついいですか?」
神谷が声を掛ける。
『はい』
「追加の労務費に、夜間作業の割増分が含まれています」
『夜間作業の予定はありましたか?』
「現時点ではありません。ただ、遅れている工程を取り戻すには必要になると書かれています」
『現在、工程は遅れていません』
「はい」
『今後発生するかもしれない費用まで、先に高槻興産へ負担させるつもりですか』
「少なくとも、このまま認めることはできません」
神谷は項目へ印をつけた。
「ただ、人員確保に関する部分は、資料だけでは分かりません。予定していた協力会社が入れなくなり、別の作業員を確保するために単価が上がったとあります」
『協力会社が入れなくなった理由は書かれていません』
「現場監督に直接確認します」
『施工会社の本社を通さずにですか?』
「本社から出てくる説明と、現場で起きていることが同じとは限りません」
樹里は一瞬だけ神谷を見た。
昨日であれば、その確認に掛かる時間を先に考えていたかもしれない。
だが今は、書類に記載されていない理由が、この案件を何度も動かしてきたことを知っている。
『いつ行かれますか?』
「今日、これから行きます」
『高槻興産には?』
「現場だけ確認します。増額の話は、まだしません」
『分かりました』
「日高さんも来ますか?」
『私は、こちらの確認を終わらせます』
「そうですか」
神谷は短く答え、必要な資料を鞄へ入れた。
樹里が同行しないことへ、不満を見せたわけではない。
それでも、その声は普段より僅かに硬かった。
「黒澤部長。現場を確認してきます」
「一人で行くのか?」
「はい。先方とは約束が取れています」
「分かった。何か分かったら連絡をくれ」
「はい」
神谷は営業部を出ていった。
扉が閉まったあと、陽菜が樹里の方を見る。
『日高先輩』
『何ですか?』
『神谷さんと、喧嘩してるんですか?』
『していません』
『昨日から、二人とも怖いです』
『仕事上で意見が違うだけです』
『それを喧嘩って言うんじゃないですか?』
『言いません』
『じゃあ、何て言うんですか?』
『協議です』
『声が大きくなる協議なんですね』
陽菜の言葉に、中井が小さく咳払いをした。
「陽菜さん」
『何?』
「今は、日高さんを困らせない方がいいと思います」
『困らせてないよ』
『櫻井さん』
樹里が低い声で呼ぶ。
『はい。仕事します』
陽菜は素直に自分の席へ戻った。
だが、書類へ視線を落とす前に、もう一度だけ樹里を見る。
樹里は何事もなかったように、見積書の確認を再開していた。
それから一時間。
樹里は追加費用の項目を三つに分けた。
価格上昇の根拠を確認できるもの。
さらに証拠が必要なもの。
支払う根拠がないもの。
完全に否定できる増額だけでも、施工会社が提示した金額の三分の一近くになる。
残りについても、そのまま受け入れることはできない。
特に資材費は、実際に仕入れた時点の納品書が必要だった。
『佐藤さん』
「はい」
『施工会社へ、こちらの資料を送っていただけますか?』
「確認資料の請求ですか?」
『はい。発注日と納品日、それから実際の仕入れ価格が分かる書類を求めてください。今日中の提出が難しければ、いつ出せるかだけでも回答をお願いします』
「分かりました」
『それと、すでに現場へ搬入されている資材は、今回の増額対象から外すよう伝えてください』
「そこまで先に伝えても大丈夫でしょうか?」
『発注時の価格が確認できていない以上、現在の価格表を適用する理由がありません』
「承知しました」
佐藤は樹里から資料を受け取った。
その途中、書類に付けられた印へ目を落とす。
「一つずつ、すべて確認されたんですか?」
『はい』
「この短時間で?」
『発注記録は以前、川原さんが整理しています。そこから該当するものを探しただけです』
「分かりました。すぐに送ります」
佐藤が自分の席へ戻る。
少し離れたところで、萌が驚いたように樹里を見ていた。
自分が整理した資料が、今になって増額要求を見抜くために使われるとは思っていなかったのだろう。
樹里はその視線に気づいた。
『川原さん』
「はい」
『発注記録が整理されていたので、確認に時間が掛かりませんでした。ありがとうございます』
「いえ。私は、言われたとおりに分けただけです」
『必要なときに使える状態へするのが、資料整理です。助かりました』
「……はい」
萌は小さく頭を下げた。
そのあとは何も言わず、自分の机にある資料の並びをもう一度確認していた。
夕方。
神谷は再整備工事が進む北側区画を訪れていた。
建物の周囲には仮囲いが設置され、搬入口には資材を載せた車両が停まっている。
現場監督は神谷を事務所へ案内した。
「突然申し訳ありません」
「いえ。本社から、追加費用の件で確認に来られると聞いています」
「今日伺ったことを、そのまま高槻興産へ伝えるつもりはありません。まずは、実際に何が起きているのか教えてください」
現場監督はすぐには答えなかった。
机の上に置かれた工程表へ視線を落とす。
「本社からは、人員の確保が難しくなったと説明を受けています」
「間違いではありません」
「予定していた協力会社が入れなくなった理由は何ですか?」
「別の現場へ回りました」
「なぜですか?」
「向こうの方が、単価が高かったからです」
神谷は黙って続きを待った。
「この仕事を請けたときとは、人の取り合いが違います。作業員が足りません。特に、資格を持っている人間は、金額の高い現場へ持っていかれます」
「当初の人員で続けることはできないのですか?」
「残ってくれている人間だけなら、最低限は動かせます。ただ、今の工程は守れません」
「どれくらい遅れますか?」
「正確には言えません。二週間で済むか、一か月掛かるか」
一か月。
その言葉が、神谷の中で重く残った。
再整備後の入居日を前提に、七社は現在の物件を退去する。
工期が一か月ずれれば、仮の営業場所や倉庫を用意しなければならない会社も出てくる。
機材の搬入日も、社員の勤務先も変わる。
十七社との合意を、一部から組み直すことになる。
「夜間作業の費用も追加されています」
「人が揃うなら、遅れた分を夜に取り戻すことになります」
「現時点では遅れていません」
「今いる人間が抜けなければ、です」
「さらに人が抜ける可能性があると?」
「あります」
現場監督は疲れた表情で答えた。
「本社のやり方が正しいとは言いません。契約の直前に追加を出せば、そちらが断りにくいことも分かっているでしょう」
「それでも、現場には金が必要だと?」
「俺たちは、材料があっても人がいなければ作れません」
事務所の外から、金属を切断する音が聞こえる。
神谷は窓越しに現場を見た。
作業員たちは手を止めていない。
人数が少ないように見えるかと問われれば、神谷には判断できなかった。
だが、予定表に記載された人数より少ないことだけは確認できる。
「追加費用がすべて認められれば、工程は守れますか?」
「すべて、とは言い切れません」
「理由を教えてください」
「金を出せば、必ず人が来るわけではないからです」
神谷は現場監督を見る。
「では、追加費用を支払っても、遅れる可能性があるということですか?」
「あります」
「それは、本社も把握していますか?」
「伝えています」
施工会社が提示した書面には、その可能性は書かれていなかった。
増額が認められなければ、人員の確保が難しい。
そう記載されているだけだった。
金額を受け入れれば工期を守れるとは、どこにも書かれていない。
「必要な人員数と、現在確保できている人数を教えていただけますか?」
「本社を通してください」
「現場からは出せませんか?」
「勝手に出せば、俺が処分されます」
「分かりました」
神谷はそれ以上求めなかった。
「最後に、一つだけ教えてください」
「何でしょうか」
「今の人数でも、工程を組み替えれば遅れを小さくすることはできますか?」
現場監督は工程表を見つめた。
「全部を予定どおり進めるのは無理です」
「全部でなくても構いません」
「どういう意味ですか?」
「七社が営業を始めるために必要な区画を先に完成させる。共用部分や、入居後でも工事ができる場所を後ろへ回すことはできませんか?」
現場監督の指が工程表の上を動く。
「できないことはありません。ただ、施工の順番が変われば、別の費用が掛かります」
「一か月の遅れよりは少ないですか?」
「そこまでは、計算しないと分かりません」
「明日までに計算できますか?」
「本社の許可があれば」
「許可はこちらから取ります」
神谷は席を立った。
「現場を見せていただけますか?」
「分かりました」
事務所を出て、現場監督の案内で区画内を歩く。
すでに壁が作られている場所。
まだ配管が露出している場所。
資材だけが置かれ、作業が始まっていない場所。
書類の工程表では一つの線で表されていた工事が、現場ではいくつもの作業に分かれていた。
神谷は作業の順番と、入居する会社の場所を一つずつ確認した。
日が落ちる頃、神谷は会社へ戻った。
営業部には、まだ多くの社員が残っている。
樹里も自分の席で資料を見ていた。
「戻りました」
『お疲れさまです』
「日高さん。少しいいですか?」
『はい』
神谷は現場で聞いた内容を説明した。
協力会社が別の現場へ移ったこと。
資格を持つ作業員が不足していること。
追加費用を支払っても、人員が確保できる保証はないこと。
そして、工事の順番を変える案を現場監督へ確認させていること。
樹里は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
『増額を受け入れても、工期を守れるとは限らないのですね』
「はい。そこは、俺も施工会社へ確認する必要があると思います」
『でしたら、なおさら今の要求は受け入れられません』
「今のままでは、です」
『まだ支払う可能性を残すのですか?』
「実際に人件費が上がっていることは事実です」
『しかし、人員を確保できる保証はありません』
「保証がないから、払わない。それで人が抜ければ、確実に遅れます」
『支払っても遅れる可能性があります』
「だから条件をつけるんです」
『どのような条件ですか?』
「増額分を一度に支払わず、必要な人員が確保された段階で支払う。予定した工程を達成できなければ、残りは支払わない」
『出来高に応じた支払いですか?』
「はい。それなら、先方に人を確保する理由を作れます」
『すでに価格を上げて計算されている資材費については?』
「そこは認めません。日高さんの確認が正しいと思います」
『夜間作業の費用も、現時点では発生していません』
「それも外します」
樹里は黙って神谷を見た。
昨日までの神谷は、工期を守るために一部の増額を受け入れるべきだと考えていた。
今も、その考え自体は変わっていない。
だが、施工会社の要求をそのまま受け入れるつもりでもなかった。
『出来高の基準を、誰が確認しますか?』
「高槻興産、施工会社、島川不動産の三者で確認します」
『当社に施工の専門知識はありません』
「現場監督と、設計側にも入ってもらいます」
『先方が人員を確保できなかった場合、工事の順番を変えるのですか?』
「その案も用意します」
『二つを同時に提示すれば、施工会社は増額を断られた場合でも逃げ道があると考えます』
「逃げ道ではありません。工事を止めないための別案です」
『結果として、先方の責任を曖昧にします』
「日高さんは、やはり契約違反として押し切るつもりですか?」
『押し切るのではありません。契約どおりに履行を求めます』
「その結果、現場の人間がいなくなってもですか?」
『それを防ぐ責任は施工会社にあります』
「責任を指摘して、人が戻るわけではありません」
『金を出しても、戻る保証はないと神谷さんがおっしゃったのではありませんか?』
「何もしないより、戻る可能性はあります」
『可能性のために、契約にない金額を支払うのですか?』
「現場を動かすためです」
『同じことです』
二人の声が再び硬くなる。
黒澤は自分の席から二人を見たが、今度は止めなかった。
陽菜も何も言わない。
昨日とは違い、二人が感情だけで言い争っているのではないと分かっていた。
神谷は現場で聞いた事情を守ろうとしている。
樹里は、十七社と高槻興産が不当な負担を負わない線を守ろうとしている。
どちらかへ味方をすれば済む話ではなかった。
「日高さん」
『はい』
「明日の朝、俺と現場へ来てください」
『何のためですか?』
「今の資料だけで、支払う根拠がないと判断するためです」
『資料にないものを見ても、契約の根拠にはなりません』
「それでもです」
『私は、現場へ行かなくても数字を確認できます』
「数字を確認するためではありません」
神谷は樹里から視線を逸らさなかった。
「その数字の外で、誰が働いているのかを見てほしいんです」
樹里の眉が僅かに動く。
「日高さんの判断が間違っているとは言いません。俺の案が正しいとも思っていません」
『では、なぜ私が行く必要があるのですか?』
「二人で一つの案を作れと、黒澤部長に言われたからです」
『それだけですか?』
「違います」
神谷は一度言葉を止めた。
「俺だけが現場を見て、日高さんだけが数字を見る。そのままでは、どちらかが相手を説得するだけになります」
樹里は答えなかった。
「俺は、日高さんが見つけた不自然な増額を確認します。ですから日高さんも、俺が見たものを見てください」
営業部に残る音の中で、二人の間だけが静かだった。
『何時ですか?』
「午前八時です」
『現地集合でしょうか?』
「会社から車で向かいます」
『分かりました』
「来ていただけますか?」
『はい』
樹里は手元の見積書を閉じた。
『ただし、現場を見たことで、不当な増額を認めるつもりはありません』
「分かっています」
『神谷さんも、数字を確認した結果によっては、増額を一切認めない可能性を受け入れてください』
「受け入れます」
二人はそこで会話を終えた。
意見は、まだ合っていない。
それでも初めて、互いが立っている場所へ足を運ぶことだけは決まった。
明日の朝。
樹里は、契約書の外にある現場を見る。
神谷は、現場の事情だけでは動かせない数字を見る。
二人のどちらかが折れるためではない。
どちらの守ろうとしているものも失わない答えを、見つけるためだった。




