299話「譲れない線」
翌朝。
神谷のもとへ、移転先物件の貸主から覚書が届いた。
前日に協議したとおり、内装工事が七月五日までに完了した場合は、六日の午前中に鍵を引き渡す。
間に合わなかった場合は、貸主と施工会社の負担で機材の一時保管場所を用意し、再配送に掛かる費用も負担する。
署名と押印を確認した神谷は、その書類を樹里へ渡した。
「日高さん。届きました」
『確認します』
樹里は覚書を受け取り、最初から最後まで目を通した。
日付。
物件名。
負担の範囲。
工期が遅れた場合の責任。
昨日まで曖昧だった部分が、すべて文章になっている。
『問題ありません』
「これで、十七社すべての条件が揃いましたね」
『はい。あとは最終契約書へ反映させ、各社に確認を取れば完了です』
神谷は小さく息を吐いた。
喜ぶには、まだ早い。
それでも四月から一つずつ積み上げてきたものが、ようやく同じ場所へ揃った。
移転する会社。
再整備後に戻る会社。
契約を終える会社。
それぞれが異なる事情を抱え、求める条件も違っていた。
十七社すべてが不満を持たない結果など存在しない。
それでも、失うものをできるだけ少なくし、次へ進むための形を作ってきた。
「最終契約は、七月八日になりました」
『高槻興産から連絡があったのですか?』
「先ほど、高槻社長から直接いただきました」
『分かりました。それまでに、全資料を再確認します』
「俺も確認します」
『神谷さんは、高槻興産へ提出する説明資料をお願いします。契約書はこちらで見ます』
「また一人で全部見るつもりですか?」
『全部ではありません』
「十七社分の契約書は、十分に全部です」
『最終確認です。途中まで複数人で確認しているため、それほど時間は掛かりません』
「それでも、日高さん一人に任せる理由にはなりません」
樹里は神谷を見た。
以前なら、必要ないと返していた。
自分が見た方が早い。
自分なら間違えない。
そう考え、誰かに渡す時間すら惜しんでいた。
だが、今の神谷は、樹里が断ることを予想したうえで立っている。
『では、九社を私が見ます。残りの八社をお願いできますか?』
「はい」
『確認後、交換してもう一度見ましょう』
「分かりました」
二人の会話を聞いていた黒澤が、自分の席から立ち上がった。
「神谷。日高さん。少しいいか?」
「はい」
『はい』
「櫻井さんたちも集まってくれ。高槻の件で、一度共有しておきたい」
黒澤の声を受け、営業部の視線が集まる。
陽菜、中井、佐藤、陸、萌が、手元の作業を止めた。
会議室へ移動するほどではないらしく、黒澤は営業部の中央へ立った。
「高槻興産の北側区画について、最終契約の日程が決まった」
部内の空気が僅かに変わる。
「七月八日だ。昨日の覚書も締結された。残っていた条件は、これで全部揃った」
『じゃあ、本当にあと少しなんですね』
陽菜が言う。
「ああ。契約が終わるまでは気を抜けないけどな」
黒澤は、机の上に並んだ資料を見渡した。
「今回の案件は、土地や建物を一つ売って終わりじゃない。十七社の既存契約を整理して、移転先を探し、移転後の契約を結ぶ。戻ってくる会社については、新しい区画の賃貸契約と、その後の管理まで続く」
陸と萌が真剣な表情で聞いている。
「移転先の仲介手数料。新規区画の募集。再整備後の賃貸借契約。それに、長期の管理契約。今期だけの売上で見ても大きいが、この先、何年も会社へ利益を残す案件になる」
「会社としても、過去最大規模ですか?」
中井が尋ねた。
「少なくとも、俺が入社してからは最大だ。単純な契約金額だけじゃない。これだけ多くの会社をまとめて任された実績は、次の仕事にもつながる」
黒澤はそこで一度言葉を切った。
「だからこそ、最後まで雑に終わらせるな。十七社分の契約書に、一つでも間違いがあれば、ここまで積み上げた信用が崩れる」
『はい』
陽菜が答え、陸と萌も続いた。
「はい」
「分かりました」
「ただし」
黒澤が付け加える。
「ここまで来たのは、神谷と日高さんだけの力じゃない。櫻井さん、中井、佐藤。それから山本と川原も、自分たちが関わった仕事だと思ってくれ」
萌が少しだけ目を見開いた。
自分の名前まで出るとは思っていなかったのだろう。
隣にいる陸も、姿勢を正した。
『部長』
陽菜が黒澤を見る。
『終わったら、打ち上げですよね?』
「もちろんだ。これだけ働かせて、何もなしで終わらせたら俺が刺される」
『誰にですか?』
「主に櫻井さんに」
『刺さないですよ。高いお店を予約させるだけです』
「そっちの方が怖いな」
張り詰めていた空気が、僅かに緩んだ。
黒澤は笑いながら自分の席へ戻る。
陽菜も資料へ手を伸ばした。
その横で、萌が小さく息を吐く。
『緊張した?』
「少しだけです」
『まだ終わってないけど、萌が考えた管理費の分け方、ちゃんと契約に入ってるからね』
「はい」
『あれがなかったら、七社の合意は取れてなかったかもしれないよ』
「でも、日高さんと神谷さんが整えてくださったので」
『最初に案を出したのは萌でしょ。そこは自分の仕事にしていいの』
萌は返事をせず、手元の資料を見た。
だが、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
陸はその隣で、十七社分の確認表を開いている。
『陸』
「はい」
『午後の確認、一社付き合って』
「どちらの会社ですか?」
『機材の移転が七月以降になるところ。先方から契約書が届いたら、メーカーの回答と日付が合ってるか一緒に見て』
「分かりました」
『見つけても、すぐ直さないでね』
「はい?」
『まず、あたしに説明して。何が違って、どこを直す必要があるのか』
「……分かりました」
『ちゃんと聞くから』
「はい」
陸は確認表へ付箋を貼った。
言われた内容だけを書き留めるのではなく、すでにメーカーの回答書を隣へ並べている。
陽菜はそれを見たが、何も言わなかった。
ただ、自分の資料を少しだけ陸の方へ寄せた。
午前十一時を過ぎた頃。
樹里と神谷は、十七社分の最終契約書を分けて確認していた。
大きな修正はない。
社名の表記。
契約期間。
移転日。
費用負担。
一つずつ確認し、付箋を外していく。
その途中で、神谷の電話が鳴った。
「はい。島川不動産、神谷です」
相手の話を聞きながら、神谷の表情が変わる。
「それは、いつ決まったことでしょうか」
樹里が手を止めた。
「先週の段階では、当初の見積もりどおり進められると伺っていました」
神谷は立ち上がり、手帳を開く。
「金額の根拠となる資料はありますか」
短い沈黙。
「分かりました。まずは書面で送ってください。ただし、その金額を高槻興産が負担するかどうかは、現時点ではお約束できません」
電話を切ったあとも、神谷はしばらく立ったままだった。
『施工会社ですか?』
「はい」
『何がありましたか?』
「資材費と人件費、それから燃料費の上昇を理由に、追加費用を求めています」
『いくらですか?』
神谷が金額を答える。
樹里の目が細くなった。
小さな追加ではない。
北側区画全体の工事費から見れば一部でも、島川不動産がその場で受け入れられる額ではなかった。
『当初の見積もりに、価格変動に関する条項はありますか?』
「一定以上の急激な変動があった場合は、双方協議となっています」
『では、施工会社が一方的に金額を決めることはできません』
「それは分かっています」
『根拠資料を確認し、妥当でない部分は拒否します』
「ただ、先方は追加費用が認められなければ、人員の確保が難しくなる可能性があると言っています」
『脅しですか?』
「そうとは言い切れません。実際に、ほかの現場でも人手が足りていないそうです」
『それは施工会社側の事情です』
「ですが、人員が減れば工期が遅れます」
『契約した工期を守るのも、施工会社の責任です』
「契約だけを理由に押し切って、先方が現場へ最低限の人員しか入れなくなれば、困るのは高槻興産と十七社です」
『だから、要求された金額を受け入れるのですか?』
「すべて受け入れるとは言っていません」
『一部なら受け入れるということですか?』
「値上がりが事実なら、資料を確認したうえで、負担できる範囲を協議する必要はあります」
『今それを認めれば、次も同じ理由で増額を求められます』
「拒否して工事が止まれば、もっと大きな損失になります」
『工事を止めるというなら、契約不履行です』
「契約不履行を指摘して解決するまでに、何日掛かると思いますか?」
神谷の声が僅かに強くなった。
近くにいた陽菜が顔を上げる。
佐藤と中井も会話に気づいた。
樹里は椅子から立った。
『では、根拠の確認もせずに支払いますか?』
「そんなことは言っていません」
『今、一部を受け入れる可能性があるとおっしゃいました』
「資料を確認して、実際に増えた負担があるならです」
『施工会社が見積もりを誤った分まで、高槻興産へ負担させることになります』
「日高さんは、正しい契約書さえ残れば、工期が遅れても構わないのですか?」
『構わないとは言っていません』
「ですが、このまま拒否すれば、その可能性があります」
『最初から譲る姿勢を見せれば、先方はそこへ付け込みます』
「譲るのではありません。現場を動かすための協議です」
『支払う根拠のない金を出すことを、協議とは言いません』
二人の間から、普段の落ち着いた空気が消えていた。
神谷も樹里も、声を荒らげてはいない。
だが、どちらも引いていない。
陽菜が席を立ちかける。
その前に、黒澤が二人へ近づいた。
「何があった?」
「施工会社から追加費用の要求がありました」
神谷が説明する。
黒澤は送られてきたばかりの書面を確認した。
「なるほどな」
『部長。契約締結後の一方的な増額は認められません』
「一方的ならな」
「ただ、価格変動については協議条項があります。すべて拒否すると、施工会社との関係が崩れる可能性があります」
「それも分かる」
黒澤は書面を机へ置いた。
「先方が出してきた期限は?」
「二日後です。それまでに方向性を決めてほしいと」
『最終契約の直前を狙ったとしか思えません』
「俺も、その可能性はあると思っています。ですが、実際の価格上昇まで否定することはできません」
『だからこそ、契約と証拠で判断すべきです』
「証拠を確認している間に、人員を別の現場へ回されるかもしれません」
『それを許せば、こちらが期限を理由に譲歩すると教えることになります』
「許すとは言っていません!」
神谷の声が、初めて営業部へ響いた。
周囲が静まり返る。
神谷自身も、自分の声に気づいたように口を閉じた。
「……すみません」
『いえ』
樹里は視線を逸らさない。
黒澤は二人を順に見た。
「神谷は工期を守りたい。日高さんは契約と、今後の交渉の線を守りたい。どっちも間違ってはいない」
二人は何も答えなかった。
「だから、片方が折れて終わりにするな」
黒澤が施工会社の書面を神谷へ返す。
「増額を拒否しても現場が止まらない方法か、支払っても次の要求につながらない条件を作れ」
「分かりました」
『はい』
「今日中に、先方へ詳細な内訳を出させる。資材の仕入れ価格、人員数、燃料費。最初の見積もりと比較できるものを全部だ」
『見積もり作成時点で予測できた値上がりは、対象から外します』
「そこは任せる」
「俺は、施工会社と高槻興産の双方へ面談を申し入れます」
「頼む」
黒澤は二人を見たまま、低い声で続けた。
「ただし、別々の答えを持っていくな」
神谷が僅かに眉を寄せる。
「明日の夕方までに、二人で一つの案を作れ」
『……分かりました』
「はい」
「この案件は、神谷一人でも、日高さん一人でも、ここまで来られなかった」
黒澤はそれだけ言い、自分の席へ戻った。
営業部に止まっていた音が、少しずつ戻ってくる。
電話の呼び出し音。
キーボードを打つ音。
資料をめくる音。
その中で、神谷と樹里だけが向かい合ったままだった。
「日高さん」
『はい』
「先ほどは、言い方が強くなりました。申し訳ありません」
『謝る必要はありません。私も、神谷さんの考えを否定する言い方をしました』
「ですが、俺は工期を守るためなら、ある程度の増額は必要だと思っています」
『私は、根拠を確認する前に、その可能性を先方へ見せるべきではないと思っています』
「意見は変わりませんか?」
『今の段階では』
「俺もです」
神谷は椅子へ座り、施工会社から届いた書面を開いた。
「では、変える必要があるかどうかを調べましょう」
樹里も席へ戻った。
『資料が届き次第、当初の見積もりと比較します』
「俺は現場監督へ連絡します。会社から聞いている話と、現場の実情が同じとは限りません」
『お願いします』
二人の意見は、まだ合っていない。
どちらかが正しく、どちらかが間違っているわけでもない。
契約を守れば、人が動かなくなるかもしれない。
人を動かすために金を出せば、守るべき線を失うかもしれない。
四月から続いた案件の最後に残ったのは、契約書だけでは答えを出せない問題だった。
神谷が受話器を取る。
樹里は当初の見積書を開き、増額要求の項目を一つずつ書き出す。
同じ机に並びながら、二人はまだ、別々の答えを見ていた。
最終契約まで、あと七日。
施工会社へ返事をするまで、あと二日だった。




