298話「同じ日を待つ」
六月下旬。
島川不動産の営業部では、高槻興産に関わる十七社分の最終契約書が、樹里の机を埋めていた。
既存区画からの退去日。
移転先の契約開始日。
機材や備品の搬出日。
再整備後の区画へ戻る会社については、管理契約と入館制度の特約。
会社ごとに異なる条件を一つずつ確認し、全体の工程と食い違いがないか照合する。
高槻興産との最終契約は、七月上旬に予定されていた。
それまでに一社でも条件が崩れれば、全体の契約書を修正しなければならない。
樹里は一社分の書類を閉じ、確認済みの場所へ移した。
次の契約書を開く。
移転先の賃貸借契約。
重要事項説明書。
設備の搬入計画。
樹里の指が、契約期間の欄で止まった。
『神谷さん』
「はい」
『こちらの会社の移転先ですが、契約開始日は七月一日で間違いありませんか?』
神谷が席を立ち、樹里の机へ来る。
「そのはずです」
『鍵の引き渡し日は、七月八日になっています』
「内装工事があるからではありませんか?」
『内装工事の完了予定日は、七月五日です』
樹里は別の資料を出した。
『機材の搬入は、七月六日から予定されています』
「鍵を受け取る前ですね」
『はい』
「先方から、工事期間中も搬入口は使えると聞いています」
『口頭ですか?』
「面談記録には残しています」
『契約書には記載されていません』
神谷が書類を確認する。
契約上、移転先を使用できるのは鍵の引き渡し後だった。
所有者が内装工事のために施工業者へ入室を認めていても、移転する会社が機材を持ち込めるとは限らない。
「所有者へ確認します」
『お願いします』
「搬入を認めるという回答があれば、問題ありませんか?」
『口頭ではなく、覚書が必要です』
「分かりました」
神谷がすぐに電話をかける。
樹里は残る契約書の確認を続けた。
数分後、神谷の声が少し低くなる。
「それでは、七月六日の機材搬入は認められないということですか?」
樹里が顔を上げる。
「しかし、内装工事は五日に終わる予定ですよね」
相手の話を聞き、神谷が手帳へ書き込む。
「分かりました。所有者の方へ、もう一度確認していただけますか。こちらからも直接ご説明します」
通話を終える。
『認められないのですか?』
「鍵の引き渡し前に事故が起きた場合、責任の所在が曖昧になるため、所有者が認めていないそうです」
『では、搬入日を八日以降へ変更する必要があります』
「その会社の現在の区画は、七日から解体準備へ入ります」
『一日、間に合いませんね』
「はい」
樹里は全体工程を開いた。
機材を先に搬出して一時保管する場合、保管場所と再搬入の費用が発生する。
現在の区画で解体準備を一日遅らせれば、隣接する区画の施工にも影響する。
「鍵の引き渡しを早められないか、所有者へ交渉します」
『内装工事が予定どおり終わる保証がありません』
「五日に完了すれば、六日の朝に確認して引き渡せます」
『完了しなければ、代わりの方法がなくなります』
「では、一時保管も同時に用意します」
『二つを並行して進めるのですか?』
「どちらか一つへ決めて、失敗してからでは遅いでしょう」
樹里は僅かに黙った。
『分かりました。私は一時保管できる場所を探します』
「俺は所有者と施工側へ行きます」
『移転する会社にも、契約書の食い違いを説明してください』
「はい」
『こちらの確認が遅れたこともです』
「もちろんです」
神谷は必要な資料をまとめ、外出の準備を始めた。
その様子を見ていた黒澤が声をかける。
「何か出たのか?」
「一社の鍵の引き渡しが、機材搬入に間に合いません」
「今まで誰も気づかなかったのか?」
「俺が、搬入口を使用できるという話だけで確認を終えていました」
神谷は言い訳をしなかった。
「日高さんが契約書の食い違いを見つけました」
「最終契約まで、あと何日だ」
「十日です」
「間に合わせろ」
「はい」
「日高さん」
『はい』
「ほかにも同じようなものがないか、全部見てくれ」
『確認します』
「一人でやるなよ」
『分かっています』
黒澤は営業部を見回す。
「佐藤。移転先の契約書を日高さんと確認してくれ。川原さんは機材搬入の日付。山本は今の区画を空ける日を見ろ」
「はい」
三人が答え、それぞれ資料を受け取った。
陽菜も席を立とうとする。
樹里が先に口を開いた。
『櫻井さんは、ご自身の担当分をお願いします』
『あたしも確認できます』
『本日は午後から病院でしょう』
『まだ時間あるよ』
『午前中に終わらせようと無理をする必要はありません』
『無理しないって』
「櫻井」
黒澤が呼ぶ。
「今日は病院へ行け。こっちは俺たちでやる」
『でも――』
「妊娠が分かってから、ずっと同じことを言わせるな」
陽菜が不満そうに黒澤を見る。
『分かりました』
「返事だけは素直だな」
『ちゃんと聞いてます』
「なら座れ」
『はい』
陽菜は席へ戻った。
隣で中井が、僅かに口元を緩めている。
『何?』
「いえ」
『今、笑ったでしょ』
「笑っていません」
『絶対笑った』
「黒澤部長の話を聞いてください」
『中井くんまで』
「今日は俺も一緒に病院へ行きます」
『知ってる』
「時間に余裕を持って出ましょう」
『子どもじゃないんだから、一人でも行けるよ』
「一人で行けることと、一緒に行きたいことは別です」
陽菜の言葉が止まる。
『……それ、ずるい』
「何がですか?」
『何でもない』
陽菜は照れを隠すように、自分の資料へ視線を落とした。
昼過ぎ。
陽菜と中井は会社を出て、産婦人科へ向かった。
待合室には、以前より少しだけ慣れた。
それでも、診察室へ呼ばれるまでの時間は長く感じる。
『中井くん』
「はい」
『今日もちゃんといるよね』
「大丈夫です」
『まだ何も見てないじゃん』
「不安そうだったので」
『不安じゃない』
「そういうことにしておきます」
『最近、総長みたいな言い方増えたよね』
「日高さんの言うことが正しい場面が多いからです」
『あたしの味方じゃないの?』
「陽菜さんの味方です」
『なら、あたしが正しいって言って』
「内容によります」
『冷たいな』
「手を繋ぎますか?」
『……繋ぐ』
中井が差し出した手を、陽菜が握る。
名前を呼ばれ、二人は診察室へ入った。
医師から体調について尋ねられる。
吐き気は以前より減った。
食べられるものも増えている。
強い眠気や、急に疲れる感覚はまだ残っていた。
「無理をしなければ、普段どおり生活して構いません」
『仕事もですか?』
「長時間立ち続けたり、重いものを持ったりすることは避けてください。体調が悪いときは、すぐに休んでくださいね」
「本人が大丈夫と言った場合でも、休ませた方がいいですか?」
中井が尋ねる。
『中井くん』
「確認です」
医師が小さく笑う。
「大丈夫と感じる程度には個人差があります。普段から一緒にいる方が変化に気づいた場合は、休むよう声をかけてあげてください」
「分かりました」
『余計に止められるようになった』
「医師の指示です」
『体調が悪いときって言ったでしょ』
「陽菜さんは体調が悪くても大丈夫と言います」
『言わないよ』
「言います」
「お二人で相談してください」
医師に言われ、陽菜は口を閉じた。
検査が始まる。
画面へ、小さな姿が映し出された。
以前は形を見分けることも難しかった。
今は頭と身体が分かれ、短い手足のようなものも見える。
『……大きくなってる』
「はい」
中井が陽菜の手を握る。
医師が画面の一部を示した。
「順調に成長していますよ」
小さな身体が、僅かに動いた。
『今、動いた?』
「動きましたね」
「陽菜さん、見えましたか?」
『見えた』
陽菜は画面から目を離せなかった。
『あたしは、まだ何も感じないのに』
「もう少し先になると、胎動を感じ始めると思います」
『お腹も大きくなりますか?』
「これから少しずつ目立ってきますよ」
陽菜は無意識に、自分の腹部へ手を添えた。
外から見ても、まだ妊娠しているとは分からない。
それでも、ここには前回より大きくなった命がいる。
中井の手が、その上へ重なる。
「順調でよかったです」
『うん』
二人は同じ画面を見ながら、しばらく言葉を失っていた。
診察を終え、病院を出る。
陽菜は新しい超音波写真を何度も見ていた。
『これ、頭だよね』
「そうですね」
『こっちが手?』
「医師は、そう言っていました」
『小さすぎて分かんない』
「それでも、前より分かります」
『うん』
陽菜は写真を光へ透かすように持ち上げた。
『美園さんに送っていいかな』
「いいと思います」
『総長にも』
「はい」
『でも、総長は仕事中だよね』
「休憩中に見るでしょう」
『じゃあ、三人のLINEに送る』
陽菜は写真を撮り、樹里と美園との三人のLINEへ送信した。
『大きくなってた』
最初に既読をつけたのは美園だった。
『ちゃんと人の形になってきたね』
『でしょ』
『順調?』
『順調だって』
『よかった』
少し遅れて、樹里から返信が来る。
『医師から何か注意はありましたか』
『最初にそれ?』
『質問に答えろ』
『無理しないで、体調悪かったら休めって』
『守れ』
『分かってる』
美園から、笑っている絵文字が送られてきた。
『総長、予想どおり』
『何がだ』
『何でもない』
陽菜は画面を見ながら笑った。
「日高さんは、何と?」
『医者の言うこと守れって』
「そのとおりです」
『中井くんまで同じこと言わないで』
「では、帰りに何か食べますか?」
『急に話変えた』
「お腹は空いていませんか?」
『少し』
「食べられそうなものを探しましょう」
『今日はパンがいい』
「分かりました」
二人は手を繋ぎ、駅の近くにある店へ向かった。
食事を終える頃、中井のスマートフォンが鳴った。
表示されているのは、式場の担当者だった。
「はい、中井です」
中井が電話へ出る。
挙式は十月。
妊娠が分かったあと、式場へ事情を伝え、衣装と当日の進行を調整してもらうことになっていた。
「はい。今日、診察がありました。今のところ順調です」
陽菜が向かいから、話を聞いている。
「ドレスの再採寸ですか?」
中井が手帳を取り出した。
「七月と、挙式の一か月前に……分かりました」
『二回もするの?』
陽菜が小声で尋ねる。
中井は頷きながら、担当者の説明を聞く。
「本人の体調を確認して、改めてご連絡します。はい。よろしくお願いします」
電話を切る。
『何て?』
「来月、一度ドレスを合わせ直したいそうです」
『まだ、お腹出てないよ』
「これから変わることを見越して、調整できる形を決めたいそうです」
『最初に着たやつ、着られなくなる?』
「同じデザインをできるだけ残すと仰っていました」
『そっか』
陽菜は自分の腹部を見る。
ドレスを選んだとき、妊娠は分かっていなかった。
十月には、今とは身体の形が違っている。
自分一人だけのためのドレスではなくなる。
『変かな』
「何がですか?」
『お腹大きい花嫁』
「変ではありません」
『写真に、すごく残るよ』
「俺は残したいです」
『本当に?』
「はい」
中井は迷わず答えた。
「陽菜さんと、子どもと、三人で迎えた結婚式だと分かる写真になります」
『まだ生まれてないけど』
「それでも、三人です」
陽菜は写真を持つ手を下ろした。
『中井くん』
「はい」
『ドレス、似合わなくなっても笑わないでね』
「笑うはずがありません」
『お腹だけすごく出るかもしれないよ』
「それも楽しみです」
『太るかも』
「医師の指示に従ってください」
『そこは可愛いって言ってよ』
「今も可愛いです」
陽菜の表情が止まる。
「これから身体が変わっても、同じです」
『……病院の前で言うことじゃない』
「聞いたのは陽菜さんです」
『そうだけど』
陽菜は照れを隠すように、超音波写真を鞄へしまった。
『七月の予定、空けといてね』
「もちろんです」
『仕事が忙しくても来て』
「行きます」
『高槻の契約と重なったら?』
「時間を調整します」
『無理だったら、あたし一人でもいいよ』
「俺も一緒に選びたいんです」
中井の答えに、陽菜は小さく笑った。
『じゃあ、絶対来て』
「はい」
二人が帰宅する頃。
島川不動産では、移転先の契約書を確認する作業が続いていた。
「日高さん」
佐藤が一冊の契約書を持ってくる。
「こちらは、問題ありませんでした」
『ありがとうございます。確認済みの場所へお願いします』
「はい」
「日高さん、機材搬入の日付も確認できました」
萌が一覧を差し出す。
「先ほどの一社以外は、鍵の引き渡し後になっています」
『分かりました』
「移転元を空ける日は、すべて施工開始より前でした」
陸も続ける。
「ただ、一社だけ予備日がありません」
『天候の影響を受ける搬出ですか?』
「はい。大型機材を屋外から吊り上げます」
『延期になった場合、施工開始と重なりますね』
「施工側へ確認し、翌日の午前中まで待てるという回答をもらいました」
『記録は?』
「こちらです」
陸が書面を出す。
樹里は内容を確認し、押印された回答を受け取った。
『問題ありません。ありがとうございました』
陸と萌は、それぞれ次の仕事へ戻っていく。
樹里は三人が確認した書類をまとめた。
自分一人で見ていたら、今日中には終わらなかった。
その事実だけを受け止め、次の契約書を開く。
夜になり、神谷が外出先から戻った。
「戻りました」
『お疲れさまです』
「所有者と施工側から、回答をもらいました」
神谷が覚書の案を樹里へ渡す。
「内装工事が五日までに完了し、所有者の確認が取れた場合は、六日に鍵を引き渡します」
『完了しなかった場合は?』
「八日まで、一時保管場所を無償で提供してもらいます。再搬入の費用も所有者と施工側が負担します」
『移転する会社の了承は?』
「得ています」
樹里は覚書を最後まで読む。
どちらの結果になっても、現在の区画を七日までに空けられる。
『問題ありません』
「ありがとうございます」
『まだ締結前です』
「明日、三者で署名します」
『それが終わるまで、問題ないとは言い切れません』
「そうでした」
神谷は樹里の机へ積まれた書類を見る。
「ほかに食い違いはありましたか?」
『一社、屋外から機材を搬出する日程に予備日がありませんでした』
「対応は?」
『山本さんが、施工側から翌日の午前中まで待つという回答を得ています』
「山本さんが?」
『はい』
「では、大丈夫ですね」
神谷は自然に答えた。
樹里も否定しなかった。
「今日は、もう終わりにしませんか?」
『残り二社です』
「明日の朝でも間に合います」
『今日中に終わらせます』
「では、俺も確認します」
『外出から戻ったばかりでしょう』
「日高さんも朝から確認していたでしょう」
『私は社内にいました』
「場所は関係ありません」
神谷は残っている一社分を手に取った。
「日高さんはこちらを。俺はこちらを確認します」
『……分かりました』
二人は並んで、それぞれの契約書を開いた。
言葉を交わさなくても、必要な場所が分かる。
契約期間。
引き渡し日。
搬出入の日程。
費用の負担。
一つずつ確認を終え、最後の書類を閉じた。
「これで、十七社分です」
『はい』
樹里は確認済みの契約書を見る。
まだ署名はない。
一社の日程も、明日の覚書が締結されるまで確定ではない。
それでも、十七社すべてが同じ最終契約の日へ向かうための条件はそろった。
「日高さん」
『何でしょうか?』
「今日は、終わった顔をしてもいいのではありませんか?」
『まだです』
「やはり駄目ですか」
『明日の覚書が残っています』
「では、明日ですね」
『その後は最終契約が残ります』
「いつならいいんですか?」
『すべて終わってからです』
神谷が笑う。
「七月まで、楽しみにしておきます」
『何をですか?』
「日高さんが、終わった顔をするところです」
『普通の顔です』
「それでも見たいです」
樹里は答えず、書類を一つにまとめた。
十七社すべてが同じ日を迎えるまで、あと少しだった。




