297話「三日目の回答」
高槻社長から与えられた三日間の初日。
神谷と樹里は、朝から高槻興産本社を訪れていた。
会議室には、受付部門と法務の担当者が集まっている。
机の上へ置かれているのは、二人が作成した継続取引先の事前登録制度だった。
「このままでは認められません」
法務の担当者が、資料を閉じる。
「登録証だけで本人確認を省略すれば、別人が使用する可能性があります」
『本人確認を完全に省略する案ではありません』
樹里が答える。
『初回登録時に本人確認を行い、二回目以降も登録情報と一致するか受付で確認します』
「登録証を提示するだけでは、本人だと断定できないでしょう」
『では、氏名と訪問先を口頭で確認します』
「それも、登録証に書かれている内容を読めば答えられます」
「顔写真を登録するのはどうでしょうか」
神谷が提案する。
受付部門の担当者が首を横へ振った。
「その場合、個人情報の管理が増えます。取引が終わった相手の写真をいつまで保管するのか、誰が削除を確認するのかも決めなければなりません」
「一年ごとの更新時に、入居企業へ継続確認を求めます」
「入居企業が確認を忘れた場合は?」
『有効期限を過ぎた登録は、自動的に失効させます』
「それなら、更新前の案内も必要ですね」
『島川不動産の管理業務へ組み込みます』
樹里は指摘された内容を記録していく。
受付部門の担当者が、別の箇所を指した。
「当日の訪問を入居企業へ内線で確認するとありますが、来訪が集中する時間帯は対応できません」
「一人ずつ確認するのは難しいですか?」
「朝の納品だけでも、複数の会社へ同時に取引先が来ます。受付がそのたびに内線をかけていれば、通常の来訪者を待たせることになります」
『事前登録を行う意味がなくなりますね』
「はい。手続きを減らすための制度で、受付の仕事だけが増えています」
樹里が資料へ視線を落とす。
本人確認を厳しくすれば、最後の一社が求めている気軽さが失われる。
簡単にしすぎれば、高槻興産が求める安全を維持できない。
「取引先が来る曜日や時間を、あらかじめ登録することはできますか?」
神谷が尋ねる。
「曜日だけなら可能かもしれません」
「入居企業が受け入れ可能な曜日と時間を登録し、その範囲内では毎回の内線確認を省略する形です」
「本人確認は残ります」
「はい。ただ、入居企業への確認がなくなれば、受付の負担は減らせます」
法務担当者が腕を組む。
「登録した本人だと、どう確認しますか?」
『登録証に顔写真を載せず、受付端末だけで確認する方法はどうでしょうか』
樹里が答える。
『登録証には番号と有効期限のみを記載します。受付側の画面には本人確認のための情報を表示します』
「受付の端末へ、誰でも見られる形で写真を残すのは困ります」
『閲覧できる担当者を制限します。確認履歴も残します』
「システムの変更費用が掛かります」
『試算します』
「三日で?」
『間に合わせます』
樹里は迷わず答えた。
神谷が横から資料を開く。
「最後の一社が求めているのは、完全な自由ではありません。長く付き合ってきた取引先へ、毎回複雑な手続きを求めたくないということです」
「しかし、規則は必要です」
「はい。ですから、規則をなくすのではなく、繰り返す手続きを減らしたいんです」
「相手が、それで納得する保証はありますか?」
「今日、もう一度聞きに行きます」
神谷の言葉に、樹里が僅かに顔を向ける。
『今日ですか?』
「制度を作り終えてから、望んでいたものと違うと言われる方が時間を失います」
『その間に、私は修正を進めます』
「お願いします」
「まだ条件が増えるんですか?」
受付部門の担当者が困ったように尋ねる。
「増やさないために聞きます」
神谷は答えた。
午前中の協議を終え、二人は高槻興産本社を出た。
『最後の一社へは、私も行きます』
樹里が言う。
「制度の修正は?」
『会社へ戻ってから行います』
「今日中に費用の試算まで必要です」
『分かっています』
「では、俺一人で行きます」
『聞いた内容を、もう一度説明する時間が掛かります』
「日高さんが一人で修正と試算をする時間の方が掛かります」
樹里は足を止めた。
『一人で行くと、また条件を増やしませんか?』
「増やしません」
『先方の話を聞けば、必要だと判断する可能性があります』
「そのときは連絡します」
『その場で答えないでください』
「分かりました」
『必ずです』
「信用がありませんね」
『これまでの実績です』
神谷が小さく笑う。
「櫻井さんと同じことを言っていますよ」
『何の話ですか?』
「いえ。では、俺は先方へ向かいます」
『お願いします』
二人は駅で別れた。
樹里は島川不動産へ戻り、受付端末の変更に必要な費用と、管理業務の追加分を調べ始めた。
午後。
神谷は最後の一社の事務所を訪れていた。
代表者だけではなく、長年出入りしている取引先からも話を聞くためだった。
事務所の隣にある作業場では、年配の男性が荷物を下ろしている。
「新しくなったら、受付で登録が必要になるそうです」
代表者が説明する。
「俺みたいなのでも?」
「もちろんです」
「スマートフォンは使えないぞ」
男性は作業着のポケットを叩いた。
入っているのは、折り畳み式の携帯電話だった。
「電子証明だけにはしません」
神谷が答える。
「紙の登録証も用意する予定です」
「毎回、何か書くのか?」
「初回の登録時だけです。二回目以降は、登録証を受付へ見せていただきます」
「今みたいに、裏から入って荷物を置くのは無理か」
「搬入口から入っていただくことになります」
「面倒になるな」
「はい。今と全く同じにはできません」
神谷は否定しなかった。
「ただ、事故や盗難が起きた場合、誰が区画へ入っていたか分からない状態にはできないんです」
「俺が盗むっていうのか?」
「そうではありません」
「なら、今までどおりでいいだろ」
「今まで何も起きなかったことと、これからも何も起きないことは別です」
男性の表情が僅かに険しくなる。
代表者が間へ入ろうとする。
神谷は、男性から目を逸らさなかった。
「長く出入りしている方へ、疑っているような手続きを求めたくないというお気持ちは分かります」
「分かってないから、こんな話になるんだろ」
「では、何が一番嫌なのか教えていただけますか?」
「面倒なんだよ」
「書類を書くことですか?」
「それもある」
「受付で待つことですか?」
「荷物を持ったまま、いつ終わるか分からないのが嫌だ。今は車を止めて、ここへ運んで、帰る。それで済んでる」
「何分くらいなら待てますか?」
「待ちたくない」
「一分でも?」
「……一分なら仕方ない」
神谷は頷いた。
「登録済みの方は、受付で登録証とお名前を確認するだけにします。問題がなければ、一分以内に通れる仕組みを考えます」
「本当に一分で終わるのか?」
「そのために、今制度を作っています」
「車は?」
「登録時に車両番号も届けていただければ、搬入口での確認を簡単にできます」
「車を替えたら?」
「変更の届け出が必要です。ただし、電話でも受け付けられるようにします」
「スマートフォンはいらないんだな」
「はい。紙の登録証を選べます」
男性は腕を組み、少し考えた。
「それなら、今より面倒にはなるが、できなくはない」
「ありがとうございます」
「ただ、朝に並ばされるのは困るぞ」
「登録済み取引先と一般の来訪者で、受付を分けられないか検討します」
神谷はそこで言葉を止めた。
勝手に決めない。
樹里と約束したことを思い出す。
「高槻興産の受付部門と協議してから、正式に回答します」
「分かった」
男性は再び荷物を持ち、作業場へ戻っていった。
代表者が小さく息を吐く。
「すみません。悪い人ではないんですが」
「分かっています」
「昔から、ああいう人たちに助けられてきたんです」
「はい」
「再整備に反対しているわけではありません。ただ、新しくなった途端に、今までの付き合いまで切れるような気がして」
「建物が変わっても、付き合いまで変える必要はありません」
神谷は代表者を見る。
「そのために必要な制度を作ります」
会社へ戻った神谷は、聞き取った内容を樹里へ伝えた。
「確認を一分以内にしてほしいとのことです」
『時間を契約上保証することはできません』
「通常時の目標として設定できませんか?」
『受付が混雑した場合や、登録情報に問題があった場合は除外する必要があります』
「はい」
『登録済み取引先用の受付を分ける案は?』
「検討するとだけ伝えました」
『勝手に約束はしていませんね』
「していません」
『分かりました』
樹里は受付の配置図を開いた。
『専用の窓口を常設する余裕はありません』
「受付機を一台分けるのはどうでしょう」
『人員は?』
「通常の受付担当者が確認します。列だけを分けます」
『混雑時には、結局同じ担当者が対応することになります』
「それでも、登録情報の入力を待つ人と、確認だけの人が同じ列に並ぶよりは早くなります」
『そうですね』
樹里は図面の受付部分へ印をつけた。
『登録済み取引先用の確認場所を、搬入口側へ設けます』
「可能ですか?」
『使われていない管理室があります』
「人を置く必要があるのでは?」
『納品が集中する時間帯だけ配置します。それ以外は正面受付へ案内します』
「費用は増えますね」
『増えます』
「高槻社長が認めるでしょうか」
『認めさせます』
樹里は既に試算を始めていた。
二日目。
高槻興産の法務から、新たな修正が入った。
登録証の紛失時における手続き。
入居企業が登録した取引先の行為に対する責任。
登録を取り消す条件。
防犯上の理由で入館を拒否できる権限。
文章を一つ加えるたび、最後の一社が求めた気軽さから遠ざかっていく。
「この『入居企業は登録取引先のすべての行為について責任を負う』という文言は、厳しすぎます」
神谷が指摘する。
「登録を求めた会社が責任を持つのは当然です」
法務担当者が答える。
「すべての行為では、取引先が起こした予測不可能な問題まで負うことになります」
「高槻興産が負うわけにはいきません」
『故意または重大な過失がある場合に限定します』
樹里が間へ入る。
「誰の故意ですか?」
『登録した企業が、問題を起こす可能性を知りながら登録を継続した場合です』
「それを証明できますか?」
『問題が起きた際の記録を残します。一度目は警告と一定期間の停止、二度目は登録取り消しを原則とします』
「重大な問題なら、一度目でも取り消す必要があります」
『例外規定へ加えます』
樹里が修正を入力する。
「登録制度を作るだけで、ここまで細かく決めるんですね」
同席していた萌が呟く。
『問題が起きてから考えるのでは遅いですから』
「はい」
『川原さん。登録申請書の修正版はできていますか?』
「できています」
萌はすぐに資料を差し出した。
表面には、会社名、氏名、車両情報、主な訪問先。
裏面には、登録証の使用条件と、紛失時の連絡先が記載されている。
「紙での記入が難しい方へ、受付担当者が聞き取りながら入力できる様式も用意しました」
『登録する本人の署名は残してください』
「はい。最後に内容を読み上げ、確認後に署名していただく形です」
「これなら使えそうですね」
受付部門の担当者が書類へ目を通す。
「登録済み取引先用の確認場所についても、朝の二時間だけなら人員を出せます」
「ほかの時間帯は正面受付ですね」
「はい」
「確認に掛かる時間は?」
「登録証と受付端末の情報が一致すれば、一分ほどです」
神谷が樹里を見る。
『通常時における目安として案内へ記載します』
「ありがとうございます」
午後には、登録端末の変更費用も算出された。
初期費用は掛かる。
だが、最後の一社が再入居し、長期管理契約が成立すれば回収できる範囲だった。
三日目の朝。
樹里の机には、完成した制度案と特約が置かれていた。
神谷が隣で最終確認をしている。
「登録証の有効期限は一年」
『はい』
「更新案内は、期限の一か月前」
『島川不動産から入居企業へ送付します』
「登録済み取引先の確認場所は、平日の午前七時から九時まで搬入口側へ設置」
『それ以外は正面受付です』
「受付時間の目安は一分。ただし、混雑時や登録内容に相違がある場合を除く」
『はい』
「紙の登録証も選択できる」
『スマートフォンは必要ありません』
「問題ありません」
神谷が資料を閉じる。
『まだです』
「何かありますか?」
『高槻社長と最後の一社から、回答を得ていません』
「そうでした」
『成功したような顔をしないでください』
「していましたか?」
『少し』
「日高さんも、昨日より表情が柔らかいですよ」
『変わっていません』
「そういうことにしておきます」
二人は完成した資料を持ち、高槻興産へ向かった。
会議室には、高槻社長、受付部門と法務の責任者、最後の一社の代表者がそろっている。
神谷が制度の流れを説明した。
樹里が責任範囲と費用を伝える。
代表者は一つずつ確認し、最後まで資料を読み終えた。
「登録する本人が、スマートフォンを持っていなくても大丈夫なんですね」
「はい。紙の登録証を発行します」
「朝なら、搬入口で確認できる」
「平日の午前七時から九時までです」
「それ以外は正面受付へ行く必要があるんですね」
「はい。安全管理のため、完全に手続きをなくすことはできません」
神谷は答えた。
「昨日、取引先の方にも説明しました。この内容なら受け入れられると伺っています」
「そこまで話したんですか?」
「実際に使う方が利用できなければ、制度を作る意味がありませんから」
代表者は長く息を吐いた。
「分かりました」
神谷と樹里が、同時に相手を見る。
「この条件で、再入居の手続きを進めてください」
「ありがとうございます」
『ありがとうございます』
二人が頭を下げる。
「管理費の案も、昨日いただいた金額で了承します」
「承知しました」
七社目の合意が成立した。
高槻社長は、しばらく何も言わずに資料を見ていた。
「日高」
『はい』
「この制度で、高槻興産の負担はいくら増える」
『初年度はこちらです。二年目以降は、登録更新と受付業務に掛かる費用のみとなります』
「島川不動産の管理費に含めるのか」
『はい』
「神谷」
「はい」
「最後の一社を残せば、この費用を回収できるんだな」
「長期管理契約と再入居後の契約を含めれば可能です」
「問題が起きた場合は?」
「島川不動産が窓口となり、登録の停止と取り消しを行います」
『高槻興産へも、すべて記録を報告します』
高槻社長は資料を閉じた。
「分かった。この制度で進めろ」
「ありがとうございます」
『ありがとうございます』
「ただし」
二人が顔を上げる。
「七社が戻ると決まっただけだ」
「はい」
「残る十社の移転。工事の進行。再入居後の管理契約。新しい区画の募集も残っている」
『承知しています』
「これで終わった顔をするな」
「していません」
「神谷。お前は少ししていた」
「申し訳ありません」
高槻社長が樹里を見る。
「日高は?」
『まだ確認することが残っています』
「お前は少しくらい終わった顔をしろ」
樹里が僅かに目を瞬かせる。
神谷は笑いそうになるのを堪え、視線を落とした。
「次は十七社すべての最終契約だ」
「はい」
「七月までにまとめろ」
『承知しました』
「そこで一社でも抜ければ、今日までの話もやり直しだ」
二人は真剣な表情で頷いた。
「神谷、日高」
「はい」
『はい』
「最後までやれ」
二人は頭を下げ、会議室を出た。
扉が閉まる。
廊下へ出たところで、神谷が息を吐いた。
「終わった顔をしていたでしょうか」
『していました』
「日高さんは、終わった顔をするように言われていましたね」
『無理です』
「まだ仕事が残っているからですか?」
『はい』
「では、十七社すべての契約が終わったら、どんな顔をするのか楽しみにしています」
『普通の顔です』
「今から決めているんですか?」
『ほかに何がありますか?』
「笑ってもいいと思います」
『考えておきます』
「それは、少し期待してもいい返事ですね」
『仕事へ戻ります』
樹里が先に歩き出す。
神谷もその隣へ並んだ。
管理費と再入居条件は、七社すべてが合意した。
残るのは、十七社の条件を一つの最終契約へ結び直すこと。
高槻興産の超大型案件は、七月の決着へ向けて、最後の段階へ入った。




