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296話「金額ではない理由」

翌朝。


 陸は出勤するとすぐに、施工側から届いた新しい搬出計画を開いた。


 昨日、仮設通路に置かれていた資材は、午前中に別の保管場所へ移される予定になっている。


 図面上の通路幅も、三メートルへ戻されていた。


 フォークリフトが機材を避けて通るための経路も、赤い線で示されている。


 陸は昨日撮影した現場の写真と、新しい図面を見比べた。


 資材がなくなれば、通路の幅は確保できる。


 それだけを見れば、問題は解決している。


 だが、赤い線を指で追ううち、一か所だけ気になる場所を見つけた。


 フォークリフトが方向を変えるための曲がり角。


 図面では十分な幅があるように見える。


 しかし、昨日の現場写真には、壁際へ固定された消火設備が写っていた。


 図面には記載されていない。


 陸は席を立ち、陽菜のもとへ向かおうとした。


 その途中で足を止める。


 まずは自分で確認する。


 陽菜から、そう任されていた。


 陸は現場担当者へ電話をかけた。


「お世話になっております。島川不動産の山本です」


 相手へ図面の場所を伝え、消火設備が現在も設置されているか確認する。


 返ってきた答えは、撤去できないというものだった。


「フォークリフトの旋回に必要な幅は確認されていますか?」


 施工側は、図面上では足りていると答えた。


「昨日の写真では、図面に記載されていない消火設備があります。実際に使用できる幅を、もう一度測っていただけますか?」


 相手が確認すると答え、通話が終わる。


 陸は写真と図面を並べ、問題となる箇所へ印をつけた。


 その様子を、少し離れた席から陽菜が見ていた。


 何を確認しているのか気になった。


 すぐに聞こうとして、やめる。


 陸は自分で施工側へ連絡した。


 必要になれば報告へ来る。


 陽菜はそれを待つことにした。


 一時間後。


 陸が資料を手に、陽菜の席へやってきた。


「陽菜先輩。ご確認をお願いできますか?」


『うん。何か見つけた?』


「新しい搬出経路ですが、図面に記載されていない消火設備がありました」


 陸は写真を見せる。


「施工側に実際の幅を測ってもらったところ、フォークリフトが一度で曲がるには足りないそうです」


『切り返せば?』


「後方が、稼働中の機材へ近づきます」


『昨日と同じ問題が残るね』


「はい」


『施工側から案は出た?』


「小型のフォークリフトへ変更する案が出ました。ただし、一部の機材は重量制限を超えます」


『ほかには?』


「搬出する順番を変え、重量のある機材だけ別の出入口から運ぶ方法を検討してもらっています」


『その出入口、今は使えるの?』


「資材の搬入日に限り、施工側が使用する予定です」


『じゃあ、日を分けないと無理だね』


「はい。施工側にも確認しています」


『ここまで、陸が聞いたの?』


「はい」


 陽菜は資料を受け取った。


 写真。


 実測された幅。


 フォークリフトの大きさと耐荷重。


 別の出入口を使用できる日。


 判断に必要な情報は、すでにそろっている。


『重い機材の搬出日を、資材の搬入前へ動かすのが一番安全かな』


「俺もそう思います」


『機材を使ってる会社には確認した?』


「午前中なら、前日の営業終了後に停止できると回答をいただいています」


『じゃあ、その案で施工側に工程を出してもらって』


「分かりました」


『あたしから連絡しなくて大丈夫?』


「まずは俺から伝えてみます」


 陸の答えに迷いはなかった。


 陽菜は僅かに笑う。


『分かった。お願い』


「はい」


『正式な工程が出たら、神谷さんと日高先輩にも見てもらって』


「分かりました」


 陸は自分の席へ戻っていく。


 陽菜は、その背中を見送った。


 昨日までは、確認した内容を陽菜へ渡すところまでが陸の役目だった。


 今日は、自分で修正案を考え、相手へ伝えるところまで進もうとしている。


「陽菜さん」


 中井が隣から声をかける。


『何?』


「嬉しそうですね」


『陸がちゃんとやってるから』


「陽菜さんが教えたからでしょう」


『昨日、陸にも同じこと言われた』


「事実ですから」


『二人とも、あたしを褒めすぎじゃない?』


「嫌ですか?」


『嫌じゃない』


「では、いいと思います」


『でも、あたしが何もしてないみたいで落ち着かない』


「今、山本さんの報告を聞いて判断していましたよね」


『それだけじゃん』


「それが、今の陽菜さんの仕事ではないですか?」


 陽菜は陸の席を見る。


 自分が現場へ行かなくても、仕事は進んでいる。


 それを寂しいと感じる気持ちは、まだ残っていた。


 だが、自分が不要になったわけではない。


 陸が持ち帰った情報を確認し、判断を後押しする。


 すべてを代わりにするのではなく、必要なところで支える。


『……そうかもね』


「はい」


『中井くんも、あたしに仕事をさせないようにしてるわけじゃない?』


「無理をさせないようにはしています」


『それが同じなんだよ』


「同じではありません」


『同じ』


「違います」


『じゃあ、今日は一人で外回り行ってもいい?』


「それは日高さんへ聞いてください」


『逃げた』


「俺が決めることではありませんから」


『家では何でも止めるのに』


「家では、俺が止めなければ陽菜さんが無理をするからです」


『信用ないな』


「これまでの実績です」


『今の言い方、総長みたい』


「光栄です」


『そこは否定してよ』


 陽菜は不満そうにしながらも、僅かに笑っていた。


 その日の午後。


 高槻興産本社では、七社へ正式な管理費案が提示された。


 全社が負担する固定費。


 登録制の共用設備費。


 実際の使用量に応じた変動費。


 各社の利用予定を反映し、前回の会議で出た条件も加えられている。


 神谷が変更点を説明し、樹里が金額の算出根拠を伝えた。


「利用登録は、最初の二年間に限り半年ごとに変更できます」


 神谷が資料を示す。


「三年目以降は、原則として一年ごとの見直しです。ただし、従業員数や事業内容に大きな変更があった場合は、途中での協議も可能とします」


「急に会議室を使いたくなった場合は?」


「登録していない会社でも、空きがあれば一回ごとの使用料で利用できます」


「時間外警備は、利用した会社だけの負担ですか?」


『最低限の夜間警備は固定費へ含まれます。それを超える時間帯については、利用した会社の変動費となります』


 樹里が答える。


「金額は、この表から変わらないんですね?」


『皆さまから提出いただいた利用予定に変更がなければ、初年度はこの金額です』


「固定費そのものが上がることは?」


『大規模な修繕や法改正など、特別な事情がない限り、契約期間中は定めた範囲を超えて増額しません』


 質問が一つずつ終わる。


 七社のうち六社は、その場で案を受け入れる意思を示した。


 残った一社の代表者だけが、資料を見つめたまま返事をしなかった。


「何か、金額に問題がありますか?」


 神谷が尋ねる。


「金額だけなら、社内へ説明できると思います」


「では、ほかに懸念がありますか?」


「それは、管理費とは別の話です」


「構いません。お聞かせください」


 代表者は少し迷ったあと、資料を閉じた。


「再整備後は、正面の入口が一つになるんですよね」


「はい。来訪者は共通の受付を通り、各社へ案内されます」


「うちは、昔から付き合いのある取引先が多いんです」


 代表者は言葉を選ぶ。


「大きな会社ばかりではありません。個人で材料を運んでくる人もいる。今は裏の出入口から直接、うちの事務所へ来てもらっています」


「新しい区画では、搬入口から入ることができます」


「その搬入口にも受付がありますよね」


「安全管理のため、来訪者の記録は必要です」


「それを嫌がる人もいるんです」


 一人の代表者が口を挟む。


「受付で名前を書くくらい、普通ではありませんか?」


「そういう人ばかりではないんです」


 残った一社の代表者は、僅かに声を強めた。


「何十年も、顔を見れば分かる付き合いをしてきた。荷物を持ってきて、少し話をして帰る。そんな人たちに、毎回身分証を出して手続きをしろとは言いにくいんです」


「ですが、今のまま誰でも入れる状態にはできません」


 高槻興産の担当者が答える。


「再整備では、防犯性の向上も重要な目的です」


「分かっています」


「なら、取引先へ説明していただくしかありません」


 代表者は何も言わなかった。


 神谷は、その表情を見る。


「戻ること自体を、迷っているんですか?」


「……少し」


「管理費が理由ではなく?」


「金額も気になっていました。でも、それだけなら今日の案で納得できます」


「では、長く付き合ってきた方が来づらくなることが、一番の理由ですか?」


「はい」


 代表者は机の上で両手を組んだ。


「新しく、綺麗になることが悪いとは思っていません。でも、今までうちへ来てくれた人たちを、入口で追い返すような場所にはしたくないんです」


 樹里は資料を確認する。


 再整備後の入退館規則。


 来訪者は正面受付、または搬入口で身分と訪問先を確認する。


 原則として、社員が迎えに来るまで共用部で待機する。


 規則だけを見れば、例外を認める根拠はない。


『事前登録は可能です』


 樹里が言う。


「事前登録?」


『継続的に出入りする取引先を、入居企業があらかじめ登録する制度です』


「そんなものがあるんですか?」


『現在の案にはありません』


 高槻興産の担当者が樹里を見る。


「日高さん。新しく作るという意味ですか?」


『はい』


「防犯上、難しいと思います」


『入館確認をなくすわけではありません』


 樹里は規則案の一部を示した。


『初回に会社名、氏名、車両情報を登録します。二回目以降は、登録証か発行した番号で本人確認を行います』


「身分証の提示を毎回求めないということですか?」


『登録内容と一致し、入居企業が当日の訪問を承認している場合に限ります』


「でも、事前に来る時間が分からない人もいます」


『入居企業ごとに、継続取引先の受け入れ時間を設定します。その時間内であれば、到着後に内線で確認する形にできます』


 代表者が資料へ目を落とす。


「今までと全く同じにはならないですよね」


『なりません』


 樹里は誤魔化さなかった。


『再整備後は、誰でも自由に区画へ入れる状態にはできません』


「そうですよね」


『ただ、必要な安全を守りながら、手続きを減らすことはできます』


 神谷が続ける。


「長く付き合ってきた方々を締め出すための受付ではありません。誰がどの会社へ来ているかを、高槻興産と入居企業が把握するためのものです」


「取引先へ、そう説明してもらえますか?」


「はい。必要であれば、登録制度をまとめた案内を島川不動産で作成します」


「高齢の方も多いんです。難しい書類は嫌がられます」


「登録に必要な書類は、一枚にまとめます。初回の記入も、受付で補助できるよう高槻興産へ提案します」


 高槻興産の担当者が困ったように眉を寄せる。


「こちらの人員にも関わる話です。今すぐ認めるとは言えません」


「承知しています」


 神谷は担当者を見る。


「その点も含めて、必要な手順と費用を島川不動産でまとめます」


『受付業務の負担が増える場合は、管理契約にも反映する必要があります』


 樹里が加える。


『登録件数の上限と、更新期間も決めます』


「更新期間?」


『取引が終わった相手の登録を、いつまでも残すことはできません。一年ごとに入居企業へ確認し、不要な登録は削除します』


「それなら、検討できると思います」


 担当者が答えた。


 神谷は最後の一社の代表者を見る。


「この制度が認められれば、再入居を決められますか?」


「社内と取引先へ確認は必要です」


「はい」


「でも、戻る方向で話せると思います」


 神谷が頷く。


「では、三日以内に制度案を作成します」


『管理費とは別に、入退館規則の特約としてまとめます』


 樹里が言う。


「お願いします」


 最後の一社も、条件付きで受け入れる意思を示した。


 会議が終わり、七社の代表者が退出する。


 高槻興産の担当者も、受付部門との協議へ向かった。


 会議室には、神谷と樹里だけが残った。


「金額ではありませんでしたね」


『そうですね』


「日高さんは、最初から気づいていましたか?」


『いいえ』


 樹里は正直に答えた。


『資料だけでは、分かりませんでした』


「俺も、今日表情を見るまでは分かりませんでした」


『個別の聞き取りでは、話していませんでしたね』


「管理費の話とは別だと思っていたのでしょう」


『ですが、再入居の判断には関係していた』


「はい」


 神谷は窓の外を見る。


「数字がまとまっても、人が残らなければ意味がありません」


『それでも、安全管理をなくすことはできません』


「分かっています」


『継続取引先の制度には、厳しい条件を設けます』


「お願いします」


『神谷さん』


「はい」


『今回の制度案は、神谷さんが理由を聞かなければ作れませんでした』


 神谷が樹里を見る。


『私一人で進めていれば、管理費の合意を得た時点で終わったと判断していたと思います』


「俺一人なら、事情を聞いても安全管理との両立方法を出せませんでした」


『そうでしょうね』


「そこは否定していただけませんか?」


『事実です』


 神谷が僅かに笑う。


「では、今回も二人で正解でしたね」


 樹里はすぐには答えなかった。


 机の上には、神谷が聞き出した事情と、樹里が作ろうとしている制度が並んでいる。


 片方だけでは、最後の一社を残せなかった。


『はい』


 樹里が答える。


『二人で正解だったと思います』


 神谷の笑みが、少しだけ深くなった。


「日高さんから、そこまで素直に認めていただけるとは思いませんでした」


『私も、必要なことは認めます』


「嬉しいです」


『仕事の話です』


「分かっています」


 そう答えながら、神谷の表情は変わらなかった。


 翌日。


 陸が施工側から届いた修正版を確認していると、陽菜が隣へ来た。


『どう?』


「重量のある機材だけ、前日に別の出入口から搬出する計画へ変わっています」


『消火設備のところは通らない?』


「はい。ほかの機材は小型のフォークリフトで運びます」


『稼働中の機材との距離は?』


「施工側と、機材を使用している会社の両方に確認しました。問題ありません」


『そっか』


 陽菜は資料を見る。


 陸が見つけた問題は、正式な工程へ反映されている。


『じゃあ、日高先輩と神谷さんに提出して』


「はい」


『陸』


「何ですか?」


『次から、同じくらいのことなら、あたしに見せる前に提出していいよ』


 陸が目を見開く。


「俺の判断でですか?」


『うん。ただし、どこを確認したかは残して』


「分かりました」


『危険があるときと、契約が変わるときは先に相談して。それ以外は、陸が進めていい』


「はい」


『できる?』


「やります」


 陸は、はっきりと答えた。


 陽菜は笑い、自分の席へ戻る。


 今までなら、最後は必ず自分で確認しなければ気が済まなかった。


 だが、陸が見つけ、考え、相手へ伝えた結果が目の前にある。


 任せられるかを考える段階は、もう終わっていた。


 任せたあと、必要なときに支える。


 これから陽菜が覚えるべきなのは、そちらだった。


 午後。


 神谷と樹里は、継続取引先の登録制度をまとめた資料を持ち、高槻社長のもとへ向かった。


 説明を聞き終えた高槻社長は、椅子へ深く背を預ける。


「管理費の話をしていたはずが、入館制度まで作ったのか」


「必要な条件でした」


 神谷が答える。


「誰にとってだ」


「再入居する会社と、その取引先にとってです」


「高槻興産にとっては、仕事が増える」


『その分、島川不動産の管理業務へ組み込みます』


 樹里が言う。


「費用は?」


『試算はこちらです』


 樹里が資料を差し出す。


 高槻社長は数字を確認する。


「安くはないな」


『安全管理を維持するために必要な費用です』


「この制度がなければ、最後の一社は戻らないのか」


「まだ断定はできません。ただ、戻る方向で検討すると回答をいただいています」


「お前たちは、十七社を残すために、どこまで条件を増やすつもりだ」


「必要なところまでです」


 神谷は迷わず答えた。


 高槻社長の目が細くなる。


「神谷」


「はい」


「必要かどうかを決めるのは、お前か?」


「最終的に決めるのは高槻社長です」


「なら、余計な案を持ってくるなと言ったらどうする」


「この案がなければ一社を失う可能性があると、もう一度説明します」


「日高。お前も同じ考えか」


『はい』


「最初からか?」


『いいえ。最初は、管理費の条件だけを整えればよいと考えていました』


「今は違うのか」


『最後の一社が戻れなければ、十七社をまとめたことにはなりません』


 高槻社長は二人を交互に見る。


「この制度で問題が起きたら、誰が責任を取る」


「島川不動産が管理します」


 神谷が答える。


『登録条件と入退館記録を残し、問題が生じた取引先は登録を取り消します』


「そこまで契約へ入れろ」


『すでに特約案へ記載しています』


「なら、受付部門と法務へ回せ」


「ありがとうございます」


「まだ認めたとは言っていない」


 高槻社長は資料を閉じた。


「三日で社内を通せ。最後の一社から、その場で回答を取れ」


「はい」


「これ以上、後ろへ延ばすな」


『承知しました』


 二人が立ち上がる。


 扉へ向かう背中へ、高槻社長の声が飛んだ。


「神谷。日高」


 二人が振り返る。


「ここまで来て、一社でも落とすな」


「はい」


『承知しました』


「十七社全部を残してから、成功したと言え」


 二人はもう一度頭を下げ、社長室を出た。


 廊下を歩きながら、神谷が小さく息を吐く。


「三日ですか」


『最初から、その予定です』


「そうでしたね」


『間に合わせます』


「二人で?」


 樹里は神谷を見る。


『当然です』


 二人は並んで歩き出した。


 十七社すべてを残すための、最後の条件が形になろうとしていた。

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