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295話「七社の席」

三日後。


 高槻興産本社の会議室には、再整備後の北側区画へ戻ることを希望している七社の代表者が集まっていた。


 長い机を囲むように、それぞれの会社名が書かれた札が並んでいる。


 高槻興産からは担当者二人。


 島川不動産からは、神谷、樹里、萌が出席していた。


 各社へ配られた資料には、再整備後に必要となる管理費の総額と、その算出根拠が記載されている。


 樹里が作成した最初の案も、比較資料として添えられていた。


「本日は、お時間をいただきありがとうございます」


 神谷が立ち上がる。


「すでに個別の聞き取りを行っていますが、再整備後の管理費について、二社から増額へご意見をいただいています」


 一人の代表者がすぐに口を開く。


「意見ではなく、納得できないと言ったんです。うちは今までと同じ面積しか使わない。それなのに、どうして管理費だけ上がるんですか」


「共用設備の増加と、警備体制の変更が主な理由です」


「頼んでいない設備まで増やされて、費用だけ払えと言われても困ります」


 別の代表者も資料を持ち上げる。


「うちも同じです。新しい会議室を使う予定はありません。休憩用の共用スペースも必要ない。使わないものの費用を負担するのは違うでしょう」


「だったら、使う会社だけで払えということですか?」


 向かい側の代表者が反論する。


「うちは従業員が多いから、設備を利用する人数も増える。だからといって、ほかの会社の何倍も払うのは納得できません」


「使う人数が多いなら、負担が増えるのは当然でしょう」


「今までの管理費は占有面積で決めていたはずです」


「新しい設備が増えるから、今の話をしているんじゃないですか」


 始まって数分で、各社の主張がぶつかり始めた。


 萌は発言者と内容を記録していく。


 樹里は手元の資料を確認していた。


 事前に予想していたとおりだった。


 七社を一つの席へ集めれば、二社だけの問題ではなくなる。


 自社より他社の負担が少なくなる可能性を知れば、これまで増額を受け入れていた会社からも不満が出る。


 樹里は神谷を見る。


 神谷は、すぐに話を止めようとはしなかった。


 各社が何を問題だと考えているのか、最後まで聞いている。


「警備費まで利用頻度で分けるんですか?」


「警備は全社共通でしょう」


「でも、夜間まで営業する会社と、夕方に閉める会社では負担が違ってもいいんじゃないですか」


「それなら清掃も同じです。人の出入りが多い会社の方が、共用部を汚すでしょう」


「そんなことまで一社ずつ計算するつもりですか?」


「そもそも、管理費の増額自体を抑えるべきです」


 意見が一通り出たところで、神谷が口を開いた。


「皆さまが、自社で利用しない設備の負担へ納得できないことは分かりました」


「では、減額してもらえるんですか?」


「管理費全体を、現在の金額まで下げることはできません」


 神谷は、はっきりと答えた。


 会議室の空気が僅かに変わる。


「再整備後は設備だけではなく、建物の維持や警備に必要な費用も増えます。総額そのものをなくすことはできません」


「結局、払えという話ですか」


「同じ割合で負担していただく必要はないと考えています」


 神谷は樹里が作成した資料を開いた。


「島川不動産では、占有面積と設備の使用頻度をもとに、会社ごとの負担額を算出しました」


「それでは、うちの負担が高すぎるんです」


「はい。そのご意見を聞くために、本日お集まりいただきました」


 神谷は一人ずつ顔を見る。


「ただし、ここで負担を減らす会社があれば、その分をほかの会社か高槻興産が負担することになります」


「高槻興産が負担すればいいでしょう。そちらの再整備なんですから」


 高槻興産の担当者が口を開こうとする。


 神谷が僅かに手を上げ、それを止めた。


「その案も含めて検討しています。ただ、高槻興産だけへ負担を求め続ければ、再整備後の賃料や契約条件へ反映される可能性があります」


「それでは意味がない」


「はい。誰か一社へ負担を押しつけても、長期的な解決にはなりません」


 神谷は会議室前方に用意された画面へ、管理費の内訳を表示した。


「まず、どの費用が全社に必要で、どの費用が利用状況によって変わるのかを分けたいと思います」


 警備。


 共用部の照明。


 法定点検。


 建物の清掃。


 共用会議室。


 休憩スペース。


 搬入口と荷物用設備。


「警備や法定点検は、利用しないという選択ができません。これらは全社共通の費用として、占有面積をもとに負担していただく必要があります」


「会議室や休憩スペースは?」


「利用状況に応じて分けることが可能です」


「最初の資料では、一緒に計算されていますよね」


『はい』


 樹里が答える。


『最初の案では、すべての共用設備を利用頻度によって配分していました』


「それを変えるんですか?」


『今日のご意見をもとに、変更を検討します』


 樹里は手元の資料を閉じた。


『ただし、警備や法定点検まで利用頻度だけで分けることはできません。それらは建物を使用する全社へ必要な費用です』


「では、どこまでが共通で、どこからが利用分になるんですか?」


『それを、今ここで決めます』


 七社の代表者が互いの顔を見る。


 神谷が萌へ視線を向けた。


「川原さん。事前にまとめてもらった利用予定を出してください」


「はい」


 萌が資料を配る。


 七社へ聞き取った、再入居後の設備利用予定だった。


 利用人数だけではなく、利用する時間帯や頻度まで記載されている。


 一人の代表者が資料を見ながら尋ねる。


「休憩スペースを使う予定がないと答えましたが、あとから使った場合はどうなるんですか?」


「一年ごとに実績を確認し、次年度の負担額へ反映する案です」


 萌が答える。


「毎年、管理費が変わるんですか?」


「すべてが変わるわけではありません」


 萌は手元の資料を開いた。


「費用を三つに分けることはできないでしょうか」


 樹里が萌を見る。


『三つですか?』


「はい。全社が負担する固定費、利用登録をした会社が負担する設備費、実際の利用量で変わる変動費です」


 萌は前方の一覧を指した。


「警備や法定点検、最低限の清掃は固定費です。共用会議室や休憩スペースは、利用を希望する会社が設備費を負担します。荷物用設備や時間外の警備など、利用量を記録できるものは変動費にします」


「使うと申告した会社だけが、会議室の費用を払うということですか?」


「はい。ただし、登録していない会社は原則として利用できません。急に利用する場合は、別途使用料を支払う形にします」


「それなら、使わない会社へ負担させずに済む」


「でも、登録する会社が少なければ、一社当たりの負担は増えますよね」


「はい。その場合は、共用設備そのものの規模や運用方法を見直す必要があります」


 萌は相手の懸念を否定せずに答えた。


「最初からすべての設備を同じ形で維持するのではなく、実際に使う会社の数に合わせた方がよいと思います」


 神谷が資料へ目を落とす。


「日高さん。この区分で計算できますか?」


『できます』


 樹里は即答した。


『固定費を占有面積、設備費を登録会社数と利用予定人数、変動費を実績で分けます』


「利用人数が多い会社だけ、また高くなりませんか?」


 代表者の一人が尋ねる。


『人数だけでは決めません』


 樹里は、萌が作成した一覧を開く。


『設備を維持するために必要な最低額は、登録した会社で均等に負担します。それを超える部分だけ、利用予定人数に応じて配分します』


「最低額と超過分を分けるということですか?」


『はい』


「今、この場で金額を出せますか?」


『概算であれば可能です』


 樹里はパソコンを開き、計算を始めた。


 萌が隣へ座り、必要な数字を伝える。


「会議室の利用登録は五社です」


『予定人数は?』


「こちらです」


『休憩スペースは六社』


「はい。ただし、一社は繁忙期だけの利用を希望しています」


『その期間を変動費へ分けます』


「分かりました」


 二人のやり取りを、七社の代表者が見ている。


 神谷はその間も、各社から細かな希望を聞き続けた。


「固定費が増えるのは、どの会社も同じですか?」


「割合は占有面積に応じます」


「夜間警備は、昼間しか使わない会社も負担するんですか?」


「最低限の警備費は全社共通です。時間外に必要となる追加分は、該当する会社だけで負担する案にします」


「途中で利用登録を変えることは?」


「半年ごとに変更できるよう、高槻興産へ提案します」


「一年ではないんですか?」


「新しい建物へ移った直後は、想定と実際の利用が異なる可能性があります。最初の二年間は半年ごと、それ以降は一年ごとの見直しが現実的だと思います」


 話し合いが始まってから二時間近くが過ぎた。


 最初は互いの負担額だけを見ていた代表者たちも、少しずつ管理費全体を見るようになっていた。


 やがて、樹里が概算表を完成させる。


『お待たせしました』


 画面へ、新しい負担案が表示される。


 全社共通の固定費。


 登録制の設備費。


 使用量に応じた変動費。


 これまで増額へ反対していた二社の負担は減っている。


 一方、従業員数の多い会社も、最初の案ほど大幅な増額にはなっていなかった。


「この金額なら、社内へ持ち帰って検討できます」


 一人が言う。


「うちもです」


「会議室の登録だけは、もう一度考えさせてください」


「半年ごとに変更できるなら、最初は登録してもいいかもしれません」


 すべての了承を得たわけではない。


 それでも、最初のように増額そのものを拒む声はなくなっていた。


 神谷が全員を見る。


「本日の内容をもとに、三営業日以内に正式な案を作成します」


「そのあと、また集まるんですか?」


「必要であれば集まります。ただし、今日決めた区分を最初からやり直すことはしません」


 神谷の声が引き締まる。


「設備を利用するかどうかは、各社で決めていただけます。ただ、管理費の総額と、全社共通で負担する固定費は変えられません」


 代表者たちが頷く。


「次回は金額の確認を中心とし、新しい条件を増やす場にはしないことを、あらかじめご了承ください」


 相手の話を聞く。


 だが、すべてを受け入れるわけではない。


 神谷は最初に決めた期限と総額を崩さなかった。


 会議が終わり、代表者たちが退室する。


 高槻興産の担当者も、社内で確認すると言い残して部屋を出た。


 会議室には、島川不動産の三人だけが残った。


「お疲れさまでした」


 神谷が椅子へ座る。


「想像以上に意見が出ましたね」


『だから、時間が掛かると言いました』


「はい」


『ですが、必要な時間だったと思います』


 神谷が樹里を見る。


「認めていただけるんですか?」


『話し合いを開いたことは、間違いではありませんでした』


「ありがとうございます」


『ただし、川原さんの案がなければ、今日中にはまとまらなかったと思います』


 萌が驚いたように顔を上げる。


「私の案ですか?」


『はい』


「でも、私は利用予定を分けただけです」


『その分け方が必要でした』


 樹里は画面に残った概算表を見る。


『私の最初の案では、固定費と設備費を同じ基準で計算していました』


「日高さんの計算があったから、三つに分けられたんです」


『それでも、気づいたのは川原さんです』


 萌はすぐに言葉を返せなかった。


 神谷が穏やかに笑う。


「川原さん。ありがとうございます」


「いえ。私は、櫻井先輩に、利用するかどうかだけでは足りないと言われたので」


「櫻井さんに?」


「はい。使う時間や人数も確認するように教えていただきました」


『それを三つの区分へ変えたのは、川原さんです』


「……はい」


 萌は資料を両手で持ち直した。


「ありがとうございます」


 会社へ戻る頃、陽菜は自分の席で陸からの連絡を待っていた。


 陸は施工側の定例確認へ参加している。


 予定では、すでに会社へ戻っている時間だった。


 陽菜はスマートフォンを見る。


 連絡を入れようとして、指を止めた。


 現場で何かあれば、陸から連絡する。


 そう決めて送り出した。


 こちらから急かせば、任せたことにはならない。


「陽菜さん」


 中井に呼ばれ、陽菜が顔を上げる。


「気になるなら、連絡した方がいいのではありませんか?」


『待ってるの』


「先ほどから、何度も画面を見ています」


『時間を確認してるだけ』


「壁にも時計があります」


『細かいな』


「心配なんですよね」


『陸が戻るの遅いから』


「なら、聞いてもいいと思います」


『でも、任せたから』


 陽菜はスマートフォンを伏せた。


『何かあれば、自分で連絡してくるでしょ』


「はい」


『だから待つ』


「分かりました」


 それから数分後、陽菜のスマートフォンが鳴った。


 陸からだった。


 陽菜はすぐに電話へ出る。


『もしもし、陸?』


「陽菜先輩。今、お時間よろしいですか?」


『うん。何かあった?』


「仮設通路の幅が、図面と違います」


 陽菜の表情が変わる。


『どれくらい?』


「図面では三メートル確保されていますが、現場では資材が置かれていて、二メートルほどしかありません」


『人が通るだけなら足りるけど、機材の搬出には無理だね』


「はい。それだけではなく、資材を避けるためにフォークリフトが切り返すと、稼働中の機材へ近づきます」


『施工側には確認した?』


「現場の担当者は、搬出日までに資材を移動すると言っています」


『信用できない?』


「移動先が決まっていません」


 陽菜は僅かに目を見開いた。


『そこまで聞いたんだ』


「はい。どこへ動かすのか確認したところ、まだ決めていないと言われました」


『写真は?』


「撮りました。通路の幅も測っています」


『機材を使ってる会社には?』


「担当者に現場を見てもらいました。このままでは危険なので、搬出計画が決まるまで該当部分への資材搬入を止めてほしいと言われています」


『施工側は止めるって?』


「現場担当者だけでは決められないそうです。今、責任者へ確認してもらっています」


 陸は、陽菜が教えた確認をすべて終えていた。


 施工側の説明だけで終わらせない。


 実際の幅を測る。


 機材を使う会社にも確認する。


 その場で分からないことを残さず、判断できる人間へ上げる。


『陸』


「はい」


『そのまま現場にいて』


「分かりました」


『施工側の責任者から回答が出るまで、写真と測った数字を整理して』


「はい」


『搬入を止めるかは、あたしから神谷さんと日高先輩へ相談する』


「お願いします」


『勝手に作業へ触らないでね』


「分かっています」


『それと』


「はい」


『よく気づいたね』


 電話の向こうが静かになる。


「ありがとうございます」


『戻ったら、直接報告して』


「はい」


 通話を終える。


 陽菜はすぐに立ち上がろうとした。


 その瞬間、僅かな眩暈を感じて机へ手をつく。


「陽菜さん」


 中井が席を立つ。


『大丈夫。急に立ったから』


「座ってください」


『でも、陸の報告を――』


「俺が神谷さんへ連絡します」


『中井くんは担当じゃないでしょ』


「では、日高さんが戻るまで待ってください」


『現場は待ってくれないよ』


「電話で相談できます」


『あたしが行った方が早い』


「陽菜さん」


 中井の声が低くなる。


 陽菜は口を閉じた。


 以前なら、そのまま現場へ向かったかもしれない。


 だが、今は陸がいる。


 写真も数字もそろえている。


 陽菜が現場へ行かなければ、何も進まないわけではない。


『……分かった』


「座っていてください」


『日高先輩に電話する』


「はい」


 陽菜は椅子へ座り直し、樹里へ電話をかけた。


 樹里は高槻興産の会議室を出たところだった。


『櫻井さん。どうしましたか?』


『陸から報告がありました。仮設通路が図面より一メートル狭くなっています』


『理由は?』


『施工側の資材です。移動先もまだ決まっていません』


『山本さんは、現地にいますか?』


『はい。幅を測って写真も撮ってます。機材を使ってる会社の担当者にも確認して、今のままでは危険だという回答をもらっています』


 樹里が僅かに黙る。


『分かりました。こちらから施工側の責任者へ連絡します』


『あたしも現場へ――』


『必要ありません』


『まだ最後まで言ってない』


『来ると言うつもりでしょう』


『そうだけど』


『山本さんが必要な確認を終えています』


『でも、陸一人だよ』


『一人で対応できないと判断すれば、山本さんから連絡があります』


『もう連絡は来た』


『必要な判断を上へ渡すための連絡です。助けに来てほしいとは言っていないでしょう』


 陽菜は返事に詰まる。


『……言ってない』


『なら、山本さんへ任せてください』


『分かりました』


『櫻井さんは、山本さんが戻ってから報告を聞いてください』


『はい』


『体調は?』


『ちょっと立ち眩みしただけ』


『中井さんは近くにいますか?』


『いるよ』


『代わってください』


『何で?』


『確認します』


『何を』


『櫻井さんの状態です』


『大丈夫って言ってるじゃん』


『中井さんへ代わってください』


『過保護』


『早くしてください』


 陽菜は不満そうにスマートフォンを中井へ渡した。


『日高先輩』


「はい、代わりました」


 中井は陽菜を見ながら、樹里の質問へ答えていく。


 顔色。


 眩暈が続いていないか。


 椅子へ座っているか。


 樹里の尋問に、中井は一つずつ答えた。


 通話を終え、スマートフォンを陽菜へ返す。


「今日は、もう外へ出ないようにとのことです」


『聞こえてた』


「それと、少し休んでください」


『それも聞こえてた』


「では、休憩室へ行きましょう」


『陸が戻るまで待つ』


「戻るまで時間が掛かります」


『じゃあ、戻ったら起こして』


「分かりました」


 陽菜は中井に付き添われ、休憩室へ向かった。


 現場へ行かないことには、まだ落ち着かなさがある。


 だが、自分がいなくても陸は必要なものを見つけ、判断し、報告できた。


 それは陽菜の仕事を奪ったのではない。


 陽菜が教えたことを、陸が自分の力にした証拠だった。


 一時間後。


 会社へ戻った樹里と神谷は、すぐに施工側と連絡を取った。


 問題となった資材は別の保管場所へ移されることが決まり、該当部分への搬入は一時停止された。


 正式な搬出計画を再提出するまで、新しい資材は置かない。


 その条件を確認したあと、陸が会社へ戻ってきた。


「戻りました」


『お疲れさま』


 休憩を終えた陽菜が立ち上がる。


『報告、お願い』


「はい」


 陸は撮影した写真と、自分で測った通路幅を見せた。


 施工側から受け取った回答も、時系列にまとめられている。


「現場の責任者から、明日の午前中までに新しい搬出計画を提出すると回答がありました」


『分かった』


「資材を移すまでは、搬入を止めています」


『うん』


「ほかに確認することはありますか?」


 陽菜は資料へ目を落とした。


 自分なら何を確認したか。


 考えても、抜けているものは見つからなかった。


『ないよ』


「では、明日届く計画を確認します」


『それも陸がやって』


 陸が顔を上げる。


「俺がですか?」


『今日、現場を見たのは陸でしょ』


「はい」


『なら、新しい計画で本当に通れるか、一番分かるのも陸だから』


「分かりました」


『確認したあと、あたしにも見せて』


「はい」


 陽菜は陸へ資料を返した。


『陸』


「はい」


『今日は助かった』


「俺は、陽菜先輩に教えていただいたとおり確認しただけです」


『教えたことを全部できる人ばっかりじゃないよ』


「ありがとうございます」


『次もお願い』


「はい」


 少し離れた場所で、萌がその会話を聞いていた。


 陽菜が自分たちへ仕事を渡すのは、体調を理由に仕方なくではない。


 二人の判断を認めたうえで任せ始めている。


「櫻井さん」


 神谷が陽菜へ声をかける。


「川原さんの方も、今日の話し合いで新しい案を出してくれました」


『萌が?』


「はい」


 萌が少し緊張した様子で陽菜を見る。


「管理費を、三つに分ける案です」


『三つ?』


「全社共通の固定費と、登録する会社が負担する設備費、それから利用量に応じた変動費です」


『それで、二社は納得したんですか?』


「正式な回答はこれからですが、持ち帰って検討できるところまでは進みました」


 陽菜は萌を見る。


『萌が考えたの?』


「陽菜先輩に、利用する時間と人数まで確認するよう言われたので、その資料を見ていて思いつきました」


『そっか』


 陽菜は笑った。


『やるじゃん』


「ありがとうございます」


『でも、まだ正式に決まってないからね』


「はい。最後まで確認します」


『うん。任せた』


 陸と萌が、それぞれ自分の席へ戻る。


 陽菜は二人の背中を見つめた。


『あたしがいなくても、回せるようになってきたね』


 小さく呟いた言葉を、陸が聞き取って振り返る。


「いなくても、ではありません」


『え?』


「陽菜先輩から教わったから、回せるようになったんです」


 陽菜は何も言えなかった。


 陸は恥ずかしくなったのか、すぐに前へ向き直る。


 萌も隣で、僅かに笑っていた。


 陽菜は自分の席へ座る。


 仕事を渡せば、自分の役目が減ると思っていた。


 だが、陸と萌の中には、陽菜が教えてきたものが残っている。


 自分がすべてを抱え続けることだけが、仕事を守る方法ではなかった。


 その日の終業後。


 会議室では、樹里と神谷が七社との話し合いを振り返っていた。


『条件が増えるという私の懸念は、外れていませんでした』


「はい。予想以上に増えました」


『それでも、個別交渉へ戻さないのですか?』


「戻しません」


『理由は?』


「今日の話し合いで、七社が管理費の総額を共有できたからです」


 神谷は代表者たちの発言をまとめた記録を開く。


「最初は、自社の負担だけを減らそうとしていました。でも最後には、どの費用を誰が負担するべきかを話していました」


『川原さんの案が出たからです』


「日高さんの数字があったから、川原さんも分けられたんです」


『私の案だけでは、二社の不満は残っていました』


「俺が話を聞くだけでも、答えは出ませんでした」


 二人は完成した概算表を見る。


 樹里だけでも作れなかった。


 神谷だけでもまとめられなかった。


 萌が集めた情報が加わり、初めて七社へ提示できる形になった。


「日高さん」


『何でしょうか?』


「三営業日という期限がなければ、今日の話し合いはもっと長引いていたと思います」


『そうでしょうね』


「話を聞くことと、すべてを受け入れることは違うと、改めて分かりました」


『神谷さんが期限を守ったことは評価します』


「厳しいですね」


『事実です』


「では、俺の方法も少しは認めてもらえましたか?」


 樹里はすぐには答えなかった。


『少しではありません』


 神谷が目を瞬かせる。


『必要な方法だったと思います』


「ありがとうございます」


『ただし、次の会議では条件を増やさせません』


「はい。そこは俺も同じ考えです」


『本当ですか?』


「疑っていますね」


『神谷さんは、相手の話を最後まで聞こうとするので』


「日高さんは、聞く前に切ろうとすることがあります」


『不要な話の場合です』


「それを決めるのが早いんです」


『今日も、同じ内容を繰り返していた会社がありました』


「それでも、本人にとっては必要な確認です」


『やはり、次回も私が同席します』


「お願いします」


『神谷さんだけでは、時間内に終わらない可能性があります』


「日高さんだけでは、始まる前に終わる可能性があります」


 樹里が神谷を見る。


 神谷は笑っていた。


『何がおかしいのですか?』


「いえ。次も二人で行けば、ちょうどいいと思いまして」


 樹里は僅かに視線を逸らした。


『仕事ですから、当然です』


「はい」


 二人の方法は、まだ同じではない。


 それでも、違うまま一つの答えへ向かい始めていた。

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