294話「返したいもの」
休日の朝。
陽菜が目を覚ますと、中井の姿は隣になかった。
カーテンの隙間から差し込む光は、すでに明るい。
枕元の時計を確認すると、午前九時を過ぎていた。
『……寝すぎた』
身体を起こす。
以前なら休日でも、もう少し早く目を覚ましていた。
妊娠してからは、夜に十分眠っても朝起きられない日がある。
身体の重さや吐き気は少しずつ和らいでいるが、眠気だけはなかなか消えなかった。
寝室を出ると、台所から小さな音が聞こえる。
中井が朝食を作っていた。
鍋から上がる湯気を確認し、火を弱めている。
『おはよう』
「おはようございます。体調はどうですか?」
『普通』
「吐き気は?」
『ないよ』
「眠気は残っていますか?」
『今起きたばっかりだから、少し』
「では、もう少し横になっていてもいいですよ」
『寝すぎると夜眠れなくなる』
「無理に起きる必要はありません」
『無理してないって』
陽菜は中井の背中へ近づき、後ろから抱きついた。
中井の身体が僅かに強張る。
「陽菜さん。火を使っています」
『抱きついてるだけじゃん』
「危ないですから」
『前は、これくらい平気だったでしょ』
「今は陽菜さん一人の身体ではありません」
『出た』
「何ですか?」
『それ、最近の中井くんの口癖』
「事実です」
『分かってるけど』
陽菜が腕を離す。
中井は振り返り、陽菜の顔色を確認した。
「座っていてください。もうすぐできます」
『何作ってるの?』
「お粥です」
『また?』
「昨日の夜、少し胃が重いと言っていたので」
『もう平気だよ』
「それでも、朝は軽いものの方がいいと思います」
『中井くんは?』
「俺も同じものを食べます」
『本当はパンがよかったんじゃない?』
「どちらでも構いません」
中井は鍋へ向き直る。
陽菜は、その横顔を見つめた。
妊娠が分かってから、中井は自分のことより陽菜を優先している。
食事は、陽菜が食べられるものに合わせる。
朝も先に起きて、体調を確認する。
仕事を終えれば、できるだけ寄り道をせずに帰ってくる。
陽菜が夜中に目を覚ませば、中井も必ず身体を起こした。
病院へ行く日も、式場と連絡を取るときも、陽菜を一人にしようとしない。
嬉しかった。
大切にされていることも分かっている。
だが、気づいてしまったことがある。
二人は、しばらく身体を重ねていない。
病院から禁じられたわけではなかった。
体調に問題がなければ、無理をしない範囲で夫婦生活を続けても構わないと説明されている。
それでも中井は、陽菜へ触れようとしなかった。
同じベッドで眠る。
抱き締めることも、額や唇へ軽く口づけることもある。
だが、その先へ進もうとしない。
陽菜の体調を気にしているのだと思っていた。
今も、その考えは間違っていない。
ただ、中井自身が何も求めていないわけではなかった。
昨夜、陽菜が寝返りを打って身体を寄せたとき、中井は一度だけ呼吸を止めた。
腰へ回しかけた手も、すぐに離した。
眠っていると思っていたのだろう。
陽菜は気づかないふりをした。
朝食を終え、中井が食器を片づける。
陽菜が手伝おうとすると、また止められた。
「置いておいてください。俺が洗います」
『そのくらいできるよ』
「分かっています」
『じゃあ、やらせて』
「陽菜さんは座っていてください」
『あたし、病人じゃないんだけど』
「病人だと思っていません」
『何もさせてくれないじゃん』
「何もではありません」
『ご飯作って、洗い物して、洗濯も中井くんがしたでしょ』
「陽菜さんは、昨日仕事をしていました」
『中井くんも仕事だったじゃん』
「俺は体調を崩していませんから」
中井は食器を洗い始めた。
陽菜は背中を見つめる。
『中井くん』
「はい」
『あたしが妊娠してから、我慢してることある?』
中井の手が僅かに止まった。
「特にはありません」
『嘘』
「嘘ではありません」
『じゃあ、こっち向いて』
「今、洗い物をしています」
『終わったらでいいから』
「分かりました」
最後の食器を洗い、布巾で手を拭く。
中井が振り返った。
「何でしょうか」
『ソファに座って』
「どうしてですか?」
『いいから』
中井は不思議そうにしながら、言われたとおりソファへ座った。
陽菜も隣へ腰を下ろす。
中井の顔を覗き込んだ。
『本当に、何も我慢してない?』
「はい」
『セックスしてないのに?』
中井の表情が固まる。
「陽菜さん」
『ずっとしてないじゃん』
「体調が安定するまでは、その方がいいと思っています」
『お医者さんは、無理しなければいいって言ってたよ』
「それでも、何かあったら後悔します」
『したくない?』
「そういう意味ではありません」
『じゃあ、したいんだ』
「陽菜さん」
中井が視線を逸らす。
陽菜は、その反応で十分だった。
『あたしに触るのも我慢してるでしょ』
「我慢というほどではありません」
『昨夜、手を離したじゃん』
中井が陽菜を見る。
「起きていたんですか?」
『途中から』
「すみません」
『何で謝るの』
「起こしたかもしれないので」
『違うよ』
陽菜は中井の手を取った。
『中井くんが何も言わないから、気づくの遅れた』
「気づかなくていいことです」
『よくない』
「今は、陽菜さんと子どもの方が大切です」
『あたしだって、中井くんが大切だよ』
「分かっています」
『分かってない』
陽菜はソファから立ち上がった。
中井の前へ回り、その場へ膝をつく。
何をしようとしているのか察した中井が、すぐに腰を浮かせた。
「陽菜さん、やめてください」
『座ってて』
「その体勢は身体に負担が掛かります」
『平気だよ』
「駄目です」
中井が立ち上がろうとする。
陽菜は両手を膝へ置き、その動きを止めた。
『中井くん』
「はい」
『あたしがしたいの』
「ですが――」
『我慢してる中井くんを見てる方が嫌』
「陽菜さんに何かしてほしくて、我慢していたわけではありません」
『分かってる』
「なら――」
『中井くんが、あたしと子どものために我慢してることも分かってる』
陽菜は真っ直ぐ中井を見る。
『だから、あたしも中井くんを気持ちよくしてあげたい』
「無理をしていませんか?」
『してない』
「本当に?」
『うん』
「少しでも苦しかったら、すぐにやめてください」
『分かった』
「膝は痛くありませんか?」
『中井くん、今それ聞く?』
「大切なことです」
『痛くなったら言う』
「気分が悪くなった場合も――』
『分かってるって』
陽菜は困ったように笑い、中井の腰へ手を伸ばした。
それでも中井の表情から心配は消えない。
『嫌ならやめるよ』
「嫌ではありません」
『じゃあ、力抜いて』
陽菜は中井を受け入れた。
急がず、何度も中井の顔を見る。
中井の手が陽菜の髪へ触れかけ、そのたびに止まる。
陽菜は、その手を自分から取り、頭へ乗せた。
『触っていいよ』
「無理に動かしません」
『うん』
中井の指が髪を優しく撫でる。
押しつける力はなかった。
陽菜は自分の意思で、ゆっくりと愛情を返し続けた。
次第に中井の呼吸が乱れる。
「陽菜さん、もう……」
陽菜は止めなかった。
中井の身体が強張り、やがて大きく息を吐く。
そのすべてを陽菜は受け止めた。
しばらくして顔を上げると、中井がすぐに身体を屈めた。
「大丈夫ですか?」
『大丈夫』
「苦しくありませんでしたか?」
『平気だって』
「水を持ってきます」
『その前に』
陽菜は中井のシャツを掴み、顔を近づけた。
中井が僅かに動きを止める。
「陽菜さん、口を――」
『嫌?』
「嫌ではありませんが」
『じゃあ、キスして』
陽菜が先に唇を重ねた。
触れるだけでは終わらない。
中井の首へ腕を回し、深く求める。
中井も陽菜の背中へ腕を回した。
腹部を圧迫しないよう気をつけながら、身体を支える。
長い口づけのあと、二人は額を寄せた。
『中井くん』
「はい」
『あたしのこと大事にしてくれるの、嬉しいよ』
「はい」
『でも、中井くんだけが我慢するのは嫌』
「我慢させているつもりはありません」
『あたしが返したいと思ったときは、返させて』
「分かりました」
『何でも体調のせいにして止めないでね』
「無理をしていないかは確認します」
『それはいい』
「何度も聞くと思います」
『三回まで』
「回数を決めるんですか?」
『四回目からは無視する』
「それは困ります」
『じゃあ、三回で信じて』
「努力します」
『そこは分かったって言うところでしょ』
「陽菜さんが無理をする可能性があるので」
『しないよ』
「以前も同じことを言っていました」
『いつの話?』
「何度もあります」
『覚えてない』
「俺は覚えています」
陽菜は中井の胸へ頬を寄せた。
『じゃあ、中井くんが止めて』
「はい」
『でも、全部は止めないで』
「難しいですね」
『二人で覚えるんでしょ』
「そうでした」
中井は陽菜の身体を抱き締めた。
守るために遠ざけるのではなく、そばにいるための抱擁だった。
週が明けた島川不動産では、高槻興産の管理費を巡る交渉が始まっていた。
増額へ難色を示している二社のうち、一社は従業員数が多く、共用設備の使用も増えると見込まれている。
もう一社は少人数で、設備の多くを利用しない。
樹里は利用状況に応じて負担割合を変える案を作成した。
会議室の机へ、二社分の資料が並べられる。
「こちらが、新しい管理費の案ですか?」
神谷が尋ねる。
『はい。占有面積だけでなく、共用設備の使用頻度を項目へ加えました』
「少人数の会社は、現在とほぼ同じ金額ですね」
『使わない設備の費用まで一律に負担させれば、納得は得られません』
「ですが、使用頻度は将来変わる可能性があります」
『一年ごとに見直します』
「それでは、長期管理契約の金額が安定しません」
『公平性を優先すべきです』
神谷は資料を見つめた。
「日高さん。この案では、使用頻度の高い会社だけが大幅な増額になります」
『実際に使用する設備が多いからです』
「理屈は分かります」
『では、何が問題ですか?』
「相手が、自分たちだけ負担を押しつけられたと感じることです」
『数字の根拠は説明できます』
「正しい数字を見せれば、納得するとは限りません」
樹里の表情が僅かに硬くなる。
『根拠のない金額を提示するよりは、納得を得られます』
「俺は、根拠をなくせと言っているわけではありません」
『では、どのような案ですか?』
「二社だけに提示する前に、再入居を希望している七社を集めたいと思います」
『全社で話し合うのですか?』
「はい。設備の維持に必要な総額を見せたうえで、どこまでなら互いに負担できるかを聞きます」
『時間が掛かりすぎます』
「個別に決めれば、あとからほかの会社へ金額が伝わったときに不満が出ます」
『契約条件を他社へ開示する必要はありません』
「秘密にしておけばいいという話ではありません」
神谷の声が僅かに強くなる。
「長期の管理契約です。金額だけ合わせても、会社同士に不信感が残れば、いずれ別の問題になります」
『七社すべての希望を聞けば、まとまるものもまとまりません』
「だからといって、島川不動産だけで公平の形を決めるのは違うと思います」
『誰かが基準を作らなければ、話し合いは始まりません』
「日高さんの基準が間違っているとは言っていません」
『ですが、使わないつもりでしょう』
「決定案ではなく、話し合いの基礎として使います」
会議室の空気が張り詰める。
神谷も樹里も、自分の考えを引こうとしなかった。
樹里は数字と契約から、説明できる公平さを作ろうとしている。
神谷は、その数字を受け取る会社同士の感情まで残そうとしている。
どちらかが間違っているわけではない。
だからこそ、簡単には折り合わなかった。
「日高さん」
『はい』
「一度、七社の代表者と話をさせてください」
『その結果、条件がさらに増えた場合はどうしますか?』
「まとめます」
『誰がですか?』
「俺がです」
『神谷さん一人で?』
「話を聞くのは俺がします。その内容を条件へ変えるところは、日高さんにお願いしたいです」
『結局、同じことではありませんか』
「違います」
神谷は樹里の資料へ手を置いた。
「最初から数字を答えとして出すのではなく、最後に答えへするんです」
樹里は黙った。
神谷の方法は時間が掛かる。
新たな要望が出れば、工程全体にも影響する。
それでも、大野設備との交渉では、神谷が相手の事情を聞いたからこそ見つかった答えがあった。
『期限を決めます』
樹里が言った。
「はい」
『七社を集めるまでに三営業日。話し合いは一度だけです』
「分かりました」
『すべての希望を受け入れることはできないと、最初に伝えてください』
「伝えます」
『私は、現在の案を基礎資料として修正します』
「お願いします」
『ただし、まとまらなければ個別交渉へ戻します』
「はい」
神谷は頷いた。
意見が一致したわけではない。
樹里は今も、神谷の方法では時間が掛かりすぎると考えている。
神谷も、数字だけで契約を整えることには納得していない。
それでも二人は、どちらかの方法だけを選ばなかった。
会議室を出ると、陽菜が陸と萌へ資料を渡していた。
『陸は、明日の現場確認をお願い』
「はい」
『萌は、七社分の共用設備の利用予定をまとめて。今の使用状況だけじゃなくて、再入居後に増やす予定がないかも確認して』
「分かりました」
『分からないことがあったら、先方へ聞く前に一度あたしへ――』
陽菜の言葉が止まる。
すぐに言い直した。
『二人で相談して。それでも分からなかったら、あたしへ聞いて』
陸と萌が顔を見合わせる。
「二人で決めてもいいんですか?」
萌が尋ねる。
『勝手に契約を変えるのは駄目だよ。でも、何を聞くべきかくらいは自分たちで考えて』
「はい」
「分かりました」
陸も答える。
樹里は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
陽菜はまだ、自分ですべてを確認しようとする。
それでも以前より、陸と萌へ任せる範囲が増えていた。
「日高さん」
神谷に呼ばれ、樹里が振り返る。
『何でしょうか?』
「櫻井さんも、少しずつ任せ始めましたね」
『そうですね』
「日高さんも見習ってください」
『何の話ですか?』
「今の話です」
『私は、すでに分担しています』
「最後にすべて確認しようとしています」
『必要な確認です』
「櫻井さんも同じことを言いそうですね」
『私と櫻井さんを一緒にしないでください』
『聞こえてるんだけど』
陽菜が離れた場所から口を挟む。
『日高先輩だって、全然任せてないじゃん』
『今、神谷さんへ交渉を任せたところです』
『三営業日って期限つけたんでしょ』
『当然です』
『それ、任せたって言うの?』
「俺としては、任せてもらえたと思っています」
神谷が答える。
陽菜が笑う。
『神谷さん、日高先輩の扱い上手くなりましたね』
『櫻井さん』
『褒めてます』
『仕事へ戻ってください』
『はいはい』
陽菜は陸と萌のもとへ戻った。
樹里も自分の席へ向かう。
その背中を見ながら、神谷は僅かに笑った。
任せることは、手放すことではない。
相手が自分の代わりに動くのを、信じて待つことだった。
陽菜も、樹里も、少しずつそれを覚え始めていた。




