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293話「戻ってきた場所」

翌朝。


 陽菜が中井と一緒に営業部へ入ると、佐藤はすでに自分の席で仕事を始めていた。


「おはようございます」


『おはよう』


「おはようございます」


 中井も続ける。


 佐藤の返事も、表情も、昨日までと大きく違うわけではない。


 それでも陽菜には、すぐに分かった。


 佐藤の顔から、張り詰めていたものが消えている。


 陽菜は自分の席へ向かいながら、隣を歩く中井の袖を引いた。


『中井くん』


「何ですか?」


『佐藤くんの顔、見た?』


「見ました」


『戻ったと思う?』


「何がですか?」


『美園さんと』


「俺には分かりません」


『絶対分かってる顔じゃん』


「分かっていても、聞かない方がいいことはあります」


『昨日からそればっかり』


「陽菜さんが聞きたがりすぎるんです」


『気になるでしょ』


「気にはなります」


『じゃあ、聞いてよ』


「どうして俺が聞くんですか?」


『あたしが聞いたら、また怒られそうだから』


「俺なら怒られてもいいんですか?」


『中井くんなら、上手く聞けるでしょ』


「聞きません」


『役に立たないな』


「朝から酷くないですか?」


 陽菜は不満そうに席へ着いた。


 その声が聞こえたのか、佐藤が僅かにこちらを見る。


 目が合う。


 陽菜は口だけを動かした。


『戻った?』


 佐藤は困ったように眉を下げた。


 それから、誰にも分からないほど小さく頷いた。


 陽菜の顔に笑みが広がる。


『よかった』


 声には出さなかった。


 佐藤も、僅かに笑った。


「陽菜さん」


 中井が隣から呼ぶ。


『何?』


「今、聞きましたよね」


『聞いてないよ』


「口が動いていました」


『声は出してない』


「同じです」


『でも、答えてくれたよ』


「佐藤さんも甘いですね」


『中井くんも見習って』


「何をですか?」


『あたしの聞きたいことに答えるところ』


「普段から答えています」


『さっきは答えなかったじゃん』


「俺が答えられることではありませんから」


 陽菜がさらに言い返そうとしたとき、樹里が営業部へ入ってきた。


『おはようございます』


「おはようございます」


 社員たちの声が返る。


 樹里は自分の席へ向かう途中、一度だけ佐藤を見た。


 佐藤が立ち上がる。


「日高さん」


『はい』


「昨日は、ありがとうございました」


 周囲へ詳しい内容が伝わらないよう、それだけを口にした。


 樹里は佐藤の表情を見る。


 何があったのか、尋ねる必要はなかった。


『私は何もしていません』


「はい」


 佐藤は小さく頭を下げる。


「でも、ありがとうございました」


 樹里も僅かに頭を下げ、自分の席へ向かった。


 それ以上、二人が言葉を交わすことはなかった。


 朝礼が終わると、高槻興産の案件に関わる社員が会議室へ集められた。


 机の中央には、十七社分の移転条件をまとめた一覧が置かれている。


 神谷が立ち上がり、資料を開いた。


「機材の移設時期が問題となっていた会社から、費用分担について了承を得ました」


 黒澤が資料へ視線を落とす。


「二割負担でまとまったのか?」


「はい。仮設通路を設置し、七月まで一部の機材を現在の区画へ残します。その間、施工側は東側から工事を始めます」


「工期への影響は?」


「現時点ではありません」


『ただし、資材の搬入が予定より一日でも遅れれば、仮設通路の使用期間と重なります』


 樹里が補足する。


『施工側には、毎週の定例報告を求めます。山本さんにも現場へ参加してもらい、図面と実際の進捗を確認していただきます』


「はい」


 陸が答える。


「日高さん。俺は何を確認すればいいですか?」


『施工側の説明を聞くだけではなく、機材を使用している会社の担当者にも確認してください』


「両方ですか?」


『はい。施工側が問題ないと言っていても、作業音や振動で機材を動かせなくなる可能性があります』


「分かりました。確認項目をまとめてから、一度見ていただきます」


『お願いします』


 黒澤が次の資料をめくる。


「これで十七社の移転条件は全部そろったのか?」


「個別の条件は、一度そろいました」


 神谷が答える。


「一度?」


「再整備後の区画へ戻ることを希望している会社が七社あります。そのうち二社が、管理費の増額に納得していません」


「理由は?」


「現在より共用設備が増える一方、自社が使用する面積は変わらないためです」


「高槻側は?」


「設備が増える以上、減額には応じないとのことです」


 黒澤が深く息を吐く。


「移転がまとまったら、今度は戻ったあとの話か」


「はい」


「日高さん、契約上は?」


『管理費の見直しは可能です。ただし、一律で同じ割合を上げる必要はありません』


「会社ごとに変えるのか?」


『使用する設備と占有面積に応じて算出し直します』


「手間が掛かるな」


『十七社分ですから』


 樹里は当然のように答えた。


 黒澤が神谷を見る。


「神谷。日高さん一人に全部計算させるなよ」


「分かっています。川原さんと佐藤さんにも、基礎資料の整理をお願いしています」


「ならいい」


 神谷は工程表を閉じた。


「移転条件がまとまっても、工事と再入居後の契約が残っています。この案件は、まだ終わっていません」


 全員が頷く。


 高槻興産の北側区画に関わる仕事は、少しずつ形になっていた。


 最初は、十七社すべてを一つの工程で動かそうとしていた。


 今は一社ずつ事情を聞き、異なる条件を一つの計画へ組み直している。


 だが、会社ごとの合意が取れたことと、全体の契約が成立することは別だった。


 一つでも条件が崩れれば、ほかの会社へ再び影響が広がる。


 大きな利益が見込まれる分、最後まで気を抜くことはできなかった。


 会議が終わる。


 樹里が資料を持って席を立つと、神谷が隣へ並んだ。


「日高さん。管理費の算出ですが、今日中に終わらせるつもりですか?」


『その予定です』


「明日でも間に合います」


『早く提示できれば、先方にも検討する時間ができます』


「では、俺も残ります」


『神谷さんは午後から高槻興産へ行かれる予定では?』


「戻ってから手伝います」


『基礎資料は川原さんと佐藤さんへお願いしています』


「二人が整理したものを、最後に確認する人が必要でしょう」


『私が確認します』


「その日高さんを確認する人も必要です」


 樹里が足を止める。


『私の計算を疑っているのですか?』


「違います」


『では、何ですか?』


「日高さんが一人で全部やろうとしていないか確認します」


『その必要はありません』


「あります」


 神谷は譲らなかった。


「大野設備のときにも、一人で資料を抱えたでしょう」


『今回は分担しています』


「最後に全部引き取るつもりですよね」


『……確認が必要ですから』


「俺も確認します」


 樹里は神谷を見た。


 以前なら、仕事の邪魔になると断っていた。


 だが、大野設備との交渉を経て、神谷に預けたからこそ届いた答えがあった。


『分かりました』


「ありがとうございます」


『ただし、高槻興産から戻る時間が遅ければ、先に進めます』


「構いません。残っている分を俺が引き継ぎます」


『お願いします』


 二人は会議室を出た。


 六月に入り、日が沈む時間も遅くなっていた。


 陽菜が仕事を終える頃にも、窓の外にはまだ明るさが残っている。


 スマートフォンが震えた。


 美園から、短いLINEが届いていた。


『今日、総長と来られる?』


 陽菜はすぐに樹里を見る。


 樹里は管理費の資料へ向かっている。


 机の上には、まだ何枚もの書類が残っていた。


『日高先輩』


『何ですか?』


『美園さんが、今日Roseに来られるかって』


『今日は残業します』


『終わってからでもいいって聞いてみます』


『櫻井さんは先に帰ってください』


『二人で来てって言ってる』


 陽菜は美園からの画面を見せた。


 樹里は短く息を吐く。


『内容は?』


『書いてない。でも、たぶん昨日のこと』


 樹里の手が止まる。


『分かりました。仕事が終わり次第向かいます』


『あたしも待つ』


『先に行ってください』


『一人で行ったら、美園さんに全部聞いちゃうかもしれない』


『昨日聞いたでしょう』


『その後のことがあるじゃん』


『……好きにしてください』


 樹里は再び資料へ向き直った。


 午後に高槻興産へ出ていた神谷が戻り、樹里の隣へ座る。


 二人で計算結果を確認し、管理費の案を完成させた頃には、外はすっかり暗くなっていた。


「今日はここまでにしましょう」


 神谷が資料を閉じる。


『明日の午前中に、もう一度数字を確認します』


「はい。俺も確認します」


『神谷さんは、ほかの資料を進めてください』


「分担する話をしたばかりですよね」


『覚えています』


「なら、任せてください」


 樹里は一瞬だけ神谷を見る。


『分かりました』


 それを聞いた神谷が、僅かに笑った。


「お疲れさまでした」


『お疲れさまでした』


 樹里が席を立つ。


 待っていた陽菜も、すぐに鞄を持った。


『じゃあ、行こ』


『体調は大丈夫ですか?』


『大丈夫。夕方に少し休んだから』


『無理なら言ってください』


『分かってる』


 二人は会社を出て、Roseへ向かった。


 店へ入ると、美園がカウンターの中から顔を上げる。


『いらっしゃい』


『遅くなってすみません』


 樹里が答える。


 店内には、ほかの客もいた。


 美園は、樹里を見て笑う。


『日高さん、先に座ってて』


『分かりました』


『あたしは?』


『陽菜も座ってれば?』


『扱い違わない?』


『会社帰りの客と、勝手に冷蔵庫を開ける人の違い』


『今日は開けてないじゃん』


『昨日は開けた』


『水だったでしょ』


『人の店だから』


 陽菜が不満そうにカウンター席へ座る。


 客が帰るまで、三人は仕事や体調の話だけをしていた。


 最後の客を見送り、美園が入口の札を裏返す。


 鍵を閉めると、カウンターへ戻ってきた。


 樹里と陽菜の前へ立つ。


『それで、何の用だ』


 樹里が尋ねる。


 美園は一度、陽菜を見る。


『昨日、佐藤くんと話した』


『うん』


『全部?』


『全部話した』


 陽菜が身を乗り出す。


『それで?』


『戻った』


『本当に?』


『うん』


『よかった!』


 陽菜は椅子から立ち上がり、美園へ抱きつこうとする。


 美園が両手を前へ出して止めた。


『待って』


『何で?』


『勢いが怖い』


『大丈夫だって』


『陽菜、自分の身体を考えなよ』


『抱きつくくらい平気』


『駄目』


 美園はカウンターの中から出ると、陽菜の肩へ静かに腕を回した。


 自分から、腹部を避けるように抱き締める。


『これならいい』


『何それ』


『私が加減できるから』


『美園さん、過保護になってない?』


『総長のが移ったかも』


『私は過保護ではありません』


 樹里が答える。


『総長が一番酷いよ』


『病院は、仕事は、式はって、全部聞いたんでしょ』


『必要な確認です』


『避妊してたかまで聞いたじゃん』


『陽菜』


『それは必要なくない?』


『……確認です』


『今、間があった』


 美園が吹き出す。


 陽菜も笑い、美園の背中へ腕を回した。


『本当によかった』


『うん』


『佐藤くん、何て言った?』


『それを聞くために来たの?』


『気になるじゃん』


『根掘り葉掘り聞かないって約束したでしょ』


『昨日の話でしょ』


『一日で無効になる約束だったの?』


『全部じゃなくていいから』


『嫌』


『美園さん』


『嫌』


 美園は陽菜から離れ、樹里を見る。


『総長』


『何だ』


『佐藤くんを会議室に呼んだんだって?』


『誰から聞いた』


『佐藤くん』


『余計なことを』


『何を話したの?』


『子どもの話をしたか確認しただけだ』


『前の結婚のことも言ったんでしょ』


『理由そのものは話していない』


『分かってる』


『お前の許可なく話すことではないからな』


 美園は小さく頷いた。


『ありがとう』


『私は何もしていない』


『佐藤くんにもそう言ったんだってね』


『事実だ』


『それでも、佐藤くんが来たのは総長が背中を押したからだよ』


『決めたのは佐藤さんです』


『そういうことにしておく』


 樹里はグラスへ手を伸ばした。


 陽菜が美園を覗き込む。


『美園さん、嬉しそう』


『普通だよ』


『全然違う』


『何が?』


『昨日までより、顔が柔らかい』


『照明のせいじゃない?』


『毎回来てるから照明が同じなのは知ってる』


『しつこいな』


 そのとき、入口の扉が開いた。


 鍵を掛けたはずの扉が動き、三人が振り返る。


 美園が閉店前に、佐藤へ合鍵を渡していた。


「お疲れさまです」


 佐藤が店内へ入ってくる。


 片手には、小さな袋を持っていた。


『佐藤くん』


「日高さんと陽菜さんも来ていたんですね」


『何、その袋』


 陽菜がすぐに尋ねる。


「美園さんの夕食です」


『夕食?』


「連絡したら、まだ何も食べていないと言っていたので」


『言ってないよ』


 美園が反論する。


「夕方から何も食べていないとは言いました」


『同じじゃん』


 陽菜が笑う。


『美園さん、佐藤くんがいない間、ちゃんと食べてなかったの?』


『食べてたよ』


「菓子パンと、店に残っていたお菓子ですよね」


『十分でしょ』


「十分ではありません」


 佐藤は袋から容器を取り出した。


 美園が食べやすいものを選んで買ってきたらしい。


「温めますね」


『自分でできるよ』


「座っていてください」


『ここ、私の店なんだけど』


「知っています」


 佐藤は慣れた様子で店の奥へ向かった。


 陽菜が美園の隣へ寄る。


『愛されてるね』


『うるさい』


『顔、赤いよ』


『照明のせい』


『さっきと同じじゃん』


『陽菜』


『何?』


『中井くんに迎えに来てもらえば?』


『追い出そうとしてる?』


『妊婦を遅くまで連れ回せないから』


『総長と一緒に帰るよ』


『私は一人で帰れます』


 樹里が答える。


『ほら、総長も帰りたそう』


『私は何も言っていない』


『でも、佐藤くんと二人になりたいんでしょ』


『陽菜』


『はいはい。帰ります』


 陽菜は鞄を持って立ち上がった。


 樹里も席を立つ。


『美園』


 美園が樹里を見る。


『今度は、一人で決めるな』


 美園は僅かに目を見開いた。


『分かってる』


『佐藤さんにも話せ』


『うん』


『怖くなったときほどだ』


 美園は静かに頷いた。


『分かった』


 奥から戻ってきた佐藤が、二人へ頭を下げる。


「もう帰られるんですか?」


『うん。あとは二人でどうぞ』


「陽菜さん」


『何?』


「その言い方はやめてください」


『まだ何も言ってないじゃん』


「言いそうな顔をしています」


『零と同じこと言う』


「何の話ですか?」


『こっちの話』


 陽菜は笑いながら扉へ向かった。


『じゃあね、美園さん』


『うん。気をつけて帰って』


『佐藤くん、美園さんにちゃんと食べさせてね』


「分かりました」


『子ども扱いしないで』


『食べない美園さんが悪い』


 樹里が扉を開ける。


『おやすみ』


『おやすみ、総長』


 美園が答える。


「おやすみなさい」


 佐藤も頭を下げた。


 二人が店を出る。


 扉が閉まり、Roseには美園と佐藤だけが残った。


「食べましょうか」


『佐藤くんは?』


「俺は仕事の帰りに少し食べました」


『じゃあ、半分あげる』


「美園さんの分です」


『一人で食べるの嫌だから』


 佐藤の手が止まる。


『何?』


「いえ」


『嫌ならいいけど』


「一緒に食べます」


『最初からそう言えばいいのに』


 佐藤は容器を二人の間へ置き、取り皿を用意した。


 美園はカウンターの中ではなく、佐藤の隣へ座る。


 料理を半分ずつ取り分ける。


『佐藤くん』


「はい」


『今日も来てくれて、ありがとう』


「来たかったので」


『毎日は無理しなくていいからね』


「はい」


『でも、来ない日は連絡して』


「分かりました」


『来る日も連絡して』


「それでは、毎日連絡することになりますね」


『嫌?』


「嬉しいです」


 美園は僅かに笑い、佐藤の肩へ寄った。


 以前は、佐藤の存在を失うことが怖くて、一人で終わりを決めた。


 今は、その怖さを隠さずに伝えられる。


『明日も来る?』


「来ます」


『明後日は?』


「来ます」


『仕事が忙しかったら?』


「連絡します」


『気持ちが変わったら?』


「それも話します」


 佐藤は箸を置き、美園の手へ自分の手を重ねた。


「でも、今は変わっていません」


『うん』


「昨日より、もっと美園さんと一緒にいたいと思っています」


『何で昨日より増えてるの』


「本当の美園さんを、昨日より多く知ったからです」


『面倒なところも?』


「そこも含めてです」


『変な人』


「美園さんに言われたくありません」


『今のは失礼じゃない?』


「すみません」


『許す』


「早いですね」


『今日は機嫌がいいから』


 二人は同じ料理を分け合いながら、閉店後の時間を過ごした。


 美園が佐藤を見る回数は、以前より増えていた。


 そこにいることを、何度も確かめるように。


 佐藤はその視線に気づいても、何も言わなかった。


 ただ、美園の手が離れそうになるたび、静かに握り直した。

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