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292話「勝手に決めないでください」

翌朝。


 佐藤は普段より早く島川不動産へ出勤した。


 自分の席へ鞄を置き、パソコンを立ち上げる。


 昨夜、美園へ送ったLINEには、閉店後なら話せるという返事が届いた。


 何を聞かされるのかは分からない。


 ただ、子どもの話と、前の結婚が終わった理由が関係している。


 美園が自分を嫌いになって別れたわけではない。


 樹里から聞けたのは、それだけだった。


 それ以上を想像しようとしても、確かな答えにはたどり着かない。


 だから、美園本人から聞く。


 そのために今日一日、いつもどおり仕事を終えなければならなかった。


「おはようございます」


 神谷が営業部へ入ってくる。


「おはようございます」


「今日は早いですね」


「目が覚めたので」


「そうですか」


 神谷はそれ以上尋ねず、自分の席へ向かった。


 少し遅れて、樹里が出勤する。


『おはようございます』


「おはようございます」


 樹里は佐藤の姿を確認した。


 目が合う。


 佐藤は何も言わず、僅かに頭を下げた。


 樹里も、それ以上の反応は見せなかった。


 昨夜、美園へ連絡したのか。


 返事があったのか。


 聞こうとは思わなかった。


 ここから先は、二人の話だった。


 午前中は、高槻興産へ提出する工程表の最終確認が行われた。


 神谷が全体の予定を説明し、樹里が費用の分担を伝える。


 陸と萌も、担当する会社の資料を手に参加していた。


「仮設通路の設置費用は、高槻興産が五割、施工側が三割、移転対象の会社が二割を負担する案です」


 神谷が説明する。


「対象会社の了承は得られていますか?」


 黒澤が尋ねる。


「金額だけではなく、工期を延ばさず機材を使い続けられる点も含めて説明しました。先方からは、正式な見積書を確認後に回答すると言われています」


「日高さん。見積書は?」


『施工側から、本日の午後に届く予定です。確認でき次第、対象会社へ提出します』


「ほかの十六社に影響は?」


『現時点ではありません。ただし、仮設通路へ資材を置かれると導線が塞がるため、現場での管理が必要です』


「誰が確認する?」


『山本さんに、施工側との定例確認へ参加してもらう予定です』


 黒澤が陸を見る。


「できるか?」


「はい。事前に確認項目をまとめます」


『初回は私も同行します』


「分かった。川原さんは?」


「私は移転後の管理契約について、各社の希望をまとめています」


『今週中に、一度私へ提出してください』


「はい」


 黒澤は全員の顔を確認する。


「この案件は、まだ半分にも来ていない。一社がまとまったからって気を抜くなよ」


「はい」


 会議が終わり、それぞれが席へ戻る。


 陽菜は佐藤の表情を何度か見ていた。


 昨夜、美園から身体のことを聞いた。


 佐藤が何も知らないことも分かっている。


 話しかけたい気持ちはあった。


 だが、美園が自分で話すと決めたことを、陽菜が先に伝えるわけにはいかない。


「陽菜さん」


 隣から中井に呼ばれる。


『何?』


「佐藤さんのことを、朝から何度も見ています」


『見てないよ』


「見ています」


『ちょっと気になっただけ』


「美園さんから、何か聞いたんですか?」


 陽菜は一瞬、答えに迷った。


『聞いた』


「俺が聞いてもいいことですか?」


『今は駄目』


「分かりました」


 中井は理由を尋ねなかった。


『今日、佐藤くんがRoseに行くと思う』


「そうですか」


『うん』


「では、待ちましょう」


『気にならない?』


「気になります。でも、俺たちが聞くことではないんですよね」


『そうなんだけど』


「なら、二人から話してくれるまで待ちます」


『中井くんは、そういうの平気だよね』


「平気ではありません」


『でも待てるじゃん』


「陽菜さんが待てなさすぎるんです」


『失礼だな』


「昨日も、美園さんに呼ばれてすぐに行ったじゃないですか」


『呼ばれたから行ったの』


「それは知っています」


『今日は行かないよ』


「行くつもりだったんですか?」


『ないよ』


「今、少し考えましたよね」


『考えてない』


「なら、今日は真っ直ぐ帰りましょう」


『分かってるって』


 陽菜は自分の資料へ視線を戻した。


 今日だけは、Roseへ行かない。


 美園が自分の言葉で話せるように、待たなければならなかった。


 夜。


 最後の客を見送り、美園はRoseの扉を閉めた。


 入口の札を裏返す。


 カウンターの上には、二つのグラスが置かれていた。


 何をどこまで話すのか、何度も考えた。


 子どもを持てないとだけ伝えるのか。


 前の結婚のことまで話すのか。


 それとも、やはり会うのをやめるのか。


 答えが出ないまま、閉店時間になった。


 店の外で足音が止まる。


 扉が開き、佐藤が入ってきた。


「こんばんは」


『いらっしゃい』


 以前と同じ言葉だった。


 だが、二人の間にあった距離は違う。


「遅くにすみません」


『私が閉店後って言ったんでしょ』


「そうでした」


『座って』


「はい」


 佐藤は、以前よく座っていた場所へ腰を下ろした。


 美園は向かいに水を置く。


「ありがとうございます」


『うん』


 佐藤がグラスへ手を伸ばす。


 美園はカウンターの中に立ったままだった。


 どちらも、すぐには話し始められない。


 先に口を開いたのは佐藤だった。


「日高さんから、少し話を聞きました」


 美園の目が僅かに動く。


『総長から?』


 そう言ったあと、美園は首を横へ振った。


 今、樹里はここにいない。


 佐藤の前で話している。


『……日高さんから、何を聞いたの?』


「俺が子どもの話をしたことと、美園さんが別れを告げたことは無関係ではないと言われました」


『それだけ?』


「前の結婚が終わった理由とも関係していると」


 美園は視線を落とした。


『日高さん、そこまで言ったんだ』


「理由そのものは、何も聞いていません」


『聞かなかったの?』


「聞きました。でも、本人から聞いてくださいと言われました」


『そう』


「美園さん」


『何?』


「俺に、本当の理由を話してもらえませんか?」


 美園の手が、カウンターの下で強く握られる。


『聞いたら、後悔するかもしれないよ』


「それでも聞きたいです」


『知らない方がよかったと思うかもしれない』


「知らないまま別れたことを、今も後悔しています」


『私は、理由を話したよ』


「年齢と生活の違いと、俺が通うことを負担に感じていたという話ですか?」


『うん』


「全部が嘘ではないと、日高さんは言っていました」


『嘘じゃないよ』


「でも、一番の理由ではないんですよね」


 美園は答えられなかった。


「子どものことですか?」


『……うん』


「俺が、いつか子どもが欲しいと言ったからですか?」


『うん』


「美園さんは、子どもが欲しくないんですか?」


 美園は一度、目を閉じた。


 逃げるなら、今だった。


 欲しくない。


 家庭を作るつもりはない。


 そう言えば、佐藤はそれ以上踏み込まないかもしれない。


 だが、それでは何も変わらない。


 美園は目を開けた。


『欲しいとか、欲しくないとかじゃない』


「では、どういうことですか?」


『私は、子どもを持てない身体なの』


 佐藤の動きが止まった。


 美園は、その表情を見ないように視線を落とした。


『病院で、無理だって言われた』


「……そうだったんですか」


『うん』


 すぐに何かを答えられるより、その沈黙の方が怖かった。


 佐藤の中で、どんな未来が崩れているのか。


 何を諦めなければならないと考えているのか。


 美園には分からない。


『前に結婚してた人とは、それが理由で別れた』


「前のご主人も、最初から知っていたんですか?」


『結婚したあとに分かった』


「そうですか」


『子どもができなくて、二人で病院へ行った』


「はい」


『結果を聞いたとき、あの人は、子どもがいなくても二人でいればいいって言った』


 佐藤は何も挟まずに聞いている。


『私も信じた。最初は、本当にそう思ってくれてたと思う』


「最初は?」


『少しずつ変わった』


 美園は、昨夜陽菜へ話した過去を、もう一度言葉にした。


 親戚から子どもの話をされるたび、夫の表情が曇ったこと。


 友人の子どもを抱いたあと、家へ帰ると会話がなくなったこと。


 子どもがいない夫婦の生活を、夫が足りないものとして考え始めたこと。


『直接、私を責める言葉は少なかった』


「少なかったということは、言われたこともあるんですか?」


『喧嘩したときに、一度だけ』


「何と?」


 美園は唇を噛んだ。


『私と結婚しなければ、父親になれたかもしれないって』


 佐藤の拳に力が入る。


『言ったあと、すぐに謝ったよ』


「謝れば、なくなる言葉ではありません」


『うん』


 美園は小さく笑った。


『でも、あの人がずっと思ってたことなんだって分かった』


「それで、離婚したんですか?」


『それだけじゃない。でも、全部そこから始まった』


「……はい」


『だから、佐藤くんが子どもを欲しいって言ったとき、同じことになると思った』


「俺も、いつか気持ちが変わると?」


『うん』


「美園さんと一緒にいることを後悔すると?」


『うん』


「それで、俺が後悔する前に別れたんですか?」


『佐藤くんには、まだ選べるから』


「何をですか?」


『子どものいる家庭を作ること』


「美園さんと別れて、別の人を探せということですか?」


『そんな言い方しないで』


「でも、そういうことですよね」


 佐藤の声が少しずつ強くなる。


『今なら、まだ間に合うと思った』


「何に?」


『佐藤くんの人生に』


「俺の人生に、美園さんはいないんですか?」


 美園は答えられなかった。


「美園さんは、俺の将来を考えたと言いました」


『うん』


「その将来に、俺の気持ちは入っていますか?」


『今は、私といたいと思ってるかもしれない。でも――』


「今だけだと、どうして美園さんが決めるんですか?」


『前の人も、最初はそうだったから』


「俺は、その人ではありません」


『分かってるよ』


「分かっていません」


『佐藤くん』


「前の人は、美園さんの身体を見て離れた」


 美園の顔が強張る。


 佐藤は言葉を止めなかった。


「美園さんは、俺の未来を見て先に離れた」


『一緒にしないで』


「やっていることは、同じです」


 美園が佐藤を睨む。


『同じなわけないでしょ』


「俺の気持ちを聞かずに、俺がいつか離れると決めたんですよね」


『佐藤くんが傷つかないために――』


「俺は傷つきました」


 美園は言葉を失った。


「別れたいと言われた日から、ずっと傷ついています」


『……ごめん』


「謝ってほしいんじゃありません」


 佐藤は椅子から立ち上がった。


「重荷になるのが怖いなら、先に置いていかないでください」


 美園の目が揺れる。


「置いていかれた方が、よっぽど重荷です」


『何で、佐藤くんが怒るの』


「怒りますよ」


『私は、佐藤くんのために――』


「それが嫌なんです」


 佐藤はカウンターへ両手を置いた。


「俺のためだと言いながら、美園さんが一人で全部決めることが嫌なんです」


『じゃあ、どうすればよかったの』


「話してほしかったです」


『話したら、気にしないって言ったでしょ』


「言ったかもしれません」


『だから信じられないの』


「なら、信じられないと言ってください」


『そんなこと言えるわけないでしょ』


「今、言えたじゃないですか」


 美園は黙った。


「俺がいつか変わるかもしれないと思っていることも、前のご主人と同じになるのが怖いことも、全部言ってください」


『それを聞いて、佐藤くんはどうするの』


「考えます」


『すぐに気にしないって言わないの?』


「言いません」


 美園が顔を上げる。


「子どもが欲しいと思ったことは、嘘ではありません」


『……うん』


「陽菜さんの妊娠を聞いて、自分にもいつかと思いました」


『うん』


「だから、何も考えずに気にしないと言えば、それも嘘になります」


 美園の胸が痛む。


 だが、同時に僅かな安堵もあった。


 佐藤は、子どもが欲しいと思った自分の気持ちを消さなかった。


 美園を引き止めるために、最初から望んでいなかったことにもしなかった。


「俺には、今この場で、絶対に一生変わらないと証明することはできません」


『じゃあ――』


「でも、美園さんにも、俺が必ず変わると決めつけることはできません」


 佐藤は美園から目を逸らさなかった。


「子どもがいらないから、美園さんを選ぶんじゃありません」


『佐藤くん』


「美園さんと生きたいんです」


 美園の目から涙が落ちた。


「その人生に子どもがいないなら、二人で別の幸せを作りたい」


『簡単に言わないで』


「簡単に言っていません」


『いつか欲しくなるかもしれない』


「そのときは、逃げずに話します」


『気持ちが変わるかもしれない』


「変わる前から別れる理由にはなりません」


『私と一緒にいたことを後悔するかもしれない』


「後悔するかどうかも、俺に決めさせてください」


 佐藤は一度、息を整えた。


「俺の未来を、勝手に決めないでください」


 店内へ、佐藤の声が残った。


 美園は俯き、涙を拭った。


『怖いよ』


「はい」


『今は信じても、いつか変わるんじゃないかって思う』


「はい」


『佐藤くんが子どもを見るたび、何を考えてるのか気になると思う』


「そのときは聞いてください」


『聞けないかもしれない』


「俺から話します」


『面倒だよ』


「知っています」


『知らないでしょ』


「別れてから、少し分かりました」


『何それ』


「美園さんがいない方が、よほど面倒でした」


 美園は涙を拭いながら、僅かに笑った。


『一人で生活する方が楽でしょ』


「生活は楽かもしれません」


『じゃあ――』


「でも、嬉しいことが減りました」


 佐藤の声が穏やかになる。


「仕事が終わっても、Roseへ向かわなくなりました。美園さんに話したいと思ったことも、話す相手がいませんでした」


『ほかの人に話せばいいでしょ』


「美園さんに話したかったんです」


『……うん』


「俺は、まだ美園さんが好きです」


 美園は顔を上げられない。


「美園さんは、俺のことを嫌いになりましたか?」


『なってない』


「もう会いたくありませんか?」


『会いたかった』


「一緒にいたくありませんか?」


『いたい』


「では、もう一度、俺と付き合ってください」


 すぐには答えられなかった。


 別れを告げたときよりも、今の方が怖かった。


 受け入れれば、また失う可能性が生まれる。


 だが、失うことを恐れて最初から手放せば、何も残らない。


 零は怖いまま、冬美へ自分の意思を伝えた。


 美園も、怖さがなくなるまで待つのをやめた。


『……私でいいの?』


「美園さんがいいんです」


『本当に面倒だよ』


「俺も、意外と面倒だと思います」


『それは知ってる』


「なら、同じですね」


『一緒にしないで』


「嫌です」


『今日、強すぎない?』


「一度置いていかれたので」


『根に持つんだ』


「持ちます」


 美園は泣きながら笑った。


『……お願いします』


 佐藤の肩から、力が抜ける。


「ありがとうございます」


『何で敬語なの』


「ずっと敬語でしたよ」


『そうだけど』


「嫌ですか?」


『今は、そのままでいい』


「分かりました」


 佐藤はカウンターの向こうにいる美園へ手を伸ばした。


 だが、触れる前に止める。


「そちらへ行ってもいいですか?」


『聞くの?』


「聞きます」


『……来て』


 佐藤はカウンターの端から中へ回った。


 美園の前に立つ。


「抱き締めてもいいですか?」


『それも聞くんだ』


「駄目ですか?」


 美園は答える代わりに、佐藤の胸へ顔を寄せた。


 佐藤の腕が、ゆっくりと美園の背中へ回る。


 強く抱き締めるのではなく、逃げようと思えばいつでも離れられるほどの力だった。


 美園が自分から、佐藤の服を掴む。


『もう少し強くして』


「はい」


 腕に力が加わる。


 佐藤の体温も、匂いも、何も変わっていない。


 別れていた時間だけが、二人の間に増えていた。


『ごめんね』


「はい」


『そこは、謝らなくていいって言わないの?』


「今のは謝ってください」


『何それ』


「本当に傷ついたので」


『……ごめん』


「はい」


『もう、勝手に別れない』


「お願いします」


『怖くなったら話す』


「俺も話します」


『気持ちが変わったら、隠さないで』


「分かりました」


『変わらないでとは言わない』


「はい」


『でも、一人で決めないで』


「美園さんもです」


『分かってる』


 美園は佐藤の胸へ顔を埋めたまま答えた。


 佐藤が背中を撫でる。


 子どもを持てない事実は変わらない。


 前の結婚で負った傷も、今夜だけで消えるものではない。


 佐藤の気持ちが未来永劫変わらないという保証もない。


 それでも、変わるかもしれない未来を恐れて、今ある気持ちまで捨てることを、美園はやめた。


 しばらくして、二人は身体を離した。


「今日は、もう帰った方がいいですか?」


『帰りたいの?』


「帰りたくありません」


『じゃあ、いて』


「はい」


『その代わり、片づけを手伝って』


「分かりました」


『別れてた分、しばらく無給だから』


「前から給料はもらっていません」


『細かいことは気にしないで』


「そこは大事だと思います」


 佐藤は腕をまくり、流し台に残っているグラスへ手を伸ばした。


 以前と同じ光景だった。


 だが、美園の中にあるものは以前と違う。


 隠したまま守っていた関係ではない。


 すべてを知った佐藤が、もう一度ここへ立つことを選んだ。


 美園は隣でグラスを洗う佐藤を見た。


『佐藤くん』


「はい」


『おかえり』


 佐藤の手が止まる。


 ゆっくりと美園を見る。


「ただいま、美園さん」


 閉店後のRoseに、二人の声が静かに重なった。

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