291話「話せなかった理由」
冬美の件が終わってから、数日が過ぎた。
島川不動産の営業部では、高槻興産へ提出する新たな工程表の作成が進められていた。
十七社それぞれの移転時期。
入居先の契約状況。
機材を動かすために必要な期間。
施工側が各区画へ入れる日程。
一社の条件を動かせば、別の会社の工程にも影響が出る。
樹里は複数の資料を机へ広げ、修正内容を一つずつ照合していた。
「日高さん。仮設通路の設置費用について、施工側から回答がありました」
神谷が資料を持ってくる。
『負担に応じるとのことですか?』
「全額ではありませんが、三割までなら負担すると言っています」
『理由は、稼働中の機材を見落としていたことですか?』
「はい。ただ、移転対象の会社にも確認不足があるため、それ以上は難しいとのことでした」
『高槻側の負担分と合わせれば、対象会社へ提示できる金額になります』
「俺もそう思います。今日中に先方へ説明します」
『お願いします』
「日高さんは、工程表の修正をお願いできますか?」
『分かりました』
神谷が自分の席へ戻る。
樹里は資料を確認しながら、少し離れた席へ視線を向けた。
佐藤は電話で顧客と話していた。
声も応対も、普段と変わらない。
電話を終えると、聞き取った内容をすぐに記録している。
美園と別れてからも、仕事に穴を開けたことはない。
だが、昼休みにRoseへ向かう経路の店を調べることもなくなった。
以前なら帰り際に時間を確認し、閉店前に間に合うか気にしていた。
今は仕事を終えると、誰よりも静かに帰っていく。
美園の身体のことを、樹里は知っている。
前の結婚が終わった理由も聞いていた。
それを佐藤へ話すことはできない。
美園が自分で話さなければならないことだった。
だが、佐藤は本当の理由があることすら知らない。
年齢差。
生活の違い。
店へ通うことへの負担。
美園が並べた理由だけを受け入れ、自分が拒まれたのだと思っている。
樹里は冬美を拒んだ零の姿を思い出した。
自分で決めているだけ。
怖くても、零は自分の言葉を相手へ渡した。
美園も、それを見ていた。
だが、美園が言葉にするには、佐藤にも聞く意思が必要だった。
午後の外回りから佐藤が戻る。
「戻りました」
「お疲れさまです」
周囲から声が返る。
佐藤は神谷へ報告を終えると、自分の席へ向かった。
『佐藤さん』
樹里が呼ぶ。
「はい」
『少し、お時間をいただけますか?』
「今ですか?」
『はい。会議室へお願いします』
「分かりました」
佐藤は手にしていた資料を机へ置いた。
樹里が先に会議室へ入り、佐藤が続く。
扉を閉め、向かい合うように席へ着いた。
「何か、仕事で問題がありましたか?」
『仕事の話ではありません』
「では、何でしょうか」
樹里はすぐには答えなかった。
会社で、部下の私生活へ踏み込む。
本来なら、避けるべきことだった。
それでも、美園の友人として話すなら、今しかないと思った。
『美園と、子どもの話をしましたか?』
佐藤の表情が僅かに変わった。
「……しました」
『何と言いましたか?』
「陽菜さんの妊娠を聞いた日に、俺もいつか子どもが欲しいと話しました」
『美園は、何と答えましたか?』
「何も」
佐藤は記憶を探るように視線を落とした。
「笑っていました。俺も、特に気にしていませんでした」
『その翌日に、別れを告げられた』
「はい」
『それで、あいつは佐藤さんから離れました』
佐藤が顔を上げる。
「どういう意味ですか?」
『私の口から話すことではありません』
「日高さんは、理由を知っているんですか?」
『知っています』
「では、教えてください」
『できません』
「美園さんから、口止めされているんですか?」
『そうではありません』
「なら、どうしてですか?」
『美園が自分で話さなければ、意味がないからです』
佐藤の表情に戸惑いが浮かぶ。
「子どもの話が、別れた理由なんですか?」
『無関係ではありません』
「でも、美園さんは、年齢や生活の違いが理由だと言いました」
『それも、すべて嘘ではないと思います』
「では、俺が子どもを欲しいと言ったことが、最後の理由になったということですか?」
樹里は答えなかった。
佐藤が拳を握る。
「美園さんには、子どもを望んでいない事情があるんですか?」
『それ以上は、私へ聞かないでください』
「日高さん」
『答えを私から聞いて満足しないでください』
樹里は佐藤を真っ直ぐ見た。
『本人から聞いてください』
「聞いても、美園さんは話してくれません」
『まだ、聞いていないでしょう』
「別れを告げられたときに理由は聞きました」
『あいつが並べた理由を受け入れただけです』
「無理に聞き出せと言うんですか?」
『そうは言っていません』
「では、どうすればいいんですか」
『それを私へ聞かないでください』
樹里の声は落ち着いていた。
『美園と生きていきたいと思っていたのは、佐藤さんです』
「……はい」
『なら、美園が離れた理由を知りたいのか。知ったうえで、もう一度向き合いたいのか。それは佐藤さんが決めることです』
「日高さんは、俺たちに戻ってほしいんですか?」
『私が決めることではありません』
「美園さんが俺と別れたいと言ったのなら、その意思を尊重すべきだと思っていました」
『そうですね』
「今でも、気持ちは変わっていません」
佐藤は俯いた。
「俺は、美園さんと別れたくありませんでした。でも、俺がしつこくすれば、美園さんを困らせると思ったんです」
『その考えが間違っているとは言いません』
「では、なぜ俺に話したんですか?」
樹里は僅かに間を置いた。
『美園が、佐藤さんを嫌いになって離れたわけではないからです』
佐藤の目が見開かれる。
『私から話せるのは、そこまでです』
「……前の結婚が終わった理由も、関係しているんですか?」
『はい』
「美園さんは、前の結婚のことを詳しく話しませんでした」
『簡単に話せることではありません』
「日高さんには話したんですね」
『はい』
「陽菜さんは?」
『知りません』
佐藤は驚いたように樹里を見る。
三人の中で、隠し事などないと思っていたのかもしれない。
『長く一緒にいても、すべてを話せるわけではありません』
「……そうですね」
『美園は、自分が傷つくことより、佐藤さんの将来を奪うことを恐れています』
「俺の将来?」
『これ以上は言えません』
樹里は席を立った。
『佐藤さん』
「はい」
『あいつの答えが、佐藤さんにとって望んでいたものとは限りません』
佐藤の表情が引き締まる。
『聞けば、これまで考えていた未来が変わる可能性もあります』
「それでも、知らないまま終わるよりはいいです」
『そうですか』
「俺は、美園さんから聞きます」
『分かりました』
「話していただき、ありがとうございました」
『私は何も話していません』
樹里は扉へ向かう。
「十分です」
その言葉に足を止めたが、振り返らなかった。
『ここでの話は、業務へ持ち込まないでください』
「分かっています」
『では、戻りましょう』
二人が営業部へ戻ると、陽菜が樹里を見る。
何の話をしたのか知りたそうな顔だった。
だが、会社の中で尋ねることはなかった。
佐藤も自分の席へ戻り、仕事を再開する。
樹里も、高槻興産へ提出する工程表へ向き直った。
それぞれの仕事が続いていく。
ただ、佐藤が手元へ置いたスマートフォンを一度だけ見つめたことを、樹里は見逃さなかった。
仕事を終える頃、陽菜のスマートフォンへ美園からLINEが届いた。
『今日、Roseに来られる?』
陽菜は画面を見つめた。
美園から来てほしいと言われるのは、喧嘩をしてから初めてだった。
『行けるよ』
すぐに返信する。
『総長も?』
『今日は、陽菜だけで来て』
『分かった』
何の話なのかは尋ねなかった。
美園が自分から呼んだ。
それだけで、軽い話ではないと分かった。
陽菜は隣の席にいる中井へ声をかける。
『中井くん』
「はい」
『今日、帰りにRoseへ行ってくる』
「美園さんに呼ばれたんですか?」
『うん。あたし一人で来てって』
「分かりました。帰る頃に連絡してください」
『迎えはいらないよ』
「連絡だけでもお願いします」
『分かった』
その会話を聞いていた樹里が、僅かに顔を上げる。
陽菜と目が合った。
何か知っているのかと尋ねる前に、樹里は視線を資料へ戻した。
仕事を終え、陽菜は一人でRoseへ向かった。
店の扉には、まだ開店前の札が掛かっている。
陽菜が扉を開けると、美園はカウンターの中にいた。
『美園さん』
『いらっしゃい』
『まだ開けてないの?』
『今日は少し遅く開ける』
『あたしのために?』
『そうだよ』
美園はカウンターへ水を置いた。
『座って』
『うん』
陽菜が椅子へ座る。
美園は向かいへ立ったまま、すぐには話さなかった。
『何かあった?』
『何もないよ』
『じゃあ、何で呼んだの?』
『陽菜に話しておこうと思って』
『佐藤くんのこと?』
『うん』
陽菜の表情が僅かに硬くなる。
『この前、あたしが聞いたから?』
『それだけじゃない』
『無理に話さなくてもいいよ』
美園が陽菜を見る。
『聞きたいって言ってたのに』
『言ったけど』
『聞かないの?』
『美園さんが話したくないなら、聞かない』
『少しは成長したね』
『何で上からなの』
『ずっと上だから』
『あたしの方が副総長だったんだけど』
『今は関係ないでしょ』
『美園さんが言い出したんじゃん』
いつもの言葉を交わしたあと、二人の間へ沈黙が戻る。
美園はゆっくりと息を吐いた。
『佐藤くんが、子どもが欲しいって言ったから別れた』
陽菜は何も言わなかった。
すぐに問い返さず、美園が続けるのを待った。
『陽菜が妊娠したって話した夜』
『うん』
『佐藤くん、すごく嬉しそうだった』
『そうだったんだ』
『自分も、いつか子どもが欲しいって言った』
美園の手が、カウンターの下で強く握られる。
『その言葉を聞いて、無理だと思った』
『どうして?』
『私には、佐藤くんが望むものをあげられないから』
陽菜の胸に、嫌な予感が広がる。
それでも、口を挟まなかった。
『私は、子どもを持てない身体なの』
美園が言った。
陽菜の動きが止まる。
『……持てないって』
『そのままの意味だよ』
『治療とかは?』
『無理なの』
美園の声は静かだった。
何度も自分の中で繰り返し、感情を削り落としたような声だった。
『前に結婚してた人とは、それが理由で別れた』
陽菜は唇を閉じた。
何と答えればいいのか分からない。
美園は過去を振り返るように、視線を落とした。
『結婚する前から分かってたわけじゃない』
『うん』
『結婚して、しばらくしてもできなくて。病院に行って、分かった』
『前の旦那さんは……』
『最初は、子どもがいなくても二人でいればいいって言ってた』
美園が僅かに笑う。
嬉しい記憶を思い出した笑い方ではなかった。
『私も、その言葉を信じた』
『……うん』
『でも、時間が経つと変わった』
夫婦の間に、少しずつ沈黙が増えた。
知人や親戚から子どもの話をされるたび、前の夫は笑わなくなった。
友人の家に子どもが生まれたと聞けば、帰宅後も機嫌が悪かった。
美園の身体を責める言葉を、最初から口にしたわけではない。
だからこそ、余計に分かった。
受け入れると言った気持ちが、少しずつ変わっていく。
隣にいる人間が、自分との人生を諦めたものとして考え始める。
その変化を、美園は毎日見ていた。
『最後は、私を見る目まで変わった』
美園が言う。
『直接、子どもができないから別れるって言われたわけじゃない。でも、ほかに理由なんてなかった』
『美園さん』
『同じことになると思った』
『佐藤くんとも?』
『うん』
『でも、佐藤くんは――』
『違うって言う?』
陽菜は言葉に詰まった。
『前の人も、最初は違ったよ』
美園の言葉に、何も返せない。
今の佐藤なら受け入れる。
そう言うことは簡単だった。
だが、数年後も同じだと陽菜が保証することはできない。
前の夫も、最初は受け入れたのだ。
それでも、美園は傷ついた。
同じ言葉を信じて、もう一度同じように捨てられるかもしれない。
その恐怖を、陽菜には計り知れなかった。
『だから、佐藤くんが子どもを欲しいって言ったとき、先に終わらせようと思った』
『それで、年齢とか店のことを理由にしたの?』
『本当のことを言ったら、佐藤くんは気にしないって言うと思ったから』
『それを信じられなかった?』
『信じたあとで変わられる方が怖かった』
陽菜は俯いた。
自分がRoseで美園へぶつけた言葉を思い出す。
美園さんだって、佐藤くんの未来を勝手に決めている。
何も知らないまま、そう言った。
話せばいい。
本当のことを言えばいい。
美園が過去にどれほど傷つき、再び同じ痛みを受けることを恐れているのか、想像もしなかった。
『ごめん』
陽菜が呟く。
『どうして陽菜が謝るの』
『あたし、何も知らないのに』
『話してなかったんだから、知らなくて当たり前でしょ』
『でも、勝手に佐藤くんの未来を決めてるって言った』
『間違ってないよ』
『間違ってるよ』
『間違ってない』
美園は陽菜を見る。
『私が佐藤くんの答えを聞かずに別れたのは、本当だから』
『でも、それは美園さんが――』
『怖かったから』
美園は自分で言った。
『私は、怖くて逃げた』
零が冬美へ伝えた言葉が蘇る。
怖い。
それでも、違法な改造はしない。
零は恐怖が消えたから断ったのではない。
怖いことを認めたうえで、自分の意思を伝えた。
『だから、陽菜が言ったことは間違ってない』
『言い方が悪かった』
『それは悪かったね』
『そこは否定してよ』
『無理』
美園が僅かに笑った。
陽菜は笑えなかった。
『あたし、自分が妊娠したことを見せつけたみたいになってた?』
『なってないよ』
『でも、美園さんは――』
『それと陽菜の妊娠は関係ない』
美園がはっきりと言った。
『本当に関係ないから』
『無理してない?』
『してない』
『あたしの子どもの話、聞くのがつらくない?』
『つらくないよ』
美園はカウンター越しに手を伸ばし、陽菜の手へ重ねた。
『陽菜が妊娠したって聞いたとき、本当に嬉しかった』
『……うん』
『陽菜と中井くんの子どもでしょ。嬉しくないわけないじゃん』
『でも、自分は持てないって思ったりしなかった?』
『少しも何も思わなかったとは言わない』
美園は嘘をつかなかった。
『でも、それは陽菜の幸せを嫌だと思ったのとは違う』
陽菜が美園を見る。
『私の身体のことと、陽菜が妊娠したことは別の話だよ』
『うん』
『陽菜が母親になることも、結婚することも、本当に嬉しい』
『……うん』
『だから、この前言ったことは忘れて』
『忘れられないよ』
『何で』
『美園さんが、どんな気持ちで言ったか分かったから』
陽菜の目に涙が浮かぶ。
『あたし、美園さんが子どもを持てないなんて知らなかった』
『うん』
『前の旦那さんに、そんなふうに傷つけられたことも』
『うん』
『何も知らないのに、話してって怒って……』
『陽菜』
『自分が幸せだからって、みんなも同じものが欲しいと思うなって言われて、あたしが傷ついたことばっかり考えてた』
陽菜は空いている手で目元を拭った。
『無神経だった』
『そんなことないよ』
『あったよ』
『陽菜が来なかったら、私はずっと誰にも話さなかったかもしれない』
『それでも、あんな聞き方は駄目だった』
『じゃあ、次から気をつけて』
『……うん』
『それで終わり』
『終われないよ』
『何で』
『美園さんが、ずっと一人で抱えてたことを、今聞いたばっかりだから』
陽菜は美園の手を握り返した。
『総長は知ってるの?』
『うん』
『いつから?』
『前の結婚が終わった頃から』
『あたしには言わなかったんだ』
『私が頼んだから』
『そっか』
寂しくないわけではなかった。
だが、樹里が陽菜へ隠していたのではない。
美園が話せないことを守っていたのだと分かった。
『総長らしいね』
『うん』
『一人だけ知ってて、ずっと何も言わなかったんだ』
『総長が話すことじゃないからね』
二人きりのため、美園は樹里を日高と呼んだ。
『たぶん、何回も言いたいことはあったと思うけど』
『それでも言わなかった』
『うん』
陽菜は少し考えてから、美園へ尋ねる。
『佐藤くんには、本当のこと話した方がいいと思う』
『分かってる』
『でも、簡単に言わないでって思ってる?』
『少しね』
『……ごめん』
『謝らなくていいよ』
『あたしには、美園さんの怖さを全部は分かんない』
『うん』
『佐藤くんが絶対に変わらないとも言えない』
美園の目が僅かに揺れる。
気にしない。
佐藤なら大丈夫。
陽菜がそう言うと思っていた。
『でも、本当のことを知らないまま別れるのは、やっぱり違うと思う』
陽菜は言葉を選びながら続けた。
『佐藤くんがどうするかじゃなくて、美園さんが本当はどうしたいかを話した方がいい』
『私は……』
『別れたい?』
美園は答えられなかった。
『佐藤くんと、もう会いたくない?』
『……会いたいよ』
初めて、本当の気持ちが口から出た。
『またRoseに来てほしい』
『うん』
『前みたいに、くだらない話をしてほしい』
『うん』
『一緒にいたい』
美園の声が震える。
『でも、怖い』
『うん』
『今は受け入れるって言われても、いつか変わるかもしれない』
『うん』
『また、同じことになるかもしれない』
『それも、佐藤くんに言えばいい』
『そんなことまで?』
『美園さんが怖いってことも、信じ切れないってことも、全部』
『嫌われるかもしれないよ』
『それでも、嘘の理由で嫌われるよりはいいんじゃない?』
美園は何も言わなかった。
陽菜の言葉が正しいかは分からない。
本当のことを話せば、佐藤は離れていくかもしれない。
子どものいる人生を諦められないと言われるかもしれない。
だが、それなら少なくとも、佐藤自身が選んだ答えになる。
『零、怖いって言ってたね』
美園が呟く。
『うん』
『それでも、冬美に全部言った』
『うん』
『私にも、できるかな』
『できるよ、とは簡単に言えない』
『そこは言ってよ』
『だって、美園さんに怒られそうだから』
『もう遅いよ』
『でも、あたしはそばにいる』
陽菜は美園の手を強く握った。
『総長もいる』
『うん』
『美園さんが何を言われても、一人にはならないよ』
美園の目に涙が浮かぶ。
落ちる前に、顔を背けた。
『泣いてないから』
『まだ何も言ってないよ』
『言いそうな顔してる』
『どんな顔?』
『零みたいなこと言わないで』
美園が手を離し、目元を拭う。
『陽菜』
『何?』
『話してくれて、ありがとう』
『それ、あたしの台詞でしょ』
『聞いてくれて、ありがとうってこと』
『……うん』
陽菜は立ち上がり、カウンターの中へ回った。
美園の前で足を止める。
『抱き締めてもいい?』
『聞くようになったんだ』
『少しは成長したから』
『自分で言うんだ』
『嫌ならやめるけど』
美園は答える代わりに、陽菜の身体へ腕を回した。
腹部を圧迫しないよう、そっと抱き締める。
陽菜も美園の背中へ腕を回した。
『美園さん』
『何?』
『あたしの妊娠、喜んでくれてありがとう』
『当たり前でしょ』
『うん』
『身体、大事にしなよ』
『分かってる』
『無理して働かないで』
『それは総長にも言われてる』
『言われてるのに聞かないから、私も言ってるの』
『ちゃんと聞いてるよ』
『返事だけはいいね』
『美園さんまで総長みたいにならないで』
『あんなに面倒じゃないよ』
『総長に言うからね』
『勝手に言えば』
二人はゆっくりと離れた。
美園の目には、まだ涙が残っている。
陽菜はそれを拭おうとはしなかった。
泣いていないと言い張る美園のために、気づかないふりをした。
そのとき、美園のスマートフォンが震えた。
カウンターへ置かれた画面に、佐藤の名前が表示される。
二人の動きが止まった。
『佐藤くん』
陽菜が呟く。
『見れば?』
『怖い』
『あたしが見る?』
『それは駄目』
『じゃあ、美園さんが見て』
『分かってる』
美園はスマートフォンを手に取った。
届いた文章を開く。
「美園さん。もう一度、話をさせてください」
それだけだった。
責める言葉も、答えを求める言葉もない。
ただ、話をしたいと書かれている。
『何て?』
『話をさせてほしいって』
『返事する?』
美園の指が、画面の上で止まる。
怖さは消えていない。
それでも、もう嘘の理由だけを残して終わらせたくなかった。
『……する』
美園は震える指で、短い文章を打った。
『明日の閉店後なら、話せます』
送信する前に、陽菜を見る。
『送るよ』
『うん』
『本当に送るからね』
『早く送りなよ』
『急かさないで』
『自分で送るって言ったんでしょ』
『分かってるよ』
美園は一度だけ深く息を吸い、送信した。
すぐに既読がつく。
「分かりました。明日、伺います」
美園は画面を見つめた。
明日、本当のことを話す。
子どもを持てない身体であること。
前の結婚が、それによって終わったこと。
佐藤の未来を奪うことが怖かったこと。
もう一度捨てられる前に、自分から離れたこと。
すべてを話した先で、佐藤が何を選ぶのかは分からない。
それでも今度は、相手の答えを聞く前に終わらせない。
美園はスマートフォンを胸元へ握り締めた。




