↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
291/329

291話「話せなかった理由」

冬美の件が終わってから、数日が過ぎた。


 島川不動産の営業部では、高槻興産へ提出する新たな工程表の作成が進められていた。


 十七社それぞれの移転時期。


 入居先の契約状況。


 機材を動かすために必要な期間。


 施工側が各区画へ入れる日程。


 一社の条件を動かせば、別の会社の工程にも影響が出る。


 樹里は複数の資料を机へ広げ、修正内容を一つずつ照合していた。


「日高さん。仮設通路の設置費用について、施工側から回答がありました」


 神谷が資料を持ってくる。


『負担に応じるとのことですか?』


「全額ではありませんが、三割までなら負担すると言っています」


『理由は、稼働中の機材を見落としていたことですか?』


「はい。ただ、移転対象の会社にも確認不足があるため、それ以上は難しいとのことでした」


『高槻側の負担分と合わせれば、対象会社へ提示できる金額になります』


「俺もそう思います。今日中に先方へ説明します」


『お願いします』


「日高さんは、工程表の修正をお願いできますか?」


『分かりました』


 神谷が自分の席へ戻る。


 樹里は資料を確認しながら、少し離れた席へ視線を向けた。


 佐藤は電話で顧客と話していた。


 声も応対も、普段と変わらない。


 電話を終えると、聞き取った内容をすぐに記録している。


 美園と別れてからも、仕事に穴を開けたことはない。


 だが、昼休みにRoseへ向かう経路の店を調べることもなくなった。


 以前なら帰り際に時間を確認し、閉店前に間に合うか気にしていた。


 今は仕事を終えると、誰よりも静かに帰っていく。


 美園の身体のことを、樹里は知っている。


 前の結婚が終わった理由も聞いていた。


 それを佐藤へ話すことはできない。


 美園が自分で話さなければならないことだった。


 だが、佐藤は本当の理由があることすら知らない。


 年齢差。


 生活の違い。


 店へ通うことへの負担。


 美園が並べた理由だけを受け入れ、自分が拒まれたのだと思っている。


 樹里は冬美を拒んだ零の姿を思い出した。


 自分で決めているだけ。


 怖くても、零は自分の言葉を相手へ渡した。


 美園も、それを見ていた。


 だが、美園が言葉にするには、佐藤にも聞く意思が必要だった。


 午後の外回りから佐藤が戻る。


「戻りました」


「お疲れさまです」


 周囲から声が返る。


 佐藤は神谷へ報告を終えると、自分の席へ向かった。


『佐藤さん』


 樹里が呼ぶ。


「はい」


『少し、お時間をいただけますか?』


「今ですか?」


『はい。会議室へお願いします』


「分かりました」


 佐藤は手にしていた資料を机へ置いた。


 樹里が先に会議室へ入り、佐藤が続く。


 扉を閉め、向かい合うように席へ着いた。


「何か、仕事で問題がありましたか?」


『仕事の話ではありません』


「では、何でしょうか」


 樹里はすぐには答えなかった。


 会社で、部下の私生活へ踏み込む。


 本来なら、避けるべきことだった。


 それでも、美園の友人として話すなら、今しかないと思った。


『美園と、子どもの話をしましたか?』


 佐藤の表情が僅かに変わった。


「……しました」


『何と言いましたか?』


「陽菜さんの妊娠を聞いた日に、俺もいつか子どもが欲しいと話しました」


『美園は、何と答えましたか?』


「何も」


 佐藤は記憶を探るように視線を落とした。


「笑っていました。俺も、特に気にしていませんでした」


『その翌日に、別れを告げられた』


「はい」


『それで、あいつは佐藤さんから離れました』


 佐藤が顔を上げる。


「どういう意味ですか?」


『私の口から話すことではありません』


「日高さんは、理由を知っているんですか?」


『知っています』


「では、教えてください」


『できません』


「美園さんから、口止めされているんですか?」


『そうではありません』


「なら、どうしてですか?」


『美園が自分で話さなければ、意味がないからです』


 佐藤の表情に戸惑いが浮かぶ。


「子どもの話が、別れた理由なんですか?」


『無関係ではありません』


「でも、美園さんは、年齢や生活の違いが理由だと言いました」


『それも、すべて嘘ではないと思います』


「では、俺が子どもを欲しいと言ったことが、最後の理由になったということですか?」


 樹里は答えなかった。


 佐藤が拳を握る。


「美園さんには、子どもを望んでいない事情があるんですか?」


『それ以上は、私へ聞かないでください』


「日高さん」


『答えを私から聞いて満足しないでください』


 樹里は佐藤を真っ直ぐ見た。


『本人から聞いてください』


「聞いても、美園さんは話してくれません」


『まだ、聞いていないでしょう』


「別れを告げられたときに理由は聞きました」


『あいつが並べた理由を受け入れただけです』


「無理に聞き出せと言うんですか?」


『そうは言っていません』


「では、どうすればいいんですか」


『それを私へ聞かないでください』


 樹里の声は落ち着いていた。


『美園と生きていきたいと思っていたのは、佐藤さんです』


「……はい」


『なら、美園が離れた理由を知りたいのか。知ったうえで、もう一度向き合いたいのか。それは佐藤さんが決めることです』


「日高さんは、俺たちに戻ってほしいんですか?」


『私が決めることではありません』


「美園さんが俺と別れたいと言ったのなら、その意思を尊重すべきだと思っていました」


『そうですね』


「今でも、気持ちは変わっていません」


 佐藤は俯いた。


「俺は、美園さんと別れたくありませんでした。でも、俺がしつこくすれば、美園さんを困らせると思ったんです」


『その考えが間違っているとは言いません』


「では、なぜ俺に話したんですか?」


 樹里は僅かに間を置いた。


『美園が、佐藤さんを嫌いになって離れたわけではないからです』


 佐藤の目が見開かれる。


『私から話せるのは、そこまでです』


「……前の結婚が終わった理由も、関係しているんですか?」


『はい』


「美園さんは、前の結婚のことを詳しく話しませんでした」


『簡単に話せることではありません』


「日高さんには話したんですね」


『はい』


「陽菜さんは?」


『知りません』


 佐藤は驚いたように樹里を見る。


 三人の中で、隠し事などないと思っていたのかもしれない。


『長く一緒にいても、すべてを話せるわけではありません』


「……そうですね」


『美園は、自分が傷つくことより、佐藤さんの将来を奪うことを恐れています』


「俺の将来?」


『これ以上は言えません』


 樹里は席を立った。


『佐藤さん』


「はい」


『あいつの答えが、佐藤さんにとって望んでいたものとは限りません』


 佐藤の表情が引き締まる。


『聞けば、これまで考えていた未来が変わる可能性もあります』


「それでも、知らないまま終わるよりはいいです」


『そうですか』


「俺は、美園さんから聞きます」


『分かりました』


「話していただき、ありがとうございました」


『私は何も話していません』


 樹里は扉へ向かう。


「十分です」


 その言葉に足を止めたが、振り返らなかった。


『ここでの話は、業務へ持ち込まないでください』


「分かっています」


『では、戻りましょう』


 二人が営業部へ戻ると、陽菜が樹里を見る。


 何の話をしたのか知りたそうな顔だった。


 だが、会社の中で尋ねることはなかった。


 佐藤も自分の席へ戻り、仕事を再開する。


 樹里も、高槻興産へ提出する工程表へ向き直った。


 それぞれの仕事が続いていく。


 ただ、佐藤が手元へ置いたスマートフォンを一度だけ見つめたことを、樹里は見逃さなかった。


 仕事を終える頃、陽菜のスマートフォンへ美園からLINEが届いた。


『今日、Roseに来られる?』


 陽菜は画面を見つめた。


 美園から来てほしいと言われるのは、喧嘩をしてから初めてだった。


『行けるよ』


 すぐに返信する。


『総長も?』


『今日は、陽菜だけで来て』


『分かった』


 何の話なのかは尋ねなかった。


 美園が自分から呼んだ。


 それだけで、軽い話ではないと分かった。


 陽菜は隣の席にいる中井へ声をかける。


『中井くん』


「はい」


『今日、帰りにRoseへ行ってくる』


「美園さんに呼ばれたんですか?」


『うん。あたし一人で来てって』


「分かりました。帰る頃に連絡してください」


『迎えはいらないよ』


「連絡だけでもお願いします」


『分かった』


 その会話を聞いていた樹里が、僅かに顔を上げる。


 陽菜と目が合った。


 何か知っているのかと尋ねる前に、樹里は視線を資料へ戻した。


 仕事を終え、陽菜は一人でRoseへ向かった。


 店の扉には、まだ開店前の札が掛かっている。


 陽菜が扉を開けると、美園はカウンターの中にいた。


『美園さん』


『いらっしゃい』


『まだ開けてないの?』


『今日は少し遅く開ける』


『あたしのために?』


『そうだよ』


 美園はカウンターへ水を置いた。


『座って』


『うん』


 陽菜が椅子へ座る。


 美園は向かいへ立ったまま、すぐには話さなかった。


『何かあった?』


『何もないよ』


『じゃあ、何で呼んだの?』


『陽菜に話しておこうと思って』


『佐藤くんのこと?』


『うん』


 陽菜の表情が僅かに硬くなる。


『この前、あたしが聞いたから?』


『それだけじゃない』


『無理に話さなくてもいいよ』


 美園が陽菜を見る。


『聞きたいって言ってたのに』


『言ったけど』


『聞かないの?』


『美園さんが話したくないなら、聞かない』


『少しは成長したね』


『何で上からなの』


『ずっと上だから』


『あたしの方が副総長だったんだけど』


『今は関係ないでしょ』


『美園さんが言い出したんじゃん』


 いつもの言葉を交わしたあと、二人の間へ沈黙が戻る。


 美園はゆっくりと息を吐いた。


『佐藤くんが、子どもが欲しいって言ったから別れた』


 陽菜は何も言わなかった。


 すぐに問い返さず、美園が続けるのを待った。


『陽菜が妊娠したって話した夜』


『うん』


『佐藤くん、すごく嬉しそうだった』


『そうだったんだ』


『自分も、いつか子どもが欲しいって言った』


 美園の手が、カウンターの下で強く握られる。


『その言葉を聞いて、無理だと思った』


『どうして?』


『私には、佐藤くんが望むものをあげられないから』


 陽菜の胸に、嫌な予感が広がる。


 それでも、口を挟まなかった。


『私は、子どもを持てない身体なの』


 美園が言った。


 陽菜の動きが止まる。


『……持てないって』


『そのままの意味だよ』


『治療とかは?』


『無理なの』


 美園の声は静かだった。


 何度も自分の中で繰り返し、感情を削り落としたような声だった。


『前に結婚してた人とは、それが理由で別れた』


 陽菜は唇を閉じた。


 何と答えればいいのか分からない。


 美園は過去を振り返るように、視線を落とした。


『結婚する前から分かってたわけじゃない』


『うん』


『結婚して、しばらくしてもできなくて。病院に行って、分かった』


『前の旦那さんは……』


『最初は、子どもがいなくても二人でいればいいって言ってた』


 美園が僅かに笑う。


 嬉しい記憶を思い出した笑い方ではなかった。


『私も、その言葉を信じた』


『……うん』


『でも、時間が経つと変わった』


 夫婦の間に、少しずつ沈黙が増えた。


 知人や親戚から子どもの話をされるたび、前の夫は笑わなくなった。


 友人の家に子どもが生まれたと聞けば、帰宅後も機嫌が悪かった。


 美園の身体を責める言葉を、最初から口にしたわけではない。


 だからこそ、余計に分かった。


 受け入れると言った気持ちが、少しずつ変わっていく。


 隣にいる人間が、自分との人生を諦めたものとして考え始める。


 その変化を、美園は毎日見ていた。


『最後は、私を見る目まで変わった』


 美園が言う。


『直接、子どもができないから別れるって言われたわけじゃない。でも、ほかに理由なんてなかった』


『美園さん』


『同じことになると思った』


『佐藤くんとも?』


『うん』


『でも、佐藤くんは――』


『違うって言う?』


 陽菜は言葉に詰まった。


『前の人も、最初は違ったよ』


 美園の言葉に、何も返せない。


 今の佐藤なら受け入れる。


 そう言うことは簡単だった。


 だが、数年後も同じだと陽菜が保証することはできない。


 前の夫も、最初は受け入れたのだ。


 それでも、美園は傷ついた。


 同じ言葉を信じて、もう一度同じように捨てられるかもしれない。


 その恐怖を、陽菜には計り知れなかった。


『だから、佐藤くんが子どもを欲しいって言ったとき、先に終わらせようと思った』


『それで、年齢とか店のことを理由にしたの?』


『本当のことを言ったら、佐藤くんは気にしないって言うと思ったから』


『それを信じられなかった?』


『信じたあとで変わられる方が怖かった』


 陽菜は俯いた。


 自分がRoseで美園へぶつけた言葉を思い出す。


 美園さんだって、佐藤くんの未来を勝手に決めている。


 何も知らないまま、そう言った。


 話せばいい。


 本当のことを言えばいい。


 美園が過去にどれほど傷つき、再び同じ痛みを受けることを恐れているのか、想像もしなかった。


『ごめん』


 陽菜が呟く。


『どうして陽菜が謝るの』


『あたし、何も知らないのに』


『話してなかったんだから、知らなくて当たり前でしょ』


『でも、勝手に佐藤くんの未来を決めてるって言った』


『間違ってないよ』


『間違ってるよ』


『間違ってない』


 美園は陽菜を見る。


『私が佐藤くんの答えを聞かずに別れたのは、本当だから』


『でも、それは美園さんが――』


『怖かったから』


 美園は自分で言った。


『私は、怖くて逃げた』


 零が冬美へ伝えた言葉が蘇る。


 怖い。


 それでも、違法な改造はしない。


 零は恐怖が消えたから断ったのではない。


 怖いことを認めたうえで、自分の意思を伝えた。


『だから、陽菜が言ったことは間違ってない』


『言い方が悪かった』


『それは悪かったね』


『そこは否定してよ』


『無理』


 美園が僅かに笑った。


 陽菜は笑えなかった。


『あたし、自分が妊娠したことを見せつけたみたいになってた?』


『なってないよ』


『でも、美園さんは――』


『それと陽菜の妊娠は関係ない』


 美園がはっきりと言った。


『本当に関係ないから』


『無理してない?』


『してない』


『あたしの子どもの話、聞くのがつらくない?』


『つらくないよ』


 美園はカウンター越しに手を伸ばし、陽菜の手へ重ねた。


『陽菜が妊娠したって聞いたとき、本当に嬉しかった』


『……うん』


『陽菜と中井くんの子どもでしょ。嬉しくないわけないじゃん』


『でも、自分は持てないって思ったりしなかった?』


『少しも何も思わなかったとは言わない』


 美園は嘘をつかなかった。


『でも、それは陽菜の幸せを嫌だと思ったのとは違う』


 陽菜が美園を見る。


『私の身体のことと、陽菜が妊娠したことは別の話だよ』


『うん』


『陽菜が母親になることも、結婚することも、本当に嬉しい』


『……うん』


『だから、この前言ったことは忘れて』


『忘れられないよ』


『何で』


『美園さんが、どんな気持ちで言ったか分かったから』


 陽菜の目に涙が浮かぶ。


『あたし、美園さんが子どもを持てないなんて知らなかった』


『うん』


『前の旦那さんに、そんなふうに傷つけられたことも』


『うん』


『何も知らないのに、話してって怒って……』


『陽菜』


『自分が幸せだからって、みんなも同じものが欲しいと思うなって言われて、あたしが傷ついたことばっかり考えてた』


 陽菜は空いている手で目元を拭った。


『無神経だった』


『そんなことないよ』


『あったよ』


『陽菜が来なかったら、私はずっと誰にも話さなかったかもしれない』


『それでも、あんな聞き方は駄目だった』


『じゃあ、次から気をつけて』


『……うん』


『それで終わり』


『終われないよ』


『何で』


『美園さんが、ずっと一人で抱えてたことを、今聞いたばっかりだから』


 陽菜は美園の手を握り返した。


『総長は知ってるの?』


『うん』


『いつから?』


『前の結婚が終わった頃から』


『あたしには言わなかったんだ』


『私が頼んだから』


『そっか』


 寂しくないわけではなかった。


 だが、樹里が陽菜へ隠していたのではない。


 美園が話せないことを守っていたのだと分かった。


『総長らしいね』


『うん』


『一人だけ知ってて、ずっと何も言わなかったんだ』


『総長が話すことじゃないからね』


 二人きりのため、美園は樹里を日高と呼んだ。


『たぶん、何回も言いたいことはあったと思うけど』


『それでも言わなかった』


『うん』


 陽菜は少し考えてから、美園へ尋ねる。


『佐藤くんには、本当のこと話した方がいいと思う』


『分かってる』


『でも、簡単に言わないでって思ってる?』


『少しね』


『……ごめん』


『謝らなくていいよ』


『あたしには、美園さんの怖さを全部は分かんない』


『うん』


『佐藤くんが絶対に変わらないとも言えない』


 美園の目が僅かに揺れる。


 気にしない。


 佐藤なら大丈夫。


 陽菜がそう言うと思っていた。


『でも、本当のことを知らないまま別れるのは、やっぱり違うと思う』


 陽菜は言葉を選びながら続けた。


『佐藤くんがどうするかじゃなくて、美園さんが本当はどうしたいかを話した方がいい』


『私は……』


『別れたい?』


 美園は答えられなかった。


『佐藤くんと、もう会いたくない?』


『……会いたいよ』


 初めて、本当の気持ちが口から出た。


『またRoseに来てほしい』


『うん』


『前みたいに、くだらない話をしてほしい』


『うん』


『一緒にいたい』


 美園の声が震える。


『でも、怖い』


『うん』


『今は受け入れるって言われても、いつか変わるかもしれない』


『うん』


『また、同じことになるかもしれない』


『それも、佐藤くんに言えばいい』


『そんなことまで?』


『美園さんが怖いってことも、信じ切れないってことも、全部』


『嫌われるかもしれないよ』


『それでも、嘘の理由で嫌われるよりはいいんじゃない?』


 美園は何も言わなかった。


 陽菜の言葉が正しいかは分からない。


 本当のことを話せば、佐藤は離れていくかもしれない。


 子どものいる人生を諦められないと言われるかもしれない。


 だが、それなら少なくとも、佐藤自身が選んだ答えになる。


『零、怖いって言ってたね』


 美園が呟く。


『うん』


『それでも、冬美に全部言った』


『うん』


『私にも、できるかな』


『できるよ、とは簡単に言えない』


『そこは言ってよ』


『だって、美園さんに怒られそうだから』


『もう遅いよ』


『でも、あたしはそばにいる』


 陽菜は美園の手を強く握った。


『総長もいる』


『うん』


『美園さんが何を言われても、一人にはならないよ』


 美園の目に涙が浮かぶ。


 落ちる前に、顔を背けた。


『泣いてないから』


『まだ何も言ってないよ』


『言いそうな顔してる』


『どんな顔?』


『零みたいなこと言わないで』


 美園が手を離し、目元を拭う。


『陽菜』


『何?』


『話してくれて、ありがとう』


『それ、あたしの台詞でしょ』


『聞いてくれて、ありがとうってこと』


『……うん』


 陽菜は立ち上がり、カウンターの中へ回った。


 美園の前で足を止める。


『抱き締めてもいい?』


『聞くようになったんだ』


『少しは成長したから』


『自分で言うんだ』


『嫌ならやめるけど』


 美園は答える代わりに、陽菜の身体へ腕を回した。


 腹部を圧迫しないよう、そっと抱き締める。


 陽菜も美園の背中へ腕を回した。


『美園さん』


『何?』


『あたしの妊娠、喜んでくれてありがとう』


『当たり前でしょ』


『うん』


『身体、大事にしなよ』


『分かってる』


『無理して働かないで』


『それは総長にも言われてる』


『言われてるのに聞かないから、私も言ってるの』


『ちゃんと聞いてるよ』


『返事だけはいいね』


『美園さんまで総長みたいにならないで』


『あんなに面倒じゃないよ』


『総長に言うからね』


『勝手に言えば』


 二人はゆっくりと離れた。


 美園の目には、まだ涙が残っている。


 陽菜はそれを拭おうとはしなかった。


 泣いていないと言い張る美園のために、気づかないふりをした。


 そのとき、美園のスマートフォンが震えた。


 カウンターへ置かれた画面に、佐藤の名前が表示される。


 二人の動きが止まった。


『佐藤くん』


 陽菜が呟く。


『見れば?』


『怖い』


『あたしが見る?』


『それは駄目』


『じゃあ、美園さんが見て』


『分かってる』


 美園はスマートフォンを手に取った。


 届いた文章を開く。


「美園さん。もう一度、話をさせてください」


 それだけだった。


 責める言葉も、答えを求める言葉もない。


 ただ、話をしたいと書かれている。


『何て?』


『話をさせてほしいって』


『返事する?』


 美園の指が、画面の上で止まる。


 怖さは消えていない。


 それでも、もう嘘の理由だけを残して終わらせたくなかった。


『……する』


 美園は震える指で、短い文章を打った。


『明日の閉店後なら、話せます』


 送信する前に、陽菜を見る。


『送るよ』


『うん』


『本当に送るからね』


『早く送りなよ』


『急かさないで』


『自分で送るって言ったんでしょ』


『分かってるよ』


 美園は一度だけ深く息を吸い、送信した。


 すぐに既読がつく。


「分かりました。明日、伺います」


 美園は画面を見つめた。


 明日、本当のことを話す。


 子どもを持てない身体であること。


 前の結婚が、それによって終わったこと。


 佐藤の未来を奪うことが怖かったこと。


 もう一度捨てられる前に、自分から離れたこと。


 すべてを話した先で、佐藤が何を選ぶのかは分からない。


 それでも今度は、相手の答えを聞く前に終わらせない。


 美園はスマートフォンを胸元へ握り締めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。