↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
290/329

290話「怖さのあとに」

貸しガレージを出たあと、美園は零と柚希を車で送った。


 後部座席では、二人がずっと手を繋いでいる。


 零は窓の外を見ていた。


 冬美へ断ることはできた。


 違法な改造はしない。


 職場にも、柚希にも近づかないでほしい。


 自分の意思だと、最後まで伝えた。


 それでも、すぐに安心できるわけではなかった。


 冬美の車が後ろからついてきているのではないか。


 先回りして家の近くで待っているのではないか。


 信号で車が止まるたび、零は周囲を確認していた。


「零ちゃん」


「何すか」


「今日は私の家に来る?」


「でも」


「一人で帰りたい?」


「それは……嫌っす」


「じゃあ、来て」


「いいんすか?」


「聞かなくても分かるでしょ」


「……はい」


 柚希が零の手を握り直す。


 前方では、美園が二人の会話を聞いていた。


 何も言わない。


 助手席の樹里も、後ろを振り返らなかった。


 陽菜だけが、何度か零を気にするように見ていた。


『零』


「はい」


『明日、仕事に行くの?』


「行くっす」


『休んだ方がよくない?』


「急に休めないっすよ」


『でも、冬美が来るかもしれないじゃん』


「そのことも含めて、責任者に話すっす」


『一人で大丈夫?』


「柚希ちゃんが一緒に来てくれるって言ってるっす」


『あたしたちも行こうか?』


「そこまでは大丈夫っす」


『本当に?』


「はい」


 零は一度、樹里の背中を見る。


「まずは、自分で話してみるっす」


 陽菜は何か言おうとした。


 だが、その前に樹里が口を開く。


『分かった』


『総長』


『零が自分で話すと言っている』


『でも――』


『必要になれば、向こうから連絡が来る』


 樹里は振り返らずに続けた。


『そのときに動けばいい』


 零は小さく頷いた。


「ありがとうございます」


『ただし、冬美から連絡が来た場合は、すぐに知らせろ』


「分かりました」


『一人で会いに行くな』


「はい」


『メッセージも消すな』


「残しておくっす」


『それでいい』


 車は柚希の自宅近くへ着いた。


 美園が路肩へ止める。


 零と柚希が車を降りた。


「今日は、本当にありがとうございました」


 柚希が頭を下げる。


『早川さん』


 樹里が窓を開けた。


『零を一人にせずにいてくれて、ありがとうございました』


「私は、何もできていません」


『そんなことはありません』


 樹里は零を見る。


『こいつが怖いと言えたのは、早川さんが聞いたからです』


 零は僅かに俯いた。


 柚希が、その隣で首を横へ振る。


「言ったのは、零ちゃんです」


『そうですね』


 樹里は短く答えた。


「総長」


『何だ』


「自分……ずっと黙ってて、すみませんでした」


 陽菜と美園の表情が変わる。


 樹里は零を見つめた。


『謝る必要はない』


「でも、もっと早く話してれば――」


『話せなかったんだろ』


「はい」


『なら、お前が悪いことにはならない』


「総長たちは、近くにいたのにって思うかもしれないっすけど」


『近くにいたのに気づかなかったのは、私たちの方だ』


 樹里は言葉を切った。


『すまなかった』


「総長が謝ることじゃないっす」


『それを決めるのは私だ』


 いつもの言い方だった。


 だが、声は僅かに掠れていた。


『私は、お前たちを見ているつもりだった』


「はい」


「冬美さんが三人の目を避けてたんすよ」


『それでもだ』


 樹里は視線を落としかけ、もう一度零を見る。


『今後、同じことがあれば話せ』


「もう、ないと思うっす」


『あるかどうかではない。怖いと思った時点で話せ』


「……分かりました」


『私でなくてもいい。陽菜でも、美園でも、早川さんでもいい』


「はい」


『一人で判断するな』


「分かりました」


 零は深く頭を下げた。


「おやすみなさい」


『おやすみ、零』


 陽菜が答える。


『ゆっくり休みな』


 美園も続ける。


『また連絡する』


 最後に樹里が言った。


 零と柚希が並んで歩き出す。


 建物の中へ入るまで見届けてから、美園は車を発進させた。


 しばらく、誰も話さなかった。


『総長』


 陽菜が沈黙を破る。


『何だ』


『総長も、自分を責めてる?』


『責めていない』


『嘘』


『嘘ではない』


『じゃあ、何でそんな顔してるの』


『どんな顔だ』


『いつもの三倍怖い』


『それはお前の目がおかしい』


『あたしの目は普通』


『陽菜』


 美園が運転しながら呼ぶ。


『総長だけじゃないよ』


『分かってる』


『私も気づかなかった』


『あたしも』


 三人は同じ場所にいた。


 冬美が零を殴っていたことを、一人も知らなかった。


 自分たちの前では、冬美は別の顔を見せていた。


 誰よりも上に立っていると思っていた樹里でさえ、すべてを見抜けていたわけではない。


『零、ずっと怖かったんだね』


 陽菜が呟く。


『そうだな』


『あたしたちの近くにいたのに』


『だから、言えなかったのかもしれない』


 美園が言った。


『どういう意味?』


『近くにいたからこそ、気づいてもらえなかったことを言えなかったんじゃないかな』


『でも、言ってくれたら――』


『何とかした?』


『当たり前でしょ』


『零も、今なら分かってるよ』


 美園は前を向いたまま続けた。


『でも、あの頃は分からなかったんだよ』


『……うん』


『言ったあと、もっと酷いことになるかもしれない。信じてもらえないかもしれない。自分が悪いと言われるかもしれない。そう思ってたら、簡単には話せない』


 陽菜は黙った。


 昨日、美園へ本当のことを話してほしいと迫った。


 美園と零の事情は同じではない。


 それでも、言えない側が何を恐れているのかを、自分は考えていなかった。


『美園さん』


『何?』


『昨日、やっぱりごめん』


『それは、もう終わったでしょ』


『でも』


『何回も謝られたら、許してないみたいになる』


『……分かった』


『今度から気をつけて』


『うん』


 美園の声は穏やかだった。


 だが、その言葉は自分自身にも向けられていた。


 言えない。


 怖い。


 零の気持ちが分かるからこそ、胸が痛んだ。


 零は怖いまま、自分の言葉を冬美へ伝えた。


 美園には、まだできていない。


 翌朝。


 零は柚希と一緒にガソリンスタンドへ向かった。


 店の前で足が止まる。


 昨日までと同じ場所なのに、入ることが怖かった。


「零ちゃん」


「大丈夫っす」


「まだ何も言ってないよ」


「言いそうな顔してたっす」


「どんな顔?」


「陽菜さんみたいな顔っす」


「それ、どんな顔なの?」


「心配してるのに、怒ってるように見える顔っす」


「それは日高さんじゃない?」


「総長は、怒ってるときも同じ顔っす」


「分かりにくいね」


「昔からっす」


 零が僅かに笑う。


 昨日、冬美と向き合ってから初めて見せた笑顔だった。


「一緒に中まで行こうか?」


「はい。お願いします」


 二人は店内へ入った。


 責任者へ時間をもらい、事務所の奥で話すことになった。


 零は何度も言葉に詰まった。


 以前の知人から、店では扱えない部品について相談されたこと。


 勤務時間外に貸しガレージへ行ったこと。


 一台目のマフラーの寸法を確認し、二台目のバイクではシートを外して配線を見たこと。


 取りつけはしていないこと。


 断ったあと、冬美が職場へ来たこと。


「どうして、最初に相談しなかったの?」


 責任者に尋ねられ、零は俯いた。


「昔から、その人に逆らえなかったからっす」


「店に来たときも、知り合いだとしか言わなかったよね」


「すみません」


「責めたいわけじゃないんだ」


 責任者は零が書いた記録へ視線を落とした。


「ただ、店の外でも、整備に関わる仕事を個人で受けるのはやめてほしい。何かあったとき、東雲さん一人では責任を負えないから」


「はい」


「取りつけなかったのは、正しい判断だった」


「……はい」


「今後、その人が来た場合は、東雲さん一人で対応させない。ほかの従業員にも、必要な範囲で話していい?」


「お願いします」


「送られてきたメッセージは残しておいて。店での防犯映像も保管しておくから」


「分かりました」


「また来たり、外で待たれたりしたら、すぐに教えて」


「はい」


「今日、仕事はできそう?」


「できます」


「無理なら休んでもいいんだよ」


「仕事してた方が落ち着くっす」


「分かった。でも、何かあればすぐに言って」


 話を終え、事務所を出る。


 零は大きく息を吐いた。


「怒られなかったね」


 柚希が隣で言う。


「注意はされたっす」


「でも、追い出されなかった」


「はい」


「店に迷惑を掛けたって言ってたけど、守ってもらえることになったよ」


「そうっすね」


「話してよかった?」


 零は店内を見た。


 いつもの制服。


 いつもの作業場。


 一緒に働いている人たち。


 冬美が来たことで、すべてを失うと思っていた。


 だが、隠さずに話したことで、自分だけの問題ではなくなった。


「よかったっす」


「うん」


「柚希ちゃん」


「何?」


「一緒に来てくれて、ありがとうございます」


「どういたしまして」


「もう仕事に行かないと遅れるんじゃないっすか?」


「大丈夫。少し余裕あるから」


「本当っすか?」


「本当」


「走っていくことになっても知らないっすよ」


「そのときは零ちゃんのせいにする」


「何でっすか」


「昨日から心配ばっかりさせられたから」


「……すみません」


「あ」


 柚希が零を見る。


「また謝った」


「今のは仕方ないっす」


「仕方なくない」


「じゃあ、何て言えばいいんすか」


「今日は会えるって言って」


 零は僅かに目を見開く。


「会ってくれるんすか」


「会いたいの」


「自分も会いたいっす」


「じゃあ、仕事が終わったら連絡して」


「はい」


「今度は嘘をつかないでね」


「もう、つかないっす」


 柚希が笑う。


 零も、今度ははっきりと笑い返した。


 数日が過ぎた。


 冬美から連絡は来なかった。


 ガソリンスタンドにも現れていない。


 すぐに恐怖が消えたわけではない。


 知らない車が長く止まれば、零は冬美ではないかと確認した。


 スマートフォンが震えるたび、名前を見る前に身体が強張った。


 それでも、零は一人で抱えなかった。


 柚希へ話し、必要なことは職場にも伝えた。


 樹里たちへも、毎日ではないが状況を知らせていた。


 冬美から連絡がない日が重なるにつれ、零の日常は少しずつ戻っていった。


 島川不動産では、高槻興産の案件が次の段階へ進んでいた。


 十七社すべての移転条件が、ようやく出そろった。


 神谷と樹里は、会社ごとの条件を一つの工程表へまとめている。


「日高さん。施工側から修正版が届きました」


『確認します』


「七月まで機材を残す会社については、東側から先に工事を進める案になっています」


『作業員の導線は確保できていますか?』


「仮設通路を設けることになりました。ただし、追加費用が発生します」


『高槻側の了承は?』


「今日の午後、説明に伺います」


『資料を修正します』


 樹里が工程表を開く。


 神谷はその隣に立ち、必要な数字を伝えていく。


 以前なら、樹里がすべてを確認し終えるまで、神谷は次の行動へ移れなかった。


 今は違う。


 樹里が資料を作り、神谷がその内容を相手へ届ける。


 神谷が聞いてきた事情を、樹里が条件へ変える。


 二人の間に、細かな説明は必要なくなり始めていた。


「この費用ですが、高槻側だけで負担する形にはしない方がいいと思います」


『理由は?』


「機材を入れた時期について、移転対象の会社にも確認不足がありました。全額を高槻側へ求めれば、ほかの十六社との公平性が崩れます」


『では、仮設通路は高槻側。機材移設に伴う工程変更分は、対象会社と分担する案にします』


「施工側にも一部負担を求められませんか?」


『当初の工程確認で、稼働中の機材を見落としていた責任ですか?』


「はい」


『交渉の余地はあります』


「では、その形で作ってください」


『分かりました』


 少し離れた席で、佐藤が二人の会話を聞いていた。


 美園と別れてからも、仕事は続いている。


 以前のような明るさは戻っていないが、担当する業務に遅れはなかった。


 樹里は何度か、佐藤へ視線を向けた。


 声をかけることはできる。


 美園が別れを選んだ本当の理由へ近づく言葉も知っている。


 だが、今ではない。


 美園は、零が冬美へ自分の意思を伝える姿を見ていた。


 それを受けて、何を考えるのか。


 自分で佐藤と向き合おうとするのか。


 樹里は、まだ待つことにした。


 その夜。


 美園は一人でRoseのカウンターに立っていた。


 扉が開くたび、顔を上げる。


 佐藤ではないと分かると、いつもの笑顔で客を迎えた。


 閉店時間を過ぎ、最後の客が帰る。


 美園は店内を片づけ、入口の鍵を閉めた。


 静かになったカウンターの端には、佐藤が以前使っていたグラスがある。


 ほかの客にも使っているものだ。


 佐藤だけのために用意したわけではない。


 それでも、手に取れば、そこに座っていた姿を思い出す。


「子どもって、いいですね」


「俺も、いつか欲しいな」


 佐藤の声が蘇る。


 悪意などなかった。


 美園を傷つけるつもりで言った言葉でもない。


 だからこそ、本当のことを話せなかった。


 佐藤が思い描いている未来を、自分では叶えられない。


 前の夫も、最初は受け入れると言った。


 それでも、時間が経つにつれて変わった。


 同じことが起きるのが怖かった。


 佐藤の気持ちが変わっていくところを、もう一度そばで見続ける勇気はなかった。


 美園はグラスを拭き、棚へ戻した。


 スマートフォンを手に取る。


 佐藤とのやり取りを開く。


 最後に残っているのは、別れを告げた翌日に届いた言葉だった。


「分かりました」


 理由を問い詰めることも、店へ押しかけることもなかった。


 美園が終わりにしたいと言ったから、佐藤は受け入れた。


 零は冬美へ言った。


 自分が分かる。


 自分で決めているだけだ。


 美園は、佐藤に決めさせなかった。


 子どもがいない人生を受け入れられるのか。


 それでも自分と一緒にいたいと思うのか。


 何一つ尋ねなかった。


 佐藤の未来を守るという理由で、自分が傷つかない方を選んだ。


『……分かってるよ』


 誰もいない店内で呟く。


 自分が間違っているかもしれないことは、最初から分かっていた。


 それでも、スマートフォンへ文字を打つことはできなかった。


 美園は画面を閉じる。


 今すぐには話せない。


 だが、以前のように、このまま終わらせればいいとも思えなくなっていた。


 怖さがなくなってから話すのではない。


 怖いままでも、自分の言葉で伝えなければならない。


 零の震える声が、美園の中に残り続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。