290話「怖さのあとに」
貸しガレージを出たあと、美園は零と柚希を車で送った。
後部座席では、二人がずっと手を繋いでいる。
零は窓の外を見ていた。
冬美へ断ることはできた。
違法な改造はしない。
職場にも、柚希にも近づかないでほしい。
自分の意思だと、最後まで伝えた。
それでも、すぐに安心できるわけではなかった。
冬美の車が後ろからついてきているのではないか。
先回りして家の近くで待っているのではないか。
信号で車が止まるたび、零は周囲を確認していた。
「零ちゃん」
「何すか」
「今日は私の家に来る?」
「でも」
「一人で帰りたい?」
「それは……嫌っす」
「じゃあ、来て」
「いいんすか?」
「聞かなくても分かるでしょ」
「……はい」
柚希が零の手を握り直す。
前方では、美園が二人の会話を聞いていた。
何も言わない。
助手席の樹里も、後ろを振り返らなかった。
陽菜だけが、何度か零を気にするように見ていた。
『零』
「はい」
『明日、仕事に行くの?』
「行くっす」
『休んだ方がよくない?』
「急に休めないっすよ」
『でも、冬美が来るかもしれないじゃん』
「そのことも含めて、責任者に話すっす」
『一人で大丈夫?』
「柚希ちゃんが一緒に来てくれるって言ってるっす」
『あたしたちも行こうか?』
「そこまでは大丈夫っす」
『本当に?』
「はい」
零は一度、樹里の背中を見る。
「まずは、自分で話してみるっす」
陽菜は何か言おうとした。
だが、その前に樹里が口を開く。
『分かった』
『総長』
『零が自分で話すと言っている』
『でも――』
『必要になれば、向こうから連絡が来る』
樹里は振り返らずに続けた。
『そのときに動けばいい』
零は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
『ただし、冬美から連絡が来た場合は、すぐに知らせろ』
「分かりました」
『一人で会いに行くな』
「はい」
『メッセージも消すな』
「残しておくっす」
『それでいい』
車は柚希の自宅近くへ着いた。
美園が路肩へ止める。
零と柚希が車を降りた。
「今日は、本当にありがとうございました」
柚希が頭を下げる。
『早川さん』
樹里が窓を開けた。
『零を一人にせずにいてくれて、ありがとうございました』
「私は、何もできていません」
『そんなことはありません』
樹里は零を見る。
『こいつが怖いと言えたのは、早川さんが聞いたからです』
零は僅かに俯いた。
柚希が、その隣で首を横へ振る。
「言ったのは、零ちゃんです」
『そうですね』
樹里は短く答えた。
「総長」
『何だ』
「自分……ずっと黙ってて、すみませんでした」
陽菜と美園の表情が変わる。
樹里は零を見つめた。
『謝る必要はない』
「でも、もっと早く話してれば――」
『話せなかったんだろ』
「はい」
『なら、お前が悪いことにはならない』
「総長たちは、近くにいたのにって思うかもしれないっすけど」
『近くにいたのに気づかなかったのは、私たちの方だ』
樹里は言葉を切った。
『すまなかった』
「総長が謝ることじゃないっす」
『それを決めるのは私だ』
いつもの言い方だった。
だが、声は僅かに掠れていた。
『私は、お前たちを見ているつもりだった』
「はい」
「冬美さんが三人の目を避けてたんすよ」
『それでもだ』
樹里は視線を落としかけ、もう一度零を見る。
『今後、同じことがあれば話せ』
「もう、ないと思うっす」
『あるかどうかではない。怖いと思った時点で話せ』
「……分かりました」
『私でなくてもいい。陽菜でも、美園でも、早川さんでもいい』
「はい」
『一人で判断するな』
「分かりました」
零は深く頭を下げた。
「おやすみなさい」
『おやすみ、零』
陽菜が答える。
『ゆっくり休みな』
美園も続ける。
『また連絡する』
最後に樹里が言った。
零と柚希が並んで歩き出す。
建物の中へ入るまで見届けてから、美園は車を発進させた。
しばらく、誰も話さなかった。
『総長』
陽菜が沈黙を破る。
『何だ』
『総長も、自分を責めてる?』
『責めていない』
『嘘』
『嘘ではない』
『じゃあ、何でそんな顔してるの』
『どんな顔だ』
『いつもの三倍怖い』
『それはお前の目がおかしい』
『あたしの目は普通』
『陽菜』
美園が運転しながら呼ぶ。
『総長だけじゃないよ』
『分かってる』
『私も気づかなかった』
『あたしも』
三人は同じ場所にいた。
冬美が零を殴っていたことを、一人も知らなかった。
自分たちの前では、冬美は別の顔を見せていた。
誰よりも上に立っていると思っていた樹里でさえ、すべてを見抜けていたわけではない。
『零、ずっと怖かったんだね』
陽菜が呟く。
『そうだな』
『あたしたちの近くにいたのに』
『だから、言えなかったのかもしれない』
美園が言った。
『どういう意味?』
『近くにいたからこそ、気づいてもらえなかったことを言えなかったんじゃないかな』
『でも、言ってくれたら――』
『何とかした?』
『当たり前でしょ』
『零も、今なら分かってるよ』
美園は前を向いたまま続けた。
『でも、あの頃は分からなかったんだよ』
『……うん』
『言ったあと、もっと酷いことになるかもしれない。信じてもらえないかもしれない。自分が悪いと言われるかもしれない。そう思ってたら、簡単には話せない』
陽菜は黙った。
昨日、美園へ本当のことを話してほしいと迫った。
美園と零の事情は同じではない。
それでも、言えない側が何を恐れているのかを、自分は考えていなかった。
『美園さん』
『何?』
『昨日、やっぱりごめん』
『それは、もう終わったでしょ』
『でも』
『何回も謝られたら、許してないみたいになる』
『……分かった』
『今度から気をつけて』
『うん』
美園の声は穏やかだった。
だが、その言葉は自分自身にも向けられていた。
言えない。
怖い。
零の気持ちが分かるからこそ、胸が痛んだ。
零は怖いまま、自分の言葉を冬美へ伝えた。
美園には、まだできていない。
翌朝。
零は柚希と一緒にガソリンスタンドへ向かった。
店の前で足が止まる。
昨日までと同じ場所なのに、入ることが怖かった。
「零ちゃん」
「大丈夫っす」
「まだ何も言ってないよ」
「言いそうな顔してたっす」
「どんな顔?」
「陽菜さんみたいな顔っす」
「それ、どんな顔なの?」
「心配してるのに、怒ってるように見える顔っす」
「それは日高さんじゃない?」
「総長は、怒ってるときも同じ顔っす」
「分かりにくいね」
「昔からっす」
零が僅かに笑う。
昨日、冬美と向き合ってから初めて見せた笑顔だった。
「一緒に中まで行こうか?」
「はい。お願いします」
二人は店内へ入った。
責任者へ時間をもらい、事務所の奥で話すことになった。
零は何度も言葉に詰まった。
以前の知人から、店では扱えない部品について相談されたこと。
勤務時間外に貸しガレージへ行ったこと。
一台目のマフラーの寸法を確認し、二台目のバイクではシートを外して配線を見たこと。
取りつけはしていないこと。
断ったあと、冬美が職場へ来たこと。
「どうして、最初に相談しなかったの?」
責任者に尋ねられ、零は俯いた。
「昔から、その人に逆らえなかったからっす」
「店に来たときも、知り合いだとしか言わなかったよね」
「すみません」
「責めたいわけじゃないんだ」
責任者は零が書いた記録へ視線を落とした。
「ただ、店の外でも、整備に関わる仕事を個人で受けるのはやめてほしい。何かあったとき、東雲さん一人では責任を負えないから」
「はい」
「取りつけなかったのは、正しい判断だった」
「……はい」
「今後、その人が来た場合は、東雲さん一人で対応させない。ほかの従業員にも、必要な範囲で話していい?」
「お願いします」
「送られてきたメッセージは残しておいて。店での防犯映像も保管しておくから」
「分かりました」
「また来たり、外で待たれたりしたら、すぐに教えて」
「はい」
「今日、仕事はできそう?」
「できます」
「無理なら休んでもいいんだよ」
「仕事してた方が落ち着くっす」
「分かった。でも、何かあればすぐに言って」
話を終え、事務所を出る。
零は大きく息を吐いた。
「怒られなかったね」
柚希が隣で言う。
「注意はされたっす」
「でも、追い出されなかった」
「はい」
「店に迷惑を掛けたって言ってたけど、守ってもらえることになったよ」
「そうっすね」
「話してよかった?」
零は店内を見た。
いつもの制服。
いつもの作業場。
一緒に働いている人たち。
冬美が来たことで、すべてを失うと思っていた。
だが、隠さずに話したことで、自分だけの問題ではなくなった。
「よかったっす」
「うん」
「柚希ちゃん」
「何?」
「一緒に来てくれて、ありがとうございます」
「どういたしまして」
「もう仕事に行かないと遅れるんじゃないっすか?」
「大丈夫。少し余裕あるから」
「本当っすか?」
「本当」
「走っていくことになっても知らないっすよ」
「そのときは零ちゃんのせいにする」
「何でっすか」
「昨日から心配ばっかりさせられたから」
「……すみません」
「あ」
柚希が零を見る。
「また謝った」
「今のは仕方ないっす」
「仕方なくない」
「じゃあ、何て言えばいいんすか」
「今日は会えるって言って」
零は僅かに目を見開く。
「会ってくれるんすか」
「会いたいの」
「自分も会いたいっす」
「じゃあ、仕事が終わったら連絡して」
「はい」
「今度は嘘をつかないでね」
「もう、つかないっす」
柚希が笑う。
零も、今度ははっきりと笑い返した。
数日が過ぎた。
冬美から連絡は来なかった。
ガソリンスタンドにも現れていない。
すぐに恐怖が消えたわけではない。
知らない車が長く止まれば、零は冬美ではないかと確認した。
スマートフォンが震えるたび、名前を見る前に身体が強張った。
それでも、零は一人で抱えなかった。
柚希へ話し、必要なことは職場にも伝えた。
樹里たちへも、毎日ではないが状況を知らせていた。
冬美から連絡がない日が重なるにつれ、零の日常は少しずつ戻っていった。
島川不動産では、高槻興産の案件が次の段階へ進んでいた。
十七社すべての移転条件が、ようやく出そろった。
神谷と樹里は、会社ごとの条件を一つの工程表へまとめている。
「日高さん。施工側から修正版が届きました」
『確認します』
「七月まで機材を残す会社については、東側から先に工事を進める案になっています」
『作業員の導線は確保できていますか?』
「仮設通路を設けることになりました。ただし、追加費用が発生します」
『高槻側の了承は?』
「今日の午後、説明に伺います」
『資料を修正します』
樹里が工程表を開く。
神谷はその隣に立ち、必要な数字を伝えていく。
以前なら、樹里がすべてを確認し終えるまで、神谷は次の行動へ移れなかった。
今は違う。
樹里が資料を作り、神谷がその内容を相手へ届ける。
神谷が聞いてきた事情を、樹里が条件へ変える。
二人の間に、細かな説明は必要なくなり始めていた。
「この費用ですが、高槻側だけで負担する形にはしない方がいいと思います」
『理由は?』
「機材を入れた時期について、移転対象の会社にも確認不足がありました。全額を高槻側へ求めれば、ほかの十六社との公平性が崩れます」
『では、仮設通路は高槻側。機材移設に伴う工程変更分は、対象会社と分担する案にします』
「施工側にも一部負担を求められませんか?」
『当初の工程確認で、稼働中の機材を見落としていた責任ですか?』
「はい」
『交渉の余地はあります』
「では、その形で作ってください」
『分かりました』
少し離れた席で、佐藤が二人の会話を聞いていた。
美園と別れてからも、仕事は続いている。
以前のような明るさは戻っていないが、担当する業務に遅れはなかった。
樹里は何度か、佐藤へ視線を向けた。
声をかけることはできる。
美園が別れを選んだ本当の理由へ近づく言葉も知っている。
だが、今ではない。
美園は、零が冬美へ自分の意思を伝える姿を見ていた。
それを受けて、何を考えるのか。
自分で佐藤と向き合おうとするのか。
樹里は、まだ待つことにした。
その夜。
美園は一人でRoseのカウンターに立っていた。
扉が開くたび、顔を上げる。
佐藤ではないと分かると、いつもの笑顔で客を迎えた。
閉店時間を過ぎ、最後の客が帰る。
美園は店内を片づけ、入口の鍵を閉めた。
静かになったカウンターの端には、佐藤が以前使っていたグラスがある。
ほかの客にも使っているものだ。
佐藤だけのために用意したわけではない。
それでも、手に取れば、そこに座っていた姿を思い出す。
「子どもって、いいですね」
「俺も、いつか欲しいな」
佐藤の声が蘇る。
悪意などなかった。
美園を傷つけるつもりで言った言葉でもない。
だからこそ、本当のことを話せなかった。
佐藤が思い描いている未来を、自分では叶えられない。
前の夫も、最初は受け入れると言った。
それでも、時間が経つにつれて変わった。
同じことが起きるのが怖かった。
佐藤の気持ちが変わっていくところを、もう一度そばで見続ける勇気はなかった。
美園はグラスを拭き、棚へ戻した。
スマートフォンを手に取る。
佐藤とのやり取りを開く。
最後に残っているのは、別れを告げた翌日に届いた言葉だった。
「分かりました」
理由を問い詰めることも、店へ押しかけることもなかった。
美園が終わりにしたいと言ったから、佐藤は受け入れた。
零は冬美へ言った。
自分が分かる。
自分で決めているだけだ。
美園は、佐藤に決めさせなかった。
子どもがいない人生を受け入れられるのか。
それでも自分と一緒にいたいと思うのか。
何一つ尋ねなかった。
佐藤の未来を守るという理由で、自分が傷つかない方を選んだ。
『……分かってるよ』
誰もいない店内で呟く。
自分が間違っているかもしれないことは、最初から分かっていた。
それでも、スマートフォンへ文字を打つことはできなかった。
美園は画面を閉じる。
今すぐには話せない。
だが、以前のように、このまま終わらせればいいとも思えなくなっていた。
怖さがなくなってから話すのではない。
怖いままでも、自分の言葉で伝えなければならない。
零の震える声が、美園の中に残り続けていた。




