289話「自分の言葉で」
美園はすぐにRoseの閉店準備を始めた。
入口の札を裏返し、店内の照明を落としていく。
陽菜は中井へ電話をかけるため、少し離れた。
『中井くん』
「はい」
『ごめん。帰るの、少し遅くなる』
「何かありましたか?」
『零が、昔の知り合いに脅されてる』
電話の向こうで、中井が息を呑んだ。
「零さんは無事なんですか?」
『まだ分かんない。これから探しに行く』
「俺も行きます」
『中井くんは家にいて』
「ですが――」
『総長も美園さんもいるから』
「陽菜さん」
『分かってる。無茶はしない』
「今、どこにいるんですか?」
『Rose』
「何かあれば、すぐに連絡してください」
『うん』
「迎えが必要なら、何時でも行きます」
『ありがとう』
電話を切る。
樹里は、そのやり取りが終わるのを待っていた。
『早川さん。零の勤務先へ向かいます。移動しながら、冬美とのやり取りをもう一度教えてください』
「はい」
『最後に連絡があった時刻は?』
「六時前です。仕事が終わったか聞きましたが、返事がありません」
『冬美が指定した時間は分かりますか?』
「七時です」
樹里が時計を見る。
まだ七時にはなっていない。
『間に合う』
『行こう』
美園が車の鍵を握り、裏口へ向かう。
陽菜と柚希が続いた。
樹里は最後に店内を確認し、扉を施錠した。
車へ乗ると、美園が柚希へ尋ねる。
『零の働いてる店は分かる?』
「はい。案内します」
美園が車を発進させる。
助手席には樹里が座り、陽菜と柚希は後部座席へ並んだ。
「昨日、冬美は零ちゃんの職場へ来ています」
柚希が話し始める。
「客として給油をして、零ちゃんが仕事を終える時間を聞いたそうです」
『それで、退勤後に待ってたの?』
「はい」
『最初から零を逃がす気なんてないじゃん』
「陽菜」
美園が前を向いたまま呼ぶ。
『分かってる』
陽菜は苛立ちを抑え、口を閉じた。
柚希が続ける。
「零ちゃんは、昨日は断ったと言っていました。でも、冬美は今日も貸しガレージへ来るように言っています」
『その貸しガレージの場所は?』
樹里が尋ねる。
「零ちゃんから、勤務先の近くだとは聞きました。でも、正確な住所までは聞いていません」
『冬美から届いた住所を見たことは?』
「ありません」
『ガレージの外で電話をしたって言ってたよね』
『うん。最初に呼び出された日、零ちゃんがガレージを出たあとに電話した』
『周りの音とか、何か覚えてない?』
「車の音はしていました。大きな道路から、それほど離れていなかったと思います」
『ほかには?』
「電車の音が一度だけ聞こえました」
樹里がスマートフォンで地図を開く。
『勤務先と線路の間にある貸しガレージを探します』
『そんなに都合よく見つかる?』
『探さなければ見つからない』
『分かってるよ』
陽菜もスマートフォンを取り出した。
『あたしはガソリンスタンドの周りから探す』
「私も探します」
柚希が画面を開く。
『早川さんは、零へ連絡を続けてください』
「はい」
電話をかける。
呼び出し音は続いたが、零は出なかった。
「出ません」
『もうガレージにいるのかも』
陽菜が呟く。
『決めつけるな』
『でも、七時に呼ばれてるんでしょ』
『行ったとしても、まだ何かをしたとは限らない』
樹里は落ち着いた声で言った。
『零は断ろうとしている。私たちが最初から、あいつが従ったと決めつけるな』
柚希は樹里の横顔を見た。
零は、自分が黙っていたから悪いと言っていた。
だが、樹里は零を責めていない。
冬美のもとへ行ったと知っても、零が断ろうとしていることを信じている。
車がガソリンスタンドへ着いた。
営業時間は続いている。
美園が駐車スペースへ車を止め、四人で事務所へ向かった。
柚希が従業員へ声をかける。
「すみません。東雲さんは、もう帰りましたか?」
「東雲さんなら、少し前に上がりましたよ」
「一人で帰りましたか?」
「ええ。今日は裏から出たと思いますけど」
「誰か、訪ねてきませんでしたか?」
「朝に来た女性なら、夕方にも見ましたよ」
四人の表情が変わる。
『どこにいましたか?』
樹里が尋ねた。
「店には入ってこなかったです。向こうの道路に車を止めていました」
『車種は分かりますか?』
従業員が答える。
朝に給油した車と同じだった。
「東雲さんの知り合いですよね?」
『その方と東雲さんが一緒に出るところは見ましたか?』
「いえ。東雲さんは裏から出たはずなので」
『この周辺に、個人で借りられるガレージはありますか?』
「貸しガレージなら、線路沿いにありますよ」
従業員が場所を説明する。
大通りから一本入った先。
ガソリンスタンドから歩いて十分ほどの距離だった。
「そこです」
柚希が言った。
「昨日の電話で聞こえた音と合います」
『行くぞ』
樹里の言葉に、三人が頷いた。
再び車へ乗り込む。
目的の場所へ近づくにつれ、古い倉庫や小さな整備工場が増えていった。
やがて、線路沿いに同じ形のシャッターが並ぶ区画が見える。
すべてが貸しガレージだった。
美園は少し離れた場所へ車を止めた。
『どれ?』
「分かりません」
柚希は車から降り、周囲を見回した。
閉じたシャッターが並んでいる。
明かりが漏れている場所は二つ。
一つからは話し声が聞こえ、もう一つから金属を置く音がした。
その直後、線路を電車が通過する。
大きな音が周囲へ響いた。
「この音です」
柚希が振り返る。
「昨日、電話で聞こえたのと同じです」
樹里が二つのガレージを確認する。
端に近い一台分のガレージ。
シャッターは半分ほど開いていた。
隙間から、バイクの後輪が見える。
『あそこだ』
陽菜が歩き出そうとする。
樹里が腕を出して止めた。
『待て』
『零が中にいるかもしれないんだよ』
『だからだ』
『何で止めるの』
『様子を見る』
『そんな場合じゃ――』
『陽菜』
美園が小さな声で呼ぶ。
『総長の言うとおりにしよう』
陽菜はガレージへ視線を向けた。
今すぐ入って、冬美を零から引き離したかった。
だが、それをすれば、零はまた自分の意思を口にできないまま守られることになる。
樹里はガレージの中から聞こえる声へ耳を澄ませていた。
四人はシャッターの死角へ移動した。
中にいる零からも、冬美からも見えない位置だった。
ガレージの中。
零は作業台の前に立っていた。
昨日の男の姿はない。
冬美と二人きりだった。
作業台には、灯火類と配線を繋ぐための端子が並べられている。
「これで必要なものは全部?」
冬美が尋ねる。
「知らないっす」
「昨日、配線を見たでしょ」
「見ただけっす」
「足りないなら買ってくるから教えて」
「取りつけないって言ったっす」
「でも、来た」
冬美が笑う。
「やっぱり、柚希ちゃんのことが心配だった?」
「柚希ちゃんには近づかないでください」
「何もしてないでしょ。写真を撮っただけ」
「それが嫌だって言ってるっす」
「じゃあ、早く終わらせてよ」
「自分はやらないっす」
「何のために来たの?」
「冬美さんに、直接言うためっす」
「何を?」
「もう連絡しないでください」
冬美の笑みが薄くなる。
「それだけ?」
「職場にも来ないでください。柚希ちゃんにも近づかないでください」
「全部、零が決めることじゃないよね」
「自分に関わることっす」
「私がどこの店で給油するかも?」
「自分を脅すために来るのはやめてください」
「脅してないよ」
「脅してるっす」
声は震えていた。
それでも、零は冬美から目を逸らさなかった。
「自分がガレージに来なければ、職場に行く。言うことを聞かなければ、柚希ちゃんと話す。そう言ったっす」
「話すだけでしょ」
「自分が怖がると分かって言ってるっす」
冬美の顔から、笑みが消えた。
「柚希ちゃんに何を吹き込まれたの?」
「関係ないっす」
「昨日までは、ちゃんとできてたのに」
「できてたんじゃないっす」
零は両手を強く握った。
「怖くて、断れなかっただけっす」
「今は怖くないの?」
「怖いっす」
迷わず答えた。
「今も、冬美さんが怖いっす」
口にした瞬間、身体の震えが強くなった。
だが、昨日までとは違う。
怖いことを隠すための震えではなかった。
怖いまま、ここに立っている。
「じゃあ、言うことを聞けばいいじゃん」
冬美が一歩近づく。
「昔みたいに」
零の足が後ろへ下がりかける。
それでも、踏み止まった。
「嫌っす」
「零」
「嫌っす」
「返事は?」
「今、したっす」
冬美の眉が動いた。
零は息を吸う。
「自分は、やらないっす」
「何を?」
「店で受けられない改造はしないっす」
「ここは店じゃないよ」
「場所の話じゃないっす」
零は作業台に置かれた部品を見る。
「自分が働いてる店の名前に傷がつくようなことは、店の外でもしないっす」
「誰にも言わなければ分からないよ」
「自分が分かるっす」
「それで?」
「この部品も取りつけない。冬美さんが連れてきた人のバイクも触らない。ほかの誰かを連れてきても、全部断るっす」
冬美が零との距離を詰める。
「私に逆らうんだ」
零の頬が、過去の痛みを思い出す。
肩へ手を置かれる。
壁へ押しつけられる。
腹を殴られる。
倒れれば、靴先が身体へ入る。
冬美が笑いながら言う。
次はちゃんとできるよね。
返事は。
零。
何度も聞いた声が頭の中で重なる。
逃げたかった。
今すぐガレージから出たかった。
それでも、零は口を開いた。
「違うっす」
「何が?」
「逆らうんじゃないっす」
零は震える息を吐いた。
「自分で決めてるだけっす」
冬美の目が僅かに見開かれる。
「昔は、何をされても断れなかったっす。嫌だって言ったら、また殴られると思ってたから」
「いつまで昔の話をしてるの?」
「冬美さんが、昔のままだからっす」
零は真っ直ぐ冬美を見た。
「人が怖がってるのを分かって、自分の言うことを聞かせようとするところが、何も変わってないっす」
「随分、言えるようになったね」
「柚希ちゃんが教えてくれたっす」
「何を?」
「怖いって言ってもいいって」
零は一度、目を閉じた。
柚希の手の温もりを思い出す。
話せるようになるまで待たなくていい。
うまく説明できなくても、怖い、嫌だ、それだけでいい。
柚希はそう言ってくれた。
目を開ける。
「冬美さんが怖いっす」
声は震えている。
「でも、違法な改造はしないっす」
今度は、最後まではっきりと言えた。
「ここではやらない。店の名前が残る仕事は受けない。誰のバイクでも、違法な改造はしないっす」
零は作業台の部品を冬美の方へ押し返した。
「もう、自分に頼まないでください」
冬美は何も言わなかった。
ガレージの外で、柚希は両手を強く握っていた。
中へ入りたい。
零の隣に立ちたかった。
それでも、樹里は動かなかった。
陽菜も美園も、零の言葉が終わるまで待っている。
誰も代わりに断らなかった。
零は自分で、怖いと言った。
自分の意思で、やらないと言った。
樹里が一歩前へ出た。
その足音に、零と冬美が入口を見る。
『よく言った』
樹里がシャッターの下からガレージへ入った。
陽菜と美園が続く。
最後に、柚希も中へ入った。
冬美の顔が凍りついた。
『……総長』
さっきまで零へ向けていた余裕が、一瞬で消えた。
冬美は樹里の隣を見る。
『副総長……』
陽菜は何も言わず、冬美を睨んでいる。
その腹部を守るように、片手が僅かに添えられていた。
さらに美園へ視線が移る。
『美園さんまで……』
『久しぶり、冬美』
美園の声は静かだった。
だが、Roseで陽菜と言い合っていたときとは違う。
感情を押し殺した低い声だった。
『どうして、ここに』
『零を探しに来た』
樹里が答える。
『なぜ、お前が驚いている』
『別に、驚いてなんか――』
『顔に出ている』
冬美は一歩後ろへ下がった。
柚希は、その姿を見つめていた。
つい先ほどまで、冬美は零を追い詰めていた。
怖がっていることを利用し、昔と同じように従わせようとしていた。
その冬美が、樹里たちを見た瞬間に言葉を失った。
日高樹里。
普段は島川不動産で働き、感情を表へ出さず、誰に対しても敬語で話す女性。
櫻井陽菜。
結婚と妊娠を報告したばかりで、後輩の仕事を支える先輩。
中村美園。
Roseのカウンターに立ち、穏やかに客を迎える店主。
柚希が知っている三人は、それぞれの日常を生きる女性だった。
だが、冬美の目には、違う三人が映っている。
総長。
副総長。
その次に立っていた幹部。
三人が何もしていないのに、冬美は明らかに怯んでいる。
零から聞いた過去が、初めて形を持った。
零が所属していたRose girls。
その中で樹里たちがどこに立ち、冬美が三人の見えない場所で何をしていたのか。
ただの昔話ではない。
この四人は、本当に同じ場所にいた。
そして、当時の序列は、今も冬美の中へ残っている。
『総長たちには関係ないでしょ』
冬美が言った。
『もうチームはないんだから』
『そうだな』
樹里が答える。
『Rose girlsは、もうない』
『だったら――』
『だからこそ、今の零へ昔の序列を押しつける理由は一つもない』
冬美が口を閉じる。
『零は、今お前の命令を聞く立場ではない』
『命令なんてしてない』
『店では扱えない部品を取りつけろと迫った』
『頼んだだけ』
『断れば職場へ行くと言った』
『給油しに行っただけだよ』
『早川さんの写真を撮り、零へ送った』
『偶然見かけたから』
『それで、零が言うことを聞けば早川さんへ関わらないと言った』
『そんなの、脅しじゃないでしょ』
『お前が決めることではない』
樹里は一歩ずつ冬美へ近づく。
大声を出してはいない。
手を上げることもない。
それでも、冬美は同じだけ後ろへ下がった。
『私は、もう何もしないって』
『違う』
陽菜が口を開く。
『零が断ったから、できなくなっただけでしょ』
『副総長には関係ない』
『その呼び方やめて』
陽菜の声が鋭くなる。
『あたしはもう、お前の副総長じゃない』
冬美の表情が僅かに歪む。
『なのに、お前はいつまで昔の立場を使って零を脅してるの』
『脅してないって言ってるでしょ』
『じゃあ、何で総長たちの前では零に何もしなかったの?』
『何の話?』
『とぼけるな』
美園が言った。
『零を殴ってたんだってね』
冬美の視線が零へ向く。
『話したんだ』
零の身体が強張る。
その前へ、柚希が立とうとした。
だが、零が柚希の手を掴んで止めた。
今度は隠れない。
零は冬美の視線を受け止めた。
「話したっす」
『今さら被害者みたいな顔するんだ』
「被害者みたいな顔じゃないっす」
『じゃあ、何?』
「自分がされたことを話しただけっす」
『あんたが鈍くて、何を言ってもできなかったからでしょ』
「だからって、殴っていい理由にはならないっす」
『昔は何も言わなかったじゃん』
「言えなかったっす」
『同じでしょ』
「違うっす」
零は一度も目を逸らさなかった。
「昔の自分が言えなかった分も、今言ってるっす」
冬美が黙る。
「もう、冬美さんの言うことは聞かないっす」
零は柚希の手を握った。
「柚希ちゃんに近づかれても、職場へ来られても、改造はしないっす」
『職場へ来たら、店の人に話す』
樹里が続ける。
『早川さんへ近づけば、記録を残して相談する。今まで送ったメッセージも、写真も、すべて残っている』
『警察にでも行くつもり?』
『必要なら行く』
『その程度で相手にされると思ってるの?』
『相手にされるかどうかを、お前が心配する必要はない』
樹里の声は変わらない。
『今後、零と早川さんへ個人的な連絡をしない。職場へも行かない。第三者を使って接触することもしない』
『総長に命令される筋合いはない』
『私の命令ではない』
樹里は零を見る。
『零が、もう関わるなと言った』
冬美も零を見る。
以前なら、その視線だけで俯いていた。
零は柚希の手を握ったまま、顔を上げていた。
「もう関わらないでください」
声はまだ僅かに震えている。
それでも、言葉は揺らがなかった。
「これは総長に言わされてるんじゃないっす。自分の意思っす」
長い沈黙が落ちた。
冬美は作業台にある部品を乱暴に箱へ戻した。
『分かったよ』
「本当に、分かったんすか」
『しつこい』
「冬美さんが、何度断ってもしつこかったからっす」
冬美の手が止まる。
陽菜が僅かに目を見開いた。
美園は零を見つめた。
怖い相手を前にしても、零は引かなかった。
冬美に言い返すためではない。
自分の意思を、最後まで相手へ伝えるために立っていた。
冬美は箱を抱え、ガレージの入口へ向かう。
樹里の前で足を止めた。
『どいて』
樹里は動かなかった。
『返事をしろ』
『……もう、零には関わらない』
『早川さんにも』
『関わらない』
『職場へも行かない』
『行かない』
樹里が道を空ける。
冬美は三人の横を通り過ぎた。
美園とも陽菜とも目を合わせない。
柚希の前を通るときだけ、僅かに視線を向けた。
だが、何も言わずに外へ出た。
遠ざかる足音を、誰も追わなかった。
やがて車のエンジン音が聞こえ、その音も離れていく。
ガレージの中へ、静けさが戻った。
零の肩から力が抜ける。
柚希が身体を支えた。
「零ちゃん」
「……大丈夫っす」
「大丈夫じゃないでしょ」
「でも、言えたっす」
「うん」
「最後まで、断れたっす」
「うん。聞いてたよ」
柚希の目から涙が落ちる。
零も、それを見て初めて自分が泣いていることに気づいた。
陽菜が二人へ近づこうとする。
樹里が腕を出して止めた。
『今は、早川さんに任せろ』
陽菜は一度だけ迷い、頷いた。
柚希は零を抱き締めた。
「怖かったね」
「……怖かったっす」
「よく言えたね」
「柚希ちゃんが、怖いって言っていいって教えてくれたからっす」
「私は教えてないよ」
「教えてくれたっす」
零は柚希の背中へ腕を回した。
樹里は二人を見守っていた。
零を守れなかった過去がある。
近くにいながら、何も気づけなかった。
そのことを今すぐ謝るのは、自分が楽になるための行為に思えた。
今夜、冬美を拒んだのは零自身だった。
樹里が代わりにしたことではない。
『零』
呼ばれ、零が柚希の肩越しに顔を上げる。
『よく断った』
「……はい」
『あとは、職場へも事情を説明する。必要なら私も同行する』
「でも、店に迷惑が――」
『隠したまま冬美に来られる方が迷惑になる』
「……そうっすね」
『お前がすでに触った二台についても、分かる範囲で記録を残せ』
「はい」
『取りつけていないことも含めて、正確に書け』
「分かりました」
『それでいい』
零は小さく頷いた。
「総長」
久しぶりに、その呼び方が口から出た。
樹里が零を見る。
「来てくれて、ありがとうございます」
『礼はいらない』
樹里は作業台へ置かれた部品を見る。
『違法な改造を拒んで、店を守ったのはお前だ』
零の目から、再び涙が落ちた。
「……はい」
美園は少し離れた場所から、その姿を見ていた。
零は怖かった。
今も身体が震えている。
それでも、自分の口で冬美へすべてを話した。
嫌だということ。
怖いということ。
これ以上は関わらないでほしいということ。
話せば、何をされるか分からない。
言わずに従う方が、その瞬間だけは楽だったはずだ。
それでも零は、先に離れることも、誰かに代わりを頼むこともしなかった。
自分の気持ちを、自分の言葉で相手へ渡した。
美園の中に、佐藤の顔が浮かぶ。
何も知らないまま、別れを受け入れようとしていた顔。
自分は、佐藤が何を選ぶのかを聞かなかった。
聞く前に、答えを決めた。
子どもが欲しいと言った佐藤へ、本当のことを話す勇気がなかった。
過去と同じ痛みを受けるのが怖くて、先に離れた。
『美園さん?』
陽菜に呼ばれ、美園は顔を上げた。
『何でもない』
『顔、変だよ』
『陽菜に言われたくない』
『何それ』
美園は零を見る。
柚希に支えられながらも、零は自分の足で立っている。
『……怖くても、言えるんだね』
『何が?』
『何でもない』
今はまだ、陽菜へ話すことではない。
だが、いつまでも言えないままではいられない。
零が閉じたはずの過去へ向き合ったように、自分も向き合わなければならない。
その相手は、陽菜でも樹里でもなかった。
美園が本当の言葉を伝えなければならない相手は、一人しかいなかった。




