288話「助けてください」
零と柚希は、手を繋いだまま駅へ向かっていた。
いつもなら、どちらかの家へ行くか、途中で食事をする。
だが、今夜は行き先を決めるような会話もなかった。
零は何度も後ろを振り返っている。
冬美の姿はない。
分かっていても、足音が聞こえるたびに身体が強張った。
「零ちゃん」
「何すか」
「どこかで座って話さない?」
「でも、もう遅いっすよ」
「まだ、それほど遅くないよ」
「柚希ちゃん、明日も仕事っすよね」
「零ちゃんもでしょ」
「自分は大丈夫っす」
「私も大丈夫」
柚希は駅の近くにある飲食店を指さした。
「少しだけでいいから」
零は迷った。
話せることは多くない。
話せば、柚希を巻き込むことになる。
それでも、このまま一人で帰ることの方が怖かった。
「……分かりました」
二人は店へ入り、奥の席へ向かい合って座った。
注文した飲み物が運ばれてきても、零はグラスへ手を伸ばさなかった。
柚希も急かさない。
零が話し始めるまで、黙って待っていた。
「さっきの人は」
零が口を開く。
「はい」
「冬美さんっていう人っす」
「冬美さん」
「昔、自分がいたチームの人っす」
「チームって、Rose girls?」
「そうっす」
柚希は驚いた様子を見せたが、口を挟まなかった。
「冬美さんは、Rose girlsの四番目にいた人っす」
「四番目?」
「総長、副総長、美園さんの次っす」
樹里が総長。
陽菜が副総長。
美園が、その次に立つ幹部。
冬美は美園に続く立場にいた。
そして、当時の零は、その誰よりも下だった。
「日高さんたちも知ってる人?」
「知ってるっす」
「じゃあ、相談できるんじゃない?」
零は首を横へ振った。
「できないっす」
「どうして?」
「総長たちは知らないからっす」
「何を?」
零は両手を膝の上で握った。
「冬美さんが、自分に何をしてたか」
柚希の表情が変わる。
「何をされてたの?」
「……大したことじゃないっす」
「零ちゃん」
「昔のことなんで」
「それで今も、あんなに震えるの?」
零は答えられなかった。
大したことではない。
何度もそう思おうとしてきた。
暴走族の中にいたのだから、殴られることくらいはあった。
自分が弱かったから。
仕事が遅かったから。
返事をしなかったから。
冬美が言っていた理由を、いつの間にか自分でも使うようになっていた。
「殴られてたの?」
柚希が静かに尋ねる。
零の肩が僅かに動いた。
それだけで答えになった。
「いつから?」
「覚えてないっす」
「何回?」
「分からないっす」
「一度や二度じゃないの?」
「……はい」
零は俯いたまま答えた。
「最初は、頬を叩かれるだけだったっす」
言葉にした瞬間、忘れたつもりだった光景が蘇った。
「返事が遅いって言われて。次は、頼まれたことが終わってないって言われたっす」
「頼まれたことって?」
「バイクを取りに行くとか、誰かを呼んでくるとか、荷物を運ぶとか。何でもっす」
「それができなかったら、殴られたの?」
「できても、遅かったって言われたっす」
柚希の手が、テーブルの上で強く握られる。
「殴るだけ?」
零は黙った。
「零ちゃん。言いたくないなら、無理に言わなくてもいいよ」
「倒れたら、蹴られたっす」
声が掠れた。
「立てって言われて。立てなかったら、何回も」
「ほかの人は?」
「知らないっす」
「見てなかったの?」
「総長たちがいるところでは、やらなかったっす」
「誰もいないところへ連れていかれたの?」
「はい」
「逃げられなかった?」
「逃げたら、もっと酷くなると思ってたっす」
柚希は何も言わなかった。
零を責める言葉が出てこないのではない。
怒りを零へ向けないようにしているのだと分かった。
「どうして今になって、その人が零ちゃんの前に現れたの?」
「バイクの部品を取りつけてほしいって言われたっす」
「それが、店ではできない改造?」
「そうっす」
「最初から?」
「最初は、部品のことを聞かれただけっす」
零は冬美から届いた最初のメッセージを見せた。
海外製のマフラー。
国内基準へ適合していることを確認できず、店では取り扱えないと答えた。
それでも、見るだけだと言われて貸しガレージへ向かった。
「どうして行ったの?」
「断ろうとはしたっす」
「うん」
「でも、名前を見るだけで、昔のことを思い出して……」
零はスマートフォンを握り締めた。
「見るだけならって、自分に言い聞かせたっす。何も取りつけなければ、悪いことはしてないって」
「昨日は部品を見ただけ?」
「寸法も測ったっす」
「今日は?」
「別の人のバイクを見せられたっす」
「もう、ほかの人まで連れてきたの?」
「冬美さんが、自分ならできるって話してたっす」
零は今日あったことを話した。
知らない男のバイク。
店で断られた灯火類。
確認するだけだと言われ、シートを外したこと。
配線を見たあと、取りつけろと求められたこと。
「取りつけなかったんだよね?」
「はい。それは断ったっす」
「店に来るっていうのは?」
「自分がガレージに行かないなら、職場へ来るって」
「今日も来たの?」
「朝、給油に来たっす」
「それで終わる時間を聞かれたの?」
「はい」
「断れないって分かってて、職場にまで来てるんだ」
零は小さく頷いた。
「日高さんたちに話そう」
柚希が言った。
「駄目っす」
「どうして?」
「総長たちは知らないっす」
「だから、今から話すんだよ」
「できないっす」
「零ちゃん」
「今さら、言えないっすよ」
「今さらじゃないよ」
「冬美さんに何をされてたのか、ずっと黙ってたっす。総長たちが近くにいたのに、自分から何も言わなかったっす」
「言えなかったんでしょ」
「同じっす」
「違うよ」
「違わないっす」
零は俯いた。
「総長に知られたら、何で相談しなかったって言われるっす」
「日高さんが、零ちゃんにそんなことを言うと思う?」
「分からないっす」
「怖かったことを怒る人じゃないと思う」
「それでも言えないっす」
柚希はしばらく黙っていた。
「じゃあ、明日また来たらどうするの?」
「自分で断るっす」
「今日も断ったのに、帰らなかったんだよね」
「次は、もっとはっきり言うっす」
「それで冬美さんが諦めなかったら?」
「分からないっす」
「またガレージへ行くの?」
「行かないっす」
「本当に?」
「……行かないっす」
零の返事は、僅かに遅れた。
柚希はその遅れに気づいていた。
「私は、零ちゃんが一人で会いに行くのは嫌だよ」
「柚希ちゃんが来るのは、もっと駄目っす」
「一緒に行くとは言ってない」
「じゃあ、どうするんすか」
「助けてもらおう」
「誰に?」
「日高さんたちに」
「それは駄目っす」
「どうしても?」
「はい」
「誰にも言わないでほしい?」
「……はい」
柚希はすぐに返事をしなかった。
零が顔を上げる。
「柚希ちゃん」
「ごめん。それは約束できない」
「どうしてっすか」
「零ちゃんが、今も危ないから」
「危なくないっす。殴られてないっすよ」
「殴られなければいいの?」
「そういう意味じゃないっすけど」
「零ちゃんは、冬美さんに名前を呼ばれただけで震えてた」
柚希は真っ直ぐ零を見た。
「職場まで来られて、断ったらまた来るって言われてる。それを危なくないとは思えないよ」
「でも、総長たちに知られたら――」
「怒られるのが怖い?」
「それもあるっす」
「ほかには?」
「冬美さんが、何をするか分からないっす」
「日高さんたちに?」
「柚希ちゃんにもっす」
冬美は柚希の名前を知った。
彼女なのかと尋ねた。
零が言うことを聞けば関わらないとも言った。
「私を使って、零ちゃんに言うことを聞かせようとしたの?」
「……はい」
「それ、脅されてるんだよ」
「でも、何かするとは言われてないっす」
「言葉にしてないだけでしょ」
「だから、余計なことをしたら駄目なんす」
「余計なことじゃない」
「柚希ちゃんには分からないっす」
「分からないよ」
柚希の声が僅かに強くなる。
「私は、その頃の零ちゃんを知らないから」
零は口を閉じた。
「殴られていたことも、蹴られていたことも、今日初めて聞いた。どれくらい怖かったのか、全部は分からない」
「だったら――」
「でも、今の零ちゃんが怖がってることは分かるよ」
柚希はテーブル越しに手を伸ばし、零の手へ重ねた。
「分からないから、知ってる人に助けてもらいたいの」
「総長たちも、冬美さんが自分にしてたことは知らないっす」
「それでも、冬美さんがどういう人なのかは知ってるんでしょ?」
「はい」
「零ちゃんより、冬美さんと話せる人たちなんでしょ?」
「でも……」
「今すぐ話せとは言わないよ」
柚希は零の手を握った。
「今日は一緒に帰る。明日も、できるだけ一人にしない」
「仕事中は無理っす」
「仕事中に来たら、ほかの人がいる場所から離れないで」
「巻き込みたくないっす」
「一人になる方が危ないよ」
零は返事をしなかった。
「日高さんたちに話すかは、もう一度考えて」
「……分かりました」
「本当に考えてね」
「はい」
二人は店を出た。
その夜は柚希が零の家に泊まった。
電気を消したあとも、零は何度もスマートフォンを確認していた。
冬美から連絡は来ていない。
通知がないことに安心しながら、次に届く言葉を待っている自分もいた。
「零ちゃん」
隣で横になっていた柚希が呼ぶ。
「起きてたんすか」
「零ちゃんが起きてるから」
「すみません」
「また謝った」
「……癖っす」
「スマートフォン、こっちに置く?」
「無理っす」
「そっか」
「連絡が来たら、見ないと」
「見たら怖くなるんじゃない?」
「見なくても怖いっす」
冬美から連絡が来ているかもしれない。
自分が見ていない間に、職場や柚希のところへ行くかもしれない。
そう考える方が恐ろしかった。
柚希はそれ以上言わず、零の腕へ触れた。
「私はここにいるよ」
「はい」
「明日もいるから」
「仕事はどうするんすか」
「仕事は行くよ」
「だったら、ずっとはいないっす」
「終わったら会いに行く」
「毎日は無理っすよ」
「無理かどうかは、私が決める」
零は暗闇の中で柚希を見る。
「自分のせいで、柚希ちゃんの生活を変えたくないっす」
「零ちゃんが一人で怯えてるのを知ってて、いつもどおりにはできないよ」
「……すみません」
「今度謝ったら怒るよ」
「それは怖いっす」
「冬美さんより?」
「それはないっす」
答えたあと、零は自分の言葉に気づいた。
柚希も黙る。
「やっぱり、怖いんだね」
「……はい」
柚希の手が、零の腕から手へ移る。
零はその手を握ったまま目を閉じた。
翌朝。
柚希が目を覚ましたとき、零はすでに起きていた。
ベッドの端へ座り、スマートフォンを見つめている。
「零ちゃん?」
「起こしたっすか」
「連絡、来たの?」
零は画面を伏せた。
「何でもないっす」
「見せて」
「大丈夫っす」
「零ちゃん」
「本当に、大丈夫なんで」
柚希はベッドから起き上がった。
零の隣へ座る。
「昨日、嘘をつかないって約束したわけじゃないけど」
「はい」
「また同じ顔してるよ」
零はスマートフォンを握り締めた。
冬美から届いていたのは、一枚の写真だった。
昨日、ガソリンスタンドの向かい側に立っていた柚希。
道路を渡り、零へ近づいてくる姿が写っている。
続けて、短い文章が送られていた。
「この子が柚希ちゃん?」
「可愛いね」
柚希へ直接何かをすると書かれているわけではない。
だが、冬美が柚希の姿を見ていたことは分かる。
「何が来たの?」
「見せたくないっす」
「私に関係がある?」
零は否定できなかった。
柚希が手を差し出す。
「見せて」
「駄目っす」
「どうして?」
「柚希ちゃんが怖がるから」
「零ちゃんだけが怖がればいいの?」
「そういうわけじゃ――」
「私のことなら、私も知らないと駄目だよ」
零は長い間、スマートフォンを渡せなかった。
それでも、隠し続けることはできない。
震える手で、柚希へ画面を向けた。
柚希は写真と文章を読んだ。
表情から笑みが消える。
「いつ撮られたんだろう」
「昨日だと思うっす」
「冬美さん、近くにいたんだ」
「自分と話してたっす」
「そのあとも見てたの?」
「分からないっす」
「私の名前を教えた?」
「聞かれて、間違えて口にしたっす」
「そうだったんだ」
「すみません」
「零ちゃんのせいじゃないよ」
「自分が言わなければ、知られなかったっす」
「写真を撮ったのは冬美さんでしょ」
柚希はスマートフォンを零へ返した。
「これでも、誰にも言わないでって言う?」
「……言いたいっす」
「うん」
「総長たちに話したら、冬美さんが何をするか分からないっす」
「話さなくても、もう私の写真を撮ってるよ」
「だから、自分が行けば――」
「駄目」
柚希が強く言った。
「ガレージには行かないで」
「でも」
「行ったら、次はもっと断れなくなる」
「柚希ちゃんに何かされるよりは――」
「私のために行くって言われても、嬉しくないよ」
零は何も言えなかった。
「今日、仕事は休める?」
「無理っす。急に休んだら迷惑が掛かるっす」
「じゃあ、絶対に一人にならないで」
「柚希ちゃんは?」
「私も仕事へ行く」
「終わったら真っ直ぐ家に帰ってください」
「零ちゃんは?」
「自分も帰るっす」
「本当に?」
「はい」
柚希は零を見つめた。
信じたい。
だが、昨日まで零は仕事だと嘘をついていた。
「終わったら連絡して」
「分かりました」
「連絡がなかったら、迎えに行くからね」
「来ないでください」
「だったら連絡して」
「……はい」
二人は一緒に家を出た。
途中で別れ、それぞれの職場へ向かう。
零は何度も振り返り、柚希の姿が見えなくなるまで見送った。
午前中、冬美はガソリンスタンドへ現れなかった。
昼を過ぎても、連絡はない。
零は仕事をしながら、道路へ入ってくる車を何度も確認した。
冬美の車ではないと分かるたびに、僅かに息を吐く。
午後四時を過ぎた頃、スマートフォンが震えた。
休憩に入った零が画面を確認する。
「今日、七時にガレージね」
零はすぐに返信した。
「行かないっす」
「柚希ちゃんと相談したの?」
指が止まる。
「関係ないっす」
「私のこと、話したんだ」
「話してないっす」
嘘だった。
既読がつく。
「別にいいけど」
「私も柚希ちゃんと話してみようかな」
「やめてください」
「どうして?」
「柚希ちゃんは関係ないっす」
「零が私の言うことを聞かないから、関係なくなったんだよ」
零の呼吸が速くなる。
「何をするつもりっすか」
「話すだけ」
「近づかないでください」
「じゃあ、七時に来て」
画面に、その一文だけが残る。
零は返信できなかった。
行けば、柚希へは近づかないかもしれない。
今日だけ要求を聞けば、時間を稼げる。
取りつけはせず、話をするだけで帰ればいい。
また、同じ考えが浮かんでいた。
今回だけ。
一度目も、二度目も、それで冬美の前へ行った。
次も同じ言葉で自分を納得させようとしている。
零はスマートフォンを閉じた。
柚希へ連絡することもできなかった。
夕方。
柚希は仕事を終えると、すぐに零へメッセージを送った。
「仕事、終わった?」
既読はつかない。
まだ勤務中なのかもしれない。
十分待って、もう一度送る。
「零ちゃん、返事して」
それにも既読はつかなかった。
電話をかける。
呼び出し音は続くが、零は出ない。
柚希は昨日の零の言葉を思い出した。
冬美は、零が言うことを聞けば柚希へ関わらないと言った。
今朝は、柚希の写真が送られてきた。
自分のせいで冬美の要求が強くなったと思えば、零は一人でガレージへ行くかもしれない。
ガソリンスタンドへ電話することも考えた。
だが、零が過去を知られたくないと考えている職場へ、事情も分からないまま連絡することはできなかった。
柚希はスマートフォンを握り、連絡先を開く。
樹里。
陽菜。
どちらにも、会社以外で助けを求めたことはない。
何と説明すればいいのかも分からなかった。
電話をかけようとして、指が止まる。
零は話さないでほしいと言った。
それでも、柚希は誰にも言わないとは約束しなかった。
一人で抱えられないことなら、助けを求める。
それは零を裏切ることではない。
零が一人で冬美のもとへ戻ることを、黙って見過ごす方ができなかった。
柚希はRoseへ向かった。
その頃、店内では陽菜と樹里がカウンターに座っていた。
開店後だったが、ほかに客はいない。
陽菜はグラスへ入れられた水を見つめている。
隣にいる樹里も、何も言わなかった。
美園はカウンターの中で、陽菜が話し始めるのを待っていた。
『昨日は、ごめん』
陽菜が先に口を開いた。
『LINEでも送ったけど、ちゃんと言おうと思って』
『うん』
『佐藤くんのことが心配だった。でも、それだけじゃなくて、美園さんが何も言ってくれないのが腹立った』
『分かってる』
『あたしと総長のことは、何でも知ってるみたいな顔するくせに』
『何でもは知らないよ』
『でも、あたしより知ってるでしょ』
『長く見てるからね』
『だから、あたしも美園さんのことを分かりたかった』
美園は黙って陽菜を見る。
『でも、話したくないことを無理やり聞くのは違った』
『……うん』
『佐藤くんの未来を勝手に決めてるって言ったのも、ごめん』
樹里の視線が僅かに動く。
陽菜は気づかずに続けた。
『本当は、まだそう思ってる』
『謝る気ある?』
『あるよ。でも、思ってることまで嘘にはできない』
『相変わらずだね』
『美園さんだって知ってるでしょ』
『知ってる』
美園の表情が僅かに緩む。
『私も、ごめん』
『何が?』
『陽菜の妊娠を持ち出したこと』
陽菜は黙った。
『迷惑だと思ったことなんて、一度もない』
『うん』
『本当に嬉しかった』
『……うん』
『あんな言い方をするつもりじゃなかった』
『分かってる』
『分かってたの?』
『美園さん、嘘つくの下手だから』
『陽菜にだけは言われたくない』
『あたしは上手いよ』
『すぐ顔に出るよ』
『出ないし』
『出る』
『総長、どっちが正しい?』
陽菜が隣を見る。
樹里は二人から視線を外した。
『私を巻き込むな』
『逃げた』
『面倒なだけだ』
美園が僅かに笑った。
陽菜も、つられるように口元を緩める。
昨日までと同じではない。
佐藤と別れた本当の理由を、美園はまだ話していない。
陽菜も、今は聞かなかった。
『美園さん』
『何?』
『昨日のこと、許してくれる?』
美園はすぐには答えなかった。
カウンター越しに手を伸ばし、陽菜の額を指で軽く弾く。
『痛っ』
『今回だけ』
『何それ』
『次もしつこく聞いたら、今度こそ出入り禁止』
『それでも来るよ』
『警察呼ぶから』
『総長が止めるでしょ』
『私は止めない』
『何で!』
『お前が悪い』
『まだ何もしてないじゃん』
『これからする顔をしている』
『どんな顔だよ』
陽菜が不満そうに頬を膨らませる。
美園は小さく笑った。
『許すよ』
陽菜の表情が止まる。
『私も、陽菜に言ってはいけないことを言ったから』
『……うん』
『でも、まだ話せない』
『分かった』
『本当に?』
『今は聞かない』
『今は、なんだ』
『一生聞かないとは言ってないから』
『やっぱり出入り禁止にしようかな』
『もう遅いよ。許すって言ったじゃん』
『面倒なのを許しただけで、追い出さないとは言ってない』
『同じでしょ』
『違うよ』
昨日の言い合いとは違う声が、店内に戻っていた。
樹里は何も言わず、グラスへ手を伸ばす。
美園が陽菜の謝罪を受け入れた。
今夜は、それだけでよかった。
そのとき、Roseの扉が勢いよく開いた。
三人が同時に入口を見る。
柚希が立っていた。
走ってきたのか、肩で息をしている。
店内に三人がそろっていることを確認すると、柚希は真っ直ぐ樹里の前へ向かった。
「日高さん」
『早川さん?』
「すみません。零ちゃんからは、誰にも言わないでほしいと言われました」
樹里の表情が変わる。
陽菜も椅子から立ち上がった。
『零に何かあったの?』
柚希は陽菜を見る。
「零ちゃんが、昔のRose girlsの人に脅されています」
美園の手が止まる。
『誰?』
「冬美という人です」
一瞬で、店内の空気が変わった。
陽菜の顔から表情が消える。
美園は、握っていた布巾をカウンターへ置いた。
樹里だけは動かなかった。
だが、柚希を見る目が鋭くなる。
『冬美が、零に何をした』
「店では扱えないバイクの改造をさせようとしています。断ったら職場まで来て、今度は私の写真を撮って送ってきました」
『零は今どこにいるの』
「分かりません。連絡がつかないんです」
陽菜が鞄からスマートフォンを取り出す。
『あたしもかける』
『待て』
樹里が止めた。
『早川さん。最初から、分かっていることをすべて話してください』
「はい」
柚希は震える息を整えた。
「その前に、一つだけお願いします」
『何ですか?』
「零ちゃんを怒らないでください」
樹里の眉が僅かに動く。
「零ちゃんは、昔から冬美に逆らえなかったと言っていました」
『どういう意味?』
陽菜が尋ねる。
柚希は唇を噛んだ。
零が自分の口で話せなかったことを、代わりに話す。
それが正しいのかは分からない。
それでも、今は零を見つけることの方が大切だった。
「零ちゃんは、Rose girlsにいた頃から、冬美に殴られていたそうです」
三人とも、言葉を失った。
「誰もいない場所へ連れていかれて、何度も殴られて、倒れたら蹴られていました。冬美は、それを今も零ちゃんが怖がっていると分かっています」
陽菜の手から、スマートフォンが滑り落ちかける。
美園の顔から血の気が引いていた。
樹里は何も言わない。
「零ちゃんは、日高さんたちは知らなかったと言っていました。今さら話せないって。自分が黙っていたから悪いみたいに言っていました」
柚希の目に涙が浮かぶ。
「でも、零ちゃんは悪くありません」
『分かっています』
樹里が答えた。
低く、迷いのない声だった。
「冬美は今夜、零ちゃんを貸しガレージへ呼んでいます。零ちゃんは行かないと言っていました。でも、私に何かされるかもしれないと思ったら、一人で行くかもしれません」
『場所は分かりますか?』
「昨日行った場所は聞いています」
『住所は?』
「零ちゃんとのやり取りに残っていると思います。でも、私は正確な場所まで聞いていません」
『零の勤務先は分かる?』
陽菜が尋ねる。
「はい」
『最後に連絡したのは?』
「仕事が終わる少し前です。それから返事がありません」
樹里が立ち上がった。
『美園』
『うん』
『車を出せ』
『分かった』
『陽菜、お前は中井さんへ連絡しろ』
『何で中井くんに?』
『妊娠しているお前を、何の説明もなく連れ回せない』
『でも、零が――』
『置いていくとは言っていない。連絡だけしろ』
『……分かった』
陽菜がスマートフォンを操作する。
美園は店の照明を一部落とし、奥から鞄と車の鍵を持ってきた。
柚希は動き出した三人を見て、ようやく僅かに息を吐いた。
樹里が柚希を見る。
『早川さん』
「はい」
『助けを求めに来てくれて、ありがとうございます』
柚希は目を見開いた。
『あとは、私たちも一緒に探します』
「……お願いします」
柚希は深く頭を下げた。
「零ちゃんを、助けてください」




