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287話「昔みたいに」

「零、おはよう」


 冬美の声が、給油スペースへ響いた。


 零は、その場から動けなかった。


 職場へ来るとは思っていなかった。


 貸しガレージで待たれるよりも、ここへ来られる方が怖い。


 ガソリンスタンドは、零がRose girlsを離れたあとに見つけた場所だった。


 過去を知らない人たちと働き、少しずつ仕事を覚えた。


 誰かに命令されたからではなく、自分で選んで続けている。


 冬美とは何の関係もない場所だった。


「東雲さん、お客さん」


 別の従業員に呼ばれ、零は我に返った。


「……はい」


 冬美が片手を上げる。


「満タンでお願い」


「油種はレギュラーでよろしいですか?」


「うん」


 零は客へ向ける声で確認し、給油口へノズルを差し込んだ。


 冬美は車から降りたまま、零の作業を眺めている。


「制服、似合ってるね」


「給油中は危ないんで、車内で待っていてください」


「相変わらず真面目」


「お願いします」


「はいはい」


 冬美は運転席へ戻った。


 零は表示される数字を見つめた。


 早く終わってほしい。


 冬美が給油を終え、そのまま帰ってくれることだけを願っていた。


 だが、給油が止まると、冬美は再び車から降りてきた。


「昨日の続き、いつ話せる?」


「話すことはないっす」


「ここで話してもいいの?」


 冬美が周囲へ視線を向ける。


 別の従業員が洗車をしている。


 事務所の中には責任者もいる。


 声を出せば、誰かに聞かれる距離だった。


「仕事中なんで」


「だから、仕事が終わってから話そうって言ってるんだけど」


「自分は取りつけないって、昨日言ったっす」


「声、大きいよ」


 冬美は楽しそうに笑った。


「ほかの人に聞かれてもいいなら、私は構わないけど」


 零は口を閉じた。


 昨日、店を通さずにバイクへ触れた。


 部品を取りつけてはいない。


 それでも、客のバイクを分解し、配線を確認した。


 勤務先へ知られれば、何をしていたのか説明しなければならない。


 冬美との関係も聞かれるかもしれない。


「何時に終わるの?」


「……今日は六時っす」


「じゃあ、六時にまた来るね」


「来なくていいっす」


「だったら、昨日のガレージに来る?」


「行かないっす」


「じゃあ、ここへ来るしかないじゃん」


 冬美は財布から金を取り出した。


 零は代金を受け取り、釣銭を渡す。


「ありがとうございました」


「またあとでね」


「冬美さん」


 呼び止めても、冬美は振り返らなかった。


 車へ乗り込み、そのままスタンドを出ていく。


 零は遠ざかる車を見つめた。


 胸の奥で、昔と同じ感覚が広がっていく。


 呼び出される時間が決められる。


 行きたくないと思いながら、その時間が近づくほど、ほかのことを考えられなくなる。


 逃げれば、もっと悪いことが起きる。


 そう思い込まされていた頃と同じだった。


「東雲さん」


 背後から声をかけられ、零の肩が跳ねた。


「はい」


「知り合い?」


「……昔の知り合いっす」


「そうなんだ。随分親しそうだったから」


「そんなことないっすよ」


 零は作業へ戻った。


 だが、何度時計を見ても、針はほとんど進んでいないように感じた。


 同じ頃。


 島川不動産では、高槻興産の北側区画に関わる打ち合わせが続いていた。


 樹里は移転予定の会社から提出された資料を確認し、不足している項目を書き出していく。


 神谷は施工側と電話で工程を調整していた。


「はい。全体を七月へずらすのではなく、該当箇所だけ後ろへ回せないか確認したいんです」


 神谷は相手の話を聞きながら、手帳へ書き込む。


「分かりました。図面上で作業範囲を分けられるか、一度検討をお願いします」


 通話を終えると、神谷は樹里の席へ向かった。


「日高さん。施工側で工程を組み直してもらえることになりました」


『機材が残っていても、先に着工できる範囲はあるということですか?』


「はい。ただし、作業員の導線を確保できることが条件です」


『現在の配置図だけでは判断できません。現地で確認した方がよいと思います』


「では、明日行きましょう」


『分かりました』


 樹里が予定表を確認する。


「俺の方で高槻社長へ連絡します」


『お願いします』


 神谷が自分の席へ戻ったあと、陽菜は樹里の横顔を見た。


 昨夜のことには、一言も触れていない。


 陽菜も、会社で話すつもりはなかった。


 仕事を終えてから、美園へ連絡しようと思っていた。


 だが、どんな言葉を送ればいいのか分からない。


 昼休みになり、陽菜はスマートフォンを手に給湯室へ入った。


 美園とのやり取りを開く。


 最後に残っているのは、昨日、Roseへ向かう前に送った言葉だった。


『今から行くから』


 それに対する美園の返信はない。


 陽菜は新しい文章を打った。


『昨日は言いすぎた。ごめん』


 読み返す。


 これだけでは、何に対して謝っているのか分からない。


 すべてを取り消したいわけでもなかった。


 佐藤へ本当の理由を話すべきだという考えは変わっていない。


 文章を追加する。


『でも、美園さんが本当は佐藤くんと別れたくないっていう考えは変わってない』


 送ろうとして、指を止めた。


 これでは、また決めつけている。


 陽菜は二行目を消した。


『妊娠のことを言われて腹が立ったけど、あたしも美園さんに言いたくないことを言わせようとした。ごめん』


 今度は消さなかった。


 送信する。


 すぐに既読はつかなかった。


「陽菜先輩」


 入口から萌に呼ばれ、陽菜は画面を消した。


『どうしたの、萌』


「午前中にまとめた資料を確認していただきたいんですが、今よろしいですか?」


『うん。すぐ戻る』


「お願いします」


 萌が先に給湯室を出る。


 陽菜もスマートフォンをしまい、仕事へ戻った。


 美園の返事を待つことしかできないのは落ち着かなかった。


 それでも、今は待つと決めた。


 Roseでは、美園が一人で開店準備をしていた。


 佐藤と別れてから、店内が以前より広く感じる。


 閉店前になれば、何度も扉へ視線を向けていた。


 佐藤が来るかもしれないと思っていたわけではない。


 来ないことを確認していただけだ。


 そう自分へ言い聞かせていた。


 カウンターを拭いていると、スマートフォンが震えた。


 陽菜からのメッセージが表示される。


 美園は文章を読んだ。


 昨日の陽菜の顔が浮かぶ。


 傷つけたのは、自分の方だった。


 陽菜は美園のことを心配して来た。


 聞き方は乱暴だったが、突き放すためではなかった。


 それなのに、自分は陽菜が最も不安を抱えていることを使って傷つけた。


 美園は返信を打つ。


『私も言いすぎた。ごめん』


 そこまで入力し、手を止める。


 送れば、陽菜はまたRoseへ来る。


 本当の理由を聞かれるかもしれない。


 だが、返信しなくても、陽菜は来ると言っていた。


 美園は小さく息を吐き、文章を送った。


 すぐに既読がつく。


 陽菜から返ってきたのは、短い一文だった。


『また行くから』


 美園は僅かに口元を緩めた。


『しばらく来なくていいよ』


『行く』


『しつこい』


『知ってるでしょ』


 昨日と同じ言葉だった。


 だが、今度は声を荒らげずに読むことができた。


 美園はスマートフォンを伏せ、開店準備へ戻った。


 答えを話すことは、まだできない。


 それでも、陽菜を遠ざけたい気持ちは、昨夜より僅かに薄れていた。


 夕方。


 零は勤務終了までの時間を確認した。


 あと十分。


 冬美が本当に来るかは分からない。


 来ないかもしれない。


 ただ怖がらせるために言っただけかもしれない。


 そう考えながら、零は何度も道路へ視線を向けていた。


 六時になる。


 零は最後の作業を終え、事務所へ戻った。


「東雲さん、今日はもう上がっていいよ」


「お疲れさまでした」


 制服を着替え、鞄を持つ。


 裏口から出ることも考えた。


 冬美が給油スペースで待っているなら、顔を合わせずに帰れる。


 だが、逃げたと分かれば、翌日も来るかもしれない。


 ほかの従業員へ話しかけるかもしれない。


 零は正面へ回った。


 冬美の車は見当たらない。


 安堵しながら道路へ出た瞬間、近くの路地から声が聞こえた。


「こっち」


 冬美が壁にもたれて立っていた。


「本当に来たんすか」


「約束したでしょ」


「自分は約束してないっす」


「でも、六時に終わるって教えてくれた」


「聞かれたから答えただけっす」


「同じでしょ」


 冬美が壁から背を離す。


「昨日の人、困ってるんだけど」


「自分にはできないって伝えたっす」


「取りつけられるんだよね?」


「基準に合っていない部品は扱えないっす」


「ここは店じゃないよ」


「店の外でも同じっす」


「いつから、そんなに偉くなったの?」


 冬美の声から笑いが消える。


 零は一歩後ろへ下がった。


「偉いとかじゃないっす」


「ちょっと仕事を覚えたくらいで、私に説教するの?」


「説教なんてしてないっす」


「じゃあ、やってよ」


「できないっす」


「できないんじゃなくて、やりたくないだけでしょ」


「……そうっす」


 零は唇を噛んだ。


「やりたくないっす」


 昨日よりは、はっきりと言えた。


 冬美の目が細くなる。


「何で?」


「店で断られるような改造だからっす」


「誰にも迷惑かからないよ」


「何かあってからじゃ遅いっす」


「何かって?」


「事故とか、故障とか」


「そんなの、乗る方の責任でしょ」


「取りつけた人間にも責任があるっす」


「責任なんて取らなくていいって言ってるじゃん」


「そういう問題じゃないっす」


 冬美は何も言わず、零を見つめた。


 怒鳴られるよりも、その沈黙の方が怖かった。


 次にどこを殴られるのか。


 昔の零は、冬美が黙るたびにそれを考えていた。


 腹なら、服で隠れる。


 顔なら、翌日まで跡が残る。


 無意識に、零の腕が腹部の前へ動いた。


 その仕草を見て、冬美が笑う。


「何、その手」


「……何でもないっす」


「殴られると思った?」


 零は答えなかった。


「そんなことしないよ。今は、零にも仕事があるもんね」


 冬美は一歩近づいた。


「昔みたいに、言うことを聞いてくれれば、それでいいから」


 零の呼吸が浅くなる。


 昔みたいに。


 冬美は偶然、零の恐怖へ触れているのではない。


 すべて分かったうえで使っている。


「ガレージに行こう」


「行かないっす」


「昨日、途中まで外したんでしょ?」


「元に戻したっす」


「だったら、続きもできるじゃん」


「やらないっす」


「零」


 名前を呼ばれただけで、身体が強張る。


「返事は?」


 また、同じ言葉だった。


 零の口が僅かに開く。


 分かりました。


 昔から染みついた返事が出そうになる。


 零は奥歯を噛み締めた。


「……行かないっす」


 声は震えていた。


 冬美を真っ直ぐ見ることもできなかった。


 それでも、言葉だけは変えなかった。


「今日は?」


「今日も行かないっす」


「じゃあ、明日?」


「明日も――」


 言いかけたところで、零のスマートフォンが鳴った。


 柚希からの着信だった。


 零は画面を見た。


「出れば?」


 冬美が言う。


「仕事が長引いたって言うの?」


 零が顔を上げる。


「昨日も嘘ついたんでしょ?」


「どうして知ってるんすか」


「電話してたじゃん。ガレージの前で」


 零は息を呑んだ。


 冬美はシャッターを閉めたあとも、零を見ていた。


「彼女?」


「関係ないっす」


「零にも、そんな相手ができたんだ」


「柚希ちゃんには関わらないでください」


「柚希ちゃんっていうんだ」


 口にしてから、零は失敗に気づいた。


 冬美の笑みが深くなる。


「別に関わらないよ。零がちゃんと来てくれるなら」


 着信が切れた。


 すぐに、柚希からメッセージが届く。


「仕事、終わった?」


 零は返信できなかった。


「明日、ガレージに来て」


「行かないっす」


「本当に?」


「行かないっす」


「じゃあ、また店へ来るね」


「職場には来ないでください」


「給油しに来るだけだよ。客が店を選んじゃ駄目なの?」


 零は何も言い返せなかった。


「明日の夜、待ってるから」


 冬美は零の肩を軽く叩き、その場から離れていく。


 追いかけることも、呼び止めることもできなかった。


 零は一人で立ち尽くしていた。


 行かないと言った。


 昨日よりも強く断った。


 それでも、何も終わっていない。


 冬美は明日も来る。


 零が折れるまで、職場へ入り続ける。


 スマートフォンが再び鳴った。


 今度も柚希だった。


 零は迷った末に、通話へ出る。


「もしもし」


「零ちゃん?」


「はい」


「もう仕事は終わった?」


「終わったっす」


「今、どこ?」


「店の近くっす」


「まだ用事があるの?」


 零は答えられなかった。


 仕事だという嘘は、もう口にできなかった。


「零ちゃん」


「……何すか」


「私、今からそっちへ行ってもいい?」


「どうしてっすか」


「近くにいるから」


 零が周囲を見る。


 道路の向こう側に、柚希が立っていた。


 スマートフォンを耳へ当てたまま、零を見ている。


 いつからいたのかは分からない。


 冬美と話しているところを見られたのかもしれない。


 柚希は通話を切り、横断歩道を渡ってきた。


「零ちゃん」


「……いつからいたんすか」


「少し前」


「聞いてたんすか?」


「話は聞こえなかった。でも、女の人と一緒にいたのは見た」


「ただの知り合いっす」


「零ちゃん」


「昔の知り合いで――」


「私、誰なのかを聞きたいんじゃないよ」


 柚希は零の前で足を止めた。


「どうして、そんなに震えてるの?」


 言われて初めて、零は自分の手を見た。


 指先が震えている。


 隠そうとして拳を握る。


「寒いだけっす」


「今日は寒くないよ」


「自分は寒いんす」


「じゃあ、手を貸して」


 柚希が両手で零の拳を包む。


「冷たくないよ」


「柚希ちゃん」


「うん」


「何も聞かないでください」


 零は俯いた。


「今は、言えないっす」


「分かった」


 柚希は手を離さなかった。


「でも、一つだけ聞かせて」


「何すか」


「あの人が、零ちゃんの用事?」


 零は長い間、答えられなかった。


 ここで違うと言えば、また嘘になる。


 頷けば、柚希はさらに心配する。


 そのどちらも怖かった。


「……そうっす」


「仕事じゃなかったんだね」


「すみません」


「謝ってほしいんじゃない」


「でも、嘘ついたっす」


「うん。寂しかった」


 柚希は、責めるようには言わなかった。


「私じゃ、頼れなかった?」


「違うっす」


「じゃあ、どうして?」


「巻き込みたくないんす」


 零の口から、初めて本当の言葉が出た。


 柚希の表情が変わる。


「何に?」


「それは、まだ言えないっす」


「さっきの人?」


 零は答えなかった。


 だが、否定もしなかった。


「零ちゃん。私を巻き込まないために、一人であの人の言うことを聞いてるの?」


「言うことなんて、聞いてないっす」


「本当に?」


「……今日は、断ったっす」


「今日は?」


 零は唇を閉じた。


 昨日、貸しガレージへ行った。


 部品を確認した。


 今日は別のバイクのシートまで外した。


 何もしていないとは言えなかった。


「帰ろう」


 柚希が言った。


「でも」


「今日は、もうどこにも行かないんでしょ?」


「はい」


「じゃあ、一緒に帰ろう」


「柚希ちゃんに迷惑が――」


「一緒に帰るだけで、迷惑なんて掛からないよ」


 柚希は零の手を引いた。


 零は一歩だけ動く。


 それから、冬美が消えた道を振り返った。


「明日も来るって言ってたっす」


 柚希の足が止まる。


「ここに?」


「……はい」


「どうして?」


「自分が行かないなら、職場へ来るって」


「零ちゃんに何をさせたいの?」


 零は答えようとして、声を出せなかった。


 柚希は待った。


 急かさず、握った手にも力を加えず、零が言葉にするのを待っていた。


「店ではできない改造を……自分にやらせようとしてるっす」


「違法なもの?」


「基準に合ってると確認できない部品っす」


「もう、やったの?」


「取りつけてないっす」


 零は慌てて答えた。


「本当に、取りつけてはいないっす。ただ、見るだけって言われて……昨日は寸法を測って、今日は別のバイクのシートを外したっす」


「どうして行ったの?」


「断れなかったからっす」


 声が小さくなる。


「昔から、あの人には逆らえなくて」


 柚希は何も言わなかった。


「でも、今日は断ったっす。取りつけないって言ったっす」


「うん」


「行かないとも言ったっす」


「うん」


「それでも、また来るって」


 零の声が震えた。


 柚希は零の手を握ったまま、正面へ回る。


「怖い?」


 昨日、言えなかった言葉だった。


 今日もすぐには答えられない。


 零は俯き、柚希の手を握り返した。


「……怖いっす」


 初めて、口にできた。


 冬美に殴られていたことも、何をされていたのかも、まだ話していない。


 それでも、怖いという気持ちだけは隠さなかった。


「分かった」


 柚希が零の手を両手で包む。


「今日は、私が一緒にいる」


「でも、明日は」


「明日のことは、明日一緒に考えよう」


「柚希ちゃんを巻き込みたくないっす」


「もう聞いたから、知らないふりはできないよ」


「すみません」


「だから、謝らなくていいって」


 柚希は零の隣へ並んだ。


「零ちゃんが怖いって言ったこと、なかったことにはしないから」


 二人は手を繋いだまま歩き始めた。


 零は何度も後ろを振り返った。


 冬美の姿はない。


 それでも、明日になればまた現れる。


 怖さは消えていなかった。


 何も解決していない。


 だが、もう仕事が忙しいとは言わなくていい。


 そのことだけが、零の呼吸を僅かに楽にしていた。

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