286話「閉じなかった入口」
Roseを出た陽菜は、一人で夜道を歩いていた。
樹里を待つ気にはなれなかった。
美園へ言われた言葉が、頭から離れない。
自分の結婚と子どものことだけ考えていればいい。
あれが美園の本心ではないことくらい、陽菜にも分かっていた。
妊娠を報告したとき、美園は誰より先に陽菜を抱き締めた。
何度も、よかったねと言ってくれた。
その手も、声も、嘘ではなかった。
それでも、傷つかなかったわけではない。
『……何なの、もう』
陽菜は目元を拭った。
怒っていた。
美園が何も話さないことにも、自分が言いすぎたことにも腹が立っていた。
佐藤のことが好きだと分かっているのに、別れた理由を言おうとしない。
美園が苦しんでいることも分かる。
分かるからこそ、放っておけなかった。
だが、自分が踏み込んだことで、美園を追い詰めたのかもしれない。
スマートフォンが震えた。
中井からだった。
「もうRoseを出ましたか?」
陽菜は立ち止まり、短く返信する。
『今出た』
「迎えに行きます」
『大丈夫。一人で帰れる』
「どこにいますか?」
『大丈夫だって』
「陽菜さん」
文字だけでも、中井の声が聞こえるようだった。
陽菜は現在地の近くにあるコンビニの名前を送った。
「そこで待っていてください」
『歩きながら待ってる』
「待っていてください」
『はいはい』
スマートフォンを鞄へ戻す。
数分後、後ろから足音が近づいてきた。
樹里かと思って振り返りそうになったが、足音は通り過ぎていく。
陽菜は前を向いた。
今、樹里と話せば、美園の秘密を知っているのかと尋ねてしまう。
知っていたとしても、樹里は答えない。
美園が話せないことを、樹里が代わりに話すはずがなかった。
それも分かっていた。
だから、今は待ちたくなかった。
コンビニの前へ着くと、陽菜は壁際に立った。
夜風が頬へ当たる。
冷静になろうとしても、美園との言い合いが何度も蘇った。
今日の美園さん、嫌い。
勢いで口にした言葉だった。
言わなければよかったと思う。
だが、嘘ではなかった。
今日だけは、嫌いだった。
それでも、嫌いになったまま離れるつもりはなかった。
しばらくして、中井が小走りでやってきた。
「陽菜さん」
『走ってきたの?』
「少しだけです」
『別に逃げないのに』
「顔を見たかったので」
中井は陽菜の前で足を止めた。
泣いたことには気づいたはずだ。
それでも、何があったのかとはすぐに尋ねなかった。
「帰りましょうか」
『うん』
二人で歩き始める。
中井は陽菜の歩幅に合わせていた。
手を繋ごうともせず、少しだけ近い距離を歩いている。
陽菜の方から、中井の手を掴んだ。
中井が握り返す。
「美園さんと、話せましたか?」
『話した』
「どうでしたか?」
『喧嘩した』
「喧嘩ですか?」
『すごい喧嘩』
「日高さんも一緒だったんですよね」
『総長は途中まで黙ってた』
「そうですか」
『あたし、美園さんに嫌いって言った』
「本当に嫌いになったんですか?」
『今日の美園さんが嫌いって言っただけ』
「それなら、明日は変わるかもしれませんね」
『簡単には変わらないよ』
「それでも、ずっと嫌いだとは言わなかったんですよね」
陽菜は中井を見る。
『中井くん、何でそういうところだけ冷静なの』
「冷静ではありません。陽菜さんが泣いていたので、今も心配しています」
『泣いてない』
「そういうことにしておきます」
『……美園さん、何か隠してる』
「はい」
『佐藤くんのこと、絶対まだ好きなのに』
「俺も、そう思います」
『じゃあ、何で別れるの』
「それを話せない理由があるんでしょうね」
『話さなかったら、誰にも分からないじゃん』
「そうですね」
『佐藤くんだって、何も知らないまま傷ついてる』
「はい」
『あたし、間違ってないよね』
中井はすぐには答えなかった。
繋いだ手に、少しだけ力が入る。
「陽菜さんの言ったことは、間違っていないと思います」
『じゃあ、何でそんな言い方するの』
「正しいことでも、今すぐ聞けるとは限らないからです」
陽菜は黙った。
「美園さんには、まだ言葉にできないことがあるのかもしれません」
『だからって、放っておくの?』
「放っておかなくてもいいと思います。ただ、今日と同じ聞き方を続ければ、美園さんはもっと言えなくなるかもしれません」
『……分かってる』
「はい」
『言いすぎたのも分かってる』
「はい」
『でも、もう来るなって言われても行くから』
「それも、陽菜さんらしいと思います」
『止めないの?』
「止めても行きますよね」
『行く』
「でしたら、次は喧嘩をしないようにしてください」
『それは美園さん次第』
「陽菜さん次第でもあります」
『中井くん、どっちの味方なの』
「陽菜さんの味方です。そのうえで、美園さんのことも心配しています」
陽菜は小さく息を吐き、中井の腕へ寄った。
『……今日は、もう何も考えたくない』
「帰ったら温かいものを飲みましょう」
『コーヒーは無理』
「麦茶を温めますか?」
『それは嫌』
「では、何がいいですか?」
『分かんない』
「家に着いてから考えましょう」
『うん』
二人が自宅へ向かっている頃。
樹里はRoseを出た。
すでに陽菜の姿はない。
追いかけようと思えば、追いつけたかもしれない。
だが、陽菜には中井がいる。
樹里はスマートフォンを取り出し、短い文章を送った。
『無事に帰ったら連絡しろ』
すぐに既読がつく。
『中井くんが迎えに来た』
『そうか』
『今日は帰る』
『分かった』
それだけでやり取りは終わった。
樹里は暗い画面へ視線を落とす。
以前の陽菜なら、傷ついたまま一人でどこかへ行っていたかもしれない。
今は中井へ居場所を伝え、迎えに来てもらえる。
自分が追いかけなくても、陽菜は一人ではない。
それを安心だと思う一方で、僅かな寂しさもあった。
樹里はスマートフォンを鞄へ戻し、一人で駅へ向かった。
翌朝。
陽菜はいつもどおり島川不動産へ出勤した。
眠れなかったわけではない。
中井と話したあと、温かいスープを飲み、横になればすぐに眠れた。
それでも、目覚めた瞬間に美園のことを思い出した。
営業部へ入ると、佐藤はすでに席に着いている。
「おはようございます」
『おはよう』
陽菜は、それ以上話しかけなかった。
美園と何を話したのか。
別れた本当の理由を聞けたのか。
佐藤が尋ねてくることもなかった。
何も知らない佐藤へ、自分が美園と喧嘩したことまで話す必要はない。
陽菜は自分の席へ着き、仕事の準備を始めた。
朝礼後、神谷が高槻興産に関わる資料を手に立ち上がる。
「日高さん。昨日の機材移設の件ですが、メーカーから回答が届きました」
『確認します』
「最短でも七月十日になるそうです。施工側の工程と重なります」
『移転先で機材を稼働させるまでの日数は書かれていますか?』
「再調整を含めて三日です」
『では、現在の区画で使用を止められる日と、施工側が設備へ入る日を照合します。完全な移転が間に合わなくても、工事箇所を分けられる可能性があります』
「高槻側には、俺から相談します」
『お願いします』
二人の会話を聞きながら、陽菜は自分の資料を開いた。
高槻興産の案件も、少しずつ複雑さを増している。
一社がまとまれば、次の会社から別の問題が出る。
それでも、大野設備との話を終えたことで、神谷と樹里の進め方は以前より噛み合うようになっていた。
樹里が書類と条件から選択肢を作り、神谷が相手の言葉を聞いて調整する。
どちらかが相手へ合わせたのではない。
互いの方法を使うようになっていた。
「櫻井さん」
樹里に呼ばれ、陽菜は顔を上げた。
『はい』
『午後に予定していた現地確認ですが、山本さんへ同行してもらいます』
『陸に?』
『櫻井さんには、移転先候補の資料整理をお願いします』
『体調なら大丈夫です』
『体調だけが理由ではありません。山本さんにも現場を覚えてもらう必要があります』
以前なら、仕事を外されたと思って反発していたかもしれない。
だが、今は樹里の意図が分かる。
『分かりました』
「櫻井先輩、確認するところを先に教えていただけますか?」
陸が席から尋ねる。
『あとで一覧を渡す。写真だけ撮って終わりじゃないからね』
「はい」
『現場の担当者にも話を聞いて。図面と違う使い方をしてる場所があるかもしれないから』
「分かりました」
『戻ったら、あたしに報告して』
「はい。お願いします」
陸はすぐにメモを取り始めた。
その姿を見て、陽菜は僅かに肩の力を抜いた。
任せることは、仕事を失うことではない。
昨日、美園へ同じようなことを押しつけてしまったのかもしれない。
自分が知ることと、美園が話すことは違う。
陽菜はそれを考えながら、目の前の資料へ視線を戻した。
同じ日の夕方。
零は勤務を終え、従業員用の更衣室で制服を脱いだ。
冬美から届いたメッセージには、まだ返信していない。
「今日、来られる?」
「友達も待ってるから」
「見るだけでいいって言ってるでしょ」
昨日と同じ言葉。
だが、今日は冬美だけではない。
零が知らない人間も待っている。
どんなバイクなのか。
何を頼まれるのか。
何も分からない。
行くべきではない。
返信をしなければいい。
そう思いながら、零は何度も画面を確認していた。
「零ちゃん」
背後から呼ばれ、零の肩が大きく跳ねた。
振り返ると、休憩室の入口に柚希が立っていた。
「柚希ちゃん」
「驚きすぎ」
「どうしてここにいるんすか?」
「会いに来た」
「連絡くれればよかったのに」
「連絡したら、また用事があるって言われそうだったから」
柚希は冗談のように笑った。
だが、零は笑えなかった。
「今日も何かある?」
「……少しだけ」
「仕事?」
「そうっす」
答えた直後、胸が重くなる。
昨日と同じ嘘だった。
柚希は零の手にあるスマートフォンを見る。
画面に表示された名前までは見えていない。
それでも、零が何かを隠していることには気づいている。
「そっか」
「すみません」
「謝らなくていいよ」
「でも、せっかく来てくれたのに」
「顔は見られたから」
柚希が零の前まで歩いてくる。
「零ちゃん」
「何すか」
「私に言えないこと?」
零は答えられなかった。
冬美の名前を口にすれば、柚希は心配する。
樹里たちへ話すかもしれない。
そうなれば、冬美が何をするか分からない。
まだ何も起きていない。
部品を見ただけだ。
誰かへ話せば、余計に大きなことになる。
「大したことじゃないっす」
「でも、言えないんだ」
「……すみません」
「責めてないよ」
柚希は零の手を握った。
強張っていた指が、ゆっくりと開いていく。
「話せるようになったら教えて」
「はい」
「でも、一人で抱えられないことなら、話せるようになるまで待たなくていいからね」
「どういう意味っすか?」
「うまく説明できなくてもいいってこと」
零は柚希の顔を見た。
「怖いとか、嫌だとか、それだけでもいいから」
何も知らないはずの柚希が、零の中にある言葉へ触れた。
怖い。
行きたくない。
その二つを口にするだけでいい。
だが、零の喉は動かなかった。
スマートフォンが震える。
柚希と繋いでいない方の手に、冬美からのメッセージが表示された。
「まだ?」
続けて、もう一通届く。
「前は来たのに、今日は来られないの?」
零は反射的に画面を伏せた。
「行かないと駄目?」
柚希が尋ねる。
「……約束したんで」
本当は約束していない。
冬美が一方的に時間と場所を送ってきただけだった。
それでも、行かないという選択肢を口にできない。
「じゃあ、終わったら連絡して」
「分かりました」
「何時になってもいいから」
「はい」
柚希が手を離す。
零は離れていく温もりを追いかけたくなった。
今ここで、行きたくないと言えばいい。
柚希なら、一緒にいてくれる。
分かっているのに言えなかった。
「またね、零ちゃん」
「……また」
柚希が店を出る。
零は一人でその背中を見送った。
貸しガレージへ着くと、昨日とは別のバイクが置かれていた。
その横に、冬美と見知らぬ男が立っている。
「遅かったね」
「仕事が終わってから来たんで」
「この子が零。整備に詳しいんだよ」
冬美が男へ紹介する。
零は眉を寄せた。
「自分は、見るだけって聞いてるっす」
「分かってるよ」
男がバイクの後部を示した。
「これ、つけたいんだけど」
作業台には、社外製の灯火類が置かれている。
零は表示を確認した。
保安基準へ適合していることを示すものは見当たらない。
配線も途中で切断され、端子が剝き出しになっていた。
「これは店に持っていった方がいいっす」
「店で断られたから、冬美に聞いたんだよ」
「断られたなら、自分にもできないっす」
「つくかどうか見るだけでいいって」
男の言葉に、冬美が笑う。
「昨日もちゃんと見てくれたもんね」
零は冬美を見る。
「昨日とは別の話っす」
「同じでしょ。つくか確認するだけ」
「配線を触らないと確認できないっす」
「じゃあ、触ればいいじゃん」
「それは作業になるっす」
「お金なら払うよ」
男が財布を取り出した。
「いらないっす」
「何で?」
「店を通してない作業は受けられないんで」
「でも、ここまで来たじゃん」
冬美が零の背後へ回る。
肩には触れなかった。
ただ、逃げ道を塞ぐような位置に立った。
「見るだけって言ったから、来たんでしょ?」
「そうっす」
「だったら見てあげなよ」
「見ただけじゃ分からないっす」
「少しくらい外せば分かる?」
冬美がバイクのシートを指さす。
配線を確認するには、シートを外す必要がある。
外して確認するだけ。
部品を取りつけるわけではない。
昨日、寸法を測ったのと同じ。
そう考えようとした。
だが、昨日より確実に先へ進んでいる。
零は工具箱を見た。
男が用意した工具が並んでいる。
「零」
冬美の声が落ちる。
「待たせるの?」
零の指先が冷たくなった。
昔も、同じだった。
最初は荷物を運ぶだけ。
次はバイクを動かすだけ。
その次は誰かを呼び出すだけ。
一つずつは小さな頼みだった。
断るほどのことではないと思わせ、気づけば冬美の命令へ従うことが当たり前になっていた。
「早くしてよ」
男が苛立った声を出す。
零は動けない。
冬美が小さく息を吐いた。
「この子、昔から返事が遅いんだよね」
笑いながら、零の顔を覗き込む。
「でも、最後はちゃんとやってくれるから」
「……確認するだけっす」
「うん」
「取りつけはしないっす」
「分かってるって」
零は工具を手に取った。
シートを固定しているボルトへ工具を掛ける。
一本目を緩めたところで、自分の手が震えていることに気づいた。
これは確認ではない。
すでに作業を始めている。
それでも、手を止めれば冬美が何を言うか分からなかった。
二本目のボルトを外す。
シートを持ち上げ、内部の配線を確認した。
「つきそう?」
「配線を加工すれば、取りつけ自体はできると思います」
「じゃあ、お願い」
男が当然のように言った。
「しないっす」
「何でだよ」
「最初に言ったっす。確認だけです」
「ここまで外したんだから、そのままやればいいだろ」
「できないっす」
零はシートを戻そうとした。
冬美の手が、その腕を掴む。
強い力ではなかった。
それでも、零の身体は止まった。
「零」
「……何すか」
「この人、わざわざ部品を買ったんだよ」
「自分には関係ないっす」
「私が、零ならできるって言ったの」
「勝手に言われても困るっす」
口にした瞬間、冬美の笑顔が消えた。
零の呼吸が止まる。
腕を掴む指へ、僅かに力が入った。
「今、何て言った?」
「……勝手に言われても、困るっす」
同じ言葉を繰り返すだけで、全身へ力が入った。
冬美は数秒、零を見つめていた。
やがて、もう一度笑う。
「そっか」
腕から手を離す。
「今日は疲れてるんだね」
「取りつけはしないっす」
「分かった。今日はいいよ」
今日は。
その言葉が、零の胸へ残った。
零はシートを元の位置へ戻し、外したボルトを締め直した。
何も取りつけていない。
だが、昨日よりも多く触った。
自分がここへ来て、部品を確認したことも、バイクを分解したことも消えない。
「じゃあ、次はいつならできる?」
男が尋ねる。
「自分はやらないっす」
「でも、できるんだろ?」
「できることと、やっていいことは違うっす」
零は工具を置いた。
その言葉だけは、はっきりと口にできた。
だが、男ではなく冬美へ向けて同じ言葉を言うことはできなかった。
鞄を持ち、ガレージを出ようとする。
「零」
冬美が呼び止める。
零の足が止まった。
「また連絡するから」
「……取りつけはしないっす」
「それは、次に話そうよ」
冬美は笑っていた。
零は返事をせず、ガレージを出た。
外へ出ても、腕を掴まれた感覚が残っている。
スマートフォンを取り出す。
柚希からメッセージが届いていた。
「まだ終わらない?」
零は文字を打つ。
「今終わったっす」
そこまで入力し、指を止める。
仕事ではない。
昨日から、柚希へ嘘をついている。
入力した文章を消した。
「終わったっす。電話してもいいですか?」
送信すると、すぐに着信があった。
「零ちゃん?」
「……柚希ちゃん」
「うん」
声を聞いた瞬間、零は何も言えなくなった。
「終わったんだよね?」
「終わりました」
「今から帰る?」
「はい」
「そっか」
柚希は待っている。
零が話すのを急かさず、通話を切ろうともしない。
「柚希ちゃん」
「何?」
「自分……」
怖い。
その一言が喉まで上がる。
だが、声にはならなかった。
「何でもないっす」
「うん」
「すみません」
「謝らなくていいよ」
柚希の声は変わらない。
「帰るまで繋いでおこうか?」
「いいんすか?」
「いいよ」
「……お願いします」
零はスマートフォンを耳へ当てたまま歩き始めた。
何があったのかは言えない。
誰と会っていたのかも話せない。
それでも、柚希の声が聞こえている間だけは、冬美の手の感触が少し遠ざかった。
翌日。
零が出勤すると、見慣れた車が給油スペースへ入ってきた。
運転席から降りた冬美が、笑いながら片手を上げる。
「零、おはよう」
零の足が止まった。
ここは貸しガレージではない。
零が働いている場所だった。
ほかの従業員もいる。
逃げることも、知らないふりをすることもできない。
冬美は給油口を開け、零を手招きした。
「昨日の続き、少し話そうよ」
今回だけ。
そう思って開けた入口から、冬美は零の日常へ入り始めていた。




