285話「今回だけ」
翌朝。
島川不動産の営業部では、高槻興産に関わる資料が次々と神谷の席へ集まっていた。
残る十六社のうち、移転条件の聞き取りを終えたのは六社。
大きな問題がない会社もあれば、大野設備とは違う事情を抱えている会社もある。
神谷は面談記録を確認し、必要な情報を樹里へ渡していく。
樹里は契約条件と照らし合わせ、会社ごとに対応すべき内容を分けていた。
「日高さん。こちらの会社ですが、六月末までの移転は難しいとのことです」
『理由は何ですか?』
「新しい機材を先月入れたばかりで、移設をメーカーへ依頼する必要があるそうです。予約が取れるのは七月以降になると言われています」
『機材の契約書と、メーカーからの回答はありますか?』
「午後に届く予定です」
『確認後、施工側へ工程の変更が可能か相談します』
「お願いします」
神谷が次の資料へ手を伸ばす。
そこへ、佐藤が外出先から戻ってきた。
「戻りました」
「お疲れさまです」
周囲から声が返る。
佐藤は自分の席へ向かい、鞄から持ち帰った資料を取り出した。
普段と同じ動きだった。
書類を並べ、訪問記録を入力し、必要な資料を神谷へ渡す。
仕事に間違いはない。
誰かに呼ばれれば、いつもどおり応じている。
それでも、陽菜には違和感があった。
佐藤がほとんど笑っていない。
仕事中も笑い続けるような人ではないが、普段なら神谷や中井と何気ない言葉を交わす。
今日は、必要なことしか話していなかった。
昼休みになっても、佐藤は席を立たなかった。
机の上へ買ってきたパンを置き、パソコンの画面を見ながら食べようとしている。
陽菜は自分の弁当を持ち、佐藤の席へ近づいた。
『佐藤くん』
「はい」
『今日、ここで食べるの?』
「そのつもりです」
『外に行かないの?』
「午後から使う資料を確認したいので」
『昼休みくらい休んだ方がいいよ』
「食べながら見るだけです」
佐藤は包装を開けた。
だが、パンを一口食べたあと、手が止まる。
陽菜はその様子を見ながら、佐藤の机の横に立ち続けた。
「櫻井さん?」
『何かあった?』
「何がですか?」
『朝から変』
「そうでしょうか」
『うん』
「仕事で間違いがありましたか?」
『そういう意味じゃないよ』
陽菜は近くの空いている椅子を引き、佐藤の隣へ座った。
『美園さんと何かあった?』
佐藤の目が僅かに動く。
それだけで、陽菜には答えが分かった。
『やっぱり』
「どうして美園さんのことだと思ったんですか?」
『佐藤くんがこんなになる理由、ほかに思いつかないから』
「こんな、とは?」
『朝から全然笑ってない』
「仕事中です」
『いつもはもう少し笑うでしょ』
「そうでしたか」
『昨日、Roseに行った?』
佐藤はすぐには答えなかった。
陽菜の声は小さかったが、近くにいた中井には聞こえたらしい。
自分の席から佐藤へ視線を向ける。
神谷も、資料を閉じて二人を見ていた。
「別れました」
佐藤が言った。
陽菜は一瞬、意味を理解できなかった。
『……美園さんと?』
「はい」
『何で?』
「美園さんから、終わりにしたいと言われました」
『昨日?』
「はい」
『理由は?』
「年齢が離れていることと、店と会社で生活が違うこと。それから、俺が通うことを負担に感じていたそうです」
『そんなわけないじゃん』
「櫻井さん」
『だって、美園さん、佐藤くんが来ると嬉しそうだったよ』
「それは、俺には分かりません」
『本当にその理由だけ?』
「美園さんは、そう言っていました」
佐藤は開いたパンを机へ戻した。
「すみません。午後の準備をしたいので」
『でも――』
「陽菜さん」
中井が静かに呼ぶ。
陽菜は振り返った。
中井は僅かに首を横へ振っている。
これ以上、今ここで聞くべきではない。
そう伝えているのだと分かった。
『……ごめん』
「いえ」
『でも、ちゃんとご飯は食べて』
「はい」
陽菜は椅子から立ち、自分の席へ戻った。
中井の隣へ座る。
『何で止めたの』
「佐藤さんが、今は話したくなさそうだったからです」
『でも、急すぎるでしょ』
「そうですね」
『昨日まで普通だったのに』
陽菜は離れた席にいる佐藤を見る。
佐藤は再びパソコンへ視線を向けている。
開いたパンには、ほとんど手をつけていない。
『美園さん、絶対何か隠してる』
「そうかもしれません」
『今日、Roseに行く』
「はい」
『中井くんも来る?』
「俺は行かない方がいいと思います」
『何で?』
「美園さんが話したくない理由を、男性の俺がいる前で話せるとは限りません」
『じゃあ、総長を連れてく』
「日高さんが行くと言えば、ですが」
『来るよ』
「まだ聞いていませんよね」
『総長なら来る』
陽菜が樹里の方を見る。
樹里は仕事を続けていた。
しかし、佐藤が別れたと口にしたとき、一度だけ手を止めていた。
話を聞いていなかったはずはない。
それでも樹里は佐藤へ何も尋ねなかった。
仕事を取り上げることも、会議室へ呼ぶこともしない。
佐藤が渡した資料を確認し、必要な箇所だけを修正して返していた。
美園の秘密を知っているのは樹里だけだった。
だからこそ、気づいていることがあるのかもしれない。
だが、樹里がそれを佐藤へ話すことはなかった。
同じ頃。
ガソリンスタンドの休憩室で、零はスマートフォンを見つめていた。
画面には、冬美から送られた部品の情報が表示されている。
海外製のマフラー。
零が調べられる範囲では、冬美のバイクへ取りつけるための寸法は合っている。
ただし、国内で使用するために必要な認証を確認できない。
公道を走る車両へ、店として取りつけられるものではなかった。
零は何度も文章を打ち直した。
「寸法は合うと思います。ただ、国内の基準に適合しているか確認できないので、店では取り扱えないっす」
送信する。
数分後、既読がついた。
「つくなら大丈夫。取りつけもお願い」
すぐに返信が来る。
零は唇を噛んだ。
「店ではできないっす」
「じゃあ、店じゃなければいいでしょ」
「そういう意味じゃないっす」
「一回、実物を見てよ。画像だけじゃ分からないんでしょ?」
間違ってはいない。
実物を見れば、寸法や取りつけ位置は確認できる。
だが、確認した先に何を求められるのかは分かっている。
「見るだけだから」
続けて送られてきた。
「今日、仕事終わったら来られる?」
住所も添えられている。
ガソリンスタンドから、それほど離れていない貸しガレージだった。
零は返信しようとして、指を止めた。
断ればいい。
店で扱えないものは、個人的にも扱わない。
そう伝えれば終わる。
分かっているのに、文字を打てない。
目の前にいるわけでもない。
冬美の声が聞こえるわけでもない。
それでも、スマートフォンに表示された名前だけで、身体が昔へ戻っていく。
Rose girlsに入ったばかりの頃。
零は何度も冬美に呼び出された。
理由が分からないまま、人気のない場所へ連れていかれたこともある。
返事が遅い。
目つきが気に入らない。
頼んだことが終わっていない。
冬美にとって、殴る理由は何でもよかった。
頬を叩かれた。
腹を殴られた。
倒れれば、立てと言われた。
立てなければ、靴先で蹴られた。
零が謝っても、冬美は笑っていた。
怒鳴るより、笑っているときの方が怖かった。
「次はちゃんとできるよね?」
優しい声で尋ねられる。
零が返事をしなければ、また殴られた。
だから、何を言われても頷くようになった。
嫌だと思っても、口から出るのは分かりましたという言葉だけだった。
樹里たちの前では、冬美は露骨に手を出さなかった。
三人の目が届かない場所で、逆らわない人間を選んでいた。
零も、その一人だった。
昔のことだ。
今の冬美が、同じように殴るとは限らない。
零はもう、Rose girlsの中で冬美より下にいる人間ではない。
それでも、断ったあとのことを考えると、指が動かなかった。
店へ来るかもしれない。
ほかの従業員へ過去を話すかもしれない。
樹里や陽菜へ、零が逆らったと伝えるかもしれない。
見るだけなら、何も取りつけない。
違法な改造をするわけではない。
実物を確認し、無理だと説明すれば終わる。
今回だけ。
そう考えると、断るよりも簡単に思えた。
零は再びスマートフォンを手に取った。
「見るだけなら行くっす。取りつけはできないっすよ」
送信する。
「分かってる。待ってるね」
冬美からの返信はすぐに届いた。
零は画面を消した。
店で受けた依頼ではない。
勤務時間外に、昔の知り合いが持っている部品を見るだけ。
誰かに話すほどのことではない。
そう自分へ言い聞かせた。
仕事が終わる時刻が近づく。
制服から着替え、荷物をまとめる。
そのとき、柚希からLINEが届いた。
「零ちゃん、今日は会える?」
昨日も断った。
今日まで断れば、柚希は不審に思うかもしれない。
それでも、冬美との約束を断ることはできなかった。
「今日も少し用事があるっす」
送信する。
今度は、すぐに返信が来なかった。
零はスマートフォンを握ったまま待った。
数分後、画面に新しい言葉が表示される。
「分かった。終わったら連絡して」
何の用事なのかは尋ねてこない。
だが、いつものような絵文字もなかった。
零は短く息を吐き、スマートフォンをポケットへ入れた。
指定された貸しガレージへ着くと、冬美はすでに待っていた。
バイクの横には、大きな段ボール箱が置かれている。
「来てくれたんだ」
「見るだけっす」
「分かってるって」
冬美はガレージのシャッターを開け、零を中へ招いた。
作業台の上には、箱から出されたマフラーが置かれている。
零は手袋をつけ、部品の表示を確認した。
「認証番号がないっす」
「それがないと駄目なの?」
「公道を走るなら、騒音や排出ガスの基準を確認できないものは使えないっす」
「つけること自体はできる?」
「寸法だけなら合うと思います」
「じゃあ、つけられるんだ」
「そういう意味じゃないっす」
「分かってるよ。今日は見るだけでしょ」
冬美は笑っている。
零はバイクの取りつけ部分と部品を見比べた。
寸法を測り、接続部分を確認する。
作業そのものは、普段の仕事と変わらない。
だが、店の記録には残らない。
責任者の許可もない。
自分がここにいることを知っている人もいない。
「どう?」
「取りつけはできると思います。でも、公道では使えない可能性が高いっす」
「へえ。さすが零」
「取りつけはしないっすよ」
「今日はね」
冬美の言葉に、零の手が止まる。
「冬美さん」
「何?」
冬美は笑ったまま、零の肩へ手を置いた。
ただ触れられただけだった。
それなのに、零の身体が強張る。
肩を掴まれ、壁へ押しつけられた記憶が蘇る。
「そんな顔しなくてもいいじゃん」
冬美の指に僅かに力が入る。
「今は殴ってないでしょ?」
零は息を止めた。
冬美は分かっている。
零が何を思い出し、なぜ断れないのか。
すべて分かったうえで、肩に触れている。
「零」
「……何すか」
「返事は?」
昔と同じ言葉だった。
冬美に何かを命じられ、答えられずにいるとき。
必ず、この声で尋ねられた。
返事が遅れれば、そのあとに痛みが来た。
「取りつけは、できるんだよね?」
「……できます」
「ほら。ちゃんと答えられるじゃん」
「でも、公道では使えないっす」
「今日はつけろって言ってないでしょ」
冬美が肩から手を離す。
零は、ようやく息を吐いた。
「本当に真面目になったね」
「仕事なんで」
「でも、こうして来てくれた」
「見るだけって言ったからっす」
「うん。今日は、それでいいよ」
冬美は満足そうに笑い、部品を箱へ戻し始めた。
「もう帰っていいよ」
「……失礼します」
「また連絡する」
「取りつけはしないっす」
「分かってるって」
零はガレージを出た。
シャッターが閉まる音を背中で聞く。
何も取りつけなかった。
違法な改造はしていない。
部品を見て、寸法を確認しただけ。
これで終わる。
そう思いながら歩いていると、スマートフォンが震えた。
柚希からだった。
「用事、終わった?」
零はすぐに返事を打つ。
「今終わったっす」
「少しだけ電話できる?」
断る理由はなかった。
それでも、通話ボタンへ触れるまでに時間が掛かった。
自分から電話をかける。
数回の呼び出し音のあと、柚希の声が聞こえた。
「零ちゃん、お疲れさま」
「お疲れさまっす」
「今、外?」
「そうっす」
「何か音がする」
「歩いてるんで」
「そっか」
柚希は、それ以上尋ねなかった。
「今日も忙しかった?」
「普通っす」
「ご飯は?」
「まだっす」
「ちゃんと食べてね」
「分かってるっす」
短い会話が続く。
いつもなら、零からも柚希の一日を尋ねていた。
今日は、次に何を聞かれるのかばかり考えている。
「零ちゃん」
「何すか」
「何かあった?」
零の足が止まった。
「何もないっすよ」
「本当に?」
「仕事が少し忙しいだけっす」
「そっか」
柚希は無理に聞こうとしなかった。
「じゃあ、今日はゆっくり休んで」
「分かりました」
「おやすみ、零ちゃん」
「おやすみなさい」
通話が切れる。
零は暗くなった画面を見つめた。
何もない。
実物を見ただけ。
そう言えばよかった。
だが、口から出たのは、仕事が忙しいという嘘だった。
その直後、再びスマートフォンが震える。
冬美から、新しいメッセージが届いた。
「今度、友達のも見てほしいんだけど」
続けて、別のバイクの写真が送られてくる。
「零が詳しいって話したら、頼みたいって」
零は画面を見たまま動けなかった。
一度見ただけで終わると思っていた。
冬美はすでに、零の名前を別の人間へ出している。
「店を通した方がいいっす」
零はそう返信した。
「店じゃできないから、零に頼みたいんだよ」
「自分にもできないっす」
「見るだけでいいから」
昨日と同じ言葉だった。
そして昨日、零はその言葉で約束を受け入れた。
今回だけ。
そう思って開けた入口は、もう閉じようとしても、冬美の手で押さえられていた。
その夜。
陽菜と樹里は、閉店後のRoseを訪れていた。
美園から呼ばれたわけではない。
陽菜が、会社で佐藤から別れたことを聞き、仕事のあとに樹里を連れてきた。
『美園さん』
『何?』
『佐藤くんと別れたって、本当?』
『本人から聞いたんでしょ』
『聞いたよ。だから理由を聞きに来たの』
『佐藤くんからも聞いたでしょ』
『年齢が離れてるとか、店が忙しいとか?』
『そうだよ』
『そんなの、今さらじゃん』
陽菜はカウンターの前に立ち、美園を見つめた。
美園は陽菜と目を合わせず、グラスを拭き続けている。
『年齢が離れてるのも、働く場所が違うのも、付き合う前から分かってたでしょ』
『付き合ってから分かることもあるよ』
『佐藤くんが毎日来るの、嫌だったの?』
『負担だった』
『嘘』
美園の手が止まる。
『何で陽菜に嘘だって分かるの』
『美園さん、佐藤くんが来ない日は、扉が開くたびに見てたじゃん』
『見てないよ』
『見てた』
『客が来たと思っただけ』
『閉店時間を過ぎても見てたでしょ』
『それが何?』
『待ってたんじゃん』
美園は布巾をカウンターへ置いた。
『陽菜に何が分かるの』
『分かんないから聞いてるんでしょ』
『だったら、私が話したことをそのまま聞けばいい』
『本当のことじゃないから聞いてるの』
『本当だよ』
『じゃあ、何で佐藤くん、あんな顔してるの』
『知らない』
『知らないわけないでしょ!』
陽菜の声が店内へ響いた。
樹里は席に座ったまま、二人を見ている。
止めようとはしなかった。
『今日、佐藤くん、昼ご飯もまともに食べてなかった』
『私には関係ない』
『美園さんが別れたからでしょ』
『別れたあとのことまで、私の責任なの?』
『そういう意味じゃない!』
『じゃあ何? 佐藤くんが傷ついてるから、私が我慢して付き合い続ければいいの?』
『我慢してたように見えないって言ってるの!』
『陽菜に見えてるものが、全部だと思わないで』
『じゃあ、見えてないものを話してよ!』
『話す必要はない!』
二人の声が、互いを押し返すように強くなる。
美園がここまで陽菜へ声を荒らげることは、ほとんどなかった。
それでも陽菜は引かなかった。
『美園さん、佐藤くんのこと好きでしょ!』
『もう関係ない』
『好きかって聞いてるの!』
『関係ないって言ってるでしょ!』
『あるよ!』
『ない!』
『ある!』
『陽菜!』
美園がカウンターを強く叩いた。
乾いた音が店内に響く。
『自分が結婚して、子どもができて、幸せだからって、みんなが同じものを欲しがってると思わないで!』
言った直後、美園の表情が固まった。
陽菜も黙る。
店内に、重い沈黙が落ちた。
『……何それ』
陽菜の声が低くなる。
『あたし、そんなこと一言も言ってない』
『だったら、私たちのことに口を出さないで』
『心配してるだけでしょ』
『余計なお世話なの』
『美園さん』
『自分の結婚と子どものことだけ考えてればいいでしょ!』
陽菜の顔から表情が消えた。
妊娠したことを報告したとき、美園は抱き締めてくれた。
よかったねと、何度も言ってくれた。
その言葉まで否定されたように感じた。
『……あたしが妊娠したの、迷惑だった?』
美園の目が揺れる。
『違う』
『じゃあ何で、そんな言い方するの』
『今は陽菜の話をしてない』
『美園さんが出したんでしょ!』
『陽菜がしつこいからでしょ!』
『だって、美園さんが何も言わないから!』
『言いたくないことくらいあるよ!』
『それでも佐藤くんには言わないと分かんないじゃん!』
『言ったよ。別れたいって!』
『理由を言ってないでしょ!』
『言った!』
『嘘ついたんでしょ!』
『陽菜に決めつけられたくない!』
『美園さんだって、佐藤くんの未来を勝手に決めてるじゃん!』
美園の顔色が変わった。
『……何も知らないくせに』
『知らないよ! 美園さんが話さないから!』
『だったら黙ってて!』
『嫌!』
『陽菜!』
『美園さん!』
『いい加減にしろ』
樹里の低い声が、二人の間へ入った。
陽菜と美園が同時に樹里を見る。
樹里は席を立ち、二人の間へ歩いてきた。
『総長は黙ってて』
陽菜が言う。
『総長は関係ない』
美園も続ける。
樹里の眉が僅かに動いた。
『二人そろって私へ当たるな』
『だって、美園さんが――』
『お前も言いすぎだ』
『でも!』
『美園』
樹里が美園を見る。
『お前もだ』
『私は帰ってって言ってるだけでしょ』
『陽菜の妊娠を持ち出す必要はなかった』
美園は唇を噛んだ。
自分でも分かっている。
陽菜を傷つけたいわけではなかった。
妊娠を迷惑だと思ったこともない。
心から嬉しかった。
ただ、陽菜が手に入れた未来を見た直後に、自分では叶えられない未来を佐藤が口にした。
その苦しさを説明できないまま、陽菜へぶつけてしまった。
『……ごめん』
美園が小さく言う。
陽菜はすぐには答えなかった。
『陽菜の妊娠が嫌だったわけじゃない』
『じゃあ、何なの』
『今は言えない』
『またそれ』
『言えないものは言えないよ』
『美園さんは、いつもそうじゃん』
『何が?』
『あたしと総長のことは何でも分かってるみたいに聞くのに、自分のことは何も言わない』
『……そうだね』
『ずるいよ』
『分かってる』
『分かってるなら話してよ』
『それでも、今は話せない』
陽菜は美園を睨むように見つめていた。
目には薄く涙が浮かんでいる。
『あたし、美園さんが何考えてるか分かんない』
『うん』
『今日の美園さん、嫌い』
『……うん』
『でも、もう来ないとは言わないから』
美園が顔を上げる。
『また来る』
『来なくていいよ』
『来るから』
『陽菜』
『美園さんが本当のこと言うまで、何回でも来る』
『しつこい』
『知ってるでしょ』
陽菜は鞄を掴み、扉へ向かった。
すぐには出ていかず、入口で足を止める。
『おやすみ、美園さん』
『……おやすみ』
陽菜が扉を開け、外へ出る。
強く閉めなかった。
樹里は美園の前に残っていた。
二人きりになれば、美園の呼び方は変わる。
『総長も帰って』
『分かった』
『何も聞かないの?』
『聞いてほしいのか』
『……聞いてほしくない』
『なら聞かない』
『陽菜に話す?』
『話さない』
『佐藤くんにも』
『お前の許可なく話すことではない』
美園は俯いた。
『でも、お前が佐藤さんの未来を勝手に決めているという陽菜の言葉は、間違っていないと思う』
『分かってる』
『本当に分かっているなら、自分で考えろ』
『今は無理』
『そうか』
樹里は扉へ向かう。
『私は陽菜を送る』
『うん』
『戸締まりはしろ』
『分かってる』
樹里が店を出る。
扉が閉まり、美園は一人になった。
陽菜へ言った言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
自分の結婚と子どものことだけ考えていればいい。
言うつもりのなかった言葉だった。
陽菜を傷つけた。
祝福した気持ちまで嘘だったと思わせたかもしれない。
『……最低』
美園は両手で顔を覆った。
佐藤へ本当のことを話せなかった。
陽菜にも話せなかった。
話せない苦しさを、最も傷つけたくなかった相手へぶつけた。
それでも今は、誰にも言えない。
佐藤に本当のことを知られるくらいなら、嫌われる方がいい。
その考えだけを、美園はまだ手放せなかった。




