284話「昔の順番」
佐藤と別れた翌朝も、美園はいつもと同じ時刻に起きた。
顔を洗い、髪を整える。
簡単に朝食を済ませ、店へ向かう。
Roseの鍵を開け、照明をつける。
入口を掃き、予約表を確認し、客を迎える準備をする。
何も変わっていない。
佐藤と付き合う前も、美園は一人でこの店を開けていた。
昼間の客を迎え、夜には酒を出し、最後の一人を見送ってから閉店する。
ずっと一人でできていた。
昨日まで誰かが隣にいたからといって、今日から何もできなくなるわけではない。
『よし』
美園は鏡の前で笑顔を作った。
いつもと同じ顔が映る。
少なくとも、客には何も気づかれない。
そう思っていた。
昼間の営業は滞りなく終わった。
予約していた客の髪を整え、会話をし、笑顔で見送る。
夕方に少し休憩を取り、夜の営業へ切り替える。
最初の客が来て、次の客が来る。
注文を受け、酒を作り、話を聞く。
身体は、今までと同じように動いた。
ただ、扉が開くたびに目が向いた。
佐藤が来るはずはない。
もう来ないでいいと言ったのは美園自身だ。
それでも、扉の開く音を聞くたび、一瞬だけ期待している自分がいた。
午後十一時を過ぎ、最後の客が帰る。
美園は店の扉を閉め、入口の札を裏返した。
カウンターへ戻り、使い終えたグラスを流し台へ運ぶ。
昨夜と同じように、一人で閉店作業を始める。
水を流し、グラスを洗う。
布巾を取ろうとして、手が止まった。
昨日まで佐藤が立っていた場所に、目が向く。
『……いないって分かってるでしょ』
自分へ言い聞かせ、布巾を手に取った。
そのとき、店の扉が開いた。
美園の身体が反射的に振り返る。
『佐藤く――』
途中まで出た名前が止まった。
扉の前に立っていたのは、樹里だった。
『……日高』
美園は何事もなかったように呼び直す。
樹里は扉を閉めながら、美園の顔を見ていた。
『閉店後だったか』
『今、最後のお客さんが帰ったところ』
『そうか』
『飲む?』
『いや。顔を見に来ただけだ』
『私の?』
『ほかに誰がいる』
美園はカウンターへ戻り、洗いかけのグラスへ手を伸ばした。
『昨日も会ったでしょ』
『昨日のお前は、陽akazi菜の前で笑っていた』
『今日も笑ってるよ』
『そうか』
『何、その言い方』
樹里は答えず、いつも佐藤が座っていた席へ目を向けた。
空いている。
その隣も、その隣も。
ほかに客がいないのだから、どの席も同じはずだった。
それでも樹里の視線は、佐藤が使っていた場所で止まった。
『佐藤さんは来ていないのか』
『仕事じゃない?』
『連絡は』
『ないよ』
美園はグラスを洗う。
必要以上に丁寧に。
樹里へ顔を向けなくても済むように。
『昨日、佐藤さんと何かあったのか』
『何もない』
『美園』
『何もないって』
水の音が店内に響く。
樹里はしばらく何も言わなかった。
美園はその沈黙に耐えきれず、自分から口を開く。
『別れた』
樹里の表情は変わらなかった。
『いつだ』
『昨日』
『理由は』
『年齢も離れてるし、店も忙しいから。佐藤くんが毎日のように来るのも、負担になってた』
『それだけか』
『それだけだよ』
『そうか』
樹里の声は静かだった。
信じたわけではない。
それが分かるからこそ、美園は苛立った。
『何?』
『何も言っていない』
『顔に書いてある』
『お前が言ったことを、そのまま聞いただけだ』
『だったら、それで終わりにして』
美園は洗ったグラスを棚へ戻す。
樹里はカウンターの前から動かなかった。
『佐藤さんに、話したのか』
美園の手が止まる。
『何を?』
『お前の身体のことだ』
店内から、水の音も消えた。
美園はゆっくりと樹里を見る。
『話してない』
『前の結婚が終わった理由もか』
『話してない』
『なら、佐藤さんは何も知らないまま別れを告げられたのか』
『知らなくていいことだから』
『佐藤さんが決めることではないのか』
『私の身体のことだよ』
『だが、佐藤さんとの関係を終わらせた理由でもある』
『違う』
美園はすぐに否定した。
『年齢と店のことが理由だって言ったでしょ』
『私は、お前が子どもを持てないと知っている』
『だから何?』
『昨日、陽菜の妊娠を報告したあと、お前の様子が変わった』
『変わってない』
『佐藤さんと別れたのは、その翌日だ』
『関係ないよ』
樹里は美園を見つめていた。
責めるような目ではない。
嘘を暴こうとしているわけでもない。
ただ、美園が自分で言葉にするのを待っている。
その視線が、今は苦しかった。
『帰って』
美園が言う。
『美園』
『今日は帰って』
『……分かった』
樹里はそれ以上尋ねなかった。
カウンターの前から離れ、扉へ向かう。
美園はその背中を見つめた。
樹里なら、無理にでも本当のことを言わせると思っていた。
佐藤へ話せと命令するかもしれないと思っていた。
だが、樹里は扉の前で一度だけ足を止めた。
『私は、誰にも話さない』
『分かってる』
『佐藤さんにもだ』
『……うん』
『だが、お前が話さなくていいという意味ではない』
美園は答えなかった。
『お前が決めたことなら、私は今は何も言わない』
『今は、って何?』
『そのままの意味だ』
樹里が扉を開ける。
『無理に笑うな。余計に分かりやすい』
『総長に言われたくない』
『そうか』
樹里は振り返らず、店を出ていった。
扉が閉まる。
美園は再び、一人になった。
自分の身体のことを知っているのは樹里だけだった。
前の夫との関係が、どのように壊れていったのか。
子どもを持てないと分かったあと、何を言われ、どのような目を向けられたのか。
すべてではない。
それでも、樹里だけは知っている。
だからこそ、誤魔化しきれなかった。
『話せるわけないじゃん』
美園は、閉じた扉へ呟く。
佐藤へ本当のことを話せば、選ばせることになる。
自分と生きる未来か。
自分が叶えられない家族を持つ未来か。
そんな選択を、佐藤に背負わせたくなかった。
それなら、最初から選択肢を一つにすればいい。
美園が先に離れれば、佐藤は迷わなくて済む。
それが一番正しいと思っていた。
樹里に尋ねられるまでは。
『……佐藤くんが決めること、か』
その言葉を口にしただけで、胸が痛んだ。
美園は流し台へ向き直り、残りのグラスを洗い始めた。
翌日の夕方。
ガソリンスタンドで働く零は、給油を終えた車を見送っていた。
客足が途切れ、敷地内に静かな時間が戻る。
給油機を確認し、店内へ戻ろうとしたときだった。
一台のバイクが道路から入ってくる。
速度を落とし、整備スペースの近くで止まった。
聞き覚えのない排気音だった。
黒い車体。
零は最初、いつもの客だと思った。
だが、バイクから降りた女がヘルメットを外した瞬間、足が止まった。
肩より少し長い髪。
零を見る目。
口元に浮かんだ、相手が自分へ逆らわないと知っている笑み。
「久しぶり」
女が言った。
零は返事ができなかった。
胸の奥が、一瞬で冷たくなる。
「覚えてるよね?」
「……冬美さん」
ようやく名前を出す。
名倉冬美。
かつてRose girlsで、樹里、陽菜、美園に次ぐ位置にいた女。
正式な役職があったわけではない。
それでも、周囲は誰も冬美へ逆らわなかった。
樹里たち三人が前にいない場所では、冬美の言葉が命令と同じ意味を持っていた。
零も、その下にいた。
何度も呼び出された。
何度も使われた。
断ろうと思ったことはあった。
だが、実際に断れたことは一度もなかった。
「元気そうじゃん、零」
「……何で、ここにいるんすか」
「ガソリンスタンドに来る理由なんて、一つでしょ」
冬美がバイクの車体を軽く叩く。
「給油と、ちょっと見てほしいところがあるの」
「整備っすか」
「そう。最近、ブレーキの感触がおかしくて」
内容だけを聞けば、普通の依頼だった。
零は制服のポケットから受付用の端末を取り出す。
「分かりました。状態を確認します。作業が必要な場合は、先に見積もりを出すっす」
「仕事中は、そんな話し方するんだ」
「……決まりなんで」
「真面目になったね」
冬美が笑う。
零は顔を上げなかった。
受付に必要な項目を確認し、車両番号を入力する。
「お名前をお願いします」
「知ってるでしょ」
「受付に必要なんす」
「名倉冬美」
「連絡先もお願いします」
「前と同じ」
「昔の番号は残ってないっす」
「消したの?」
零の指が止まる。
冬美の声は穏やかだった。
怒っているわけではない。
それでも、問い詰められたように感じた。
「仕事に必要ない連絡先は、残してないっす」
「へえ」
冬美は新しい電話番号を告げた。
零は一つずつ端末へ入力する。
通常の客として扱う。
それだけを考えた。
「確認に少し時間が掛かるっす。店内でお待ちください」
「零が見るの?」
「自分が確認します」
「なら安心だ」
冬美が店内へ向かう。
零は残されたバイクを整備スペースへ移動させた。
ブレーキレバーを握る。
確かに、普段より深い。
パッドの摩耗と、ブレーキ液を確認する必要がある。
正規の手順で点検し、必要な作業を説明する。
相手が冬美であっても、それ以外にすることはない。
自分はもう、昔の零ではない。
そう言い聞かせながら、工具を手に取った。
点検を終えた零は、結果を持って店内へ戻った。
冬美は椅子へ座り、スマートフォンを見ていた。
「お待たせしました」
「どうだった?」
「ブレーキパッドが減っています。ブレーキ液も交換時期なんで、同時に交換した方がいいっす」
「今日できる?」
「部品の在庫があります。作業時間は一時間くらいっす」
「じゃあ、お願い」
「見積もりを確認してください」
零は金額の表示された端末を差し出した。
冬美は細かく見ることもなく、画面へ署名する。
「前だったら、こんな紙いらなかったのにね」
「店の仕事なんで」
「分かってるよ」
冬美は笑った。
「別に、困らせに来たわけじゃないから」
その言葉を聞いて、零は初めて顔を上げた。
冬美は変わらない笑みを浮かべている。
「仕事、戻っていいよ」
「……失礼します」
零は端末を持ち、整備スペースへ戻った。
通常の依頼。
正規の見積もり。
店の規則に従った作業。
何も問題はない。
それでも、作業をする手から力が抜けなかった。
一時間後。
零は交換作業を終え、冬美へ説明した。
「ブレーキの状態は戻っています。ただ、しばらくは急な操作を避けてください」
「分かった」
「次回の点検目安は、こちらに書いてあります」
「ありがとう」
冬美は支払いを済ませ、バイクの前へ立った。
これで終わる。
普通の客として帰る。
零が僅かに息を吐いたとき、冬美が振り返った。
「そうだ、零」
「何すか」
「今も、バイクの部品とか詳しい?」
「仕事で扱う範囲なら」
「ちょっと見てほしい物があるんだよね」
冬美はスマートフォンを取り出し、画面を零へ見せた。
そこには、バイク用の部品が表示されている。
海外から取り寄せる社外品。
詳しい寸法も、国内の基準へ適合するかどうかも記載されていない。
「これ、私のバイクにつくと思う?」
「車種に合うか確認しないと分からないっす」
「確認してよ」
「店で取り扱っていない部品なんで、すぐには答えられないっす」
「零なら分かるでしょ」
「適合表がないと無理っす」
「じゃあ、調べて」
冬美の言い方が、僅かに変わった。
客が店員へ頼む声ではない。
昔、下にいた人間へ命じていた声だった。
零の身体が、その違いを先に思い出す。
「勤務中は、店の仕事があるんで」
「今すぐじゃなくていいよ」
冬美が画面を操作する。
直後、零の制服のポケットでスマートフォンが震えた。
「送ったから、時間があるときに見ておいて」
零はスマートフォンを取り出さなかった。
「個人的な依頼は受けられないっす」
「調べるだけじゃん」
「店で扱えない物なら、自分には何もできないんで」
「できるかどうかを調べてほしいって言ってるの」
冬美は笑っていた。
声も荒らげていない。
「昔は、これくらい普通にやってくれたでしょ」
零は何も答えられなかった。
昔。
その一言で、今立っている場所が遠くなる。
制服も、店も、身につけた技術も消え、何も断れなかった頃へ戻される。
「別に、違法なことを頼んでるわけじゃないよ」
「……分かりました」
「調べてくれる?」
「適合するかだけなら」
「助かる」
冬美は満足そうに笑い、ヘルメットをかぶった。
「連絡待ってるね」
バイクのエンジンが掛かる。
零は走り去る車体を見送った。
見えなくなるまで、その場から動けなかった。
店で受けた作業は、正規のものだった。
冬美があとから頼んだことも、部品がつくか調べるだけだ。
まだ、何も悪いことはしていない。
それでも、断れなかった。
その事実だけが、零の胸に残った。
休憩室へ入り、ようやく自分のスマートフォンを見る。
冬美から、部品の画像と販売先が送られている。
その下に、短い文章が続いていた。
「総長たちには言わなくていいから」
零の指が止まる。
ただ部品を調べるだけなら、樹里たちの名前を出す必要はない。
冬美も、それを分かっている。
零が誰を恐れ、誰に知られたくないと思うのか。
昔と同じように、すべて分かったうえで言っている。
返信を入力する。
分かりました。
それだけの文字を打つのに、何度も指が止まった。
送信すると、すぐに既読がつく。
零はスマートフォンを伏せた。
勤務を終えたあと、柚希からLINEが届いた。
「零ちゃん、今日会える?」
いつもなら、すぐに返事をしていた。
会える日なら、どこで待ち合わせるか。
難しい日なら、電話だけでもできないか。
何かしらの言葉を返していた。
だが今は、冬美から送られた部品の画像が、同じ画面に残っている。
柚希へ話せば、心配をかける。
冬美の名前を出せば、樹里や陽菜にも伝わるかもしれない。
そうなれば、昔の争いを今へ持ち込むことになる。
柚希まで巻き込みたくない。
零は短い返事だけを打った。
「今日は無理っす」
送信する。
数分後、柚希から返信が来た。
「分かった。仕事お疲れさま」
理由を尋ねる言葉はなかった。
責める言葉もない。
だからこそ、零の胸は苦しくなった。
冬美へは断れなかった。
柚希には、何も話せなかった。
二人の間に挟まれたまま、零は伏せたスマートフォンを見つめていた。




