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283話「言えたこと、言えないこと」

翌朝。


 朝礼が始まる前から、陽菜は落ち着かなかった。


 必要な資料は机にそろっている。


 今日の予定も確認した。


 昨夜は普段より早く眠り、朝食も少しだけ食べられた。


 仕事を始める準備はできている。


 それでも、何度も時計へ目が向いた。


「陽菜さん、今日は早いですね」


 隣の席で準備をしていた柚希が声を掛ける。


『いつも遅いみたいに言わないでよ』


「今日は、です」


『普段も間に合ってるでしょ』


「間に合うことと、早いことは別ですよ」


『柚希ちゃん、朝から細かい』


 陽菜は笑って返した。


 いつもと同じように話せている。


 そう思った直後、離れた席の樹里と目が合った。


 樹里は何も言わない。


 ただ、僅かに頷いた。


 陽菜が自分の口で話すまで、余計な手助けをしないつもりなのだろう。


 間もなく黒澤が席を立った。


「朝礼始めるぞ」


 営業部にいた社員たちが仕事の手を止める。


 樹里、神谷、陽菜、中井、佐藤。


 凛と柚希。


 高村、萌、陸。


 全員の視線が黒澤へ向いた。


「まず、高槻興産の件からだ。大野設備との契約は成立したが、残り十六社の調整が続いている」


 黒澤は昨日までの進捗と、今日の訪問予定を順番に伝えていく。


 普段と変わらない朝礼だった。


 陽菜は自分の前で両手を組み、話を聞いていた。


 報告する内容は、昨夜から何度も考えた。


 それでも、自分の番が近づくにつれて、手のひらに汗が滲む。


「業務の連絡は以上だ」


 黒澤が資料を閉じる。


 それから、陽菜を見た。


「櫻井さんから、みんなに話がある」


 一斉に視線が集まった。


 陽菜は息を吸い、前へ出る。


『朝から少しだけ、時間をください』


 声が思ったよりも固い。


 柚希が不思議そうに陽菜を見ている。


 凛も、萌も、陸も、何も知らない顔をしていた。


 中井は少し離れた場所にいる。


 目が合うと、静かに頷いた。


『あたし、妊娠しました』


 営業部が静まり返った。


 電話の呼び出し音も、パソコンを操作する音もない。


 陽菜は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。


『今、七週くらいです。病院で心拍も確認できました』


「陽菜さん!」


 最初に声を上げたのは柚希だった。


「本当ですか?」


『本当だよ』


「おめでとうございます!」


 柚希の表情が一気に明るくなる。


 隣にいた凛も、驚いた顔のまま陽菜へ一歩近づいた。


「陽菜さん、おめでとうございます」


『ありがとう、凛ちゃん。柚希ちゃんも』


「中井さんの子どもですよね?」


 柚希が中井を見る。


『ほかに誰がいるのよ』


「そうですけど、驚いて……」


「ありがとうございます」


 中井が頭を下げる。


 神谷と佐藤も、二人へ祝福の言葉を伝えた。


「櫻井さん、中井さん、おめでとうございます」


「おめでとうございます」


『ありがとうございます』


「ありがとうございます」


 高村は、周囲の後ろから穏やかに微笑んでいた。


 最初に陽菜の異変へ気づき、誰にも話さず見守ってくれた。


 陽菜は高村へ小さく頷く。


 高村も同じように返した。


「陽菜先輩」


 萌が陽菜を見つめる。


「本当に、おめでとうございます」


『ありがとう、萌』


「お身体は大丈夫なんですか?」


『今は、ちょっと気持ち悪いのと、眠いくらい。仕事をやめないといけないような状態じゃないから、心配しないで』


「でも、無理はしないでください」


『うん』


 陸も陽菜の前へ一歩出た。


「陽菜先輩、おめでとうございます」


『ありがとう、陸』


「俺たちにできることがあれば、言ってください」


 その言葉に、陽菜は僅かに目を伏せた。


『そのことで、みんなに話しておきたいことがある』


 喜びに満ちていた空気が、少しだけ落ち着く。


『あたしは、これからも仕事を続けます。ただ、先生から、長時間立ち続けたり、無理な外回りをしたりしないように言われました』


 陽菜は陸と萌を見る。


『だから、これから二人に任せる仕事が増えると思う』


 二人は黙って話を聞いている。


『でも、あたしができなくなった仕事を、仕方なく押しつけるんじゃない』


「陽菜先輩」


『昨日、大野設備の工程を二人に任せたのも、妊娠したからじゃないよ』


 陽菜ははっきりと言った。


『陸と萌ならできると思ったから任せた。二人が、もう指示を待つだけじゃなくて、自分たちで考えられるようになったから』


 萌の目が僅かに揺れる。


『これから先、あたしが現地へ行けない日があるかもしれない。急に休む日もあるかもしれない。そのときは二人に助けてほしい』


「はい」


 陸が迷わず答えた。


「任せてください」


 萌も頷く。


「私も、できることをします」


『ありがとう』


「ですが」


 陸が言葉を続ける。


「分からないことは、今までどおり陽菜先輩に聞いてもいいですか?」


『当たり前でしょ』


「陽菜先輩が現場へ行けなくても、陽菜先輩から教わったことまでなくなるわけではありません」


 陽菜は目を瞬かせる。


「俺たちだけでできるようになったのではなく、陽菜先輩に教えていただいたからできるようになりました」


 その言葉は、以前、中井から言われたものとよく似ていた。


 自分がしてきたことが、二人の中に残っている。


 陽菜が何かを任せても、これまでの時間まで消えるわけではない。


『……そっか』


「はい」


『じゃあ、分かんないことは聞いて。でも、まず自分で考えてからね』


「分かっています」


『萌も』


「はい。何でもすぐに聞かないようにします」


『そこまで遠慮しなくていいよ』


 陽菜が笑う。


 緊張していた営業部の空気が、少しずつ和らいでいった。


 そのとき、樹里が一歩前へ出る。


『今後の業務について、補足します』


 全員の視線が樹里へ向く。


『櫻井さんの担当を、すべてほかの方へ変更するわけではありません。長時間の外回り、足元の悪い場所での現地確認、資料の運搬など、身体への負担が大きい業務を調整します』


「高槻興産の進捗管理は、今までどおり櫻井さんが担当されるんですか?」


 神谷が尋ねる。


『はい。社内で行える業務まで変更する必要はありません』


「分かりました」


『ただし、体調によっては急な変更もあります。その場合は、理由を細かく尋ねる前に対応してください』


「承知しました」


『また、櫻井さん本人が大丈夫だと言っても、明らかに体調が悪い場合は、私か黒澤部長へ報告してください』


『ちょっと、日高先輩』


 陽菜がすぐに口を挟む。


『あたしの監視を頼まないでください』


『監視ではありません』


『同じでしょ』


『違います』


「櫻井さん」


 黒澤が笑いながら二人の間へ入る。


「日高さんが心配なのは分かるだろ」


『分かりますけど、全員の前で頼むことじゃないです』


「櫻井さんの大丈夫が信用できないのも事実だからな」


『部長まで』


 営業部に笑いが起きた。


 陽菜は不満そうに頬を膨らませる。


 だが、報告する前に抱いていた怖さは、もう少しだけ薄くなっていた。


 誰も、陽菜から仕事を奪おうとはしなかった。


 誰も、腫れ物に触るような目を向けなかった。


 祝福し、そのうえで、これから何を支えられるか考えてくれている。


「それじゃあ、改めて」


 黒澤が全員を見回した。


「櫻井さんと中井。おめでとう」


 もう一度、拍手が起こった。


 陽菜は隣へ来た中井と顔を見合わせる。


『中井くん』


「はい」


『よかったね』


「はい」


 二人は並んで、社員たちへ頭を下げた。


 その日の夜。


 佐藤がRoseを訪れたのは、閉店時刻の少し前だった。


 最後の客を見送った美園が、店の扉を閉める。


『今日は遅かったね』


「仕事が少し長引きました」


『高槻興産?』


「はい。移転候補の確認をしていました」


『お疲れさま』


「美園さんも、お疲れさまです」


 佐藤はいつものようにカウンター席へ座った。


 美園は佐藤の前へ水を置く。


『今日は飲まないの?』


「明日も朝から外出がありますので」


『じゃあ、コーヒーにする?』


「お願いします」


 美園はコーヒーを淹れる準備を始めた。


 豆を挽く音が、静かな店内に響く。


「今日、会社で嬉しい報告があったんです」


『嬉しい報告?』


「櫻井さんが妊娠されたそうです」


 美園の手が一瞬止まる。


 だが、佐藤はその変化に気づかなかった。


『知ってるよ』


「もう聞いていたんですか?」


『昨日、陽菜と中井くんがここで話してくれたの』


「そうだったんですね」


『今日、みんなに言ったんだ』


「はい。朝礼で、櫻井さんから」


『ちゃんと話せてた?』


「最初は少し緊張されていました。でも、山本さんと川原さんへ仕事を任せる理由も、ご自分の言葉で話されていました」


『陽菜らしいね』


「日高さんは、櫻井さんが無理をしていたら報告するように、全員へ言っていました」


『それも総長らしい』


 美園は小さく笑い、コーヒーを佐藤の前へ置いた。


「日高さん、本当に心配なんでしょうね」


『あの人、心配すると細かくなるから』


「昨日も、かなり質問されたんですか?」


『陽菜が尋問みたいだったって言ってた』


「想像できます」


 佐藤が笑う。


 美園も一緒に笑った。


「でも、いいですね」


『何が?』


「子どもです」


 美園の笑みが止まった。


 佐藤はコーヒーへ視線を落としたまま、穏やかに続ける。


「今日の中井さん、普段とほとんど変わらなかったんです。でも、みんなから祝福されたとき、少しだけ泣きそうな顔をしていました」


『中井くんが?』


「本人は否定すると思います」


『そうだろうね』


「櫻井さんも、嬉しそうでした」


『うん』


「俺も、いつか子どもが欲しいです」


 何気ない言葉だった。


 陽菜と中井を祝福する話の続きとして、自然に出ただけの言葉。


 佐藤に悪意はない。


 美園を困らせようとしたわけでもない。


 だからこそ、美園は何も返せなかった。


「美園さん?」


『……何?』


「どうかしましたか?」


『ううん』


 美園は笑みを作った。


『佐藤くんも、そういうこと考えるんだね』


「まだ具体的に考えているわけではありません」


『いつかってこと?』


「はい。結婚して、家族が増えて。そういう生活もいいなと思います」


『そっか』


「すみません。急に何の話をしているんでしょうね」


『別に謝ることじゃないよ』


 美園はカウンターの下で、指先を強く握った。


『いいと思う』


「そうですか?」


『うん。佐藤くんなら、いいお父さんになれるよ』


「まだ相手も決まっていませんよ」


 佐藤は照れたように笑った。


 その言葉が、美園の胸へ深く刺さる。


 相手。


 佐藤は美園との将来を口にしたわけではない。


 それでも、いつかその未来に自分がいるのかもしれないと、美園は考え始めていた。


 考えてしまっていた。


 だからこそ、分かってしまう。


 自分と一緒にいれば、佐藤が望む未来は叶わない。


『佐藤くん』


「はい」


『明日も早いんでしょ。今日はもう帰った方がいいよ』


「片づけを手伝います」


『大丈夫。今日は私がやる』


「ですが――」


『大丈夫だから』


 美園の声が、僅かに強くなる。


 佐藤は驚いたように口を閉じた。


『ごめん。ちょっと疲れてるみたい』


「そうですか」


『うん』


「では、今日は帰ります」


『そうして』


 佐藤は残っていたコーヒーを飲み、席を立った。


「おやすみなさい、美園さん」


『おやすみ』


 扉が閉まる。


 店内に一人残った美園は、しばらく動かなかった。


 カウンターには、佐藤が使ったカップが置かれている。


 昨日までなら、そのカップを洗いながら、次に会う日を考えていた。


 今は違う。


 いつか子どもが欲しい。


 佐藤の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


『……そうだよね』


 佐藤はまだ若い。


 これから結婚し、子どもを持つ未来を選べる。


 その可能性を、美園が奪っていいはずがない。


 前の夫も、最初は受け入れると言った。


 子どもがいなくても、二人で生きていけると言った。


 それでも、少しずつ変わっていった。


 言葉が減った。


 帰りが遅くなった。


 美園を見る目に、諦めと責める色が混じるようになった。


 最後には、美園と一緒にいる人生そのものを後悔していた。


 佐藤まで同じになるとは限らない。


 分かっている。


 それでも美園には、もう一度同じ時間を生きる勇気がなかった。


 幸せになったあとで、失うことが怖い。


 佐藤の目が変わっていく日を待つことが怖い。


 ならば、今のうちに終わらせればいい。


 まだ、互いの生活へ深く入り込みすぎる前に。


 美園はカウンターに残されたカップを手に取った。


 翌日。


 佐藤がRoseへ来たのは、午後八時を過ぎた頃だった。


 店内に客はいない。


 照明はついているが、入口の札はすでに準備中へ変えられていた。


「今日は早く閉めるんですか?」


『うん』


「体調が悪いんですか?」


『違うよ』


 美園はカウンターの中から出ると、佐藤の前に立った。


『佐藤くんに話がある』


「俺に?」


『座って』


 佐藤は戸惑いながら、いつもの席へ座った。


 美園は向かいに立ったまま、言葉を探す。


 昨夜から何度も考えた。


 相手を傷つけない言い方。


 佐藤が納得できる理由。


 本当のことを知られないまま、離れられる言葉。


『私たち、終わりにしようか』


 佐藤の表情が止まった。


「……どういう意味ですか?」


『そのままの意味』


「別れる、ということですか?」


『うん』


「どうしてですか?」


 当然の質問だった。


 美園は用意していた言葉を一つずつ並べる。


『年齢も離れてるし』


「今まで、そのことを理由にされたことはありません」


『今まで言わなかっただけ』


「ほかには?」


『店も忙しい。佐藤くんが来る時間に合わせるのも、正直疲れるようになった』


「俺が来る回数を減らします」


『そういうことじゃない』


「では、どういうことですか?」


『佐藤くんと付き合い続けること自体が、負担になったの』


 言った瞬間、胸の奥が痛んだ。


 嘘ではない。


 佐藤の存在が大切になるほど、失う恐怖は大きくなった。


 その恐怖は、美園にとって確かに負担だった。


 だが、佐藤が受け取る意味とは違う。


「昨日、俺が何か言ったからですか?」


『関係ないよ』


「本当に?」


『昨日の話は関係ない』


 美園は佐藤の目を見た。


 ここで視線を逸らせば、嘘だと気づかれる。


『前から考えてた』


「でも、昨日までは――」


『昨日まで普通にしてたからって、今日も同じとは限らないでしょ』


 佐藤が黙る。


 美園は、自分の声が冷たくなっていくのを感じていた。


 佐藤を離すためには、中途半端に優しくしてはいけない。


『佐藤くんには、もっと同じくらいの年齢で、普通の生活ができる人の方が合ってるよ』


「俺が誰と付き合うかは、俺が決めます」


『私が終わりにしたいの』


「美園さん」


『ごめん』


「本当の理由を、話してもらえませんか?」


『今、話したでしょ』


「俺には、それが本当だとは思えません」


 佐藤は立ち上がらなかった。


 声を荒らげることもない。


 ただ、美園の言葉を理解しようとしている。


 その姿を見ることが苦しかった。


『信じてもらえなくても、これ以上はないよ』


「俺に直せることはありませんか?」


『ない』


「少し距離を置いて考えることも?」


『考えた結果だから』


 佐藤は俯いた。


 しばらくして、小さく息を吐く。


「分かりました」


 美園は思わず佐藤を見る。


 引き止めてほしかったわけではない。


 それでも、簡単に分かったと言われると胸が痛んだ。


「美園さんが俺と話したくないのであれば、今日は帰ります」


『うん』


「ですが、俺は納得していません」


『……そう』


「本当の理由を話していただけるまで、納得はできません」


『話すことはないよ』


「分かりました」


 佐藤は席を立った。


 美園の隣を通り、店の扉へ向かう。


 その背中へ手を伸ばしたくなる。


 名前を呼びたくなる。


 だが、美園は両手を握り、その場から動かなかった。


「お世話になりました」


 扉の前で、佐藤が振り返る。


「店へ来ることで美園さんを困らせるなら、もう来ません」


『うん』


「でも、嫌いになったわけではありません」


 美園は答えられなかった。


「それだけは、覚えていてください」


 扉が開く。


 外から入ってきた夜の空気が、僅かに店内を撫でた。


 佐藤はもう一度、美園を見た。


 その目に怒りはなかった。


 責める色もない。


 ただ、理由を知らされないまま離されることへの痛みだけがあった。


 美園はその視線を受け止めながら、何も言えなかった。


 扉が閉まる。


 足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。


 美園はその場に立ったまま、耳を澄ませていた。


 もう聞こえない。


 それでも、足音が戻ってくるのではないかと思った。


 扉が開いて、やはり納得できないと言われるのではないか。


 そのとき、自分はもう一度同じ言葉を言えるのか。


 分からなかった。


『……佐藤くん』


 誰もいない店で、初めて名前が出た。


 声にした瞬間、胸の奥へ押し込めていたものが大きく揺れた。


 美園は扉へ一歩進む。


 追いかければ、まだ間に合うかもしれない。


 店の前の道を曲がるまで、それほど時間は経っていない。


 呼び止めて、本当のことを話す。


 子どもを持てない身体であること。


 そのことが原因で、前の結婚が壊れたこと。


 昨日、佐藤が口にした未来を、自分では叶えられないこと。


 すべて話してしまえばいい。


 美園の足が、もう一歩だけ前へ出る。


 だが、扉の取っ手へ伸びかけた手は、途中で止まった。


 話したところで、佐藤はきっと大丈夫だと言う。


 前の夫も、最初はそう言った。


 子どもがいなくてもいい。


 美園と二人で生きていければ、それでいい。


 その言葉を信じた。


 信じたからこそ、変わっていく相手の姿が苦しかった。


『……駄目』


 美園は伸ばしていた手を下ろした。


 今、佐藤が大丈夫だと言っても、その言葉が何年先まで続くかは分からない。


 いつか後悔するかもしれない。


 自分を選んだことを間違いだったと思うかもしれない。


 そうなる前に終わらせた。


 これでいい。


 佐藤のためにも、これでよかった。


 美園は自分へ言い聞かせ、入口の鍵を掛けた。


 いつもなら、佐藤が帰ったあとに鍵を掛けることはない。


 閉店作業が終わるまで佐藤が残り、一緒に店を出るからだ。


 鍵が掛かる音が、やけに大きく響いた。


 美園はカウンターへ戻った。


 佐藤が座っていた席には、何もない。


 今日は水も、コーヒーも出さなかった。


 話すために呼んだだけだった。


 それでも、美園は反射的にカップを片づけようとして、何も置かれていないことに気づいた。


『……そっか』


 片づけるものすらない。


 美園はカウンターの中へ入り、閉店作業を始めた。


 売上を確認する。


 使用したグラスを洗う。


 客が残したゴミを集める。


 床を拭く。


 一人で続けてきた仕事だった。


 佐藤が来るよりも前は、毎晩一人でやっていた。


 できないことなど、何もない。


 グラスを洗い、布巾で拭く。


 棚へ戻そうとしたところで、手が止まった。


 最近は、佐藤が洗ったグラスを美園が棚へ戻していた。


 美園が洗えば、佐藤が拭いた。


 どちらかがゴミをまとめている間に、もう一人がテーブルを整えた。


 約束したわけではない。


 役割を決めたこともない。


 気づけば、二人で店を閉めるようになっていた。


『一人でできるじゃん』


 美園は誰に言うでもなく呟いた。


 返事はない。


 店内には、水の流れる音だけが響いている。


 一人なら、自分の順番で仕事ができる。


 佐藤に無理をさせていないか、翌日の仕事へ響かないかと心配する必要もない。


 帰る時間を気にする必要もない。


 すべて、美園一人で決められる。


 それが、以前までのRoseだった。


 元へ戻っただけだ。


 美園は蛇口を閉める。


 急に静かになった店内で、自分の呼吸だけが聞こえた。


 佐藤は、もう来ない。


 明日も。


 その次の日も。


 仕事が終わったあと、この扉を開けることはない。


 いつもの席へ座り、美園さんと呼ぶこともない。


 閉店作業を手伝うこともない。


 遅い夕食を一緒に食べることもない。


 自分で、そうした。


 美園は布巾を置き、佐藤がいつも座っていた席へ回った。


 椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろす。


 カウンターの中から見ることは何度もあった。


 だが、佐藤の席へ座るのは初めてだった。


 そこからは、いつも美園が立つ場所が正面に見える。


 グラスの並ぶ棚。


 コーヒーを淹れる器具。


 少し手を伸ばせば届く距離に、美園は毎晩いた。


 佐藤はここから、自分を見ていた。


『何してるんだろ、私』


 美園は笑おうとした。


 だが、声は僅かに震えただけだった。


 佐藤が来ることを負担だと言った。


 店が忙しく、時間を合わせることに疲れたと言った。


 付き合い続けること自体が負担になったとまで言った。


 その言葉を聞いた佐藤が、どんな気持ちだったのか。


 今になって、美園は同じ席へ座りながら考えていた。


 本当のことを話さなかった。


 話せなかったのではない。


 話せば佐藤が残ろうとすることを分かっていて、あえて違う理由を並べた。


 自分を嫌いになるような言葉を選んだ。


 それを、佐藤のためだと思おうとしている。


『これでいいの』


 美園は空のカウンターへ向かって呟く。


『佐藤くんは、まだ選べるんだから』


 自分と一緒にいない人生。


 結婚して、子どもを持つ未来。


 昨日、佐藤が望んだ形を叶えられる相手。


 美園が先に離れれば、佐藤はその未来へ進める。


『だから、これでいい』


 もう一度言う。


 言葉にするほど、正しい選択から遠ざかっていくような気がした。


 佐藤の未来を守ったのだと思えば、胸の痛みを我慢できる。


 そう思いたかった。


 美園は椅子から立ち上がり、佐藤がいつも使っていた席をカウンターの中へ押し戻した。


 ほかの椅子と同じ位置へ、まっすぐにそろえる。


 そこだけが空いているように見えないように。


 何も変わっていないように。


 店内の照明を一つずつ消していく。


 最後にカウンターの明かりが残った。


 消灯のスイッチへ手を伸ばす。


 いつもなら、その前に佐藤が忘れ物をしていないか確認していた。


 今日は確認する必要がない。


 佐藤は最初から何も置いていかなかった。


『……おやすみ』


 誰へ向けたのか、自分でも分からなかった。


 明かりを消す。


 真っ暗になったRoseで、美園はしばらく動けなかった。


 扉の外に、待っている人はいない。


 一人で鍵を開け、一人で外へ出る。


 冷えた夜の空気に触れた瞬間、美園は無意識に隣を見た。


 誰もいなかった。


 佐藤のために別れた。


 これで、佐藤の未来を奪わずに済む。


 そのはずなのに。


 美園は初めて、明日が来なければいいと思った。

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