282話「先に伝える人」
Roseから帰ったあとも、陽菜と中井はすぐには眠らなかった。
居間のテーブルには、産婦人科でもらった資料と超音波写真が並んでいる。
母子健康手帳を受け取るための案内。
次回の診察日。
妊娠初期に気をつけること。
中井は資料を一枚ずつ確認し、必要な手続きを手帳へ書き出していた。
陽菜はソファへ座り、その横顔を眺めている。
『中井くん』
「はい」
『まだやるの?』
「あと少しです」
『帰ってからずっと見てるじゃん』
「忘れないうちに整理しておこうと思いまして」
『明日でもいいでしょ』
「明日は仕事があります」
『今も寝る時間なんだけど』
中井が時計を見る。
すでに日付が変わろうとしていた。
「すみません。もう休みましょう」
『謝ることじゃないけど』
陽菜はテーブルの上にある超音波写真を手に取った。
何度見ても小さい。
それでも、今は写真のどこに赤ちゃんがいるのか分かる。
『総長、すごかったね』
「質問の数ですか?」
『うん。まさか避妊のことまで聞かれると思わなかった』
「俺も驚きました」
『あたしがつけないでって言ったって、別に言ってもよかったのに』
「それだけでは、陽菜さん一人の希望だったように聞こえます」
『最初に言ったのは、あたしだよ』
「最初に言われたことと、俺が同意したことは別です」
『中井くん、あのとき格好よかったよ』
「そうですか?」
『うん。あたしを庇ってくれた』
「庇ったわけではありません。事実を伝えただけです」
『そういうことにしといてあげる』
陽菜は写真を封筒へ戻した。
そこで、表情から笑みが消える。
『会社、どうしようか』
中井の手が止まった。
「報告のことですか?」
『うん』
陽菜は自分の腹へ手を添えた。
『先生には、周りに伝えられる時期になったら職場でも相談してって言われたけど、まだ七週でしょ』
「もう少し待ちたいですか?」
『分かんない』
妊娠初期は、まだ何が起こるか分からない。
そのことは病院から渡された資料にも書いてあった。
心拍が確認できた喜びはある。
だが、妊娠したと会社で報告した翌日に、必ず何もかもが安全になるわけではない。
『もう少し経ってからの方がいいのかなって思う。でも、高槻の仕事はこれからもっと忙しくなる』
「現地へ行く予定もありますよね」
『うん。外回りもあるし、会社に黙ったまま仕事を変えてもらうのも変じゃん』
「今日も、日高さんとそのことで話したんですよね」
『あたしの予定、勝手に変えてたからね』
「日高さんも、心配だったんだと思います」
『分かってるよ』
責めているわけではない。
ただ、樹里が誰にも理由を話せないまま陽菜の仕事を減らせば、いずれ周囲が不審に思う。
陸や萌に仕事を任せることも、妊娠とは関係なく二人の成長に必要なことだった。
それが、陽菜の体調を理由に仕事を押しつけられているように見えるのは嫌だった。
「全員へ話さなくても、黒澤部長には先に相談してもいいのではありませんか」
『部長だけ?』
「はい。勤務について調整が必要になった場合、最終的に判断されるのは黒澤部長ですよね」
『そうだけど』
「日高さんと高村さんだけで対応し続けるより、正式に相談した方がいいと思います」
『中井くんは、みんなに言ってもいい?』
「俺が決めることではありません」
『中井くんの子どもでもあるでしょ』
「そうですが、妊娠していることを職場で伝えるのは、陽菜さんです」
中井は少し考えてから、言葉を続けた。
「ただ、俺の希望を言ってもいいのであれば、必要な方には早めに伝えてほしいです」
『心配だから?』
「はい」
『正直』
「陽菜さんが会社で体調を崩しても、俺はすぐ近くにいるとは限りません」
同じ会社で働いている。
だが、所属する仕事も、外出する時間も違う。
陽菜が現地へ向かい、中井が別の顧客を訪問していることもある。
「事情を知っている人が日高さんと高村さんだけでは、お二人のどちらも不在のときに対応できません」
『みんなに気を遣わせるかもしれないよ』
「何も知らないまま、陽菜さんが無理をする方が心配です」
『あたし、そんなに無理してる?』
「しています」
『即答しなくてもよくない?』
「今日も立ちくらみがあったことを、聞くまで教えてくれませんでした」
『それは……』
「今までどおり働きたい気持ちは分かります。ですが、今までとまったく同じではないことも事実です」
中井の声は穏やかだった。
すべての仕事をやめろとも、家で休んでいろとも言わない。
ただ、一人で隠したまま働き続けることを心配している。
『……明日、総長に相談してみる』
「はい」
『それから、部長に話す』
「俺も一緒に行きましょうか?」
『会社の報告なら、あたしが話すよ』
「分かりました」
『でも、会社の外では一緒に考えてね』
「もちろんです」
『あたしが分かんなくなったら、中井くんが教えて』
「俺にも分からないことはあります」
『そのときは?』
「二人で考えます」
『うん』
陽菜は納得したように頷き、テーブルの資料を重ねた。
『もう寝よ』
「歯は磨きましたか?」
『まだ』
「先に磨いてください」
『一緒に行こうよ』
「俺はもう磨きました」
『もう一回』
「どうしてですか?」
『一人で行くの面倒だから』
「洗面所まで数歩ですよ」
『中井くん』
「……分かりました」
『やった』
陽菜は笑いながら立ち上がった。
すぐ隣を中井が歩く。
たった数歩の距離でも、今夜は一人で歩くより二人の方がよかった。
翌朝。
島川不動産へ出社した陽菜は、樹里の予定表を確認した。
午前中は社内にいる。
ただし、九時半から神谷と打ち合わせが入っていた。
朝礼まで、あと十五分。
陽菜は鞄を机へ置くと、樹里の席へ向かった。
『日高先輩。少しよろしいですか?』
『はい』
『相談したいことがあります』
陽菜の表情を見て、樹里はすぐに内容を察したようだった。
周囲には、すでに凛や柚希がいる。
陸と萌も出社し、それぞれの机で仕事の準備をしている。
『会議室へ行きましょう』
『はい』
二人は小さな会議室へ入った。
樹里が扉を閉める。
『会社への報告か』
『分かるの早いね』
『昨日の今日だからな』
二人きりになり、陽菜の呼び方も戻る。
『中井くんと話した。まず部長には言おうと思う』
『そうした方がいい』
『やっぱり?』
『体調に合わせて業務を調整するなら、黒澤部長の了承が必要になる』
『でも、まだみんなに言うには早いのかな』
『それは私が決めることではない』
『中井くんにも同じこと言われた』
『当然だ』
『そうなんだけどさ』
陽菜は椅子へ座り、机の上で指を組んだ。
『言ったあとで、もし何かあったらって考えちゃう』
樹里は何も挟まず、陽菜の言葉を待った。
『みんなにおめでとうって言われて、それから駄目になったら、どうすればいいのか分かんない』
『……そうだな』
『でも、黙ってたら今までどおり仕事するしかないでしょ』
『黒澤部長だけに伝え、ほかの方への報告を待つ方法もある』
『それも考えた』
『では、そうするか?』
『分かんない』
陽菜は俯いた。
決めるのは自分だと言われても、何を基準に決めればいいのか分からない。
『総長は、どう思う?』
『私か』
『うん。決めてほしいって意味じゃなくて、総長ならどうするか聞きたい』
樹里はすぐには答えなかった。
陽菜と同じ立場になったことはない。
簡単に分かるとは言えない。
『私なら、必要な人間にだけ先に伝える』
『必要な人間って?』
『黒澤部長と、同じ仕事を担当する方々だ』
『高槻の案件に関わってる人?』
『そうだ』
『ほとんど営業部全員じゃん』
『だからこそ、難しい』
樹里は正直に答えた。
『高槻興産の案件では、外回りや現地確認を複数人で分担している。お前の予定だけ理由を説明せずに変更し続ければ、ほかの方にも負担の偏りが生じる』
『うん』
『何より、川原さんと山本さんは、お前から仕事を押しつけられているのではないかと考えるかもしれない』
『それは嫌』
陽菜はすぐに答えた。
陸と萌へ任せているのは、二人ならできると思っているからだ。
陽菜が動けなくなったから仕方なく渡したわけではない。
『二人には、ちゃんと任せたって分かってほしい』
『なら、伝える意味はあると思う』
『みんなにも?』
『最終的には、お前が決めろ』
『……うん』
陽菜はしばらく黙って考えた。
怖さは消えない。
報告したからといって、何も起きない保証はない。
それでも、何かあったときに一人で隠し続けることも、もうしたくなかった。
陽菜は顔を上げる。
『部長に話す』
『分かった』
『それで、部長とも相談して、みんなに話すか決める』
『そうしろ』
『総長も一緒に来て』
『私もか?』
『一人で話しに行くの、ちょっと緊張する』
『中井さんは?』
『会社の報告はあたしがするって言った』
『なら、一人で行けばいいだろ』
『相談には乗ってくれるって言ったじゃん』
『私は意見を聞かれただけだ』
『総長』
陽菜がじっと樹里を見る。
樹里は小さく息を吐いた。
『……分かった』
『ありがとう』
『ただし、説明するのはお前だ』
『分かってる』
樹里は立ち上がり、会議室の時計を見た。
『朝礼まで五分しかない。今からでは話せないな』
『朝礼のあと、部長の予定は?』
『確認します』
二人が営業部へ戻ると、黒澤もすでに出社していた。
いつものように自席へ鞄を置き、神谷から渡された書類を眺めている。
樹里は自分のパソコンで黒澤の予定を確認した。
十時から社外へ出る。
戻るのは午後になる予定だった。
『朝礼後に十分ほどであれば、空いています』
『十分で話せるかな』
『要点を整理しておけ』
『妊娠しましたって言うだけじゃ駄目?』
『今後の業務と、ほかの方へ伝える範囲まで相談するんだろ』
『そうでした』
『何も考えていなかったのか』
『総長がいるから大丈夫かなって』
『お前が説明すると言ったばかりだろ』
小声で話す二人を、離れた席から柚希が見ていた。
「陽菜さん、日高先輩と何を話してるんですか?」
『仕事の相談』
「朝からですか?」
『朝だからだよ』
「また喧嘩してません?」
『してないって』
柚希は疑うような目を向けたが、黒澤が立ち上がったため、自分の席へ戻った。
「朝礼始めるぞ」
社員たちが仕事の手を止める。
陽菜も自分の席へ戻った。
高槻興産の進捗。
今日の訪問予定。
大野設備の改修準備。
黒澤が話す内容を聞きながら、陽菜は何度も言葉を考えた。
妊娠しました。
まだ七週です。
心拍は確認できています。
体調に波があります。
仕事を続けたいです。
どこから話せばいいのか分からない。
朝礼が終わる。
社員たちが一斉に仕事へ戻る中、陽菜は席を立った。
樹里も一緒に黒澤の机へ向かう。
『黒澤部長。少しお時間をいただけますか?』
樹里が声を掛ける。
「日高さんと櫻井さんがそろってか?」
『はい。櫻井さんから、ご相談があります』
黒澤が陽菜を見る。
「何かあったのか?」
『少し、お話ししにくいことなので、場所を変えていただいてもいいですか?』
「分かった。応接室でいいか」
『はい』
黒澤は手にしていた書類を机へ置き、先に応接室へ向かった。
陽菜と樹里が、そのあとに続く。
扉が閉まる。
黒澤は二人へ座るよう促し、自分も向かいへ腰を下ろした。
「それで、相談って何だ?」
陽菜は膝の上で両手を握った。
隣に樹里がいる。
何も言わず、陽菜が自分から話すのを待っている。
『あたし、妊娠しました』
黒澤の表情が止まった。
「……本当か?」
『はい。昨日、病院で心拍も確認できました』
「そうか」
黒澤は一度大きく息を吐いた。
それから、陽菜へ笑みを向ける。
「おめでとう、櫻井さん」
『ありがとうございます』
「中井は知ってるんだよな?」
『一緒に病院へ行きました』
「そうか。あいつも父親になるのか」
黒澤は嬉しそうに頷いた。
だが、すぐに部長としての表情へ戻る。
「体調はどうだ?」
『吐き気と眠気があります。昨日、少し立ちくらみもありました』
「仕事は続けられるのか?」
『続けたいです』
陽菜は迷わず答えた。
『ただ、先生からは、長時間立ち続けたり、無理な外回りをしたりしないように言われました』
「分かった」
『それで、これからの仕事をどうするかと、みんなへいつ伝えるかを相談したくて』
「日高さんは、いつ聞いた?」
『昨夜です』
「高村さんは?」
陽菜が驚いて黒澤を見る。
『何で高村さんが知ってると思ったんですか?』
「日高さん以外にも誰か知ってる顔だ。二人だけなら、昨日の時点でもっと慌ててただろ」
『……高村さんが最初に気づいてくれました』
「やっぱりな」
『でも、高村さんは誰にも話していません』
「分かってる。あの人が勝手に話すとは思ってない」
黒澤は腕を組み、少し考えた。
「櫻井さんは、営業部のみんなにも伝えたいのか?」
『まだ早いかもしれないと思っています』
「うん」
『でも、高槻興産の案件で外回りや現地確認が増えています。理由を言わないまま仕事を代わってもらうのも違うと思って』
「そうだな」
『陸と萌には、あたしができないから渡すんじゃなくて、二人ならできると思って仕事を任せています。それをちゃんと分かってほしいです』
黒澤はしばらく陽菜の顔を見つめた。
「何が起きるか分からないから、言うのが怖いか?」
『……はい』
「そうだよな」
黒澤は安易に大丈夫とは言わなかった。
「だったら、全員へ話す必要はない。俺と日高さん、高村さんだけで調整する方法もある」
『はい』
「ただ、高槻の案件は営業部全体で動いている。今後、櫻井さんの予定を変える機会は増えるかもしれない」
『そうですよね』
「そのたびに理由を隠せば、櫻井さん自身も苦しくなる。周りも、何で急に役割が変わったのか分からない」
黒澤は机の上で指を組んだ。
「どちらが正しいかは、俺には決められない。これは会社の都合だけで決める話じゃないからな」
『はい』
「櫻井さんが、誰に、いつまで話したいか。それを先に決めてくれ。会社は、その範囲で対応する」
陽菜は隣の樹里を見た。
樹里は僅かに頷く。
『……営業部のみんなには、自分から話したいです』
「いいのか?」
『はい』
まだ怖い。
それでも、陽菜は一人で守るために黙るより、今一緒に仕事をしている人たちを信じたかった。
『明日の朝礼で、あたしから話してもいいですか?』
「分かった」
黒澤が頷く。
「俺から先に言う必要はあるか?」
『自分で言います』
「そうか」
『ただ、うまく話せなかったら助けてください』
「任せろ」
黒澤は笑った。
「それくらいは、部長らしいことをしてやる」
『いつもしてますよ』
「櫻井さんに言われると、妙に不安になるな」
『褒めたのに』
「分かってるよ」
黒澤はもう一度、陽菜を見る。
「改めて、おめでとう」
『ありがとうございます』
「中井にも伝えておけ。仕事中だからって、一人で格好つけるなってな」
『中井くん、別に格好つけてないですよ』
「そうか?」
『心配しすぎなくらい心配してます』
「なら大丈夫か」
黒澤は立ち上がった。
「仕事の具体的な調整は、明日の朝礼が終わってから決めよう。今日のところは、無理な外回りを入れない。何かあったら、すぐに言え」
『はい』
「日高さんもだ」
『何がですか?』
「櫻井さんの仕事を、本人へ何も言わずに勝手に変えるなよ」
陽菜が思わず樹里を見る。
『部長、何で分かったんですか?』
「日高さんならやりそうだからだ」
『……すでに櫻井さんと話しました』
「やったのか」
『必要だと判断したためです』
『それで、朝から喧嘩しました』
『意見を確認しただけだ』
「どっちでもいい。次からは先に話せ」
『分かりました』
黒澤は呆れたように息を吐き、応接室の扉を開けた。
「じゃあ、明日の朝礼だな」
『はい』
陽菜は頷いた。
今日、この部屋へ入るまでは、妊娠を知っている人間は僅かだった。
中井。
高村。
樹里と美園。
そして今、黒澤にも伝えた。
次は、自分と一緒に働く仲間たちへ話す。
何もかもを一人で抱えないために。
そして、自分が育ててきた陸と萌へ、本当の意味で仕事を託すために。
陽菜は応接室を出る前に、自分の腹へそっと手を添えた。
まだ、外から見ても何も分からない。
それでも明日、この小さな命のことを、自分の言葉で伝える。




