281話「知らないふり」
翌朝。
陽菜が出社すると、樹里はすでに自分の席で仕事を始めていた。
『おはようございます』
『おはようございます』
交わした言葉は、それだけだった。
昨夜、Roseで妊娠を報告した。
超音波写真を見せ、体調や診察の結果も話した。
樹里は病院、仕事、結婚式について次々に質問し、最後には避妊していたのかとまで尋ねた。
それなのに、会社では陽菜の顔を一度見ただけで、何事もなかったようにパソコンへ視線を戻している。
周囲には、まだ何も知らせていない。
陽菜が自分から話すまで、樹里も知らないふりをすると決めたのだろう。
その態度に安心しながらも、陽菜は何となく落ち着かなかった。
「陽菜先輩。昨日の残り、まとめておきました」
陸が数枚の資料を持ってくる。
『ありがとう。早かったね』
「昨日のうちに、ほとんど調べ終わっていましたから」
『じゃあ、確認するね』
「お願いします」
陽菜は資料を受け取り、自分の机へ置いた。
残る十六社のうち、三社が現在地の近くへ移転することを希望している。
その中の二社は必要とする床面積が近く、業務内容にも共通点があった。
条件だけを見れば、同じ候補物件を紹介することになる。
ただし、その建物へ両社が入れるほどの広さはない。
どちらを優先するか。
あるいは別の物件を探すか。
大野設備の問題が片づいた途端、次の調整が始まっていた。
『陸。この二社、希望している移転時期も同じ?』
「はい。工事の工程上、六月末までの移転を希望されています」
『両方とも?』
「そうです」
『分かった。候補物件はまだ先方に出さないで。神谷さんと日高先輩に確認するから』
「分かりました」
陸が席へ戻る。
陽菜は資料を手に立ち上がり、樹里の机へ向かった。
『日高先輩。少しよろしいですか?』
『はい』
『こちらの二社ですが、同じ物件を希望する可能性があります』
樹里は資料を受け取り、必要床面積と移転時期へ目を通した。
『確かに、条件が重なっていますね』
『先に面談した方へ紹介しますか?』
『いいえ。面談の順番で決めるべきではありません』
『ですよね』
『片方は事務所としての利用が中心ですが、もう一社は商品の保管場所も必要です。物件を分割して使用することは難しいでしょう』
『あたしもそう思います』
『神谷さんが戻ったら、両社の優先条件を確認します。それまでは紹介を保留してください』
『分かりました』
陽菜が手を伸ばす。
しかし樹里は、資料を返さなかった。
『日高先輩?』
『こちらは私が預かります』
『でも、候補物件の資料を作ったのはあたしです』
『神谷さんと確認したあと、必要な部分だけお返しします』
『……そうですか』
陽菜は樹里を見つめた。
樹里の表情は変わらない。
だが、昨日までなら、その場で話す時間を決め、陽菜にも同席するよう伝えていたはずだった。
『では、失礼します』
陽菜は何も言わず、自分の席へ戻った。
気のせいかもしれない。
ただ資料を預かっただけだ。
そう思いながらパソコンを開く。
間もなく、共有予定表へ新しい予定が追加された。
午後二時。
二社の移転条件に関する打ち合わせ。
出席者は、神谷と樹里。
陽菜の名前はない。
(……やっぱり)
昨夜、無理をするなと言われた。
仕事のことも自分だけで判断するなと言われた。
だが、妊娠を伝えた翌日から仕事を外されるとは思っていなかった。
陽菜は予定表を睨みつける。
高村以外には、まだ妊娠を知らせていない。
ここで樹里へ抗議すれば、周囲に聞かれるかもしれない。
何も言えないことまで、樹里に利用されているような気がした。
「陽菜さん?」
隣から柚希が顔を覗かせる。
「どうしたんですか?」
『何でもないよ』
「画面、すごい顔で見てますけど」
『ちょっと、納得できない予定が入ってただけ』
「間違っているんですか?」
『間違いではないけど』
陽菜は樹里の方を見る。
樹里は何事もなかったように書類を確認している。
『あとで聞いてみる』
「日高先輩にですか?」
『うん』
「喧嘩しないでくださいね」
『しないよ』
「本当ですか?」
『仕事中なんだから、するわけないでしょ』
柚希はまだ心配そうだったが、電話が鳴ったため自分の席へ戻った。
昼前になると、別の予定にも変更が入った。
翌日に予定されていた物件の現地確認。
陽菜と陸が担当するはずだったものが、陸と萌へ変わっている。
変更したのは樹里だった。
陽菜は椅子から立ち上がった。
今度は資料も持たず、まっすぐ樹里の机へ向かう。
『日高先輩』
『はい』
『少し、お話があります』
『何でしょうか』
『ここでは話しにくいので、給湯室でもいいですか?』
樹里は陽菜の顔を見上げた。
何を言われるのか、すでに分かっているようだった。
『分かりました』
二人で給湯室へ入る。
陽菜は周囲に誰もいないことを確かめ、扉を閉めた。
『どういうつもり?』
会社の中であるため、声は抑えている。
それでも、口調までは取り繕えなかった。
『何がだ』
『午後の打ち合わせ。何であたしを外したの?』
『神谷さんと私だけで確認できる内容だからだ』
『今までなら、あたしも入れてたでしょ』
『三人でなければ決められない内容ではない』
『明日の現地確認も、陸と萌に変えたよね』
『二人だけで確認できます』
『昨日、妊娠したって話したから?』
樹里はすぐには答えなかった。
その沈黙が、陽菜には答えに思えた。
『やっぱりそうじゃん』
『大きな段差があり、資材も置かれている物件だ』
『あたしは走り回るわけじゃない』
『転倒する可能性がある』
『今まで一度も転んだことないよ』
『これからも転ばない保証にはならない』
『じゃあ、どこにも行くなってこと?』
『そうは言っていない』
『言ってるのと同じでしょ』
陽菜は声が大きくならないよう、唇を噛んだ。
『まだ誰にも話してないのに、急にあたしの仕事だけ変えたら、みんな不審に思うよ』
『急には変えていない』
『変えてる』
『昨日、お前自身が川原さんと山本さんへ現場を任せると決めた』
『最初は一緒に行くって言った』
『明日の物件は、大野設備ではない。二人が調査を担当した会社の候補物件だ』
陽菜は言葉に詰まった。
確かに、明日の現地確認は大野設備のものではない。
陸と萌が調べた企業に紹介する候補物件だった。
『でも、午後の打ち合わせは』
『お前がいなければ決められない部分があれば呼ぶ』
『そうやって、少しずつ全部外すつもりでしょ』
『外すつもりはない』
『じゃあ、何で相談しなかったの?』
樹里の表情が僅かに変わった。
『あたしが怒ってるのは、仕事が変わったことだけじゃない』
『……何だ』
『勝手に決めたこと』
陽菜は樹里を正面から見た。
『昨日、体調のことを一人で決めるなって言ったよね』
『言った』
『だったら総長も、あたしの仕事を一人で決めないでよ』
樹里が黙る。
会社にいる以上、本来なら総長と呼ぶべきではない。
けれど、今の言葉は日高先輩へ向けたものではなかった。
陽菜を守るためなら、本人の意思より先に動こうとする樹里へ向けたものだった。
『守ってくれるのは嬉しい。でも、何も言わずに仕事を取られたら、あたしは自分がいらなくなったみたいに思う』
『そんなことはない』
『総長がそう思ってなくても、あたしはそう感じるの』
給湯室の中に、しばらく沈黙が落ちた。
樹里は視線を下げ、考えるように指先を握った。
『……悪かった』
陽菜が目を瞬かせる。
言い返されると思っていた。
『相談するべきだった』
『分かってくれた?』
『お前を仕事から外すつもりはない。ただ、危険がある場所へ行かせる必要もないと思った』
『そこを先に話してよ』
『今後はそうする』
『本当に?』
『同じことを何度も言わせるな』
『だって、総長すぐ勝手に決めるじゃん』
『お前もだろ』
『あたしは昨日から少しずつ直してる』
『一日で偉そうに言うな』
陽菜は少しだけ口元を緩めた。
『じゃあ、明日の現地確認は陸と萌に任せる』
『それでいい』
『でも、午後の打ち合わせにはあたしも出る』
『必要ない』
『出る』
『櫻井さん』
『進捗管理はあたしの担当でしょ。二社の条件が重なってるなら、その後の予定にも関係する』
樹里はしばらく考えた。
『……三十分で終わらせる』
『一時間でも平気だよ』
『三十分だ』
『はいはい』
『それと、体調が悪くなったら途中でも抜けろ』
『分かりました』
『返事が軽い』
『ちゃんと分かったって』
陽菜が扉へ手を掛ける。
開ける前に、樹里を振り返った。
『総長』
『何だ』
『知らないふり、下手だね』
『何のことだ』
『朝から、あたしの予定しか見てないじゃん』
『仕事を確認しているだけだ』
『はいはい』
『会社では日高先輩と呼べ』
『今、誰もいないからいいでしょ』
陽菜は小さく笑い、給湯室を出た。
樹里は一人残り、短く息を吐く。
守ることと、奪うこと。
その境目は、樹里が思っているよりも近いらしい。
午後二時。
神谷が打ち合わせのために会議室へ入ると、そこには樹里と陽菜が座っていた。
「櫻井さんも出席されるんですね」
『進捗管理に関係しますので』
「分かりました」
神谷は理由を尋ねず、二人の向かいへ座った。
机には、同じ候補物件を希望する可能性がある二社の資料が並べられている。
「先に結論からお伝えします。どちらか一社へ今の物件を紹介し、もう一社には別の候補を探す必要があります」
『先方は、すでにこの物件を知っているんですか?』
「いいえ。まだ紹介していません」
『なら、条件が合う方を先に決められますね』
陽菜が二社の資料を見比べる。
『片方は、商品を保管するために倉庫も必要です。でも、この物件は事務所部分が広くて、倉庫に使える場所は少ない』
『もう一社は事務所利用が中心です』
樹里が続ける。
『現在の条件だけを見れば、事務所利用が中心の会社へ紹介する方が適切です』
「俺もそう考えています」
『じゃあ、もう一社には倉庫付きの物件を探す?』
「はい。ただ、六月末までの移転を希望しています。新しく探す時間は多くありません」
『今ある候補だけで探す必要はありませんよね』
陽菜が北側区画の全体図を見る。
『大野設備みたいに、高槻興産が使っていない建物は残ってないんですか?』
『同じ条件の建物はありません』
『同じじゃなくていいんです。事務所と倉庫が一緒じゃないと駄目なのか、まだ確認してないですよね』
神谷が面談記録を開く。
「現在の会社も、事務所と倉庫は別棟です」
『だったら、二か所に分けても距離が近ければ大丈夫かもしれない』
『確認する価値はあります』
樹里は頷き、資料へ印をつけた。
『神谷さん。次回の面談で、事務所と倉庫を別物件にできるか確認していただけますか?』
「分かりました」
『櫻井さんは、倉庫だけで使用できる物件を探してください』
『はい』
壁の時計を見る。
打ち合わせが始まってから、二十分しか経っていない。
陽菜が樹里へ得意げな視線を向けた。
『三十分以内に終わりそうですね』
『時間を延ばす理由はありません』
「三十分と決まっていたんですか?」
『日高先輩が決めました』
「そうですか」
神谷は樹里を見たものの、それ以上は尋ねなかった。
ただ、机に広げられた資料をまとめながら、小さく笑っている。
『神谷さん。何かおかしいですか?』
「いいえ」
『では、なぜ笑っているんですか』
「日高さんと櫻井さんの意見が、今日は随分早くまとまったと思っただけです」
『必要な確認ができたからです』
『午前中に一回、喧嘩したからですよ』
『櫻井さん』
「喧嘩したんですか?」
『していません』
『しました』
『意見を確認しただけです』
『それを喧嘩って言うんじゃないの?』
「どちらでも構いませんが、結論が出たならよかったです」
神谷はそう言って立ち上がった。
「では、俺は先方へ次回の面談日を確認します」
『お願いします』
神谷が会議室を出る。
陽菜も資料を手に席を立った。
『日高先輩』
『何ですか?』
『あたし、ちゃんと必要だったでしょ』
樹里は答えなかった。
『事務所と倉庫を分ける案、あたしが出した』
『そうですね』
『じゃあ、最初から外さなくてよかったじゃん』
『今後は相談すると言っただろ』
『忘れないでくださいね』
『忘れません』
陽菜は満足そうに笑い、会議室を出ていった。
残された樹里は、二社の資料を見つめる。
陽菜がいなければ、倉庫付きの物件だけを探し続けていたかもしれない。
危険から遠ざけることと、役割まで奪うことは違う。
頭では分かっていたはずだった。
だが、陽菜に何かあってはならないと思った瞬間、樹里はその違いを見失っていた。
守るために、本人より先に決める。
それが正しいと信じていた頃の自分は、まだ完全には消えていない。
樹里は打ち合わせ予定の出席者欄へ、改めて陽菜の名前を残した。
その日の夜。
Roseでは、佐藤がカウンターの中で洗い終えたグラスを拭いていた。
『それ、私がやるよ』
「もう少しなので、座っていてください」
『私の店なんだけど』
「知っています」
『じゃあ、店主に仕事を返して』
「今日は昼も忙しかったんですよね」
『誰から聞いたの?』
「予約表を見れば分かります」
『勝手に見たの?』
「カウンターの上に置いてありました」
美園は椅子へ座り、グラスを拭く佐藤を見つめた。
佐藤がRoseを手伝うことは、いつの間にか珍しいことではなくなっていた。
閉店前に来れば、客が帰った席を片づける。
閉店後にはグラスを洗い、ゴミをまとめる。
最初の頃は、何をするにも美園へ確認していた。
今は、どこに布巾があり、どのグラスをどの棚へ戻すのかまで知っている。
『佐藤くん』
「はい」
『私が何もできない人みたいじゃない?』
「そんなことは思っていません」
『じゃあ、少しは残してよ』
「何をですか?」
『仕事』
「昼間に十分されたでしょう」
『夜の仕事も私の仕事なの』
「でしたら、俺が洗ったグラスを棚へ戻してください」
『それだけ?』
「大事な仕事です」
『絶対、子ども扱いしてる』
「していません」
佐藤が笑う。
美園は不満そうな顔を作りながら、拭き終えたグラスを一つ受け取った。
棚へ戻し、次のグラスへ手を伸ばす。
二人でやれば、片づけはすぐに終わった。
「終わりましたね」
『佐藤くんがほとんどやったんでしょ』
「美園さんもグラスを戻してくれました」
『三つだけね』
「助かりました」
『褒め方がわざとらしい』
美園は佐藤の腕を軽く叩いた。
佐藤は笑いながら布巾を片づける。
「何か食べて帰りますか?」
『今から?』
「夕食、まだですよね」
『佐藤くんも?』
「はい」
『じゃあ、何か作ろうか』
「疲れているのではありませんか?」
『簡単なものなら大丈夫』
「俺も手伝います」
『料理できたっけ?』
「野菜を切るくらいなら」
『前に玉ねぎ、すごい大きさに切ってたよね』
「煮込めば同じです」
『同じじゃないよ』
「では、美園さんが切ってください」
『佐藤くんは何するの?』
「応援します」
『帰っていいよ』
「冗談です」
佐藤が慌てて答える。
美園は笑いながら、店の奥にある小さな台所へ向かった。
冷蔵庫を開け、残っている食材を確認する。
『パスタでいい?』
「はい」
『本当に簡単なやつだよ』
「美園さんと食べられるなら、何でもいいです」
『そういうこと普通に言うようになったね』
「嫌でしたか?」
『嫌とは言ってない』
美園は冷蔵庫の中を見たまま答えた。
その口元には、自然な笑みが浮かんでいる。
昨日、陽菜から妊娠を告げられた。
小さな命が写った写真も見た。
祝福する気持ちに嘘はない。
本当に嬉しかった。
それでも、胸の奥に沈んだものは、まだ消えていなかった。
「美園さん?」
佐藤の声に、美園は振り返る。
『何?』
「ずっと冷蔵庫を見ていますけど」
『何を作るか考えてたの』
「パスタでは?」
『どんなパスタにするか』
「俺は何でも大丈夫です」
『それが一番困るんだよ』
「では、トマトソースで」
『トマトないよ』
「何がありますか?」
『ベーコンとキノコ』
「それでお願いします」
『最初から選択肢なかったね』
美園が笑う。
佐藤もつられるように笑った。
何でもない時間だった。
一緒に店を片づけ、残った食材で遅い夕食を作る。
特別な約束も、将来についての話もない。
それでも美園は、この時間が続くことを、いつの間にか当たり前のように思い始めていた。
佐藤が隣にいる。
その事実に慣れてしまった自分を、以前ほど怖いとは思わなくなっていた。
少なくとも、今夜までは。




