280話「おめでとう」
Roseの扉を開けると、美園はカウンターの中でグラスを拭いていた。
閉店時刻を過ぎているため、ほかの客はいない。
店内にいるのは美園だけだった。
『いらっしゃい』
美園は陽菜と中井の姿を見て、手にしていたグラスを置いた。
『総長は、まだ来てないよ』
『そっか』
『座って待ってて。何か飲む?』
『あたし、温かいお茶』
『中井くんは?』
「俺も同じものをお願いします」
『分かった』
陽菜と中井は、並んでカウンター席へ座った。
美園は二人分の湯呑みを用意しながら、何も尋ねてこなかった。
陽菜が突然、二人をRoseへ呼び出した。
それだけでも、何か話があることは分かるはずだ。
それでも美園は、陽菜が自分から話すまで待っている。
湯呑みが二人の前へ置かれた。
『ありがとう』
「ありがとうございます」
陽菜は両手で湯呑みを包んだ。
温かい。
けれど、緊張で冷たくなった指先までは、すぐには温まらなかった。
『それで?』
美園がカウンター越しに陽菜を見る。
『悪い話じゃないって、総長には送ったんでしょ?』
『何で知ってるの?』
『総長から連絡が来たから』
『何て?』
『陽菜から呼び出された。何か聞いていないかって』
『やっぱり心配してたんだ』
『あんな送り方したら心配するよ』
『だって、何て書けばいいか分かんなかったんだもん』
『普通に、話があるから来てでいいでしょ』
『それだと、もっと心配するじゃん』
『同じだよ』
美園が呆れたように笑う。
いつもと変わらない会話だった。
陽菜も笑った。
だが、鞄の中に入っている一枚の写真を思うと、すぐに表情が固くなる。
美園はそれに気づいたものの、追及はしなかった。
ほどなくして、店の外でバイクの音が止まった。
陽菜には、それだけで誰が来たのか分かる。
数分後、Roseの扉が開いた。
『遅くなりました』
仕事を終えた樹里が店へ入ってくる。
ジャケットを片腕に掛け、もう片方の手には鞄を持っていた。
『総長、遅い』
『連絡を受けてから、仕事を終わらせて来たんだ。文句を言うな』
『悪い話じゃないって書いたでしょ』
『悪い話ではないことしか分からなかった』
『だから、中井くんも一緒って書いたじゃん』
『中井さんも一緒だから心配したんだ』
「すみません」
『何で中井くんが謝るの』
『お前が妙な連絡をするからだろ』
樹里は陽菜の隣に座ると、中井へ顔を向けた。
『中井さん。何があったんですか?』
「俺から話してもいいんですが、陽菜さんが自分で伝えたいそうです」
『そうですか』
樹里の視線が陽菜へ戻る。
『話せ』
『来て早々、命令しないでよ』
『お前が呼んだんだろ』
『そうだけど』
陽菜は湯呑みへ視線を落とした。
心拍が確認できたときは、すぐにでも伝えたいと思った。
ここへ来る途中も、何度も言葉を考えた。
だが、樹里と美園を前にすると、簡単な一言が出てこない。
『陽菜』
美園が静かに名前を呼ぶ。
『大丈夫。ゆっくりでいいよ』
『うん』
陽菜は一度、中井を見た。
中井が小さく頷く。
陽菜は鞄を開け、病院から受け取った封筒を取り出した。
その中から超音波写真を一枚抜き、カウンターの上へ置く。
樹里と美園には、まだ写真の内容が分からない。
陽菜は二人の顔を交互に見た。
『あたし、妊娠しました』
美園が手にしていた布巾を止めた。
樹里も、陽菜を見たまま動かない。
店内が静まり返った。
壁に掛けられた時計の音だけが聞こえる。
陽菜は、言葉を続けた。
『今日、病院で心拍も確認できた』
美園の視線が、カウンターの上の写真へ落ちる。
ほんの一瞬だけ、その表情から笑みが消えた。
驚いたからなのか。
それとも、別の何かを思ったのか。
陽菜には分からなかった。
次に美園が顔を上げたときには、いつもの優しい笑みが戻っていた。
『……おめでとう、陽菜』
美園はカウンターから出てくると、陽菜の前に立った。
両腕を広げ、その身体をそっと抱き締める。
いつものように勢いよく抱きつくのではない。
陽菜の身体を気遣うような、優しい抱擁だった。
『ありがとう、美園さん』
『よかったね』
『うん』
『本当によかった』
美園の声は、少しだけ震えていた。
陽菜は美園の背中へ腕を回す。
美園の胸元に顔が触れたため、その表情までは見えなかった。
だが、抱き締める腕には、祝福だけではない何かが混じっているように感じた。
それが何なのか、今の陽菜には分からない。
美園が身体を離すと、中井へ向き直った。
『中井くんも、おめでとう』
「ありがとうございます」
『陽菜をよろしくね』
「はい」
『あたしもいるんだけど』
『分かってるよ』
美園が笑う。
陽菜も笑い返し、それから樹里を見た。
樹里は、まだ写真を見つめていた。
『総長?』
呼ばれて、樹里が顔を上げる。
『病院はどこだ』
『え?』
『どこの病院へ行った』
『駅から少し離れたところにある産婦人科』
『医師からは何と言われた』
『今のところ順調だって』
『妊娠何週だ』
『七週くらい』
『出産予定日は』
『十二月の終わり頃。ただ、まだ変わるかもしれないって』
『体調は』
『ちょっと気持ち悪いのと、眠いくらい』
『ちょっとでは分からない』
『ええ……』
『吐いているのか。食事は取れているのか。出血や腹痛はないのか』
『吐いてない。食べられるものは食べてる。出血もない』
『仕事中に体調が悪くなったことは』
陽菜の目が泳ぐ。
その反応だけで、樹里は察した。
『あったんだな』
『少し立ちくらみしただけ』
『いつだ』
『今日』
『会社で?』
『うん』
『なぜ言わなかった』
『高村さんが見てくれたから』
樹里の眉がわずかに動く。
『高村さんは知っているのか?』
『妊娠してることに先に気づいたの、高村さんだから』
『いつから知っている』
『まだ検査する前から』
『では、会社で知っているのは高村さんだけか』
『うん。誰にも言わないって約束してくれてる』
樹里は一度黙り、陽菜の全身へ視線を向けた。
『医師から、仕事について何か言われたか』
『一律に休む必要はないって。ただ、長時間立ったり、無理に外回りしたりするのは避けた方がいいって』
『高槻興産の現地確認は』
『今のところ行く予定』
『やめろ』
『何で即答なの』
『現地は段差も多い。旧資材管理棟には改修前の場所も残っている』
『でも、最初の立ち会いはあたしが――』
『川原さんと山本さんへ引き継いだんだろ』
『最初だけ一緒に行くって言ったの』
『行く必要があるのか?』
『あるよ。二人に任せるからこそ、最初はあたしが――』
「日高さん」
中井が静かに声を掛けた。
「現地へ行くかどうかは、医師にも相談します。俺も陽菜さんへ無理をさせるつもりはありません」
『相談ではなく、行かない方がいいと思います』
「日高さん」
『大野設備の移転予定はいつですか』
「総長」
『結婚式はどうする』
『ちょっと、総長』
『十月なら、腹もかなり大きくなっているはずだ。医師には確認したのか。会場側への連絡は。ドレスの変更は間に合うのか』
『総長!』
陽菜が大きな声を出した。
樹里の言葉が止まる。
『喜ぶ前に尋問しないでよ』
『……尋問ではない』
『尋問だよ。病院は、仕事は、式はって、一気に聞きすぎ』
『確認する必要がある』
『必要でも、順番ってものがあるでしょ』
樹里は何かを言い返そうとして、口を閉じた。
美園がカウンターへ片肘をつき、二人を見ている。
『総長』
『何だ』
『まだ、おめでとうって言ってないよ』
樹里の表情が固まる。
陽菜は正面から、その顔を見つめた。
心配しているのは分かっている。
妊娠を伝えた瞬間から、樹里の頭の中では、陽菜と子どもを守るために必要なことが動き始めた。
病院。
体調。
仕事。
結婚式。
確認したことは、すべて陽菜を案じてのものだった。
それでも、陽菜は樹里の言葉で聞きたかった。
『総長』
もう一度呼ぶ。
樹里は少しだけ視線を逸らした。
それから超音波写真を見て、陽菜へ戻す。
『……おめでとう』
短い言葉だった。
けれど、樹里の声は普段よりも僅かに掠れていた。
陽菜は笑う。
『うん。ありがとう』
『中井さんも、おめでとうございます』
「ありがとうございます」
『陽菜の体調について、私にも共有してください』
『おめでとうの直後に、また仕事の話する?』
『必要なことだ』
『ほんと、総長らしい』
『お前にだけは言われたくない』
美園が小さく笑った。
『とりあえず、座ったら? ずっと陽菜の前に立ってるよ』
『……そうだな』
樹里は陽菜の隣へ座り直した。
超音波写真は、まだカウンターの上に置かれている。
樹里は手を伸ばしかけ、途中で止めた。
『触ってもいいか』
『いいよ』
陽菜が写真を樹里の前へ滑らせる。
樹里は両端を持ち、しばらく見つめた。
『どれが赤ちゃんなんだ』
『ここ』
陽菜が写真の小さな影を指す。
『これか?』
『うん。たぶん、こっちが頭』
「先生からは、まだどちらが頭か伺っていません」
『中井くん、それ今言わなくていいでしょ』
「正確なことを伝えた方がいいと思いまして」
『総長みたいなこと言わないで』
『私を何だと思っている』
『細かい人』
『お前が適当すぎるんだ』
樹里は写真へ視線を戻した。
指先に余計な力を入れないよう、慎重に持っている。
『本当に、ここにいるのか』
独り言のような声だった。
『うん』
『この小さなものが、動いていたんだな』
『心臓が動いてるの、見えたよ』
『そうか』
樹里は、それ以上何も言わなかった。
写真を見つめる横顔が、ほんの少しだけ緩んでいる。
美園はカウンターの中へ戻ると、樹里の分の湯呑みを用意した。
急須を傾ける手元は、いつもと変わらない。
だが、湯呑みへ注がれるお茶を見ながら、一瞬だけ動きを止めた。
『美園さん?』
陽菜が呼ぶ。
美園はすぐに顔を上げた。
『何?』
『お茶、こぼれそう』
『あ、本当だ』
湯呑みの縁まで注がれたお茶を見て、美園が苦笑する。
『ごめん。少し考え事してた』
『美園さんでも、そんなことあるんだ』
『私を何だと思ってるの』
『総長よりしっかりしてる人』
『おい』
『総長よりは、ね』
美園は笑いながら、新しい湯呑みを取り出した。
その笑顔に、先ほどの一瞬はもう残っていなかった。
『式は、予定どおり十月にするの?』
『うん。そのつもり』
『体調は大丈夫?』
『今日、先生にも聞いた。今すぐ決める必要はないけど、これからの経過を見ながら相談した方がいいって』
「会場にも、時期を見て相談します」
『ドレスも変えないとね』
『まだ選んでないから大丈夫』
『それなら、最初からお腹に合わせられるものを探せるね』
『うん』
『無理はしないでよ』
『分かってる』
『陽菜の分かってるは信用できないな』
『美園さんまで総長と同じこと言う』
『だって、本当でしょ』
美園は笑っていた。
陽菜も笑い返す。
樹里は超音波写真を陽菜へ返すと、湯呑みへ手を伸ばした。
そのまま一口飲もうとして、僅かに動きを止める。
何かを考えている。
陽菜がそう気づいた直後、樹里は湯呑みを置いた。
『……一つ、聞いてもいいか』
『何?』
樹里はすぐには言わなかった。
普段なら、必要だと判断したことを迷わず尋ねる。
そんな樹里が言い淀んだことで、陽菜は不思議そうに首を傾げた。
樹里が一拍置く。
『……避妊はしていなかったのか?』
陽菜の表情が固まった。
美園も黙る。
中井は、カウンターの上に置いていた手を僅かに握った。
必要な確認なのかもしれない。
だが、樹里から尋ねられるとは思っていなかった。
陽菜は答えにくさに一瞬止まり、視線を中井へ向ける。
『あたしが、つけないでって――』
「二人の意思で、避妊はしていませんでした」
中井が陽菜の言葉を遮った。
陽菜が目を見開き、中井を見る。
中井は樹里から視線を逸らさなかった。
「どちらか一人の判断ではありません。子どもができる可能性についても、二人で話しました」
『中井くん……』
「陽菜さんだけの責任ではありません」
中井は静かに続けた。
「俺も望み、二人で決めたことです」
樹里は中井を見つめていた。
責めるような目ではなかった。
ただ、その言葉に嘘や逃げがないかを確かめているようだった。
やがて、樹里が短く息を吐く。
『そうか』
それだけだった。
陽菜が恐る恐る樹里を見る。
『怒らないの?』
『なぜ私が怒る』
『だって、今の聞き方、絶対怒られると思うじゃん』
『妊娠の可能性を二人が理解していたのか、確認しただけだ』
『確認って……そこまで聞く?』
『聞く必要があると思った』
『美園さん。総長に何か言ってよ』
『私に振らないで』
美園は困ったように笑いながら、樹里を見る。
『でも、総長』
『何だ』
『今のは、陽菜じゃなくても答えにくいと思うよ』
『……それは分かっている』
『分かってて聞いたの?』
『必要だったからだ』
『やっぱり尋問じゃん』
『違う』
『同じだよ』
美園にまで言われ、樹里は黙り込んだ。
陽菜は隣の中井へ身体を寄せる。
『中井くん、遮らなくてもよかったのに』
「陽菜さん一人が決めたように受け取られてほしくなかったんです」
『でも、最初に言ったのはあたしだよ』
「最後に決めたのは二人です」
『……うん』
「ですから、二人の意思です」
中井の声は穏やかだった。
それでも、譲るつもりがないことだけは伝わった。
樹里は二人を見て、もう一度『そうか』と小さく呟いた。
その声には、先ほどよりも僅かな安堵が混じっていた。
『なら、私からそれ以上言うことはない』
『本当に?』
『ただし、これからは――』
『ほら、まだあるじゃん』
『最後まで聞け』
『絶対長いやつでしょ』
『陽菜』
樹里が低い声で名前を呼ぶ。
陽菜は姿勢を正した。
『はい』
『今後、体調に変化があった場合は、自分だけで判断するな。中井さんと医師へ相談しろ』
『うん』
『会社でも同じだ。高村さんだけに任せるのではなく、必要になった時点で黒澤部長へ報告する』
『分かった』
『外回りや現地確認も――』
『それは先生と相談する』
『……そうしろ』
陽菜が素直に答えたため、樹里もそれ以上は言わなかった。
美園が四人分の湯呑みを並べ直す。
『今日はお祝いなんだから、そろそろ難しい話は終わり』
『まだ確認することが――』
『総長』
美園が笑顔のまま名前を呼ぶ。
樹里は一度口を開き、諦めたように閉じた。
『……分かった』
『よろしい』
美園はカウンターの下から、小さな瓶を取り出した。
『陽菜はお茶。私たちは少しだけ飲もうか』
『美園さん、用意いいね』
『店だからね』
美園が三つの小さなグラスへ酒を注ぐ。
陽菜の前には、温かいお茶が置かれた。
『じゃあ、中井くん』
美園がグラスを持つ。
『陽菜と、赤ちゃんに』
「はい」
中井もグラスを持った。
樹里は少し遅れて、自分のグラスを手に取る。
『おめでとう』
今度の言葉は、先ほどより自然だった。
陽菜は湯呑みを持ち上げる。
『ありがとう』
四つの器が、静かに触れ合った。
かつて三人だけだった場所に、今は中井がいる。
そして、まだ誰の目にも見えないほど小さな命もいる。
陽菜はお茶を一口飲み、鞄へしまった超音波写真を思った。
美園は笑っている。
中井も隣にいる。
樹里は何度も心配を口にしながら、どこか嬉しそうにグラスを見つめている。
家族が増えるということが、陽菜にはまだ完全には分からない。
けれど、こうして喜んでくれる人がいる。
それだけで、今は十分だった。




