279話「小さな鼓動」
大野設備との契約が成立した翌日から、残る十六社との調整が本格的に始まった。
営業部の壁には、北側区画に入居する会社の一覧表が貼り出されている。
契約更新の時期。
現在の賃料。
必要な床面積。
移転先に求める条件。
営業時間や搬入経路。
まだ確認できていない項目には、空欄ではなく、赤い文字で「要確認」と記されていた。
推測で埋めれば、その情報を前提に別の誰かが動いてしまう。
分からないものを、分からないまま残す。
大野設備との調整を通して、樹里たちが得た一つの教訓だった。
「日高さん。午前中の二社について、面談記録をまとめました」
外出から戻った神谷が、樹里の机へ書類を置いた。
『ありがとうございます』
「一社は、近隣への移転であれば応じる意向です。ただ、もう一社は現在の取引先との距離を理由に、区画外へ出ることそのものへ難色を示しています」
『取引先との距離だけですか?』
「表向きは、です」
樹里が神谷を見上げる。
『ほかに理由があるとお考えですか?』
「担当者が、従業員の通勤について何度か口にしていました。社員の多くが近隣に住んでいるようです」
『それなら、移転候補地の選定条件へ公共交通機関からの距離も加える必要があります』
「はい。櫻井さんにも共有します」
『私から伝えます』
樹里はそう言いかけてから、言葉を止めた。
神谷の手には、まだ別の資料が残っている。
午後からも外出する予定があることを、樹里は知っていた。
『……いえ。神谷さんは次の訪問準備をしてください。櫻井さんへの共有は私が行います』
「お願いします」
神谷は素直に頷いた。
互いに仕事を押しつけ合うのではなく、相手が今抱えている量を見て決める。
昨日、黒澤から言われたばかりのことだった。
神谷が席へ戻ったあと、樹里は陽菜の机へ向かった。
『櫻井さん。少しよろしいですか?』
『はい』
陽菜が椅子を回し、樹里へ向き直る。
『先ほど神谷さんが面談した会社ですが、移転条件へ従業員の通勤時間を加えてください』
『通勤時間ですか?』
『現在地周辺に住む従業員が多いそうです。明確な条件は、次回の面談で確認します』
『分かりました。候補物件を出すときに、最寄り駅とバス停も一緒に載せます』
『お願いします』
話を終えた樹里が戻ろうとする。
だが、一歩進んだところで足を止めた。
『櫻井さん』
『はい?』
『今日は、定時で帰る予定でしたよね』
陽菜の指先がわずかに止まった。
『……そうですけど』
『忘れているように見えました』
『忘れてないですよ』
『でしたら結構です』
樹里はそれ以上尋ねず、自分の席へ戻った。
陽菜は小さく息を吐く。
今日が診察の日だとは、当然知られていない。
ただ、高槻興産の案件が動き始めてから、陽菜が定時で帰る日はほとんどなかった。
普段と違う予定は、樹里の目にはすぐ留まる。
「陽菜先輩」
隣から、陸が声を掛けた。
「こちらの会社ですが、現在の事務所とは別に倉庫を借りているようです」
『どこに書いてあった?』
「会社案内にはありませんでした。採用情報の仕事内容に、別倉庫での荷受けと書いてあります」
陸がパソコンの画面を示す。
陽菜は椅子を寄せ、表示された文章を確認した。
『本当だ。よく見つけたね』
「移転するのが事務所だけなのか、倉庫も含むのかで必要な広さが変わると思いました」
『うん。確認するまで決めつけられないけど、面談で聞くことには入れられる』
陽菜は一覧表の該当箇所へ印をつけた。
『神谷さんに確認事項として回しておいて』
「分かりました」
『あと、出典も残してね。あとから誰かが見ても分かるように』
「はい」
陸が自分の席へ戻る。
入れ替わるように、萌が数枚の資料を持ってきた。
「陽菜先輩。候補物件を三件まで絞りました」
『もう?』
「はい。ただ、一件だけ大型車両の進入経路が確認できませんでした」
『じゃあ、それは保留。二件を先にまとめて、残りは現地確認が必要って書いておいて』
「分かりました」
陽菜は机の上に置かれた二人の資料を見比べた。
少し前までなら、陸と萌が調べた内容を最初から自分でも確認していた。
だが今は、確認すべき点だけを見るようにしている。
二人がどの資料を使い、どこまで確認したのかが記録されているため、それで十分だった。
任せると決めた以上、同じ仕事を自分でも繰り返していては意味がない。
『萌』
「はい」
『これ、神谷さんへ回したら今日は終わりでいいよ』
「ですが、まだ二社残っています」
『明日で間に合うから。急いで間違える方が困る』
「分かりました」
萌が頷く。
陽菜は壁の時計を見た。
定時まで、あと一時間。
診察の予約には十分間に合う。
それでも、胸の奥は朝から落ち着かなかった。
前回の診察では、胎嚢は確認できた。
ただ、心拍はまだだった。
医師からは時期が早いだけだと説明された。
頭では分かっている。
それでも、今日必ず確認できるとは限らない。
期待してしまう自分と、期待しすぎないように抑える自分が、身体の中で何度も入れ替わっていた。
「櫻井さん」
高村が、周囲に聞こえない声で呼び掛ける。
「そろそろ、片づけた方がいいですよ」
『まだ定時前ですよ』
「帰る間際に何か始めてしまうでしょう?」
『あたし、そんなに信用ないですか?』
「信用しているから言っています」
高村は陽菜の机へ視線を落とした。
「今朝から、同じ書類を何度も並べ直していますよ」
『……そんなことしてました?』
「していました」
高村に言われて初めて、陽菜は机の上が普段より綺麗になっていることへ気づいた。
手を動かしていないと、診察のことばかり考えてしまう。
その結果、必要もないのに書類を何度も整えていたらしい。
「大丈夫です」
高村が静かに言った。
何が大丈夫なのかは、口にしなかった。
無責任に結果を保証したのではない。
一人ではないと伝えてくれているのだと、陽菜には分かった。
『……ありがとうございます』
「気をつけて行ってきてください」
『はい』
定時になると、陽菜はパソコンを閉じた。
『お先に失礼します』
「お疲れさまです」
営業部に残る声を背中で聞きながら、鞄を持って会社を出た。
誰かが理由を尋ねることはなかった。
会社の前には、中井が立っていた。
『何でここにいるの?』
「一緒に行くと約束しましたから」
『病院で待ち合わせだと思ってた』
「仕事が早く終わったので、迎えに来ました」
『あたし、一人でも病院まで行けるよ』
「知っています」
『じゃあ、何で?』
「一緒に行きたかったからです」
中井は当然のように答えた。
陽菜は一度口を閉じ、それから小さく笑う。
『……そっか』
「行きましょう、陽菜さん」
『うん』
二人で並び、駅へ向かう。
中井は普段と変わらない歩幅で歩いていた。
しかし、電車へ乗ってから一度もスマートフォンを取り出さない。
膝の上で組まれた両手も、いつもより強く握られている。
『中井くんも緊張してる?』
「しています」
『平気そうな顔してるのに』
「陽菜さんも、会社では平気そうな顔をしていたんですよね」
『あたしのこと見てないじゃん』
「想像です」
『じゃあ、外れ。全然平気じゃなかった』
「俺も、全然平気ではありません」
中井が組んでいた手を解く。
陽菜はその手へ、自分の指を重ねた。
中井の手のひらは、少し汗ばんでいた。
『本当に緊張してる』
「言ったでしょう」
『中井くんでも、手に汗かくんだね』
「かきます」
『初めて触ったかも』
「普段は、陽菜さんの手の方が温かいですから」
『今日は?』
「俺の方が温かいと思います」
『じゃあ、離さないでね』
「はい」
病院へ着いてからも、二人は手を繋いだままだった。
受付を済ませ、待合室の椅子へ並んで座る。
前回よりも多くの妊婦が待っていた。
大きな腹を抱えた女性。
母親らしき人と一緒に来ている女性。
陽菜と同じように、隣へ男性を座らせている女性。
それぞれが違う時間の中にいる。
陽菜は自分の腹へ視線を落とした。
外から見ても、何も変わっていない。
本当にそこにいるのか、まだ自分では確かめられない。
「陽菜さん」
隣から名前を呼ばれる。
『何?』
「強く握りすぎています」
見ると、中井の手の甲へ自分の爪が食い込んでいた。
『ごめん』
「謝らなくて大丈夫です」
『痛いでしょ』
「少しだけ」
『じゃあ言ってよ』
「離してほしくなかったので」
『離さないよ。力は弱くするけど』
陽菜は指の力を緩めた。
それでも、中井の手は離さなかった。
やがて、診察室から名前を呼ばれた。
陽菜は立ち上がる。
足が思うように動かず、中井も一緒に立った。
「行きましょう」
『うん』
診察室へ入り、前回からの体調について質問を受ける。
吐き気はある。
強い眠気もある。
時折、立ちくらみもする。
出血や強い腹痛はない。
陽菜が一つずつ答えるたび、中井は黙って聞いていた。
診察台へ上がり、検査が始まる。
中井は前回と同じように、少し離れた位置へ案内された。
室内の照明が落とされる。
陽菜は画面を見つめた。
白と黒の不鮮明な映像。
前回にも見た、小さな黒い袋。
医師が器具を動かすと、その中に前回は見えなかったものが映った。
陽菜には、それが何なのか分からない。
「ここですね」
医師が画面の一部を指す。
「赤ちゃんが見えています」
陽菜は息を止めた。
黒い袋の中に、本当に小さな影がある。
『……これが?』
「はい。まだとても小さいですけどね」
医師が画面を調整する。
「それから、ここを見てください」
示された部分が、微かに動いている。
点のような場所が、一定の間隔で瞬いていた。
「心拍も確認できます」
陽菜は画面を見たまま動けなかった。
何度も瞬いている。
小さく。
けれど、確かに止まらず動いている。
『……生きてる』
「はい。今のところ、順調ですよ」
医師の言葉が聞こえる。
それでも、画面から目を離せなかった。
そこにいると説明されても、どこか現実ではないように感じていた。
自分の身体の中で起きていることなのに、自分には見えない。
だが、今は見えている。
まだ人の形すら分からないほど小さな命が、懸命に動いていた。
陽菜は中井の方を見る。
中井も画面を見つめていた。
表情はほとんど変わっていない。
けれど、身体の横で握られた手が、小さく震えている。
『中井くん』
呼ぶと、中井がようやく陽菜を見た。
「はい」
返事をした声も震えていた。
『見えた?』
「見えました」
『動いてる』
「はい」
『すごく小さい』
「そうですね」
『でも、いる』
「います」
短い言葉しか出てこなかった。
それで十分だった。
診察が終わり、医師から今後の予定について説明を受けた。
出産予定日の目安。
次回の診察。
日常生活で気をつけること。
母子健康手帳を受け取るための手続き。
中井は渡された資料へ目を通しながら、一つずつ確認していった。
「立ちくらみがあった場合は、どうすればいいでしょうか」
「まず、無理に動かず座るか横になってください。頻繁に起こる場合や、強い症状がある場合は連絡してください」
「仕事は続けても大丈夫ですか?」
「今の段階で一律に休む必要はありません。ただ、体調には個人差があります。長時間立ち続けたり、無理な外回りをしたりすることは避けた方がいいでしょう」
陽菜は隣で黙って聞いていた。
医師が今度は陽菜を見る。
「我慢しすぎないでくださいね」
『……はい』
「周りに伝えられる時期になったら、職場でも相談してください」
『分かりました』
診察室を出たあと、二人は待合室の端に座った。
会計に呼ばれるまで、どちらも口を開かなかった。
陽菜は受け取った超音波写真を両手で持っている。
小さな白黒の写真。
どこに赤ちゃんがいるのか、説明されなければ分からない。
それでも、陽菜にはもう見つけられた。
『ここ』
写真の一部を指で示す。
「はい」
『これが赤ちゃん』
「そうですね」
『こっちが頭かな』
「まだ分かりません」
『分かんないけど、たぶんこっち』
「では、そちらということにしましょう」
『適当』
「先生に聞けばよかったですね」
『中井くん、質問いっぱいしてたじゃん』
「もっと聞けばよかったです」
『次もあるよ』
「はい」
陽菜は写真へ視線を戻した。
『本当にいたね』
「いました」
『心臓、動いてた』
「はい」
『あんなに小さいのに』
「頑張っていましたね」
その言葉を聞いた途端、視界が滲んだ。
陽菜は慌てて顔を下へ向ける。
「陽菜さん?」
『何でもない』
「泣いていますか?」
『泣いてない』
「そうですか」
『見ないで』
「見ていません」
中井はそう答えながら、陽菜の肩へそっと腕を回した。
周囲から隠すように、自分の方へ引き寄せる。
陽菜は抵抗せず、その肩へ額を預けた。
『……怖かった』
「はい」
『今日、何も見えなかったらどうしようって、ずっと考えてた』
「俺もです」
『言わなかったじゃん』
「陽菜さんを余計に不安にさせたくありませんでした」
『あたしも、中井くんに言わなかった』
「同じことを考えていたんですね」
『二人とも、全然二人で怖がれてないじゃん』
「そうですね」
『前に言ったのに』
「次からは話しましょう」
『中井くんもね』
「はい」
『絶対だからね』
「約束します」
陽菜は涙を拭い、もう一度写真を見た。
さっきまで、この命のことを話せる相手は中井と高村だけだった。
心拍が確認できたら、樹里たちへ伝えようと思っていた。
その日が、本当に来た。
『総長たちに、話さないとね』
「はい」
『美園さんにも』
「いつにしますか?」
『……今日』
「今日ですか?」
『駄目?』
「駄目ではありません。ですが、もう遅い時間になります」
『Roseなら、美園さんはいる』
「日高さんはどうしますか?」
『呼ぶ』
陽菜は鞄からスマートフォンを取り出した。
樹里とのLINEを開く。
文字を入力しようとして、指が止まる。
「どうしました?」
『何て送ればいいんだろ』
「そのまま、話があると伝えればいいのではありませんか」
『それだと、総長が絶対に悪い話だと思う』
「では、大事な話がある、と」
『もっと悪い話だと思うでしょ』
「日高さんが誤解しない言い方は難しいですね」
『中井くんが送ってよ』
「俺から連絡した方が、さらに心配されると思います」
『役に立たない』
「すみません」
謝りながら、中井が少し笑う。
陽菜はしばらく悩んだ末、短い文章を打った。
『今日、仕事が終わったらRoseに来て。中井くんも一緒。悪い話じゃないから』
読み返す。
『これなら大丈夫かな』
「最後の一文が、かえって怪しくありませんか?」
『じゃあ、どうすればいいの』
「日高さんなら、どのように書いても心配すると思います」
『それもそうか』
陽菜は送信ボタンを押した。
既読はすぐについた。
数秒後、返信が届く。
『分かりました。何時頃ですか』
それだけだった。
陽菜は中井へ画面を見せる。
『やっぱり、もう心配してると思う?』
「していると思います」
『だよね』
陽菜は時間を伝え、スマートフォンを鞄へ戻した。
膝の上には、小さな命が写った一枚の写真がある。
まだ、不安がなくなったわけではない。
これから先、何が起こるかも分からない。
それでも今日、二人は確かに見た。
自分たちの知らないところで、懸命に動いている小さな鼓動を。
『中井くん』
「はい」
『この子、総長に尋問される前から大変だね』
「尋問されるのは、俺たちだと思います」
『中井くん、ちゃんと答えてよ』
「陽菜さんも答えてください」
『あたしは写真見せる係』
「俺は何の係ですか?」
『総長を落ち着かせる係』
「俺にできると思いますか?」
『思わない』
「では、役割を変えてください」
『美園さんに任せよっか』
「それがいいと思います」
二人で顔を見合わせ、笑った。
会計から陽菜の名前が呼ばれる。
陽菜は超音波写真を大切に鞄へしまい、中井と一緒に立ち上がった。
これから、三人へ伝える。
陽菜と中井の間に、小さな家族が増えたことを。




