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278話「一社目」

大野設備との正式な契約締結は、それから三日後に決まった。


 場所は高槻興産本社の会議室。


 島川不動産からは黒澤、神谷、樹里が出席し、高槻興産側からは高槻社長と担当者二名。そして、大野設備からは大野社長と専務が席に着いていた。


 机の中央には、製本された契約書が並んでいる。


 旧資材管理棟への移転。


 建物の改修。


 共用区画の管理。


 工事期間中の仮設倉庫。


 夜間の車両出入り。


 設備を移す順番と、通常業務を止めないための工程。


 一つの会社を移転させるためだけに、何度も話し合いを重ねた。


 初めて大野設備を訪れた日には、ここまで辿り着ける保証などなかった。


 樹里は契約書を開き、最後の確認を進める。


 金額。


 日付。


 契約期間。


 修繕範囲。


 責任区分。


 すでに何度も確認した内容だったが、今日だけは見落としが許されない。


「日高」


 高槻社長の声に、樹里は顔を上げた。


『はい』


「まだ何か気になるか」


『夜間使用分の電気料金について、別紙の算定方法と本文の記載が一致していることを確認しています』


「昨日、お前が修正したところだろ」


『はい。ですが、製本後の書類も確認する必要があります』


「相変わらずだな」


 高槻社長は呆れたように言ったものの、止めろとは言わなかった。


 その隣で、大野社長が契約書へ目を落としたまま口を開く。


「そこまで確認してもらえるなら、こちらとしては安心です」


『ありがとうございます』


「最初に会ったときは、正直、厳しい人だと思いました」


 樹里の指が止まった。


 神谷がわずかに視線を動かす。


「こちらが何を言っても、契約と期限の話しかされないんじゃないかと思ったんです」


『……申し訳ありません』


「責めているわけではありません」


 大野社長は静かに首を横へ振った。


「日高さんの言うことは、最初から間違っていませんでした。契約上、高槻興産には再整備を進める権利がある。うちが一社で止め続ければ、ほかの会社にも迷惑をかける。それは私にも分かっていました」


 分かっていても、受け入れられない。


 大野社長が抱えていたのは、そのような問題だった。


「ただ、正しい条件だけを並べられても、私は社員へ説明できなかったと思います」


 大野社長は、今度は神谷を見る。


「神谷さんが会社まで来て、社員一人一人の話を聞いてくれた。なぜ今の場所でなければならないのか。移ったら何ができなくなるのか。そこまで聞いてもらって、私自身、初めて問題を整理できました」


「俺は聞いただけです」


「聞くだけなら、誰にでもできます。最後まで聞くことは、誰にでもできることではありません」


 神谷はすぐには答えなかった。


 大野社長は二人を交互に見る。


「でも、神谷さんだけでも決められなかった」


 樹里へ視線が戻る。


「話を聞いてもらっただけでは、社員の生活は守れません。代わりになる建物を見つけて、費用を計算し、移転後も仕事を続けられる形にしてもらう必要があった」


 机の上に置かれた契約書へ、大野社長が片手を添えた。


「日高さんが建物を見つけて、神谷さんが私たちの事情を高槻興産へ繋いでくれた。どちらか一人だけだったら、私は今日ここに座っていなかったと思います」


 会議室が静かになる。


 樹里は何も言えなかった。


 最初、大野設備の問題を解決するには、契約に基づく正確な条件を示せばよいと考えていた。


 感情へ寄り添うだけでは、十七社が関係する計画を進められない。


 事業には期限があり、工事には工程がある。


 一社の事情だけを優先することはできない。


 その考えは、今も変わっていない。


 だが、それだけでは大野社長をこの席へ連れてこられなかった。


『私一人では、この契約には至りませんでした』


 樹里が口を開く。


 大野社長だけではなく、神谷も樹里を見た。


『神谷さんが大野設備の皆様から事情を聞き、それを記録として残してくださったからこそ、代替物件に必要な条件を整理できました』


「日高さんが、昔の資料まで探したからです」


『探すべき資料が分かったのは、神谷さんの記録があったからです』


「それを言うなら――」


「お前たち」


 低い声が、二人の言葉を止めた。


 高槻社長が腕を組み、二人を見ている。


「どちらが先かを決める席じゃない」


『申し訳ありません』


「すみません」


「互いの仕事が必要だった。それでいいだろ」


 高槻社長はそう言うと、大野社長へ視線を移した。


「大野。最終確認だ。この条件で、移転に同意するんだな」


「はい」


「社員にも説明したか」


「全員に説明しました。細かな不安がすべてなくなったわけではありません。しかし、今の仕事を続けられる見通しは立ちました」


「途中で話が違うと言われても困るぞ」


「そのための契約書です」


 大野社長は、樹里が確認していた書類を指した。


「ここまで細かく書いてあれば、私も逃げられません。高槻興産にも逃げてもらいません」


「言うようになったな」


「三十二年、この土地で商売をしていますから」


 高槻社長がわずかに口元を緩める。


「分かった。署名しろ」


 契約書が、それぞれの前へ置かれた。


 高槻興産。


 大野設備。


 そして、仲介と移転調整、その後の管理に関わる島川不動産。


 一人ずつ署名し、押印していく。


 紙へ印鑑が押される音が、静かな会議室に響いた。


 最後の一冊を確認した樹里が、書類を閉じる。


『すべての署名と押印を確認しました』


「では、契約成立ですね」


 神谷の言葉に、大野社長が深く息を吐いた。


 喜びというよりも、長い間抱えていたものを、ようやく下ろしたような息だった。


「よろしくお願いします」


 大野社長が頭を下げる。


『こちらこそ、よろしくお願いいたします』


「よろしくお願いします」


 樹里と神谷も頭を下げた。


 黒澤はその様子を黙って見ていた。


 会議が終わり、高槻興産の担当者が契約書を運び出していく。


 大野社長と専務も、改修工事の担当者と話すため、先に会議室を出ていった。


 残ったのは、高槻社長と島川不動産の三人だった。


「一社目だな」


 高槻社長が言った。


 神谷が頷く。


「はい」


「よくまとめた」


「ありがとうございます」


 短い評価だった。


 だが、これまで簡単には二人を認めなかった高槻社長の言葉には、確かな重みがあった。


「日高」


『はい』


「お前もだ。よく、神谷のやり方を切り捨てなかった」


 樹里は一瞬、答えに詰まった。


『神谷さんの判断が必要だと考えました』


「最初からか?」


『……いいえ』


 高槻社長が鼻で笑う。


「だろうな。最初のお前は、随分と不満そうな顔をしていた」


『顔には出していないつもりでした』


「出ていた」


 横で神谷がわずかに俯く。


 笑いを堪えているのが分かった。


『神谷さん』


「何も言っていません」


『笑っていますよね』


「笑っていません」


「そういう話は外でやれ」


 高槻社長の声で、二人は同時に口を閉じた。


 黒澤だけが声を上げて笑った。


「社長、この二人は前より噛み合うようになったでしょう」


「まだ遅い」


「厳しいなあ」


「一社をまとめるのに、どれだけ時間を使ったと思っている」


 高槻社長は机の上に残っていた資料を手に取った。


 北側区画の全体図。


 そこには、大野設備を含めた十七社の名前が記されている。


 大野設備の欄にだけ、合意済みを示す印がついていた。


「終わったのは、一社だけだ」


 誰も答えない。


「残り十六社。既存契約の整理、移転先の確保、工期の調整。そのあとには、新しい区画の募集と管理がある」


 高槻社長の指が、全体図の上をゆっくりと進む。


「大野で止まっていた分、工程には余裕がない。ここから先は、一社ずつに同じ時間を掛けるわけにはいかないぞ」


「分かっています」


 神谷が答える。


「大野設備で確認した条件を整理し、ほかの会社にも共通する問題を先に洗い出します」


『契約更新時期と移転期限だけではなく、業種ごとに必要な設備、搬入経路、営業時間も一覧へ追加します』


「誰がやる」


 高槻社長が樹里へ尋ねた。


『私が――』


 言いかけたところで、神谷が樹里を見た。


 樹里は口を止める。


 少し考えてから言い直した。


『遠藤さんが作成している契約一覧へ、川原さんと山本さんが調べた企業情報を加えます。私は契約上の条件と相違がないかを確認します』


「日高一人で作るんじゃないんだな」


『はい』


「神谷は」


「俺は、残る各社との面談を進めます。ただし、すべて一人で回るのではなく、佐藤さんと中井さんにも入ってもらいます」


「櫻井はどうする」


「社内の進捗管理と、各社の希望条件の整理を担当してもらいます」


 高槻社長は二人の答えを聞き、全体図を机へ戻した。


「それならいい」


 樹里が、わずかに目を見開く。


 もっと細かな指摘が入ると思っていた。


「何だ」


『いえ』


「大野をまとめたから、残りも任せる。それだけだ」


 高槻社長は席を立った。


「だが、勘違いするな」


 会議室の出口で足を止め、振り返る。


「最後の一社が合意するまで、この案件は成功じゃない」


『はい』


「はい」


「途中までうまくやったという報告はいらん。全部終わってから持ってこい」


 そう言い残し、高槻社長は会議室を出ていった。


 扉が閉まる。


 しばらく誰も口を開かなかった。


「相変わらずだな」


 最初に声を出したのは黒澤だった。


「一社目くらい、もう少し素直に褒めてもいいと思わないか?」


「十分評価していただいたと思います」


 神谷が答える。


「お前も日高さんに似てきたな」


『神谷さんは神谷さんです』


「日高さん。そこに食いつくところじゃない」


『事実を申し上げただけです』


「まあいい」


 黒澤は笑いながら、机の上に残った資料をまとめた。


「二人とも、今日は会社へ戻るんだろ」


「はい。午後から残る十六社の整理を始めます」


『私もその予定です』


「契約が決まった日くらい、少し休んでも罰は当たらないぞ」


『予定が遅れています』


「高槻社長と同じこと言ってるな」


『実際に遅れていますから』


「そう言うと思ったよ」


 黒澤は資料を神谷へ渡した。


「だが、今後は今日までと同じ進め方をするな。一社をまとめるたびに二人が夜まで残っていたら、十七社が終わる前に倒れるぞ」


「分かっています」


『体制はすでに組み直しています』


「日高さんは、組み直した体制の中に自分の休む時間を入れたか?」


『必要に応じて調整します』


「入れてないんだな」


『まだ確定していない予定が多いためです』


「神谷」


「はい」


「日高さんの予定も見ておけ」


『なぜ神谷さんへ頼むんですか』


「日高さんに頼んでも、自分で自分を止めないからだ」


『止める必要がない場合もあります』


「その判断を自分だけでするなって言ってるんだよ」


 樹里は不満そうに黙り込んだ。


 神谷は小さく息を吐きながらも、黒澤へ頷いた。


「分かりました」


『神谷さんまで納得しないでください』


「日高さんだけに無理をさせるつもりはありません」


『神谷さんも同じです』


「でしたら、お互いに確認しましょう」


 返す言葉を失い、樹里は神谷を見つめた。


 以前なら、ここで話を終わらせていた。


 自分の仕事は自分で決める。


 そう言って、誰にも踏み込ませなかった。


 だが、今回の大野設備との交渉は、それではまとまらなかった。


 自分に見えていないものを、神谷は見ていた。


 神谷に見つけられなかったものを、自分が探した。


 互いの不足を埋めたからこそ、一社目の合意へ辿り着けた。


『……分かりました』


 樹里が答える。


 神谷がわずかに目を見開いた。


「本当に分かりましたか?」


『何度も確認しないでください』


「日高さんがすぐに受け入れたので、念のためです」


『私も必要な意見は受け入れます』


「必要だと判断するまでに時間が掛かりますよね」


『神谷さん』


「すみません」


 謝りながらも、神谷の口元には小さな笑みが浮かんでいた。


 黒澤が二人を見比べ、肩を揺らして笑う。


「じゃあ、戻るぞ。残り十六社が待ってる」


 三人は会議室を出た。


 大野設備との契約は、確かに大きな前進だった。


 だが、北側区画の再整備という計画全体から見れば、ようやく最初の一社が動き始めただけにすぎない。


 島川不動産へ入る利益も、まだ書類の上にしか存在していない。


 移転先の仲介。


 再整備後の管理契約。


 新しい区画への入居募集。


 すべてを最後まで繋いで、初めて会社史上でも最大規模の案件になる。


 その道のりは、まだ始まったばかりだった。


 同じ頃。


 島川不動産の営業部では、陽菜が壁の時計を見上げていた。


 樹里たちが高槻興産へ向かってから、すでに二時間が過ぎている。


 契約は滞りなく進んでいるだろうか。


 気にはなったが、陽菜から連絡を入れることはしなかった。


 問題があれば、神谷か樹里から連絡が来る。


 今、自分がやるべきことは、残る十六社の資料を整理することだった。


「陽菜先輩」


 萌が確認表を持ってくる。


「こちらの三社ですが、公開されている会社概要だけでは、倉庫を使用しているか分かりませんでした」


『じゃあ、分からないままでいいよ』


「いいんですか?」


『想像で埋める方が危ないから。確認が必要って印をつけて、神谷さんが面談するときに聞いてもらおう』


「分かりました」


『陸の方は?』


「あちらで、各社の営業時間を調べています」


 萌が示した先で、陸は会社案内とパソコンの画面を交互に見ていた。


 二人へ仕事を渡してから、陽菜の机に積まれていた資料は明らかに減っている。


 それでも、仕事がなくなったわけではなかった。


 二人が集めた情報を確認し、次に誰が何をするのか決める。


 陽菜には、陽菜の仕事が残っている。


『萌』


「はい」


『この三社が終わったら、一回休憩してね』


「まだ大丈夫です」


『駄目。ずっと画面見てたでしょ』


「陽菜先輩も休んでいませんよね」


『あたしは――』


 いつものように大丈夫だと言いかけ、陽菜は口を止めた。


 自分が休まないまま、後輩にだけ休めと言っても説得力がない。


『……じゃあ、これが終わったら一緒に休憩しようか』


「はい」


 萌が嬉しそうに頷く。


 陽菜は机の端に置いた卓上カレンダーへ目を向けた。


 次の診察日には、何も書き込んでいない。


 誰かに見られても分からないよう、その日付の隅へ小さな丸をつけただけだった。


 あと数日。


 その日に、心拍が確認できるかもしれない。


 期待と不安は、どちらか一方だけに分けられなかった。


 腹へ手を伸ばしかけ、陽菜は途中で止めた。


 まだ、会社ではできない。


 代わりにカレンダーから視線を外し、目の前の資料を一枚めくる。


 今は、目の前の仕事をする。


 その先にある日を、中井と二人で待つ。


 陽菜は小さな丸のついた日付をもう一度だけ見てから、残る十六社の一覧へ向き直った。

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