277話「任せる一つ」
大野設備との契約条件をまとめた書類が、営業部の共有フォルダに届いたのは、翌日の午前十時を少し過ぎた頃だった。
樹里は画面に表示された契約書へ目を通しながら、赤い付箋を貼った資料と照らし合わせていく。
旧資材管理棟の賃貸借条件。
改修費用の負担割合。
共用区画の管理方法。
移転期間中の仮設倉庫。
どれか一つでも曖昧なまま残せば、後になって必ず問題になる。
「日高さん。こちらも確認をお願いします」
隣の机から、神谷が追加の資料を差し出した。
『大野設備側の追加条項ですか?』
「はい。緊急出動時の車両出入口について、夜間も制限を設けないでほしいそうです」
樹里は受け取った紙へ視線を落とした。
大野設備が移転へ難色を示していた理由は、単に今の建物へ愛着があるからではない。
取引先から緊急の連絡があれば、夜中でも資材を積んで現場へ向かう。
その仕事を三十二年間、あの場所で続けてきた。
だからこそ、移転後も同じ働き方ができなければ意味がなかった。
『高槻興産側の警備規定とは抵触しませんか?』
「旧資材管理棟だけ、警備区画を分けられないか確認しています。今日中には返事が来る予定です」
『分かりました。可能であれば、契約書にも明記してください。口頭での合意だけでは、担当者が変わった際に残りません』
「俺も、そのつもりです」
神谷がそう答えた直後、樹里の向かいに座っていた凛が顔を上げた。
「日高さん、すみません」
『はい』
「この管理区分なんですけど、共用部分の電気代が面積による按分になっていますよね」
『そうですね』
「でも、大野設備は夜間も使用する可能性があります。もう一社と使用時間が大きく違うなら、面積だけで分けると揉めませんか?」
樹里は書類を引き寄せ、凛が示した箇所を確認した。
確かに、共用廊下や駐車場の照明については、使用時間の差が考慮されていない。
『……おっしゃるとおりです』
「子メーターをつけるほどではないと思うんですけど、夜間使用分だけ別に計算できないかなって」
『神谷さん』
「高槻興産へ確認します。最初から問題になりそうな箇所は分けておいた方がいいですね」
『お願いします』
樹里は該当箇所へ印をつけた。
『遠藤さん、助かりました』
「いえ。昨日、大野社長が夜間の出動について話していたので、少し気になっただけです」
『その少しを見落とさないことが大切です』
樹里がそう言うと、凛はわずかに目を丸くしたあと、照れたように笑った。
「ありがとうございます」
その様子を、陽菜は自分の席から見ていた。
以前の樹里なら、気づいた部分を褒めるより先に、そのほかに見落としがないかを尋ねていただろう。
それが間違っていたわけではない。
樹里は誰よりも責任を負ってきたからこそ、簡単には満足しなかった。
ただ、最近は少しずつ変わっている。
人の働きを認め、それを言葉にするようになった。
そして、自分一人で抱える前に、神谷へ書類を渡すことも増えた。
「陽菜先輩」
声を掛けられ、陽菜は視線を戻した。
『ん?』
机の横に、陸と萌が並んで立っている。
陸が持っているのは、大野設備の移転工程表だった。
「昨日ご指示いただいた工程表を修正しました」
『もうできたの?』
「はい。萌が、移転する設備を使用頻度ごとに分けてくれました」
「陸が先に作業員の配置を組んでくれたので、私はそれに合わせただけです」
『二人とも相変わらず堅いなあ』
「仕事ですから」
陸が真面目な顔で答える。
その隣で、萌も小さく頷いていた。
『はいはい。じゃあ、見せて』
二人から工程表を受け取り、陽菜は内容へ目を通した。
移転対象となる設備は、一度にすべて運び出せるわけではない。
通常業務を止めないためには、使う頻度が低いものから順に移す必要がある。
陸と萌が作った工程表には、設備ごとの搬出日だけでなく、代替品の有無や、その日に対応できる従業員の人数まで記されていた。
陽菜は二枚目をめくる。
仮設倉庫から旧資材管理棟へ移す際の動線も、簡単な図で示されている。
『これ、二人で考えたの?』
「はい」
「昨日の日高さんと神谷さんのお話を聞いて、建物を移すことより、大野設備の仕事を止めないことが大事なんだと思いました」
萌の言葉に、陽菜の指が止まった。
視線を上げる。
『……そっか』
その答えは、陽菜が伝えようとしていたことだった。
けれど、自分が教えるより先に、二人はもう気づいている。
『このまま使えると思う。ただ、搬出日の前後に予備日を入れよう。設備って、予定どおりに動かないこともあるから』
「分かりました」
『それと、移転当日の立ち会い担当も決めておいて。島川不動産から最低一人は必要だから』
「陽菜先輩が担当されますか?」
陸に尋ねられ、陽菜は一瞬、返事に詰まった。
いつもなら、迷わず自分が行くと言っていた。
現場を見て、作業員へ指示を出し、問題が起こればその場で対応する。
それが自分の仕事だと思っていた。
だが、大野設備の移転は一日では終わらない。
その頃、自分の体調がどうなっているかも分からなかった。
『……最初の日は行く』
陽菜は工程表を机へ置いた。
『でも、そのあとは陸と萌に任せようかな』
「私たちに、ですか?」
萌が驚いた顔をする。
『嫌?』
「いえ、嫌ではありません。でも、大野設備は高槻興産の案件ですよね」
『だから任せるんだよ』
陽菜は二人を見上げた。
『簡単な仕事だけやってても、いつまでも簡単な仕事しかできないでしょ。それに、二人でここまで作ったんだから、現場も最後まで見た方がいい』
陸は工程表へ目を落とした。
「問題が起きた場合は、どうすればいいでしょうか」
『自分たちで判断できることは判断する。無理なら、すぐあたしか日高先輩に連絡する。分からないまま勝手に進めるのと、何でも指示を待つのは、どっちも駄目』
「はい」
『大丈夫。二人ならできるよ』
そう言った瞬間、胸の奥に小さな不安が生まれた。
二人ならできる。
その言葉は、信頼だった。
同時に、自分がいなくても仕事が進むという意味でもある。
これまでの陽菜なら、それを素直に喜べたはずだった。
後輩が成長すれば、自分は次の仕事へ進める。
そう考えてきた。
けれど、今は自分の身体の中にいる小さな命が、これまでと同じ働き方を許してくれるか分からない。
仕事を任せることと、仕事を失うこと。
その境目が、急に見えなくなっていた。
「陽菜先輩?」
萌の声に、陽菜は顔を上げた。
『何?』
「顔色があまりよくないです」
『そう? 昨日、ちょっと寝不足だったから』
「少し休まれた方が……」
『大丈夫だって。これくらい』
いつもの調子で笑ってみせる。
しかし席を立った途端、強い眠気に身体を引かれた。
足が止まり、机へ片手をつく。
「陽菜先輩」
『大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけ』
陸と萌が心配そうに陽菜を見る。
その視線から逃げるように、陽菜は二人へ工程表を返した。
『ほら、修正してきて。今日中に日高先輩へ回したいから』
「……分かりました」
二人が席へ戻ったあと、陽菜は小さく息を吐いた。
そのとき、給湯室から戻ってきた高村と目が合った。
高村は何も言わなかった。
ただ、自分が持っていた湯呑みを机へ置くと、陽菜のそばへ近づいた。
「櫻井さん。今から外出の予定はありますか?」
『午後から一件だけあります』
「急ぎですか?」
『今日じゃないと駄目ってわけじゃないですけど……』
「それなら、先方へ確認して日程を変更しましょう」
『でも――』
「無理をしないでください」
声は小さく、周囲には聞こえない。
「今は、櫻井さん一人の身体ではありませんから」
陽菜は反射的に周囲を見回した。
樹里は神谷と契約書を確認している。
凛と柚希は、それぞれ別の電話に応対していた。
陸と萌も、工程表の修正について話し合っている。
誰もこちらを見ていない。
『……まだ、心拍も確認できてないんです』
「分かっています」
『それなのに、仕事を減らすのは早くないですか?』
「仕事を辞めるわけではありません。今日の予定を一件動かすだけです」
『でも、あたしが行くつもりで組んだ予定だから』
「櫻井さん」
高村は穏やかだった。
「誰かへ任せられる仕事まで抱える必要はありません」
陽菜は返事をしなかった。
「体調がよくなれば、また動けばいいんです。今休んだからといって、櫻井さんの仕事がなくなるわけではありません」
『……そういうものですか?』
「そういうものです」
高村は迷わず答えた。
「それに、誰かへ任せられるようにすることも、先輩の仕事だと思います」
陽菜は、陸と萌の方を見る。
二人は先ほど返した工程表を広げ、予備日をどこへ入れるか話し合っていた。
以前なら、途中で陽菜の判断を求めていたはずだ。
今は自分たちで考えている。
『じゃあ、外出は陸に頼みます』
「はい」
『でも、先方への連絡は自分でします』
「それでいいと思います」
高村が微笑む。
陽菜は受話器へ手を伸ばした。
予定を変更するのではなく、陸へ担当を引き継ぐことを先方へ説明する。
電話を終えると、陽菜は陸を呼んだ。
『陸、午後の訪問、代わりに行ける?』
「俺がですか?」
『うん。資料はそろってる。先方にも話してあるから』
「分かりました」
陸は少し緊張した表情を見せたものの、断らなかった。
「内容を確認して、分からないところがあれば出発前に質問します」
『そうして』
陸が資料を持って自分の席へ戻る。
陽菜はその背中を見送り、ゆっくり椅子へ座った。
任せても、仕事はなくならなかった。
自分がやるはずだった仕事を渡しても、陽菜の席はここにある。
当たり前のことなのに、今まで本当には理解していなかったのかもしれない。
昼休みになると、柚希が陽菜の机へやってきた。
「陽菜さん、ご飯どうします?」
『今日は外に出ないで、ここで食べようかな』
「珍しいですね。何か買ってきましょうか?」
『大丈夫。朝、作ってきたから』
陽菜が弁当箱を持ち上げると、凛も隣から顔を覗かせた。
「陽菜さんのお弁当ですか?」
『正確には中井くんが作ったやつ』
「相変わらず仲がいいですね」
『凛ちゃんも人のこと言えないでしょ』
「私は何も言ってません」
『顔に書いてある』
陽菜が笑うと、凛は少しだけ頬を赤くした。
「青柳さんは関係ありません」
『まだ青柳さんの名前、一回も出してないけど』
「……陽菜さんが変な言い方をするからです」
凛が視線を逸らす。
柚希はそんな凛を見て笑いながら、自分の買ってきたパンを机へ置いた。
「でも、最近の凛ちゃん、前より分かりやすくなったよね」
「柚希ちゃんまで何を言ってるの」
「零ちゃんも言ってたよ。青柳さんの話をするときだけ、凛ちゃんの声が少し変わるって」
「変わってない」
『零、そういうところはよく見てるからね』
「陽菜さんまで乗らないでください」
『で、実際どうなの? 青柳さんとは』
「普通です」
「それ、零ちゃんにも言ってたよね」
「普通だから普通って言ってるだけ」
凛が恥ずかしそうに眉を寄せる。
その顔がおかしくて、陽菜と柚希は同時に笑った。
『柚希ちゃんは? 零とは相変わらず?』
「相変わらずですよ」
『昨日も会ったの?』
「仕事のあとに少しだけ。零ちゃん、ガソリンの匂いがついてるからって、会う前にわざわざ着替えてきたんです」
『へえ。零もそんなことするんだ』
「私が気にしないって言っても、零ちゃんが気にするんです」
『大事にされてんじゃん』
「……そうですね」
柚希が照れくさそうに笑う。
今度は凛が、小さく口元を緩めた。
「柚希ちゃんも、十分分かりやすいと思うけど」
「凛ちゃんにだけは言われたくない」
『二人とも一緒じゃん』
「陽菜さんもですよ」
『あたし?』
「中井さんのお弁当を見せながら言われても、説得力がありません」
『これは作ってくれるって言うから、仕方なく』
「嬉しそうですけど」
『嬉しくないとは言ってないでしょ』
三人の間に笑い声が広がった。
いつもと変わらない昼休みだった。
二人は何も知らない。
樹里も、美園も知らない。
まだ伝えるつもりはなかった。
心拍が確認できるまでは、中井と二人だけで守っていたい。
そう思う一方で、隠し続けることへの苦しさも少しずつ生まれていた。
午後、陸は一人で取引先へ向かった。
萌は大野設備の工程表を完成させ、樹里の机へ持っていった。
「日高さん、お時間よろしいでしょうか」
『はい』
「大野設備の移転工程表を修正しました」
樹里は受け取り、最初から最後まで目を通した。
萌は緊張した面持ちで、その場に立っている。
『予備日を設けたのですね』
「はい。設備が予定どおりに搬出できない場合を考えました」
『立ち会い担当は、川原さんと山本さんですか?』
「はい。最初の日だけ陽菜先輩に同行していただいて、そのあとは私たちで担当したいと思っています」
樹里は工程表から顔を上げた。
陽菜と目が合う。
『櫻井さんの判断ですか?』
『はい。二人が作った計画なので、現場も任せようと思いました』
少しの沈黙のあと、樹里は萌へ視線を戻した。
『分かりました。お二人に任せます』
「ありがとうございます」
『ただし、想定外のことが起きた場合は、その場だけで判断せず、必ず連絡してください』
「はい」
『責任は私が持ちます。ですから、隠さずに報告してください』
萌はしっかりと頷いた。
「分かりました」
自分たちへ任された仕事。
その責任をすべて押しつけられたわけではない。
樹里は二人へ任せながら、最後の責任だけは自分の側へ残した。
萌が自席へ戻ったあと、陽菜は小さく笑った。
『日高先輩、ありがとうございます』
『何がですか?』
『二人に任せてくれたことです』
『任せられる内容だったからです』
『それでも、です』
樹里は何も答えず、再び工程表へ目を落とした。
だが、その横顔は以前ほど固くなかった。
その日の夜。
陽菜が家へ帰ると、居間のテーブルに何冊もの本が積まれていた。
『……何これ』
「買ってきました」
中井が台所から顔を出す。
本の表紙には、妊娠初期の過ごし方や、初めて父親になる人へ向けた言葉が並んでいた。
『多すぎない?』
「どれがいいか分からなかったので、一通り買いました」
『全部読むつもり?』
「はい」
『真面目すぎ』
陽菜は一冊を手に取り、ぱらぱらとページをめくった。
食事。
睡眠。
身体の変化。
気をつけなければならない症状。
知らないことばかりだった。
『読んだら余計に怖くなりそう』
「俺も少し怖くなりました」
『もう読んだの?』
「帰りの電車で、一冊だけ」
『早っ』
中井は陽菜の前に温かいスープを置いた。
「今日は食べられそうですか?」
『うん。これなら大丈夫そう』
「無理はしないでください」
『今日、高村さんにも言われた』
「体調が悪くなったんですか?」
『立ったときに、ちょっとふらついただけ』
「大丈夫なんですか?」
中井の表情がすぐに曇る。
『大丈夫。すぐ治ったから』
「本当に?」
『本当。高村さんが午後の外出を代わってもらった方がいいって言ってくれて、陸に任せた』
「そうですか」
『そんな顔しないでよ』
「心配くらいさせてください」
『心配しすぎ』
「陽菜さんが大丈夫と言いすぎるんです」
『だって、本当に大丈夫だったもん』
「大丈夫かどうかを、陽菜さん一人で決めないでください」
穏やかな声だった。
けれど、普段より少しだけ強い。
陽菜は返事を止め、中井の顔を見た。
「俺にも教えてください。体調が悪かったことも、仕事を誰かへ任せたことも」
『……心配させたくないんだけど』
「知らない方が心配になります」
『知らなかったら、心配のしようもないでしょ』
「あとから知ったら、その分まで心配します」
中井らしい答えだった。
陽菜は困ったように笑い、スープを一口飲んだ。
『分かった。じゃあ、なるべく話す』
「なるべく、ですか?」
『全部って約束すると、できなかったとき怒るでしょ』
「怒りません」
『悲しそうな顔するじゃん。そっちの方が嫌』
「では、悲しそうな顔もしません」
『それは無理でしょ』
「努力します」
『変な努力』
陽菜はもう一度スープを口へ運んだ。
温かさが喉を通り、空腹だったことにようやく気づく。
中井が向かいの席へ座った。
「山本さんに任せた仕事は、高槻興産の件ですか?」
『ううん。別の取引先への訪問。大野設備の移転も、最初の日以外は陸と萌に任せることにした』
「二人とも、成長したんですね」
『うん。あたしが細かく言わなくても、ちゃんと考えられるようになってた』
嬉しい。
それは間違いなかった。
けれど、陽菜の声に混じった迷いを、中井は聞き逃さなかった。
「寂しいですか?」
『……少しだけ』
「どうしてですか?」
『二人だけでも、できるようになったから』
口に出してから、自分勝手な言葉だと思った。
育ってほしいと願っていたのは陽菜自身だ。
それなのに、本当に自分の手を離れ始めると寂しくなる。
『変だよね。任せたいのに、任せられるようになると不安になる』
「変ではないと思います」
『そう?』
「陽菜さんが教えたから、二人はできるようになったんですよね」
『まあね』
「だったら、陽菜さんが必要なくなったわけではありません。陽菜さんがしてきたことが、二人の中に残ったということです」
陽菜はスプーンを止め、中井を見る。
「それに、任せられる人が増えても、陽菜さんにしかできないことはなくなりません」
『……例えば?』
「俺を困らせることです」
『何それ』
「陽菜さんにしかできません」
『そんなの、できなくていいでしょ』
「俺には必要です」
真顔で答える中井に、陽菜は吹き出した。
『ほんと、変な人』
「陽菜さんに言われたくありません」
『それ、今日も柚希ちゃんに言われた』
「では、二人目ですね」
『何が?』
「陽菜さんが変だと思っている人です」
『あたしは変じゃない』
「そういうことにしておきます」
『むかつく』
笑いながら、もう一口スープを飲む。
昼間よりも食欲が戻っていた。
中井はテーブルに積まれた本の一冊へ手を伸ばした。
『今読むの?』
「食事が終わってからにします」
『一緒に読もうよ』
「はい」
『分かんないところがあったら、二人で調べる』
「そうしましょう」
『ただ、何でもかんでも信じるのはやめようね。書いてあること、全部気にしてたら何もできなくなりそう』
「次の診察で、先生にも確認しましょう」
『うん』
陽菜は本の表紙を見つめた。
次の診察。
そこで心拍が確認できるかもしれない。
期待すればするほど、もし確認できなかったときが怖くなる。
その気持ちは、まだ言葉にできなかった。
だが、中井は陽菜の視線を追い、同じ本の表紙を見た。
「診察の日は、俺も一緒に行きます」
『仕事は?』
「調整します」
『無理しなくていいよ』
「無理ではありません」
『でも――』
「一緒に確認したいんです」
中井は静かに言った。
「陽菜さん一人に、結果を聞かせたくありません」
陽菜はしばらく黙っていた。
大丈夫だったときも。
そうでなかったときも。
一人で受け止めなくていい。
『……じゃあ、一緒に来て』
「はい」
『ちゃんと仕事、調整してよ』
「分かっています」
『病院の前で、急に無理だったとか言ったら怒るからね』
「言いません」
『絶対?』
「絶対です」
陽菜はようやく笑い、本を中井の方へ押した。
『じゃあ、ご飯が終わったら最初から読もう』
「一冊目ですか?」
『うん』
「全部読むんですよね?」
『今日は一冊だけ』
「さっき、一緒に読むと言いました」
『あたし、眠いもん』
「では、眠くなるまでにしましょう」
『中井くんは続き読んどいて。あとで教えて』
「それは一緒に読むとは言わないと思います」
『細かいなあ』
一人で全部できるようになる必要はない。
仕事も、これから始まる生活も。
誰かへ一つ任せたからといって、自分の居場所がなくなるわけではない。
任せた分だけ、今まで見えなかったものへ手を伸ばせる。
陽菜はまだ平らな自分の腹へ、そっと手を添えた。
ここにいる命を、中井と二人で育てる。
そのためには、今まで握っていたものを、少しずつ誰かへ渡さなければならないのかもしれない。
それは手放すことではない。
信じることなのだと、陽菜はようやく思い始めていた。




