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276話「二人で覚える」

翌朝。


 陽菜が目を覚ますと、中井はすでに起きていた。


 隣に横になったまま、陽菜の顔を見つめている。


『何?』


「いえ」


『いつから見てたの』


「少し前からです」


『起こしてよ』


「よく眠っていたので」


『気持ち悪い』


「すみません」


『謝るんだ』


 陽菜は小さく笑い、布団の中で身体を伸ばした。


 昨日までと同じ朝。


 見慣れ始めた天井。


 二つ並んだ枕。


 カーテンの隙間から入る光。


 何も変わっていないように見える。


 それでも。


 自分の中には、昨日まで知らなかった命がいる。


 陽菜は仰向けになり、腹部へ手を置いた。


「痛いですか」


『違うよ』


「気分は?」


『大丈夫』


「吐き気は?」


『ない』


「出血は?」


『ないって』


「本当に?」


『中井くん』


「はい」


『朝から質問多すぎ』


「気になるので」


『まだ昨日の今日だよ』


「だからです」


 中井は、陽菜の腹部へ目を向ける。


 触れたいのか。


 だが、勝手に手を伸ばしていいのか迷っているようだった。


『触る?』


「いいんですか」


『昨日も触ったじゃん』


「今日は、何か違うかもしれないので」


『一日で変わらないよ』


「そうですよね」


 中井は、布団の上からそっと手を重ねた。


 陽菜の手の上へ、さらに中井の手が重なる。


『何か分かる?』


「何も分かりません」


『あたしも』


「本当に、ここにいるんですよね」


『先生は、いるって言ってた』


「はい」


『でも、心臓はまだ分からないって』


「二週間後ですね」


『長いね』


「はい」


『それまで、ずっとこんな感じかな』


「どんな感じですか」


『本当にいるのかなって、ずっと考える感じ』


 中井は、すぐには答えなかった。


「俺も考えると思います」


『仕事中も?』


「多分」


『失敗しないでね』


「陽菜さんもです」


『あたしは大丈夫』


「すでに、同じ書類を二回確認したと川原さんから聞きました」


『何で萌は、全部中井くんに言うの』


「心配しているからです」


『告げ口でしょ』


「陽菜さんが話さないからだと思います」


『昨日は、ちゃんと話したじゃん』


「病院へ行く直前でした」


『まだ言うの?』


「言います」


『しつこい』


「すみません」


 陽菜は、中井の手を掴む。


 腹部から離そうとはせず、そのまま指を絡めた。


『ねえ』


「はい」


『これから、どうしよっか』


「何についてですか」


『全部』


「全部ですか」


『仕事も。結婚式も。この家も』


「家は、変える必要がありますか」


『今すぐじゃないけど、部屋とか』


「一部屋空いています」


『そうだった』


「最初から、二人で使うものを決めずに残していた部屋です」


『じゃあ、あそこが子どもの部屋になるのかな』


「まだ早いと思います」


『中井くんも考えてるじゃん』


「陽菜さんが言ったからです」


『ベッドとか置いて』


「今は買いませんよ」


『分かってる』


「本当に?」


『まだ小さすぎて、寝られないもんね』


「そういう意味ではありません」


 中井は困ったように息を吐く。


 陽菜は、その顔を見て笑った。


 笑ったあと。


 静かになった部屋で、もう一度腹部を見る。


『あたし、母親になるんだ』


「はい」


『なれるのかな』


「なれます」


『即答なんだ』


「はい」


『根拠は?』


「ありません」


『ないの?』


「でも、俺は陽菜さんならなれると思っています」


『適当』


「適当ではありません」


『じゃあ、どうやればいいか教えて』


「それは」


 中井の言葉が止まる。


 陽菜は笑おうとした。


 だが、うまく笑えなかった。


『母親って、どうやればいいんだろ』


 口にした瞬間。


 胸の奥にあったものが、少しだけ形になった。


 陽菜は両親を早くに亡くしている。


 十六歳だった。


 母親と過ごした時間がなかったわけではない。


 大切にされていた記憶もある。


 叱られたことも。


 笑い合ったことも覚えている。


 それでも。


 自分が親になる立場から思い出そうとすると、何をすればいいのか分からなかった。


 両親を亡くしたあと、佳菜と二人で暮らした。


 だが、姉妹の間にある距離は埋まらず。


 陽菜は十八歳で、その家を出た。


 家族と呼ばれる場所から、自分で離れた。


 そんな自分が。


 今度は、子どもに帰る場所を作る。


『あたし、家族の作り方なんて分かんない』


 中井は、陽菜の過去を知っている。


 だから、何があったのかを聞き返さなかった。


「俺も、父親のやり方なんて知りません」


『二人とも知らないじゃん』


「はい」


『駄目じゃない?』


「知らないなら、覚えればいいと思います」


『誰に教えてもらうの』


「病院の先生や、知っている人に聞きます。本も読みます」


『本で父親になれる?』


「分かりません」


『また分かんない』


「分からないことばかりです」


 中井は、絡めていた指へ力を込める。


「だから、二人で覚えましょう」


『二人で?』


「はい」


「俺だけが知っていても駄目です。陽菜さんだけが頑張っても駄目だと思います」


『中井くん、もう頑張ろうとしてるじゃん』


「何もしていません」


『昨日から説明書、何回読んだ?』


「三回です」


『頑張りすぎ』


「忘れないためです」


『覚えられた?』


「半分くらいは」


『じゃあ、あと三回読むの?』


「必要なら」


『やめてよ』


 陽菜は笑い、中井の手を握る。


『あたしが分かんなくなったら、中井くんも一緒に考えてくれる?』


「もちろんです」


『間違えたら?』


「一緒に直します」


『失敗したら?』


「次は、同じ失敗をしないようにします」


『怖くなったら?』


「そばにいます」


 中井は、一つずつ答えた。


「陽菜さんも、俺が分からなくなったら一緒に考えてください」


『うん』


「間違えたら、教えてください」


『怒るかもよ』


「それでも構いません」


『逃げたら?』


「逃げません」


『もし、逃げたくなったら』


「陽菜さんに言います」


 陽菜は、僅かに目を開く。


「何も言わずに逃げません。怖いことも、分からないことも話します」


『格好悪いよ』


「はい」


『父親なのに』


「父親でも、怖いものは怖いと思います」


 陽菜は、中井の肩へ額をつけた。


『じゃあ、あたしも言う』


「何をですか」


『怖いときは怖いって』


「はい」


『分かんないときは、分かんないって』


「はい」


『一人で決めない』


「お願いします」


 しばらく。


 二人は布団の中で、手を重ねたまま動かなかった。


 答えは、何も出ていない。


 母親になる方法も。


 父親になる方法も。


 これから何が起きるのかも分からない。


 ただ。


 二人とも知らないからこそ。


 どちらか一人へ任せないことだけは、決められた。


     ◇


 朝食の準備をしている間も、中井は何度も陽菜を見ていた。


『何?』


「座っていてください」


『パン出すだけだよ』


「俺がやります」


『あたし、病人じゃないんだけど』


「分かっています」


『じゃあ手伝わせて』


「立っていて大丈夫ですか」


『大丈夫』


「気分は?」


『さっき聞いた』


「変わっていないかと思って」


『五分で変わらないよ』


「そうですよね」


 陽菜は、冷蔵庫から牛乳を取り出す。


 扉を閉めたところで、中井が手を差し出した。


「持ちます」


『これくらい持てるよ』


「重くありませんか」


『一リットルだよ』


「でも」


『中井くん』


 陽菜が、中井の正面に立つ。


『今からそれだと、十月まで持たないよ』


「十月?」


『結婚式』


「そうでした」


『忘れてたの?』


「忘れていません。ただ、昨日から考えることが増えたので」


『式、どうする?』


 中井の表情が僅かに変わる。


「陽菜さんは、どうしたいですか」


『やりたい』


 陽菜は、すぐに答えた。


『中井くんと結婚するから式をするって、先に決めたもん』


「はい」


『妊娠したから結婚するんじゃない』


「もちろんです」


『だから、やめたくない』


「俺もです」


『でも、お腹大きくなってるかな』


「十月なら、かなり」


『ドレス、着られる?』


「式場と病院へ相談しましょう」


『また相談だね』


「分からないことは、聞くと決めましたから」


『そうだった』


 陽菜は牛乳を机へ置く。


『美園さんたちには、いつ話す?』


「次の診察が終わってからではどうでしょうか」


『心臓が動いてるか分かってから?』


「はい」


『総長にも?』


「日高さんは、体調の変化に気づいていましたよね」


『でも、まだ何も言ってない』


「隠し続けられますか」


『二週間くらいなら』


「陽菜さんは、すぐ顔に出ます」


『出ないよ』


「昨日も、川原さんと日高さんに気づかれていました」


『妊娠までは分かってないもん』


「高村さんには分かりました」


『高村さんは経験があるから』


「約束どおり、誰にも話していないんですね」


『うん』


「今日、高村さんへは伝えますか」


『迷ってる』


「妊娠していたことを?」


『心配してくれたから。でも、まだ心臓まで確認できてないし』


「陽菜さんが話したいと思ったときでいいと思います」


『うん』


 中井は朝食を机へ並べる。


 昨日までと同じ二人分。


 だが陽菜は、空いている椅子を一度だけ見た。


 今は、二人。


 その先に。


 もう一人が加わるかもしれない。


     ◇


 出社した陽菜は、普段どおりに挨拶をした。


『おはようございまーす』


「おはようございます」


 凛と柚希が答える。


 萌と陸も、続けて頭を下げた。


「おはようございます」


「おはようございます」


『二人とも早いね』


「櫻井先輩から依頼された資料を、先に確認しています」


 萌が答える。


『昨日のうちに終わってたでしょ』


「見直しています」


『日高先輩みたい』


「櫻井先輩に言われたくありません」


『あたし、昨日は二回しか見てないよ』


「同じ書類を二回です」


『大事な書類だったから』


「取引先へ送る案内文です」


『大事じゃん』


 陽菜は笑いながら、自分の席へ向かった。


 机の上には、いつも使っているカップがある。


 コーヒーを淹れようとして。


 手を止めた。


 昨日、匂いを受けつけなかったことを思い出す。


 代わりに、給湯室から水だけを持ってきた。


『櫻井さん』


 樹里の声が聞こえる。


『はい』


『今日は、体調に問題ありませんか』


『ありません』


『朝食は?』


『食べました』


『内容は?』


『そこまで聞くんですか』


『昨日、ほとんど食べられなかったと聞きました』


『誰からですか』


『川原さんです』


 陽菜が萌を見る。


 萌は、自分の資料へ目を落とした。


『萌』


「心配だったので」


『今朝は、ちゃんと食べたよ』


「何をですか」


『二人して聞かないで』


『櫻井さん』


 樹里が呼ぶ。


『パンと卵とサラダ。あと牛乳』


『分かりました』


『本当に、お母さんみたい』


『違います』


『じゃあ、お姉ちゃん』


『仕事を始めてください』


『はーい』


 陽菜はパソコンを立ち上げる。


 樹里は自分の席へ戻ろうとした。


 だが、陽菜の机の上を見て足を止める。


『コーヒーは飲まないのですか』


『今日は、水にします』


『昨日も残していましたね』


『たまには、そういう日もあります』


『そうですか』


 樹里は、それ以上聞かなかった。


 しかし、視線だけが陽菜に残っている。


 陽菜は気づかないふりをして、仕事を始めた。


     ◇


 昼休み。


 給湯室へ入ると、高村が一人でいた。


 昨日と同じように、茶葉を用意している。


「櫻井さん」


『高村さん』


「体調はどうですか」


『大丈夫です』


「病院は?」


 周囲へ聞こえない声だった。


 陽菜は、給湯室の入口を確認する。


 誰も近くにはいない。


『行きました』


「そうですか」


 高村は、それ以上尋ねなかった。


 陽菜が話すのを待っている。


『中井くんも、途中から来てくれました』


「話せたんですね」


『はい』


「よかったです」


『それで』


 一度、言葉を止める。


『妊娠してました』


 高村の表情が、僅かに変わった。


「そうですか」


『まだ、心拍までは分からなかったんですけど』


「時期が早かったんですね」


『二週間後に、もう一回来てくださいって』


「はい」


『だから、まだ誰にも言わないでください』


「もちろんです」


『総長にも』


「日高さんにも話しません」


『美園さんにも』


「私からお会いすることはありませんが、話しません」


『会社の人にも』


「誰にも話しません」


 高村は、穏やかに答える。


「おめでとうございます」


 その言葉を聞いた瞬間。


 陽菜の胸が、僅かに熱くなる。


 昨日。


 医師から妊娠を告げられ。


 中井と二人で喜んだ。


 それでも、ほかの誰かから祝福されるのは初めてだった。


『ありがとうございます』


「嬉しいですか」


『はい』


「不安ですか」


『それも、あります』


「両方でいいと思います」


『高村さんも、そうでした?』


「はい」


 高村は微笑む。


「嬉しいから不安にならないわけではありません。大切だから、不安になることもあります」


『そっか』


「体調は、本当に大丈夫ですか」


『今日は大丈夫です』


「無理をしないでくださいね」


『みんな同じこと言う』


「皆さん、櫻井さんのことを知っていますから」


『あたし、そんなに無理してます?』


「しています」


『即答なんですね』


「はい」


 二人は小さく笑った。


 給湯室の外から、足音が近づいてくる。


 高村は自然に茶葉へ湯を注いだ。


 陽菜も、用意されていたカップを受け取る。


 入ってきたのは、柚希だった。


「二人で何を話していたんですか?」


『今日のお茶の話』


「私も飲みたいです」


「どうぞ」


 高村は、もう一つカップを用意する。


 陽菜との会話には触れなかった。


 約束どおり。


 何も知らない者と同じように振る舞っている。


 陽菜は温かいお茶へ口をつけた。


 昨日よりも。


 少しだけ、味が分かる気がした。


     ◇


 午後。


 高槻興産の北側区画に関する工程会議が行われた。


 大野設備工業との基本合意は得られた。


 旧資材管理棟の改修も、着工へ向けて進んでいる。


 だが、残る十六社の移転先。


 契約の更新。


 施工会社との工程調整。


 再整備後の区画へ戻る会社と、別の場所へ移る会社。


 確認することは、まだ多い。


『櫻井さん』


 会議の途中、樹里が陽菜を呼ぶ。


『はい』


『こちらの三社について、来週中に移転先の希望を確認してください』


『分かりました』


『外出が続きますが、問題ありませんか』


『大丈夫です』


『本当に?』


『はい』


 樹里は、すぐには次へ進まなかった。


『一社は、私が担当します』


『何でですか』


『三社すべてを回る必要はありません』


『今まで、あたしが担当してたところですよ』


『契約整理は、複数人で進めています』


『あたしの体調を気にしてます?』


『はい』


 樹里は隠さなかった。


『今週、体調の変化が続いています』


『もう大丈夫です』


『それを判断するのは、今日一日ではありません』


『日高先輩』


『体調が安定しているなら、来週以降に戻します』


 陽菜は反論しようとした。


 だが、今は自分一人の身体ではない。


 その考えが浮かび、言葉が止まる。


『……分かりました』


 樹里が僅かに目を開いた。


『何ですか』


『いいえ』


『今、何か変だと思いました?』


『櫻井さんが、一度で受け入れるとは思いませんでした』


『あたしだって、聞き分けいいですよ』


『そうですか』


『疑ってます?』


『事実を確認しているだけです』


『絶対、疑ってる』


 陽菜は不満そうに言いながらも、担当表を書き直した。


 樹里が引き受ける一社。


 自分が担当する二社。


 以前なら、仕事を取られたと思ったかもしれない。


 今は。


 減らされた一社分の時間を、身体を休めるために使うことも必要なのだと考えられた。


 まだ。


 樹里には言えない。


 だが、樹里が理由を知らないまま差し出した助けを。


 陽菜は、拒まなかった。


     ◇


 その日の夜。


 新しい家へ帰ると、中井が夕食を作っていた。


『ただいま』


「おかえりなさい」


『今日、総長に仕事一個減らされた』


「体調のことですか」


『多分』


「よかったです」


『よくないよ』


「どうしてですか」


『あたしができないみたいじゃん』


「できないとは言われていないんですよね」


『言われてないけど』


「なら、日高さんが心配しただけです」


『分かってる』


 陽菜は鞄を置き、台所に立つ中井の背中へ抱きついた。


「陽菜さん?」


『ちょっとだけ』


「疲れましたか」


『少し』


 中井は火を止め、陽菜の腕へ手を添える。


「座りますか」


『このままがいい』


「分かりました」


 二人は、しばらく動かなかった。


『高村さんには話した』


「妊娠していたことを?」


『うん』


「何と言っていましたか」


『おめでとうございますって』


「そうですか」


『あたしたち以外で、最初に言われた』


「嬉しかったですか」


『うん』


「中村さんたちには、まだ話さないんですよね」


『美園さんね』


「すみません。美園さんたちには、まだ話さないんですね」


『心拍が分かってからにしたい』


「はい」


『総長、怒るかな』


「何にですか」


『二週間も黙ってたこと』


「怒るというより、質問されると思います」


『病院は。体調は。仕事は。式はって?』


「はい」


『想像できる』


「そのあとで、おめでとうと言うと思います」


 陽菜は、中井の背中へ頬をつける。


『言ってくれるかな』


「言ってくれます」


『美園さんは?』


「喜んでくれると思います」


『うん』


「それまで、二人で守りましょう」


『三人ね』


 中井の手が止まる。


『あたしと、中井くんと、この子』


「はい」


 中井は、陽菜の腕へ重ねていた手に力を込める。


「三人で」


 親になる方法は、まだ知らない。


 生まれるまでに何をすればいいのかも。


 その先に、どれほど分からないことがあるのかも知らない。


 それでも。


 分からないまま、一人で強がる必要はない。


 二人で覚える。


 二人で間違え。


 二人で直す。


 その約束だけが。


 まだ小さな命を迎えるために、二人が最初に作った家族の形だった。

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