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275話「二人で知る」

翌朝。


 陽菜は、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。


 隣では、中井がまだ眠っている。


 新しい家で迎える朝。


 いつもなら、中井より先に起きたことを面白がり、寝顔を覗き込んで起こす。


 だが今日は、動けなかった。


 枕元に置いたスマートフォンを手に取る。


 カレンダーには、昨日登録した予定が残っている。


 午後六時。


 産婦人科。


 予約したのは、昨日の帰りだった。


 まだ、中井には伝えていない。


「陽菜さん」


 声を掛けられ、陽菜が顔を上げる。


 中井が、薄く目を開けていた。


『起きてたの?』


「今、起きました」


『まだ早いよ』


「陽菜さんこそ」


『目が覚めちゃった』


「体調は?」


『大丈夫』


「本当ですか」


『本当』


 中井は身体を起こすと、陽菜の顔を見る。


「眠れなかったんですか」


『寝たよ』


「いつもより、目が赤いです」


『起きたばっかりだからじゃない?』


「そうでしょうか」


『そうだよ』


 陽菜はスマートフォンの画面を伏せた。


『今日、何時に帰れる?』


「七時頃だと思います」


『そっか』


「何かありますか」


『何もないよ』


 中井は、すぐには納得しなかった。


 それでも、陽菜が伏せたスマートフォンへ手を伸ばすことはない。


「早く帰れるようにします」


『無理しなくていいよ』


「一緒に夕食を食べたいので」


『うん』


 陽菜は小さく笑った。


 今日、病院へ行けば分かる。


 妊娠しているのか。


 ただ生理が遅れているだけなのか。


 どちらであっても。


 今夜、中井へ話さなければならない。


     ◇


 島川不動産へ出社してからも。


 陽菜は、何度も時計を確認していた。


 高槻興産の資料を確認し。


 顧客への連絡を済ませ。


 翌日の予定を、萌と陸へ共有する。


「櫻井先輩」


 萌が、陽菜の手元を見る。


「同じ書類を、先ほども確認していませんでしたか」


『確認したっけ』


「二回目です」


『念のためだよ』


「日高先輩みたいですね」


『それは褒めてる?』


「仕事については」


『仕事以外は?』


「怖いです」


『本人に言ってみなよ』


「言いません」


『あたしには言うんだ』


 陽菜は笑ったが、すぐに書類へ視線を戻した。


 文字が頭へ入ってこない。


 午後六時。


 その時間が近づくほど、胸の奥が落ち着かなくなる。


『櫻井さん』


 樹里の声が聞こえる。


 陽菜が顔を上げると、樹里が机の前に立っていた。


『はい』


『本日の外出予定は、ありませんでしたよね』


『ありません』


『でしたら、こちらの資料を――』


 樹里は陽菜の顔を見ると、言葉を止めた。


『体調が悪いのですか』


『悪くないです』


『顔色がよくありません』


『ちょっと眠いだけです』


『昨日も同じことを言っていました』


『本当に大丈夫です』


 陽菜は、樹里の後ろに高村がいることへ気づいた。


 高村は何も言わない。


 昨日の約束どおり。


 普段と変わらない表情で、自分の仕事を続けていた。


『今日は、定時で帰ります』


 陽菜が先に伝える。


『予定があるのですか』


『はい。ちょっと』


 樹里は、陽菜をしばらく見つめた。


『分かりました。この資料は、遠藤さんへお願いします』


『いいんですか?』


『急ぎではありません』


『ありがとうございます』


『ただし』


『何ですか』


『明日も同じ状態であれば、無理に出社しないでください』


『分かってます』


『返事だけではなく、守ってください』


『はい』


 樹里はそれ以上聞かなかった。


 高村も、陽菜へ声を掛けない。


 誰にも話さない。


 その約束を、守ってくれていた。


     ◇


 午後五時半。


 陽菜は会社を出た。


 産婦人科までは、歩いて十五分ほど。


 予約時間には十分間に合う。


 一人で行くつもりだった。


 自分で確かめて。


 結果が分かってから、中井へ話す。


 そう決めていた。


 だが、駅前で足が止まる。


 一人で結果を聞く。


 もし妊娠していたら。


 もし違っていたら。


 どちらであっても、自分だけで受け止められる気がしなかった。


 陽菜は、中井とのLINEを開いた。


『今どこ?』


 すぐに既読がつく。


「会社です。もう少しで終わります」


『今日、何時に帰れる?』


「六時半頃だと思います」


 病院の予約は、午後六時。


 今から説明しても、間に合わないかもしれない。


 それでも。


 何も知らせないまま、一人で診察室へ入ることはできなかった。


 陽菜は中井へ電話を掛ける。


「陽菜さん?」


『中井くん』


「どうしました?」


『今から来てほしいところがあるの』


「どこですか」


『駅前』


「何かあったんですか」


 中井の声が、すぐに変わる。


『まだ、分かんない』


「体調が悪いんですか」


『悪いっていうか』


 言葉が続かない。


 駅前には多くの人がいる。


 誰も陽菜を見ていない。


 それでも、声に出すことが怖かった。


「陽菜さん」


 中井が静かに呼ぶ。


「どこへ行けばいいですか」


『産婦人科』


 電話の向こうが、静かになる。


『昨日、予約したの』


「陽菜さんが、ですか」


『うん』


「分かりました。すぐに向かいます」


『でも、六時だから間に合わないかも』


「病院の名前を教えてください」


『仕事は?』


「終わらせます」


『怒られない?』


「事情は、あとで説明します」


 陽菜は、産婦人科の名前を伝えた。


「先に受付だけ済ませてください」


『中井くん』


「はい」


『ごめん』


「謝らなくていいです」


『でも』


「一人で行かないでください」


 強い声ではない。


 それでも、中井ははっきりと言った。


「俺も行きます」


『うん』


「必ず行きます」


 通話を終える。


 陽菜は、胸元へスマートフォンを押し当てた。


 まだ、理由をすべて話していない。


 それでも中井は、一緒に行くと言った。


     ◇


 産婦人科の待合室。


 受付を済ませた陽菜は、壁際の椅子へ座っていた。


 周囲には何人かの女性がいる。


 付き添いの男性もいた。


 自分だけが、この場所にいていいのか分からないような気がした。


 膝の上で、両手を組む。


 何度も入口を見る。


 予約時間を少し過ぎた頃。


 扉が開き、中井が入ってきた。


 陽菜を見つけると、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。


「陽菜さん」


『来てくれた』


「遅くなってすみません」


『走ってきたの?』


「少しだけです」


 中井は陽菜の隣へ座る。


 呼吸が僅かに乱れている。


『仕事、大丈夫だった?』


「はい」


『何て言ってきたの』


「婚約者の体調が悪いので帰ります、と」


『体調悪いって決まってないよ』


「ほかに説明できませんでした」


『そっか』


 会話が止まる。


 中井は、陽菜の手元を見る。


「何があったんですか」


 陽菜は、組んでいた指へ力を込めた。


『生理が遅れてるの』


 中井の表情が止まる。


『一週間くらい』


「一週間」


『それで、最近、匂いが気になったり、眠かったりして』


「はい」


『高村さんに、病院へ行った方がいいって言われた』


「高村さんは知っているんですか」


『遅れてることだけ。誰にも言わないって約束してくれた』


「どうして、俺には話してくれなかったんですか」


 責める声ではなかった。


 ただ、少しだけ寂しそうだった。


『違ってたら、中井くんをがっかりさせると思ったから』


「俺が?」


『あたしも』


 陽菜は俯く。


『期待して、違ってたら嫌だった』


 中井は何も言わなかった。


 しばらくして、陽菜の手へ自分の手を重ねる。


「一人で結果を聞くつもりだったんですか」


『うん』


「どうして、呼んでくれたんですか」


『一人だと、怖くなった』


「呼んでくれて、ありがとうございます」


『怒ってない?』


「怒っていません」


『本当に?』


「次からは、もっと早く話してほしいとは思っています」


『怒ってるじゃん』


「心配しています」


『ごめん』


「それは、あとで話しましょう」


 中井の手に、僅かに力が入る。


「今は、一緒に聞きます」


『うん』


 受付から、陽菜の名前が呼ばれた。


 二人は同時に顔を上げる。


 陽菜が立ち上がると、中井も隣に並んだ。


     ◇


 診察と検査が終わったあと。


 二人は、診察室の椅子へ並んで座っていた。


 医師は、手元の結果を確認している。


 陽菜は膝の上へ両手を置いていた。


 その片方を、中井が握っている。


「尿検査では、妊娠反応が出ています」


 陽菜は、すぐに言葉を理解できなかった。


 隣で、中井の指が僅かに震える。


「超音波でも、子宮の中に小さな袋が見えています」


『袋?』


「赤ちゃんが育つための袋です。時期としては、まだ五週前後だと思います」


『赤ちゃん、いるんですか』


「妊娠しています」


 医師は穏やかに答えた。


「ただ、まだ早い時期ですので、今日は心拍までは確認できませんでした。二週間ほど後に、もう一度受診してください」


『はい』


「強い腹痛や出血があった場合は、次の予約を待たずに連絡してください」


『分かりました』


 説明は続いた。


 今後の受診。


 体調の変化。


 食事や薬について気をつけること。


 陽菜は聞いているつもりだった。


 だが、最初の言葉だけが頭の中に残っている。


 妊娠しています。


 自分の中に。


 まだ目には見えないほど小さな命がいる。


「中井さんも、何か質問はありますか」


 医師に尋ねられ、中井が僅かに姿勢を正す。


「今、本人が仕事を続けても問題ありませんか」


『中井くん』


「体調が安定していて、過度な負担がなければ、すぐに休職する必要はありません。ただ、眠気や吐き気が強くなることもあります」


「外回りも多い仕事です」


「無理をしないことが大切です。仕事内容については、体調を見ながら職場と相談してください」


『まだ会社には言ってません』


「安定期を待って報告する方もいますが、体調によっては早めに上司へ相談した方がいい場合もあります」


『はい』


「今は、まず次の診察で経過を確認しましょう」


 診察室を出るまで。


 陽菜と中井は、どちらも何も言えなかった。


     ◇


 病院を出ると、外は暗くなっていた。


 駅へ向かう人たちが、二人の前を通り過ぎていく。


 陽菜は、病院から渡された小さな袋を両手で持っていた。


 中には、説明書と次回の予約票が入っている。


『中井くん』


「はい」


『何か言ってよ』


「すみません」


『何で謝るの』


「何を言えばいいのか、分からなくて」


『嬉しくない?』


「嬉しいです」


 中井は、すぐに答えた。


「嬉しいです。でも」


『でも?』


「まだ、信じられません」


『あたしも』


「手が震えています」


 中井は、自分の右手を見る。


 診察室にいたときから、僅かな震えが残っている。


『怖い?』


「少し」


『あたしも』


 二人は顔を見合わせた。


 嬉しいのか。


 怖いのか。


 自分たちでも、どちらか一つには決められない。


『本当に、いるんだって』


「はい」


『あたしのお腹に』


「はい」


 陽菜は、自分の腹部へ手を添える。


 外から見ても、何も変わっていない。


 触れても、何も分からない。


 それでも、そこにいると医師から告げられた。


『どうしよう』


 陽菜の目から、涙が落ちた。


 笑っているのか。


 泣いているのか。


 自分でも分からない顔だった。


「陽菜さん」


 中井は、陽菜を抱きしめようとして手を伸ばす。


 だが、腹部へ触れていいのか迷ったように動きを止めた。


『普通に抱きしめていいよ』


「苦しくないですか」


『まだ何も変わってないって』


「でも」


『中井くん』


 陽菜の方から、その胸へ抱きついた。


 中井は、ようやく背中へ腕を回す。


 普段よりも、少しだけ弱い力だった。


『弱い』


「怖いんです」


『何が?』


「陽菜さんにも、その子にも、何かあったらと思うと」


『まだ、何も起きてないよ』


「はい」


『今は、喜んでいいんじゃない?』


「いいんでしょうか」


『多分』


「多分ですか」


『あたしも分かんない』


 陽菜は、中井の胸元で小さく笑った。


『でも、嬉しい』


「俺もです」


『本当に?』


「はい」


『ちゃんと言って』


「嬉しいです」


『もう一回』


「陽菜さん」


『もう一回だけ』


「陽菜さんと、俺の子どもができたことが嬉しいです」


 中井の声も、僅かに震えていた。


 陽菜は目を閉じる。


『あたしも』


 二人は、しばらくその場を動かなかった。


     ◇


 新しい家へ帰ってからも。


 二人は、すぐに誰かへ連絡することができなかった。


 樹里。


 美園。


 会社の者たち。


 結婚式のこと。


 仕事のこと。


 考えなければならないことは多い。


 それでも今夜は。


 二人だけで知ったことを、二人だけで受け止めたかった。


 陽菜はソファへ座り、病院から渡された説明書を読んでいる。


 隣では、中井が同じ箇所を何度も読み直していた。


『中井くん』


「はい」


『そこ、さっきからずっと読んでるよ』


「覚えようと思って」


『全部?』


「はい」


『無理じゃない?』


「必要です」


『次の診察、二週間後だって』


「一緒に行きます」


『仕事は?』


「休みます」


『まだ決めなくていいよ』


「今、決めました」


『早いって』


「陽菜さんは、一人で行こうとするので」


『今日は呼んだじゃん』


「直前でした」


『来てくれたでしょ』


「間に合わないかと思いました」


『ごめん』


「もう、謝らなくていいです」


 中井は説明書を机へ置く。


 陽菜の腹部を見る。


「触ってもいいですか」


『うん』


 中井は、恐る恐る手を伸ばした。


 服の上から、陽菜の腹部へ手のひらを重ねる。


 何も動かない。


 何も聞こえない。


 それでも中井は、手を離さなかった。


『分かる?』


「何も分かりません」


『あたしも』


「でも、いるんですよね」


『うん』


「陽菜さん」


『何?』


「ありがとうございます」


『何で、あたしに言うの』


「分かりません」


『変なの』


 陽菜は笑った。


 その目には、まだ涙が残っている。


『ねえ。今日は、まだ誰にも言わなくていい?』


「はい」


『二人だけにしたい』


「俺も、そう思っていました」


『総長たちに言ったら、大騒ぎになるよね』


「日高さんは、病院と仕事の確認を始めると思います」


『絶対する』


「美園さんは?」


『多分、笑っておめでとうって言う』


「はい」


『でも、今日はまだいい』


「分かりました」


 中井は、陽菜の腹部へ添えた手をそのままにしている。


 二人で暮らし始めた家。


 少し前までは、何もなかった部屋。


 二人分の家具が入り。


 二本の鍵が並び。


 結婚へ向けた予定が増えた。


 そして今日。


 まだ姿も見えないほど小さな命が。


 二人の未来へ加わった。


 喜びだけではない。


 不安も。


 怖さも。


 まだ分からないことも多い。


 それでも。


 初めてその存在を知った夜。


 二人は、どちらか一人で答えを出そうとはしなかった。


 陽菜の腹部へ重ねられた中井の手に。


 陽菜も自分の手を重ねる。


 二人で知り。


 二人で戸惑い。


 二人で喜んだ。


 その夜だけは。


 まだ誰にも渡さない、二人だけの時間になった。


     ◇


 同じ頃。


 閉店後のRoseでは、美園が最後の客を見送っていた。


『ありがとうございました』


 扉を閉め、看板の照明を落とす。


『終わった』


「お疲れさまでした」


 カウンターの中から、佐藤が答えた。


 美園が振り返ると、佐藤は客が使ったグラスを洗っている。


『何してるの』


「見れば分かるでしょう」


『お客様に片づけさせる店じゃないんだけど』


「もう客じゃありません」


『じゃあ何?』


 佐藤の手が止まる。


「それ、今聞きますか」


『聞いただけ』


「恋人です」


『よくできました』


「分かっていて聞きましたね」


『佐藤くんが困る顔、面白いから』


「性格悪いですよ」


『今さら?』


 美園は笑いながら、カウンターの椅子へ腰を下ろした。


 営業中は、ほとんど座らない。


 閉店して客がいなくなると、急に一日の疲れを思い出す。


 佐藤は最後のグラスを拭き終えると、冷蔵庫を開けた。


「何か食べましたか」


『途中で少し』


「少しって、どのくらいですか」


『お客様にもらったチョコ』


「食事じゃありません」


『細かいわね』


「美園さんが適当すぎるんです」


 佐藤は持ってきた袋から、二つの容器を取り出した。


『それ何?』


「弁当です」


『二つも食べるの?』


「一つは美園さんの分です」


『私、いらないって言ったでしょ』


「そう言うと思ったので、勝手に買いました」


『人の話を聞かない子ね』


「食事をチョコで済ませる人の話は聞きません」


 佐藤は電子レンジへ容器を入れる。


 美園は頬杖をつき、その背中を眺めた。


『最近、店員みたいになってきたわね』


「給料をください」


『お客様からお金は取れないわ』


「さっき、もう客じゃないって言いました」


『じゃあ、家賃を取ろうかな』


「ここに住んでいません」


『最近、毎日いるじゃない』


「美園さんが遅くまで一人だからです」


『心配?』


「はい」


 佐藤は迷わず答えた。


 温めた弁当を、美園の前へ置く。


「熱いので気をつけてください」


『佐藤くん』


「何ですか」


『私が食べ終わるまでいるの?』


「そのつもりです」


『遅くなるわよ』


「知っています」


『明日も仕事でしょ』


「美園さんもでしょう」


『私は自分の店だからいいの』


「関係ありません」


 佐藤もカウンターの隣へ座り、自分の弁当を開けた。


 美園は箸を持ちながら、その横顔を見る。


『ねえ』


「はい」


『このままずっと、閉店後に弁当食べるつもり?』


「嫌ですか」


『毎日は飽きる』


「では、今度から作ります」


『そういう意味じゃないんだけど』


「何が食べたいですか」


『聞いてる?』


「聞いています」


『じゃあ答えて』


「ずっと一緒にいるか、という話ですよね」


 美園の箸が止まる。


 佐藤は弁当を見たまま続けた。


「そのつもりです」


『簡単に言うのね』


「美園さんが聞いたんでしょう」


『聞いたけど』


「俺は、毎日でも構いません」


『私は困る』


「どうしてですか」


『一人になる時間がなくなる』


「俺がいても、一人でいてください」


『意味が分からない』


「話したくない日は話しません。放っておいてほしい日は、少し離れています」


『帰るとは言わないの?』


「言いません」


 佐藤は、美園の弁当を指した。


「冷めますよ」


『誰のせいよ』


「美園さんが食べないからです」


『生意気』


 美園はそう言いながら、弁当へ箸をつけた。


 佐藤が買ってきたものは、美園がよく選ぶ料理ばかりだった。


『これ、私が好きなやつ』


「知っています」


『いつ覚えたの』


「何度も一緒に食べていますから」


『気持ち悪い』


「ひどいですね」


『褒めてるのよ』


「その褒め方は、美園さんにしか通じません」


『佐藤くんには通じてるじゃない』


「最近、ようやく分かるようになりました」


 二人は並んで、遅い夕食を食べ始めた。


 特別な約束をしたわけではない。


 何かを祝う夜でもない。


 閉店した店の中で。


 同じ弁当を食べ。


 どうでもいい話を続ける。


 美園にとって。


 誰かがいることを当たり前に思える夜は、これまでほとんどなかった。


 それでも今は。


 佐藤が隣にいることへ、理由を探さなくなっていた。


『明日も来るの?』


「来てほしくないんですか」


『聞いただけ』


「来ます」


『そう』


「嫌そうですね」


『別に』


「では、来ます」


『勝手にすれば』


 美園は、佐藤を見ずに答えた。


 その口元は、僅かに緩んでいる。


 佐藤も、それに気づいていた。


 だから何も言わず。


 当たり前のように、明日もここへ来るつもりでいた。

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