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274話「誰にも言わない」

翌日の午後。


 高槻興産の会議室に、関係者が再び集まった。


 高槻社長。


 大野社長。


 施工会社の担当者。


 そして、島川不動産から黒澤、神谷、樹里。


 机の上には、前回の協議を受けて作り直された最終提案書が置かれていた。


 旧資材管理棟を、大野設備工業ともう一社で共同利用する。


 事務所と主要倉庫は、大野設備工業が単独で使用。


 敷地東側に、共同利用する会社の簡易倉庫を設置する。


 出入口を分け。


 防犯設備と共用部分の管理だけを、一つにまとめる。


 工事は二段階に分け、大野設備工業の移転に必要な部分を先に完成させる。


 遅れている資材については、別の工事で余る同規格品を使用する。


 追加費用は七十万円。


 高槻興産が支払う改修費は、三千万円。


 大野設備工業が使用する専用設備のうち、移動可能なものについては、大野設備工業側の資産として九百万円を負担する。


 ただし、一括ではなく、十年間の賃料へ分割する。


 移転後二年間は負担を抑え。


 三年目以降に、段階的に賃料を調整する。


 共同利用する会社は、五年間の定期契約。


 その二社から得られる賃料を含めれば、高槻興産が負担する改修費は、六年十一か月で回収できる。


「六年十一か月」


 高槻社長が、資料に記された数字を指先で叩く。


「間違いないんだな、日高」


『現時点の契約条件では、間違いありません』


「共同利用する会社が、五年で出たら?」


『残り二年間の回収期間に影響します』


「影響するなら駄目だろ」


『五年後に退去した場合は、島川不動産が次の借主を募集します』


「見つからなかったら?」


『大野設備工業の十年契約だけでも、九年以内には回収できます』


「最初の計算より短いな」


『工事内容と管理費を見直しました』


「島川不動産の管理費を下げたのか」


『はい』


「お前たちの利益が減るだろ」


『旧資材管理棟だけを見れば減ります』


「ほかで取るのか」


『再整備後の北側区画についても、島川不動産が長期管理を受けることを条件へ加えています』


 高槻社長が、資料の後半を開く。


「まだ完成していない区画の管理契約まで、今決めろと言うのか」


『今回の改修費を、高槻興産だけに負担していただくわけではありません』


「だから、自分たちも利益を削ったと?」


『はい』


「その代わり、長期の仕事を寄こせ」


『そのとおりです』


 樹里は表情を変えなかった。


 高槻社長が、僅かに口元を上げる。


「随分と正直だな」


『利益がなければ、島川不動産もこの提案を続けられません』


「人を守るためだけじゃないのか」


『人を守ることと、利益を得ることは両立できます』


「できなかったら?」


『できる形へ変えました』


 高槻社長は、樹里から神谷へ視線を移す。


「神谷」


「はい」


「大野は、本当に十年借りるのか」


「四つの条件が契約へ入れば、受け入れると回答をいただいています」


「大野。間違いないな」


 大野社長が、自分の前に置かれた資料を見る。


「移転後二年間の負担を抑えること」


「ああ」


「設備の修理と交換について、誰が払うかを契約に書くこと」


「基本設備は高槻興産。大野設備工業が所有する設備は、そちらだ」


「工事が遅れても、移転期間を一か月取ること」


「施工会社は、間に合わせると言っている」


「間に合わなかった場合の話をしてる」


 高槻社長の表情が僅かに硬くなる。


 施工会社の担当者が、工程表を開いた。


「大野設備工業が使用する部分については、八月末までに完成させる予定です」


「予定じゃなく、遅れたときだ」


「その場合は、北側区画の解体工程を調整し、現在の建物を明け渡すまで一か月確保します」


「高槻さんも、それでいいんですね」


「工事を遅らせるつもりはない」


「答えになってない」


「間に合わなければ、その条件を認める」


 大野社長は、ようやく小さく頷いた。


「最後。十年後の更新は?」


「その時点の周辺相場を基準にする。ただし、一度の更新で上げられる上限を決める」


『上限については、現在の賃料から十五パーセント以内としています』


 樹里が補足する。


「十年後に、急に倍になることはないんだな」


『契約上、できません』


「分かった」


 大野社長は、資料を閉じた。


「その条件なら、移る」


 誰も、すぐには言葉を発しなかった。


 三十二年間、同じ場所で営業を続けてきた会社。


 最初は、契約書一枚で出ていけと言われても納得できないと拒んでいた。


 その会社が今、自ら移転を受け入れた。


「ただし」


 大野社長が続ける。


「契約書の一文字でも、今日の話と違っていたら署名しない」


『当然です』


 樹里は答える。


『本日合意した内容を、すべて契約書へ反映します』


「日高さんが作るのか」


『契約書の作成は、専門部署と確認しながら進めます。私もすべて確認します』


「なら、見落とすことはなさそうだな」


『ありません』


「言い切るんだな」


『はい』


 大野社長は、神谷を見る。


「神谷さん」


「はい」


「あんたは、契約書が正しくても、こっちが納得してるか確認するんだろ」


「そのつもりです」


「面倒な二人だな」


 大野社長が、初めてはっきりと笑った。


「片方だけなら、たぶん断ってた」


 樹里と神谷が、大野社長を見る。


「日高さんの話だけなら、数字で丸め込まれると思った」


 樹里は何も言わない。


「神谷さんの話だけなら、綺麗なことを言ってるだけだと思った」


「はい」


「でも、二人で来た」


 大野社長は、机の上に置かれた最終提案書へ手を乗せる。


「話を聞いたあとで、数字を出した。数字を出したあとで、また話を聞いた」


 一度、言葉を止める。


「ここまでやったなら、一度任せる」


「ありがとうございます」


『ありがとうございます』


 二人が、同時に頭を下げた。


 高槻社長は、椅子へ深く座り直す。


「まだ終わってないぞ」


『承知しております』


「十七社のうち、一社が決まっただけだ」


「ほかの十六社についても、予定どおり進めています」


「大野に時間を掛けた分、遅れてはいないだろうな」


『現在までの進捗は、当初の工程どおりです』


「ならいい」


 高槻社長は、最終提案書の表紙へ手を置いた。


「旧資材管理棟の改修を認める」


 施工会社の担当者が、すぐに工程表を開く。


「ありがとうございます。正式な契約後、着工準備へ入ります」


「工期は守れ」


「はい」


「神谷、日高」


「はい」


『はい』


「大野との契約が終わるまで、合意したと思うな」


「承知しました」


『最後まで確認します』


「それから、残り十六社だ」


 高槻社長が、十七社の一覧を二人の前へ置く。


「一社も置いていくな」


『はい』


「必ず、すべての合意を得ます」


「最初は、お前たちに任せるのは早いと思っていた」


 高槻社長は、二人を見る。


「今も、正しかったとは言わない」


 樹里も神谷も、黙って次の言葉を待つ。


「最後まで終わったときに判断する」


『承知しました』


「そのときに、後悔させるな」


「はい」


 協議は終了した。


 大野設備工業の移転について、すべての条件がそろった。


 だが。


 高槻社長の言葉どおり。


 高槻興産との大きな仕事は、まだ途中だった。


     ◇


 会社へ戻ると、陽菜たちが樹里と神谷を待っていた。


『どうでした?』


 営業部へ入った瞬間、陽菜が尋ねる。


『条件付きで、承認されました』


『本当ですか?』


「大野設備工業からも、移転について合意をいただきました」


『やった!』


 陽菜の声が、営業部へ響く。


 柚希と凛も顔を上げた。


「おめでとうございます」


「これで、決まったんですね」


『正式な契約は、これからです』


 樹里が答える。


『まだ、ほかの十六社も残っています』


『でも、一番難しかったところは進んだんですよね?』


『はい』


『じゃあ、ちょっとくらい喜んでいいじゃないですか』


『浮かれるのは、すべて終わってからです』


『日高先輩は、またそれ』


 陽菜は笑いながら、神谷を見る。


『神谷さんは嬉しいですよね?』


「はい。嬉しいです」


『ほら』


『神谷さん』


「嘘は言えません」


『日高先輩も、本当は嬉しいんでしょ』


『仕事へ戻ってください』


『否定しなかった』


 営業部に、小さな笑いが広がる。


 黒澤が、自分の席から陽菜を見る。


「櫻井さん」


『はい』


「喜ぶのはいいが、自分の仕事も進めろ」


『進めてます』


「午前中に頼んだ資料は?」


『もうできてます』


「なら、先に出せ」


『はーい』


 陽菜は自分の席へ戻る。


 その途中で、給湯室へ向かう高村の姿が見えた。


 高村は、自分のカップを手にしている。


 陽菜は机の上に置いたままになっている、昨日の紙コップを思い出した。


 結局、一口も飲まなかった。


『あたしも、何か飲も』


 誰に言うでもなく呟き、給湯室へ向かった。


     ◇


 給湯室には、高村だけがいた。


 湯を沸かしながら、棚から茶葉を取り出している。


「櫻井さんも、休憩ですか?」


『はい。昨日からコーヒーがあまり飲みたくなくて』


「珍しいですね」


『自分でも、そう思います』


「お茶にしますか?」


『お願いします』


 高村が、もう一つカップを用意する。


 陽菜は壁へ背を預け、湯が沸くのを待った。


 急に力が抜けたような感覚がある。


 眠い。


 昨夜は、いつもと同じ時間に眠った。


 朝も、中井に起こされるまで目が覚めなかった。


 それでも、身体がまだ休みたがっている。


「櫻井さん」


『はい?』


「座りますか?」


『大丈夫です』


「少し、顔色がよくないですよ」


『そうですか?』


「疲れていますか」


『高槻興産の仕事が忙しいので』


「それだけですか?」


 高村の声は穏やかだった。


 追及するような強さはない。


 それでも、陽菜は僅かに目を逸らした。


『それだけです』


「そうですか」


 湯が沸く。


 高村は二つのカップへ静かに注いだ。


 茶葉の香りが広がる。


 コーヒーほど強くない。


 陽菜は、少しだけ安心して息を吸った。


「こちらなら飲めそうですか?」


『はい。ありがとうございます』


 カップを受け取る。


 口へ運ぼうとしたが、まだ熱い。


 陽菜は息を吹きかけ、表面を冷ます。


 高村は、そんな陽菜の様子を静かに見ていた。


「櫻井さん」


『何ですか?』


「違っていたら、ごめんなさい」


 高村が、給湯室の入口を見る。


 誰も近くにいないことを確認してから、声を落とした。


「もしかして、生理が遅れているんですか?」


 陽菜の手が止まった。


 カップの中で、お茶の表面が僅かに揺れる。


『どうして』


「やっぱり、そうなんですか?」


『……何で分かったんですか』


「匂いを気にしていたでしょう」


 高村は、自分のカップを机へ置く。


「昨日はコーヒーを残していました。今日は眠そうで、先日はお腹にも違和感があったと聞きました」


『萌からですか?』


「お腹のことは、近くにいたときに聞こえただけです。誰かから事情を聞いたわけではありません」


『そうですか』


「私にも、覚えがありますから」


 高村には息子がいる。


 陽菜は、そのことを知っていた。


「妊娠していると決まったわけではありません。体調や疲れで遅れることもあります」


『はい』


「どれくらい遅れているんですか?」


『一週間くらいです』


「検査は?」


『まだです』


「中井さんには?」


『言ってません』


「どうしてですか?」


 高村の問いに、責める響きはなかった。


 陽菜は、両手でカップを包む。


『違ってたら、がっかりさせるかもしれないから』


「中井さんが、ですか?」


『あたしも』


 口にしてから、自分でも気づいた。


 中井を期待させることだけが怖いのではない。


 自分も、期待し始めている。


 もし妊娠していなかったら。


 何も変わらないだけなのに。


 それを残念だと感じてしまう自分が、すでにいた。


『まだ、結婚式も終わってないし』


「はい」


『仕事も、高槻興産の案件が始まったばかりで』


「はい」


『今だったら困るのかって聞かれたら、困ることもあると思います』


「そうですね」


 高村は、簡単に否定しなかった。


『でも』


 陽菜は、自分の腹部へ視線を落とす。


『もし本当にいるなら、嬉しいと思う』


「はい」


『まだ何も分からないのに、そんなこと考えてるの、変ですか?』


「変ではありません」


 高村は、静かに答えた。


「分からないから、いろいろ考えるんだと思います」


『高村さんも、そうでした?』


「私は、検査をする前から、嬉しい気持ちと不安な気持ちが両方ありました」


『不安だったんですか』


「もちろんです」


 高村は僅かに笑う。


「嬉しいだけではありませんでした。仕事のことも、生活のことも、自分に育てられるのかも考えました」


『そうなんですね』


「でも、考えるのは、妊娠しているかを確かめてからでも遅くありません」


 高村の表情が、少し真剣になる。


「できるだけ早く、医療機関へ相談してください」


『病院へ?』


「はい。市販の検査薬を使う方法もありますが、それだけで終わらせず、きちんと診てもらった方がいいです」


『もう行っても分かりますか?』


「時期によっては、すぐにすべて分からないこともあります。でも、生理が一週間ほど遅れていて、体調にも変化があるなら、相談していいと思います」


 陽菜は、手にしたカップを見る。


『一人で行っても大丈夫ですか?』


「大丈夫です」


『中井くんに言わなくても?』


「それは、櫻井さんが決めることです」


 高村は、すぐに話すべきだとは言わなかった。


「ただ、結果が分かったあとも、一人で抱え続けないでください」


『はい』


「中井さんは、一緒に考えてくれる方ですよね」


『そうだと思います』


「なら、確かめたあとで、櫻井さんの言葉で伝えればいいと思います」


 陽菜は小さく頷いた。


『高村さん』


「はい」


『このこと』


「誰にも話しません」


 陽菜が最後まで言う前に、高村が答える。


「日高さんにも。黒澤部長にも。ほかの皆さんにも話しません」


『中井くんにも?』


「もちろんです」


『ありがとうございます』


「ただし、体調が悪くなったら別です」


『え?』


「倒れたり、強い痛みが出たりした場合は、秘密より櫻井さんの身体を優先します」


『分かりました』


「無理はしないでください」


『してないです』


「今も、眠そうですよ」


『これは、ちょっとだけです』


「櫻井さんの大丈夫は、あまり信用できません」


『日高先輩と同じこと言いますね』


「日高さんが心配する理由が、少し分かりました」


『高村さんまで』


 陽菜は困ったように笑った。


 高村も、僅かに笑みを返す。


「今日、帰りに病院を探せますか?」


『探します』


「予約できるところがあれば、早めに予約してください」


『はい』


「分からないことがあれば、私でよければ話を聞きます」


『ありがとうございます』


「でも、私の経験だけで判断はしないでくださいね」


『分かってます』


「約束ですよ」


『約束します』


 給湯室の外から、誰かの足音が聞こえた。


 高村は自然に自分のカップを持ち上げる。


 陽菜も、それに合わせてお茶へ口をつけた。


 足音は給湯室の前を通り過ぎていく。


 誰も入ってこなかった。


「少し冷めましたか?」


『はい。飲みやすいです』


「よかったです」


 二人は、それ以上話さなかった。


 高村は、約束どおり普段と同じ表情で給湯室を出ていく。


 陽菜は一人残り、腹部へ手を添えた。


 一週間。


 遅れている。


 匂いが気になる。


 眠気もある。


 まだ、何も決まっていない。


 それでも。


 確かめなければならないと、初めて思えた。


     ◇


 その日の帰り。


 陽菜は、駅前にある産婦人科をスマートフォンで調べた。


 診療時間。


 予約方法。


 初めて受診する場合に必要なもの。


 画面を何度も確認する。


 明日の夕方に、一つだけ空きがあった。


 予約画面へ名前と連絡先を入力する。


 最後に表示された確認ボタンの前で、指が止まった。


 中井には、まだ話していない。


 明日も、一緒に夕食を食べる約束をしている。


 病院へ行けば、帰りが遅くなる。


 理由を聞かれるかもしれない。


 陽菜は一度、画面を閉じかけた。


 そのとき。


 高村の言葉を思い出す。


 ――できるだけ早く、医療機関へ相談してください。


 陽菜は、確認ボタンを押した。


 予約完了の文字が表示される。


 明日の午後六時。


 陽菜は、その時間をカレンダーへ登録した。


 予定の名前は書かなかった。


 ただ、誰にも見えないように通知だけを設定する。


 スマートフォンが震えた。


 中井からのLINEだった。


「今日は何時頃になりますか?」


 陽菜は少し考えてから、返事を送る。


『いつもと同じくらい。今から帰るね』


「分かりました。気をつけて帰ってきてください」


『中井くんもね』


 予約したことは書かなかった。


 まだ。


 自分の中だけに置いておく。


 だが、昨日までとは違う。


 分からないまま待つのではなく。


 確かめるための一歩を、陽菜は自分で選んだ。


 明日。


 自分の身体に起きていることを知る。


 その結果が何であっても。


 いつまでも一人で隠しておくことはできない。


 陽菜はスマートフォンを鞄へしまい、中井が待つ家へ向かって歩き始めた。

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