273話「まだ言えない」
翌朝。
大野設備工業から届いた回答は、承諾でも拒否でもなかった。
十年間の賃貸借契約を検討する。
ただし、四つの条件を求める。
一つ目。
移転後二年間は、現在の事務所と倉庫に掛かっている費用を大幅に超えないこと。
二つ目。
大野設備工業専用の設備について、将来の修理と交換の負担区分を明確にすること。
三つ目。
工事が遅れた場合も、移転期間を一か月確保すること。
四つ目。
旧資材管理棟を長期的に使用する場合、十年後の更新条件を契約時点で定めること。
「無理な条件ではありませんね」
神谷が回答書を読みながら言う。
『高槻興産が受け入れれば、です』
樹里は、すぐに収支表を開いた。
「二年間、賃料を抑えることはできますか」
『三年目以降の賃料へ一部を移せば可能です。ただし、高槻興産の費用回収が遅れます』
「どのくらいですか」
『共同利用する会社が五年契約を結ぶ前提で、七年四か月です』
「高槻社長が求めていた七年を超えますね」
『はい』
「四か月ですか」
『四か月でも、超えていることに変わりはありません』
「別の方法を探しましょう」
『共同利用部分の管理費を見直します』
「管理費を上げるんですか」
『いいえ。島川不動産が管理を一括で受けることで、設備点検と共用部分の維持費を下げられないか確認します』
「自社の利益も減る可能性があります」
『高槻興産の長期管理契約を取得できれば、全体では利益が残ります』
「そこまで含めて提案するんですね」
『一つの契約だけで利益を出す必要はありません』
樹里は、新しい計算表を作り始めた。
旧資材管理棟の改修。
大野設備工業との十年契約。
もう一社との五年契約。
敷地と建物の管理契約。
再整備後の北側区画の管理。
個別に見れば、利益の少ない部分もある。
だが、すべてを一つの案件として考えれば、島川不動産にも、高槻興産にも長期的な利益が残る。
「日高さん」
『何でしょうか』
「昨日まで、契約ごとに条件を分けていましたよね」
『はい』
「考えを変えたんですか」
『川原さんが、建物ではなく仕事を残したいという言葉を記録していました』
「はい」
『契約書だけを分けても、仕事は一つです』
樹里は、複数の資料を一つのファイルへまとめる。
『でしたら、提案も一つにします』
「日高さんが、書類の分け方を変えるとは思いませんでした」
『必要だからです』
「はい」
『何ですか』
「何も言っていません」
『顔に出ています』
「日高さんに言われるとは思いませんでした」
『仕事をしてください』
「しています」
二人の間にあった固い空気は、少しずつ薄れていた。
意見が完全に一致したわけではない。
それでも、互いの方法を排除しようとはしなくなっている。
「失礼します」
会議室の扉が開き、凛が資料を持って入ってきた。
「共同利用を検討している会社の、現在の契約内容をまとめました」
『ありがとうございます』
「五年契約であれば、前向きに検討するとの回答もいただいています」
「賃料はどうですか」
「提示した範囲で問題ありません。ただし、最初の半年は現在の倉庫と契約期間が重なるため、減額してほしいそうです」
『現在の倉庫の解約日は変更できませんか』
「契約上、難しいと思います」
『分かりました』
樹里は、収支表へ条件を追加する。
費用の回収期間が、さらに延びる。
「日高先輩」
凛が画面を見る。
「この条件も加えると、七年を超えませんか」
『超えます』
「高槻社長は、認めてくださるでしょうか」
『認めていただける形に変えます』
「どこを変えるんですか」
『まだ分かりません』
凛が僅かに目を開く。
樹里が、分からないと口にすることは珍しい。
『分からないので、確認します』
「はい」
『遠藤さんは、共同利用する会社へ、半年後からの賃料を僅かに上げた場合も契約できるか確認してください』
「初めの減額分を、残りの期間へ分けるんですね」
『はい。ただし、先方が想定している上限を超えないようにしてください』
「分かりました」
「俺は、資材の件を確認してきます」
神谷が立ち上がる。
『代替品を使用するのですか』
「まだ決めません。施工会社が別の現場で確保している資材を、一部だけこちらへ回せる可能性があります」
『別の工事へ影響しませんか』
「予定より早く終わる区画があるそうです。余る数量を確認します」
『規格と品質の確認もお願いします』
「はい」
『運搬費もです』
「分かっています」
『納期の書面も――』
「日高さん」
『何でしょうか』
「全部確認してきます」
『お願いします』
神谷が会議室を出る。
凛は、閉じた扉と樹里を交互に見た。
「いつものお二人に戻りましたね」
『最初から変わっていません』
「そうですか」
『何か言いたいのですか』
「いいえ。確認してきます」
凛も会議室を出ていった。
一人になった樹里は、再び収支表へ向き直る。
人から聞いた事情を。
実現できる数字へ変える。
以前の樹里であれば、一人で完成させようとしていた。
今は、凛が契約を確認し。
陽菜が相手の希望を聞き。
萌と陸が現場の条件を図面へ残し。
神谷が施工会社との調整へ向かっている。
樹里の手元に集まる数字は。
すでに、樹里一人が作ったものではなかった。
◇
昼休み。
陽菜は自分の席で、コンビニの弁当を開いた。
朝は、中井が作った食事をきちんと食べた。
樹里に言われたからではない。
中井が、食べ終わるまで目の前から動かなかったからだった。
「櫻井先輩」
隣の席から、萌が呼ぶ。
「今日は、どこかへ行かないんですか」
『午後から、共同倉庫の件で一社訪問するよ』
「昼食のことです」
『今日はここで食べる』
「珍しいですね」
『外まで行くの面倒だから』
陽菜は弁当の蓋を開けた。
揚げ物の匂いが広がる。
その瞬間。
胃の奥が、僅かに持ち上がった。
『……う』
陽菜は反射的に口元を押さえた。
「どうしました?」
『何でもない』
「気分が悪いんですか」
『違う。ちょっと油の匂いがきつかっただけ』
「昨日も、お腹に違和感があったんですよね」
『日高先輩から聞いたの?』
「同じ会議室にいました」
『もう治ったよ』
「ですが」
『大丈夫』
陽菜は、揚げ物を弁当の端へ寄せた。
代わりに、白いご飯を口へ運ぶ。
問題なく食べられる。
『ほら。平気』
「揚げ物は残すんですか」
『今日は食べたくないだけ』
「櫻井先輩が?」
『あたしだって、そういう日くらいあるよ』
萌は納得していない顔をしていたが、それ以上は言わなかった。
陽菜は弁当を食べながら、机の下でスマートフォンを確認した。
カレンダーを開く。
昨日から、さらに一日が過ぎている。
生理は、まだ来ていない。
腹部の違和感。
今まで気にならなかった匂い。
ただ、意識しているから気づいただけかもしれない。
妊娠を考えたことで、普段なら流していた変化を拾っているだけ。
陽菜は画面を閉じた。
「病院へ行った方がいいんじゃないですか」
萌が小さな声で言う。
『大げさだよ』
「体調が悪いまま外出する方が危ないです」
『悪くないって』
「本当に?」
『本当に』
「なら、いいですけど」
『心配しすぎ』
「櫻井先輩が、大丈夫と言いながら無理をするからです」
『最近はしてないよ』
「最近も、しました」
『いつ?』
「大抽選会の前です」
『あれは忙しかったから』
「高槻興産の案件も忙しいですよね」
陽菜は言葉に詰まる。
「櫻井先輩」
『分かった。悪くなったら言う』
「誰にですか」
『萌に』
「私だけでは困ります」
『じゃあ、日高先輩にも』
「中井さんにもです」
『中井くんは関係ないでしょ』
「一緒に暮らしているんですから、会社の私より先です」
『分かったって』
陽菜は笑いながら答えた。
だが。
中井には、まだ話せない。
体調のことではなく。
その先にある可能性を、知られてしまいそうだった。
◇
午後の訪問を終えた陽菜が会社へ戻ると、神谷も施工会社から戻ったところだった。
『どうでした?』
「規格の合う資材を、一部だけ確保できました」
『本当ですか』
「はい。すべてではありませんが、工事を二段階に分ければ、大野設備工業の移転に必要な部分を先に完成させられます」
『追加費用は?』
「運搬費を含めて、七十万円ほどです」
『二百八十万円より、かなり下がりましたね』
「日高さんが、共同利用部分を後に回すと言ったからです」
『二人で解決したんですね』
「まだです」
樹里が、自分の席から答える。
『施工会社から、正式な工程表を受け取ってから判断します』
『でも、できそうなんですよね?』
『可能性は高くなりました』
『それなら、できるってことじゃないですか』
『違います』
『日高先輩は厳しいなあ』
「それが、日高さんですから」
神谷が答える。
樹里は何も言わなかったが、否定もしなかった。
「櫻井さんの方は、どうでしたか」
『五年契約で、ほぼ大丈夫です。最初の半年だけ賃料を下げてほしいって』
『遠藤さんが、その後の賃料調整について確認しています』
『じゃあ、そっちもできそうですね』
『まだです』
『もう、日高先輩はそればっかり』
陽菜は自分の席へ戻ろうとする。
その途中。
コーヒーを淹れていた柚希から、紙コップを差し出された。
「陽菜さんも飲みますか?」
『うん。ありがとう』
受け取った直後。
温かいコーヒーの香りが鼻へ届く。
普段なら、何も気にならない匂い。
むしろ、仕事の合間には落ち着くはずだった。
今日は、苦みの強い香りだけが妙に近く感じる。
陽菜は紙コップへ口をつけなかった。
「熱かったですか?」
『ううん。少し冷ましてから飲む』
「気をつけてください」
『ありがと』
自分の席へ戻り、紙コップを机の端へ置く。
仕事を再開しても、手は伸びなかった。
しばらくして、コーヒーは冷めた。
それでも陽菜は飲まず。
退勤時刻を迎える頃まで、そのまま机の上に残っていた。
◇
夕方。
大野設備工業から、神谷へ連絡が入った。
神谷は、その場で内容を確認する。
「分かりました。ありがとうございます」
通話を終えると、樹里が顔を上げた。
『大野社長ですか』
「はい」
『返答は?』
「十年契約について、受け入れる方向で進めるそうです」
陽菜たちも仕事の手を止める。
「本当ですか?」
凛が尋ねた。
「はい。ただし、四つの条件が契約へ入ることが前提です」
『高槻社長の返答は、まだですよね』
「明日の午後、最終案を持って伺います」
『共同利用の会社からも、先ほど返答をいただきました』
凛が言う。
「賃料の調整を含め、五年契約で問題ないそうです」
『これで、全部そろいましたか?』
陽菜が樹里を見る。
樹里は、収支表へ最後の数字を入力する。
大野設備工業の十年契約。
共同利用する会社の五年契約。
二年間の賃料調整。
工事を二段階に分けることで抑えられた費用。
島川不動産が一括管理を受けることで削減できる維持費。
高槻興産が負担する改修費。
すべてを加えた結果が表示される。
『六年十一か月です』
「七年を切りましたね」
神谷が言う。
『はい』
『じゃあ、できたんですか?』
陽菜が尋ねる。
樹里は、完成した数字を見る。
最初に一人で作った条件ではない。
神谷が人の事情を聞き。
陽菜たちが、それぞれの相手へ足を運び。
施工会社が工程を変え。
大野設備工業も、自ら負担を受け入れようとしている。
『提案できる形にはなりました』
『やった』
『まだ、合意ではありません』
『でも、日高先輩』
陽菜が笑う。
『今、ちょっと嬉しそうですよ』
『見間違いです』
『神谷さんも、そう思いますよね?』
「はい」
『神谷さん』
「申し訳ありません」
『謝るなら、最初から同意しないでください』
営業部に、小さな笑いが広がる。
樹里は完成した資料を印刷した。
明日。
高槻社長へ、最後の条件を提示する。
そこで認められれば。
大野設備工業は、移転へ向けて進むことができる。
しかし。
十七社すべてをまとめる仕事は、まだ始まったばかりだった。
◇
その夜。
中井が夕食を作り終えた頃、陽菜はダイニングテーブルへ座っていた。
「今日は、魚にしました」
『うん』
「昨日、揚げ物を残したんですよね」
陽菜が顔を上げる。
『何で知ってるの?』
「川原さんから聞きました」
『萌、言ったの?』
「帰りに会ったので。陽菜さんが昼食をほとんど残したと」
『ほとんどじゃないよ。揚げ物だけ』
「体調は悪くないんですか」
『大丈夫』
「お腹に違和感があったとも聞きました」
『萌、全部言ってるじゃん』
「心配していました」
『ちょっと疲れてるだけだよ』
「本当ですか」
『本当』
中井は、陽菜の前に食事を並べる。
焼いた魚。
味噌汁。
温かいご飯。
強い匂いのするものはない。
『あたしのために変えたの?』
「食べやすい方がいいと思っただけです」
『ありがと』
「無理なら、残してください」
『食べられるよ』
陽菜は箸を持つ。
魚を小さく切り、口へ運ぶ。
油の匂いは気にならない。
味も、いつもと変わらなかった。
「大丈夫そうですか」
『うん。おいしい』
「よかったです」
中井も向かいへ座る。
二人で食事を始める。
陽菜は何度か、中井の顔を見た。
今なら話せるかもしれない。
生理が遅れている。
もしかしたら。
まだ、何も分からないけれど。
『中井くん』
「はい」
『あのね』
中井が箸を止める。
「どうしました?」
『……明日、高槻社長に最終案を出すの』
「まとまったんですか」
『うん。まだ、認めてもらえるか分からないけどね』
「きっと大丈夫です」
『何で?』
「陽菜さんたちが、ずっと準備していたからです」
『あたしより、日高先輩と神谷さんだけどね』
「陽菜さんも、その中にいるんでしょう」
『一応ね』
「なら、大丈夫です」
『簡単に言うなあ』
「陽菜さんも、よく言いますよ」
『そうだっけ』
「はい」
陽菜は笑い、食事へ視線を戻した。
言えなかった。
別の話へ変えてしまった。
中井は、何も疑わずに食事を続けている。
陽菜は腹部へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
生理は、まだ来ていない。
匂いが気になることも増えた。
それでも。
妊娠していると決まったわけではない。
明日になれば、いつもどおりになるかもしれない。
今はまだ。
言葉にしてしまう方が怖かった。
「陽菜さん」
『何?』
「本当に、疲れているだけですか」
中井が、静かに尋ねる。
『うん』
「何かあれば、話してください」
『分かってる』
「一人で考えないでくださいね」
陽菜の胸が、僅かに詰まる。
『分かってるって』
もう一度、同じ言葉を返す。
嘘をついているわけではない。
話さないと決めたわけでもない。
ただ。
もう少しだけ、自分で確かめる時間が欲しかった。
仕事では、全員の条件がそろい始めている。
一つずつ確認し。
数字へ変え。
ようやく相手へ提示できる形になった。
だが、自分の身体に起きていることだけは。
まだ、誰かへ渡せるほど確かな形を持っていなかった。




