272話「遅れているもの」
翌朝。
島川不動産の会議室には、旧資材管理棟を共同利用する可能性がある会社の資料が並べられていた。
北側区画で資材保管用の倉庫を借りている、小規模な施工会社。
現在使用している倉庫は、大野設備工業のものよりも狭い。
事務所は別の場所にあるため、移転先に必要なのは資材を保管する区画だけだった。
『必要な広さは、現在と同じでいいんですか?』
陽菜が、電話の向こうにいる担当者へ尋ねる。
「できれば、少し広い方が助かります。ただ、今より賃料が高くなるのであれば難しいです」
『出入りする車は?』
「普段は二台です。大型車が入ることもありますが、月に数回程度です」
『保管する物に、危険物はありますか?』
「ありません。建築資材と工具が中心です」
『分かりました。敷地は大野設備工業さんと共同になりますが、保管区画と出入口は分ける予定です』
「同じ建物を使うんですか」
『建物というより、同じ敷地ですね。倉庫は別になります』
「管理はどうなるんでしょうか」
『島川不動産で一括管理する案を考えています。防犯設備と共用部分の管理費を分けられれば、単独で倉庫を借りるより負担を抑えられる可能性があります』
「まだ、決まってはいないんですよね」
『はい。今日は条件を伺うためのお電話です』
「場所は、今より遠くなりますか」
『ほとんど変わりません』
陽菜は、旧資材管理棟の住所を伝えた。
電話の向こうで、何かを確認する音が聞こえる。
「ここなら、問題ありません」
『本当ですか?』
「今の倉庫より、事務所から近くなります」
『じゃあ、条件が合えば検討していただけますか?』
「賃料次第ですが、一度詳しい話を聞きたいです」
『ありがとうございます。今日中に、仮の区画と賃料をまとめてご連絡します』
陽菜は電話を終え、手元の用紙へ大きく丸をつけた。
『一社、話を聞いてくれるって』
「本当ですか」
隣にいた陸が顔を上げる。
『うん。場所は問題ないみたい』
「賃料は?」
『そこは、これから』
「では、まだ決まったわけではありませんね」
萌が、資料から顔を上げずに言う。
『分かってるよ』
「先方へ、決まったような伝え方はしていませんか」
『してないって。条件を聞いただけ』
「なら、大丈夫です」
『萌、最近どんどん日高先輩みたいになってない?』
「なっていません」
『今の言い方も似てたよ』
「櫻井先輩が、確認せずに話を進めるからです」
『ちゃんと確認したじゃん』
「今回は、です」
『今回はって何よ』
陽菜は不満そうに口を尖らせた。
陸が、二人の間に新しい資料を置く。
「今の会社が必要とする区画は、この範囲で足りると思います」
旧資材管理棟の敷地図。
大野設備工業が使用する予定の事務所と倉庫。
その東側に、新しい区画が書き加えられている。
「大野設備工業の車両とは、入口から分けられます。保管する物も少ないので、簡易倉庫でも対応できる可能性があります」
『設置費は?』
「確認中です。ただ、大野設備工業の増設倉庫と同時に施工できれば、費用を抑えられると思います」
「施工会社から、午後には見積もりが届く予定です」
萌が答える。
『じゃあ、それまでに賃料を計算しよ』
「日高先輩へ確認していただきますか」
『もちろん』
陽菜は、資料を持って立ち上がった。
『最初から日高先輩に怒られない形にして持っていく』
「それがいいと思います」
『陸まで』
陽菜は二人を睨むふりをしてから、会議室を出た。
◇
樹里の机には、複数の資料が開かれていた。
旧資材管理棟の改修費。
大野設備工業の賃貸条件。
共同利用を希望する会社の必要面積。
高槻興産が負担する金額。
数字を変更するたび、全体の回収期間が変わる。
『日高先輩』
陽菜が声を掛ける。
『今、よろしいですか?』
『はい』
『共同利用の件、一社が話を聞いてくれることになりました』
樹里は、陽菜から受け取った用紙へ目を通す。
『現在より事務所に近くなるので、立地には問題ないそうです。必要面積は、陸がまとめてます』
『山本さんが?』
『はい。車両の動線も、大野設備工業さんと重ならないように考えてくれました』
『賃料については、何と伝えましたか』
『まだ決まってないって言いました。条件を聞いただけです』
『分かりました』
樹里は、用紙に書かれた面積を計算表へ入力する。
『想定していた区画より小さいですね』
『駄目ですか?』
『いいえ。追加工事費を抑えられます』
『高槻社長、認めてくれそうですか?』
『まだ分かりません』
『大野社長は?』
『十年契約について、社内で確認されています』
『両方とも、まだなんですね』
『はい』
陽菜は、机に広げられた資料を見る。
樹里の手元には、数字だけではなく、大野設備工業の従業員から聞き取った言葉も置かれていた。
――残したいのは、建物ではなく仕事。
以前の樹里であれば、別の場所へ保管していたかもしれない。
今は、計算表のすぐ横にある。
『神谷さんとは、仲直りしました?』
樹里の手が止まる。
『喧嘩はしていません』
『じゃあ、意見は合いました?』
『すべてではありません』
『まだ揉めてるんだ』
『必要な意見交換です』
『神谷さんが同じこと言ってましたよ』
『何とですか』
『まだ全部は合ってないけど、日高さんと同じ答えを作ってるって』
樹里は神谷の席を見る。
神谷は電話をしながら、施工会社から届いた工程表を確認していた。
『そうですか』
『ちょっと嬉しそう』
『何がですか』
『神谷さんと同じ答えを作ってるのが』
『仕事へ戻ってください』
『はい』
陽菜は笑いながら、自分の資料を持ち直す。
そのとき。
腹部の奥に、僅かな違和感があった。
痛みと呼ぶほどではない。
身体の内側が、少し重くなったような感覚。
陽菜は無意識に腹部へ手を添えた。
『櫻井さん?』
『何でもありません』
『体調が悪いのですか』
『違います。ちょっとお腹すいただけです』
『昼食には、まだ早いです』
『朝、あまり食べてなくて』
『体調管理も仕事のうちです』
『分かってます』
陽菜は手を離した。
確かに、朝はあまり食欲がなかった。
引っ越してから生活の時間が少し変わり、仕事も忙しい。
そのせいだと思った。
『失礼します』
樹里の席を離れ、自分の机へ戻る。
椅子へ座った頃には、先ほどの違和感は消えていた。
◇
午後。
施工会社から、新しい工程表と見積書が届いた。
共同利用用の簡易倉庫を、大野設備工業の増設工事と同時に施工する。
出入口を二つに分ける。
防犯設備の一部を共有する。
それによって追加される工事費と、二社から得られる賃料収入。
樹里が計算表へ数字を入力する。
『回収期間は、六年十か月です』
「七年を切りましたね」
神谷が、隣から画面を見る。
『はい』
「高槻社長が示した条件には入ります」
『ただし、共同利用する会社が長期契約を結ぶことが前提です』
「櫻井さんが、先方へ確認しています」
『大野設備工業の返答は?』
「今日の夕方にいただける予定です」
『その二つがそろえば、再度提案できます』
神谷は工程表を開く。
「もう一つ、問題があります」
『何でしょうか』
「施工会社から、増設用の資材について連絡がありました」
神谷が、一か所へ印をつける。
「当初予定していた資材の納期が、二週間遅れます」
『理由は?』
「別の工事と重なり、在庫を確保できないそうです」
『代替品は』
「あります。ただし、費用が上がります」
『いくらですか』
「約二百八十万円です」
樹里は、すぐに計算表へ数字を追加した。
回収期間が延びる。
ようやく七年を切った数字が、再び七年を超えた。
『通常の資材を待った場合、完成はいつになりますか』
「九月中旬です」
『移転期間が二週間しかありません』
「現在の建物を、十月まで使用できれば間に合います」
『北側区画の工事開始に影響します』
「はい」
『高槻社長は認めません』
「俺も、そう思います」
樹里は工程表を見る。
高い資材を使えば、工期は守れる。
費用を抑えれば、工期が遅れる。
また、どちらかを選ぶ必要がある。
「日高さん」
『何でしょうか』
「先に、施工会社と話します」
『費用を下げられるか、ですか』
「それだけではありません。ほかの工事で余る資材を使えないか確認します」
『規格が合わなければ使えません』
「確認しなければ分かりません」
『分かりました。私は、工程を分けた場合の費用を計算します』
「大野設備工業が先に使用する部分だけを完成させるんですね」
『はい。共同利用の倉庫は、移転後に完成させても問題ありません』
「その会社が待ってくれれば、ですが」
『櫻井さんに確認していただきます』
樹里が陽菜を呼ぼうとしたとき、会議室の扉が開いた。
『日高先輩』
ちょうど、陽菜が資料を持って入ってくる。
『先方から、返事をいただきました』
『どうでしたか』
『十年契約は難しいけど、五年なら検討できるそうです』
『五年ですか』
『その代わり、五年後に更新する場合の賃料上限を決めてほしいって』
「条件としては、悪くないと思います」
神谷が言う。
『大野設備工業の返事がそろえば、収支を作り直します』
『何か増えたんですか?』
陽菜が、机の上の工程表を見る。
『資材の納期が遅れます』
『工事も遅れるんですか』
『代替品を使用すれば、工期は守れます。ただし、費用が上がります』
『またお金ですか』
『はい』
『高槻社長、怒りそう』
『怒るかどうかではなく、認めていただける根拠を作ります』
『日高先輩らしいですね』
陽菜は、共同利用の資料を樹里へ渡す。
『先方には、完成が少し遅れる可能性があるって伝えた方がいいですか?』
『まだ伝えないでください。先に、どの工事を遅らせられるか確認します』
『分かりました』
『櫻井さん』
『はい?』
『先ほどの腹部の違和感は、もうありませんか』
神谷が陽菜を見る。
「体調が悪いんですか」
『本当に何でもないです。もう治りました』
『無理はしないでください』
『してません』
『朝食は、明日からきちんと取ってください』
『日高先輩は、あたしのお母さんですか』
『違います』
『じゃあ、お姉ちゃん?』
『仕事へ戻ってください』
『はいはい』
『返事は一度です』
『はーい』
陽菜は会議室を出ていく。
扉が閉じたあと、神谷が樹里を見る。
「心配ですね」
『いつものことです』
「いつも、朝食を取らないんですか」
『忙しいと抜くことがあります』
「中井さんと暮らし始めてからは、大丈夫だと思っていました」
『本人が大丈夫と言っています』
「先ほどまで、確認していたのに?」
『今は仕事を優先します』
「分かりました」
神谷は僅かに笑い、施工会社へ電話を掛けた。
◇
その日の夜。
陽菜が新居へ帰ると、中井はまだ戻っていなかった。
『ただいま』
誰もいない部屋へ声を掛ける。
返事はない。
それでも、以前の一人暮らしとは違う。
玄関には、中井の靴がある。
洗面所には二本の歯ブラシが並び。
寝室には二つの枕がある。
今は留守にしているだけで、中井はここへ帰ってくる。
陽菜は鞄を置き、冷蔵庫から水を取り出した。
一口飲んだところで、午前中に感じた腹部の違和感を思い出す。
もう痛みはない。
体調も悪くなかった。
『朝ご飯、抜いたからかな』
小さく呟く。
スマートフォンを取り出し、時刻を確認する。
画面には、日付も表示されていた。
陽菜の指が止まる。
『あれ』
カレンダーを開く。
今月の予定。
仕事。
結婚式場との打ち合わせ。
中井と家具を見に行く日。
大野設備工業との協議。
一つずつ確認してから、先月の画面へ戻る。
前回の日付を数える。
もう一度、今月へ戻る。
『……遅れてる』
予定より、数日。
生理が来ていなかった。
陽菜は、しばらく画面を見つめた。
これまでも、仕事が忙しいと遅れることはあった。
引っ越しもあった。
生活の時間も変わった。
高槻興産の仕事が始まり、身体が疲れているだけかもしれない。
そう思いながらも。
頭の中には、別の可能性が浮かんでいた。
陽菜は、無意識に腹部へ手を当てる。
何かが分かるはずもない。
昼間に感じた僅かな違和感も、今は消えている。
『まだ、分かんないよね』
誰に言うでもなく呟く。
中井へ連絡しようとして、LINEを開く。
最後に届いているのは、夕方のメッセージだった。
「少し遅くなります。先に食べていてください」
陽菜は文字を入力する。
『生理、遅れてるかも』
そこまで打って、手を止めた。
まだ数日。
妊娠と決まったわけではない。
ただ疲れているだけかもしれない。
期待させて、違っていたら。
中井は何も責めないだろう。
それでも、きっと陽菜と一緒に考え、一緒に待つ。
その顔を想像すると、今はまだ言えなかった。
入力した文章を消す。
代わりに、別の言葉を送った。
『分かった。待ってる』
すぐに既読がつく。
「先に食べていて大丈夫ですよ」
『一緒に食べたい』
「では、急いで帰ります」
『気をつけてね』
陽菜はスマートフォンを伏せた。
もう一度、カレンダーを見る。
数え間違いではない。
確かに、遅れている。
検査するには、まだ早いかもしれない。
明日になれば来るかもしれない。
陽菜は、カレンダーを閉じた。
今は誰にも話さない。
樹里にも。
美園にも。
そして、中井にも。
自分の中で何が起きているのか。
まだ、陽菜自身にも分からなかった。
しばらくして、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま帰りました」
『おかえり』
陽菜は立ち上がり、いつもと同じように中井を迎える。
「待っていたんですか」
『うん。一緒に食べたかったから』
「遅くなってすみません」
『いいよ』
中井が持っていた鞄を受け取る。
その手が、いつもより少しだけ長く触れた。
「陽菜さん?」
『何?』
「いえ」
『早く食べよ。お腹すいた』
「はい」
中井は何も気づいていない。
陽菜も、まだ何も伝えなかった。
二人で暮らし始めたばかりの部屋。
十月へ向けて、少しずつ増えていく予定。
その中にまだ書き込まれていない一つの可能性を。
陽菜は、自分の胸の中だけに残した。




