271話「同じ机」
高槻興産と大野設備工業の協議は、二日後に行われた。
高槻興産本社の会議室。
長い机の一方に、高槻社長と再整備計画の担当者が座る。
向かい側には、大野社長。
その間に、島川不動産の黒澤、樹里、神谷が並んでいた。
施工会社の担当者も、建物の調査結果と図面を持って同席している。
机の中央には、旧資材管理棟の改修案が置かれていた。
四千六百万円。
その数字を見た高槻社長は、資料を閉じた。
「認められない」
協議が始まって、十分も経っていなかった。
「一社の移転へ掛ける金額ではない」
「うちも、一千二百万円なんて払えない」
大野社長も答える。
「出ていけと言われた側が、どうしてそこまで負担しなきゃならない」
「高槻興産が求めているのは、契約に基づいた退去です」
高槻社長が言う。
「移転先の設備を、すべてこちらで用意する義務はない」
「三十二年も使わせておいて、今さら契約だけの話をするのか」
「使わせていたんじゃない。契約して貸していた」
「その間、高槻さんの仕事もどれだけ受けてきたと思ってる」
「仕事は仕事だ。賃貸借契約とは別だ」
二人の声が低くなる。
神谷が口を開こうとしたとき、樹里が先に資料を開いた。
『高槻社長』
「何だ、日高」
『旧資材管理棟の改修は、大野設備工業への移転補償だけではありません』
「その説明は読んだ」
『でしたら、四千六百万円という金額だけで判断しないでください』
会議室が静かになる。
高槻社長が樹里を見る。
「続けろ」
樹里は、収支予測を記載した資料を全員の前へ配る。
『旧資材管理棟は、八年間使用されていません。その間の賃料収入はなく、固定資産税と最低限の維持管理費だけが発生しています』
「それも知っている」
『今後も使用しないのであれば、同じ状態が続きます。建物を解体する場合にも、別途費用が必要です』
「だから、直した方が得だと言うのか」
『条件が整えば、です』
樹里は、資料の中央にある数字を指した。
『改修後、大野設備工業と十年間の賃貸借契約を締結した場合、高槻興産が負担する基本改修費は、賃料収入によって回収できます』
「何年掛かる」
『現在の想定では、七年八か月です』
「長いな」
『八年間、収入を生んでいなかった資産です』
「十年借り続ける保証は?」
『定期建物賃貸借契約とし、中途解約の条件を制限します』
「勝手に決めるな」
大野社長が樹里を見る。
「十年も縛られるなんて聞いてない」
『本日、協議するために提示しました』
「北側区画が完成したら、戻れる話じゃなかったのか」
『戻ることを希望される場合は、その条件も検討します』
「旧資材管理棟に十年いろと言いながら、戻る話もするのか」
『どちらを選ぶかによって、高槻興産が負担できる金額が変わります』
樹里は、二つの案を机へ並べた。
一つは、旧資材管理棟を一時的な移転先として使用する案。
大野設備工業は再整備が終わるまでの数年間だけ入居し、その後、新しい北側区画へ戻る。
もう一つは、旧資材管理棟へ長期的に移転する案。
再整備後も同じ場所で営業を続け、十年以上の賃貸借契約を結ぶ。
『一時的な移転の場合、高槻興産が改修費を回収する期間がありません。そのため、大野設備工業にも、より多くの負担が必要です』
「いくらだ」
『現時点の試算では、一千八百万円です』
「増えてるじゃないか」
『はい』
「話にならない」
『長期契約であれば、一千二百万円まで下げられます』
「それでも払えないと言ってる」
大野社長が腕を組む。
高槻社長も、二つの案を見比べたまま表情を変えない。
「日高」
『はい』
「高槻興産が三千四百万円を負担する根拠は、賃料だけか」
『いいえ』
「ほかは?」
『北側区画再整備の工期を守るためです』
「それは、払わなければ工事が遅れるという意味か」
『大野設備工業との合意が得られなければ、その可能性があります』
「脅しているのか」
『事実を申し上げています』
「日高さん」
黒澤が低い声で止める。
樹里は、高槻社長から視線を逸らさなかった。
「言い方を変えろ」
『申し訳ありません』
樹里が僅かに頭を下げる。
『工期が遅れた場合の損失と、旧資材管理棟を改修する費用を比較していただきたいという意味です』
「比較した結果、高いと言っている」
「高槻社長」
今度は神谷が口を開いた。
「大野設備工業は、北側区画から退去することだけを拒んでいるのではありません」
「何?」
「会社と、従業員と、取引先を守れない条件だから拒んでいます」
「また感情の話か」
「いいえ」
神谷は、大野設備工業の業務に関する資料を開く。
「現在地から三十分以内に、定期契約を結んでいる取引先が三十一社あります。緊急対応を理由に契約を継続している取引先も確認できました」
「それが、高槻興産に何の関係がある」
「大野設備工業が事業規模を縮小すれば、再整備工事にも影響する可能性があります」
「うちの工事を請け負わせるつもりか」
「すでに、高槻興産の複数の施設で設備管理を担当しています」
大野社長が神谷を見る。
「そこまで調べたのか」
「はい」
「高槻興産が別の会社へ頼めば終わる話だ」
高槻社長が言う。
「代わりはいくらでもいる」
「本当に、すぐに代えられますか」
「何?」
「大野設備工業は、三十二年間この場所で営業しています。その間、高槻興産の施設についても多くの記録を蓄積しています」
神谷は、設備管理の履歴を机へ置いた。
「建物ごとの配管。過去の故障箇所。交換した部品。ほかの業者へ切り替えれば、同じ情報を一から確認する必要があります」
「そのために、三千四百万円を出せと言うのか」
「違います」
「何が違う」
「大野設備工業だけを守るためではありません。高槻興産がこれまで積み重ねた関係を、再整備後も残すためです」
「綺麗に言い換えても、金額は変わらない」
『変えます』
樹里が答えた。
「どうやってだ、日高」
『工事の内容を分けます』
樹里は、施工会社から受け取った見積書を開く。
『四千六百万円のうち、旧資材管理棟を賃貸物件として使用するために必要な基本改修費が三千四百万円。大野設備工業の業務にのみ必要な設備が一千二百万円です』
「それは、さっき聞いた」
『基本改修費の中に、すぐには必要のない工事が含まれています』
施工会社の担当者が樹里を見る。
「どの部分でしょうか」
『建物北側の外壁と、使用しない二部屋の内装です』
「確かに、入居時点で必須ではありません。ただし、今後賃貸物件として使用するなら、いずれ必要になります」
『今である必要はありません』
「工事を二回に分けると、総額は上がる可能性があります」
『承知しています』
「いくら下がる」
高槻社長が尋ねる。
『初期費用を、約四百万円下げられます』
「まだ三千万円だ」
『はい』
「ほかは?」
『大野設備工業専用の設備も、すべてを建物側へ固定する必要はありません』
樹里が萌と陸の作成した図面を開く。
『移動可能な棚と簡易設備へ変更すれば、将来大野設備工業が退去する際際にも持ち出せます』
「こちらの負担になる設備を、資産として残せるということか」
大野社長が尋ねる。
『はい。その部分は、高槻興産の所有物ではなく、大野設備工業の設備として扱います』
「いくら減る」
『約三百万円です』
「まだ九百万円か」
『はい』
「払えない」
大野社長は、すぐに答えた。
『金額だけでなく、支払方法も協議させてください』
「月々の家賃へ乗せるんだろ」
『すべてではありません』
樹里は新しい表を示す。
『大野設備工業から、過去五年間の修繕費をいただきました。平均すると、年間で約百六十万円です』
「古い建物だからな」
『旧資材管理棟へ移れば、少なくとも数年間は大規模な修繕が発生しません』
「絶対か」
『施工会社の保証期間を契約へ入れます』
施工会社の担当者が頷く。
「施工部分については、一定期間の保証を設定できます」
『現在支払っている外部倉庫の費用と修繕費。その範囲内に、賃料の増額と設備費の分割分を収めます』
「持ち出しを増やさないということか」
『年間の支出だけを見れば、大きく増えないよう調整できます』
「何年だ」
『十年間です』
「結局、十年縛るんだな」
『高槻興産が費用を回収するために必要です』
「日高」
高槻社長が呼ぶ。
『はい』
「大野の負担を減らせば、こちらの回収が遅れる」
『はい』
「どこまで遅れる」
『現在の案では、九年二か月です』
「十年契約で、残り十か月しか利益がない」
『十一年目以降も賃貸できます』
「大野が出たら?」
『次の入居企業を、島川不動産が募集します』
「必ず決められるのか」
『必ずとは申し上げられません』
「なら、認められない」
話が再び止まる。
高槻興産は、回収できない投資を認めない。
大野設備工業は、移転による負担の増加を受け入れない。
どちらも、間違ってはいない。
一方だけに譲らせれば、合意にはならない。
神谷が、机の上にある十七社の一覧へ目を向けた。
「旧資材管理棟を、大野設備工業だけへ貸さない方法はどうでしょうか」
樹里が神谷を見る。
「どういう意味だ」
高槻社長が尋ねる。
「敷地の空いている部分を、ほかの会社にも使用していただきます」
『共同倉庫ですか』
「はい」
「そんな話は聞いてないぞ」
大野社長が言う。
「事務所と、業務に必要な倉庫は大野設備工業が単独で使用します。それ以外の空き地へ、小規模な倉庫を設置します」
『北側区画から移転する三社が、倉庫の拡張を希望しています』
樹里が資料を確認する。
『そのうち一社は、事務所を必要としていません。資材の保管場所だけを探しています』
「同じ敷地を使わせるのか」
『出入口と保管区画を分けられるのであれば可能です』
施工会社の担当者が図面を見る。
「増設倉庫の位置を変更すれば、敷地の東側を別区画として分けられます。車両の出入口も分けることができます」
「その会社からも賃料を取るのか」
「はい」
神谷が答える。
「高槻興産の回収期間を短くできます」
樹里はすぐに計算を始める。
想定される倉庫面積。
周辺の賃料相場。
追加で必要になる工事費。
大野設備工業へ貸し出す部分との割合。
数字を入力するたび、収支の形が変わっていく。
『追加工事費を含めても、二社から賃料を得られれば、回収期間を七年以内まで短縮できる可能性があります』
「可能性ではなく、数字を出せ」
高槻社長が言う。
『先方の必要面積と、支払可能な賃料を確認します』
「いつまでだ」
『明日中に確認します』
「日高さん、一人では難しくありませんか」
黒澤が尋ねる。
『遠藤さんに契約情報を確認していただきます。櫻井さんには、先方への聞き取りをお願いします』
「俺は、両社の使用条件を整理します」
神谷が続ける。
「施工会社と、敷地を分ける方法も確認します」
高槻社長は、机の上に広げられた図面を見る。
「大野」
「何ですか」
「別の会社と同じ敷地を使うことはできるか」
「仕事の邪魔にならないなら」
「出入口も、倉庫も分ける」
「誰が来るかによる」
「それは、これから確認する」
「うちの賃料は?」
「回収が早まるなら、条件を見直す余地はある」
大野社長が高槻社長を見る。
「初めて、そっちも譲るようなことを言ったな」
「まだ譲っていない」
「同じだろ」
「違う」
二人の間に、再び緊張が生まれる。
だが、先ほどまでとは違っていた。
互いに拒むための言葉ではない。
条件を確かめるための言葉へ、少しずつ変わっている。
「明日まで待つ」
高槻社長が言った。
「追加の借り手が決まらなければ、この案は認めない」
『承知しました』
「大野もだ」
「何がですか」
「十年契約を受け入れられるか、社内で確認しろ」
「従業員にも話す」
「好きにしろ」
「高槻さん」
「何だ」
「うちだけに決めさせるな。そっちも、本当に金を出すか決めておいてくれ」
高槻社長は、すぐには答えなかった。
「数字が合えば出す」
「また数字か」
「会社だからな」
「だったら、こっちも会社として判断する」
大野社長は、二つの移転案を持って立ち上がった。
「明日、返事をする」
会議室を出ていく直前。
一度だけ、樹里と神谷を見る。
「まだ、断ったわけじゃない」
「ありがとうございます」
「礼は、まとまってからにしろ」
大野社長が会議室を出る。
高槻社長も立ち上がった。
「神谷、日高」
「はい」
『はい』
「明日が最後だ」
高槻社長は、十七社の一覧を指す。
「一社へ時間を掛けすぎて、ほかを落とすな」
『進捗に遅れはありません』
「なら、証明しろ」
「必ず、すべての条件をそろえます」
「お前たちが同じ机へつけたんだ」
高槻社長は、閉じられていない資料を見る。
「最後まで、途中で立たせるな」
二人は同時に頭を下げた。
会議室に残った机の上には。
高槻興産の利益。
大野設備工業の仕事。
二十六人の従業員の生活。
施工会社の工期。
ほかの十六社との公平性。
それぞれの事情が、同じ資料の中へ並べられていた。
どれか一つを正しいと決めれば、別の何かが残らない。
だからこそ。
全員が同じ机についたまま、受け入れられる答えを探す必要があった。




