270話「誰が負担するのか」
旧資材管理棟の現地確認から三日後。
施工会社から、正式な調査結果が届いた。
営業部の会議室には、樹里、神谷、黒澤が集まっている。
机の中央に置かれた資料を、三人は黙って見つめていた。
屋根の補修。
外壁と床の一部改修。
電気設備と給排水設備の交換。
敷地内の舗装。
既存倉庫の補強。
新しい倉庫の増設。
車両が一方向に通り抜けるための出入口。
大野設備工業から聞き取った条件を反映した結果、必要な改修費は当初の予想を大きく上回っていた。
「四千六百万円か」
黒澤が資料を机へ置く。
「高槻が認めると思うか」
『現状のままでは、難しいと思います』
樹里が答える。
「思いますじゃない。まず認めないだろ」
「はい」
神谷も否定しなかった。
「一社を移すためだけに出す金額ではありません」
「だったら、この案は終わりか」
『いいえ』
樹里は、別に用意した資料を黒澤へ差し出す。
『旧資材管理棟を、移転補償だけで改修するから高く見えます』
「どういう意味だ」
『改修後の資産価値と、将来の賃料収入を含めます』
黒澤が資料を開く。
旧資材管理棟は、八年間使用されていない。
その間、高槻興産には一円の賃料も入っていなかった。
建物を解体する場合にも費用が掛かる。
土地だけを売却する案も過去に出ていたが、接道条件と周辺環境の問題から、具体的な買い手は見つかっていない。
『改修後に大野設備工業へ貸し出せば、賃料収入が発生します。再整備後に大野設備工業が北側区画へ戻る場合も、別の事業者へ貸し出すことができます』
「借りる会社が見つかれば、だろ」
『高槻興産と取引のある十七社のうち、三社が倉庫の拡張を検討しています』
「今回の移転対象か」
『はい。現在の契約整理で確認しました』
「日高さん」
黒澤が資料から顔を上げる。
「最初から、そこまで考えてたのか」
『大野設備工業だけでは、高槻興産を説得できないと判断しました』
「いつ調べた」
『施工会社へ調査を依頼したあとです』
「寝てるか?」
『問題ありません』
「答えになってない」
『業務に支障はありません』
黒澤は神谷を見る。
「神谷」
「はい」
「止めろと言ったよな」
「言われました」
「止めたか」
「昨日は、日付が変わる前に帰っていただきました」
『帰らされたと言った方が正確です』
「それでいい」
『自宅でも確認はできます』
「意味ないだろうが」
黒澤が眉間を押さえる。
「お前ら二人そろって、加減を覚えろ」
『期限があります』
「倒れたら、もっと時間を失う」
以前、神谷が体調を崩したときのことを言っている。
神谷は僅かに視線を落とした。
「申し訳ありません」
『神谷さんのことです。私は倒れていません』
「日高さんにも言ってる」
『承知しております』
「絶対、分かってないな」
黒澤は溜め息をつき、資料へ視線を戻す。
「それで、この四千六百万円を、どう分ける」
『建物そのものの価値を回復させる工事は、高槻興産が負担します』
「屋根と外壁、電気、給排水か」
『はい。敷地内の舗装も、所有者側の資産整備として求めます』
「倉庫の増設は?」
『大野設備工業にも一部負担を求めます』
「いくらだ」
『一千二百万円です』
黒澤が目を細める。
「払えるのか」
「難しいと思います」
神谷が答える。
「現在の事務所と倉庫に、大きな設備投資をした記録はありません。急に一千二百万円を求めれば、大野社長は断る可能性があります」
『全額を一度に支払う必要はありません』
樹里は次の資料を開く。
『高槻興産が一時的に立て替え、その分を一定期間の賃料へ加算する方法があります』
「家賃が上がれば、結局は同じだろ」
『一括で支払うより、資金への負担は減ります』
「いくら上がる」
『十年間で分割する場合、利息を除いて月額十万円です』
「今の賃料との差は?」
『改修後の基本賃料を含めると、月額で約二十二万円増えます』
「大野が飲むと思うか」
『現在の移転候補へ移った場合も、倉庫面積の増加によって同程度の差額が発生します』
「だったら、場所が近い分だけ得か」
『数字の上では、そうなります』
「数字の上ではな」
黒澤の言葉に、樹里が黙る。
神谷は、大野設備工業から聞き取った内容を開いた。
「大野社長が、賃料の増額だけを見て判断すれば断ると思います」
『では、何を加えますか』
「大野設備工業が、この場所へ移ることで得られるものです」
『取引先への移動時間、従業員の通勤、現在の業務を維持できることは資料へ入れています』
「それだけではありません」
「まだあるのか」
黒澤が尋ねる。
「現在の倉庫より広くなります。車両の動線も、大野設備工業の意見に合わせて作り直せます。老朽化した電気設備や水回りも、新しくなります」
『新しい設備によって削減できる費用ですか』
「はい。現在の建物は、大野設備工業側で何度も修繕しています。今後必要になる修繕費まで含めれば、賃料の差は小さくなります」
樹里はすぐに資料を開く。
『過去の修繕記録を確認します』
「それから、現在は事務所内で管理している書類の一部を、別の倉庫へ預けています」
『外部倉庫ですか』
「はい。新しい倉庫へまとめられれば、その契約を終了できます」
『年間費用は確認しましたか』
「資料をいただいています」
神谷が一枚の書類を差し出す。
樹里は受け取り、数字を確認する。
『この費用を差し引けば、実質的な増額は月額十四万円程度まで下がります』
「ほかの経費も確認します」
『お願いします』
二人の会話を、黒澤が黙って見ている。
「昨日まで揉めてた人間には見えないな」
『意見は、まだ一致しておりません』
「方法については、です」
神谷が続ける。
「大野設備工業に残っていただくという目的は、最初から同じです」
「なら、最初から一緒にやれ」
『神谷さんが、先に条件を出すべきではないとおっしゃったので』
「日高さんが、条件がなければ話にならないとおっしゃったからです」
「俺を間に入れるな」
黒澤は椅子の背へ身体を預ける。
「高槻へ持っていける形にはなってる。ただ、大野が受けるかは別だ」
『先に高槻興産の負担範囲を確定させます』
「大野社長へ、同時に説明できないでしょうか」
神谷が尋ねる。
『条件が決まっていない状態で、同じ席へつけるのですか』
「別々に話せば、どちらも相手の返答を待つことになります」
「高槻は、大野が飲むなら考える。大野は、高槻が金を出すなら考える。そうなるだろうな」
黒澤が言う。
「だったら、最初から同じ席で話させろ」
『感情的な対立になる可能性があります』
「すでに対立してる」
「俺も、同じ席で話すべきだと思います」
神谷が樹里を見る。
「日高さんが数字を説明し、俺が大野設備工業の条件を確認します」
『高槻社長が席を立てば、交渉は終わります』
「立たせません」
『どうやってですか』
「高槻興産にも利益がある話だと、最初に理解していただきます」
『それを説明するのは私です』
「はい。お願いします」
樹里は僅かに目を細める。
『最初から、私へ任せるつもりでしたか』
「数字で高槻社長を止められるのは、日高さんです」
『神谷さんは、何をするのですか』
「大野社長を止めます」
「役割が決まったな」
黒澤が立ち上がる。
「明日、高槻と大野の予定を確認する。施工会社にも来てもらえ」
『黒澤部長も同席されますか』
「最初だけな」
「途中で帰られるんですか」
「お前ら二人へ任せた仕事だろ」
黒澤は、樹里と神谷を見る。
「俺が最後まで座ってたら、高槻も大野も俺に答えを求める」
『ですが、会社としての判断が必要になった場合は』
「日高さん」
黒澤が、樹里の言葉を止める。
「その場で判断できるように、今まで仕事を任せてきたつもりだ」
樹里は黙った。
「神谷もだ」
「はい」
「決められない条件が出たときだけ、俺を呼べ」
『承知しました』
「分かりました」
「それまでに、数字を完成させろ」
◇
その日の夕方。
樹里と神谷は、大野設備工業を訪れた。
応接室へ通されると、大野社長は机の上に一枚の図面を置いていた。
旧資材管理棟の図面。
萌と陸が、従業員から聞いた内容を書き込んだものだった。
「結果が出たのか」
『建物は改修可能です』
「本当か」
「主要部分は残せます。倉庫の増設も、現時点では可能です」
「九月までに間に合うのか」
『早急に着手できれば、八月中の完成を目指せます』
「目指せるだけか」
『調査結果では可能です。ただし、資材の納期や申請によって変わる場合があります』
「費用は?」
樹里は資料を机へ置く。
『四千六百万円です』
大野社長の表情が固まる。
「そんな金、うちにはない」
『全額を、大野設備工業へ求めるつもりはありません』
「高槻さんが払うのか」
『建物の基本的な改修部分については、高槻興産へ負担を求めます』
「いくらだ」
『現時点では、三千四百万円を想定しています』
「残りは?」
『大野設備工業にも、一千二百万円を負担していただく必要があります』
「無理だ」
大野社長は、すぐに資料を閉じた。
「そんな金を払うくらいなら、今の場所に残る」
「一括で支払っていただく必要はありません」
神谷が言う。
「高槻興産に立て替えを求め、賃料へ分割して加える案を考えています」
「家賃が上がるんだろ」
『はい』
「いくらだ」
『改修後の基本賃料を含め、現在より月額二十二万円ほど増える計算です』
「話にならない」
『外部倉庫の契約を終了できれば、実質的な増額は月額十四万円ほどです』
「それでも上がる」
『現在の建物で今後必要になる修繕費を含めれば、差はさらに小さくなります』
「数字で誤魔化すな」
『誤魔化しておりません』
「出ていくために金を払って、家賃まで上がる。どこが得なんだ」
「今の仕事を、今の従業員と続けられます」
神谷が答える。
「候補になっていた工業団地へ移れば、少なくとも四名が退職を考えています。それ以外にも、迷っている方がいます」
「それは分かってる」
「現在地に近い旧資材管理棟なら、辞める理由はないと話してくださった方もいます」
「従業員に聞いたのか」
「大野社長から、許可をいただきました」
「俺を説得するために使うな」
「説得するためではありません」
「同じだろ」
「違います」
神谷は、大野社長から目を逸らさない。
「社長が守ろうとしているものを、確認するためです」
「俺が守るもの?」
「建物ではなく、会社ではありませんか」
大野社長の目が僅かに動く。
「昨日、従業員の方から聞きました。残したいのは建物ではなく、仕事だと」
「だから、俺が金を払えと?」
「何も負担せずに、すべてを守ることはできません」
神谷は、はっきりと伝えた。
樹里が僅かに神谷を見る。
「高槻興産にも負担を求めます。島川不動産も、調査費用を負担しています。施工会社には、工期を短縮する方法を検討していただいています」
「それで、うちにも払えと」
「はい」
「出ていけと言われた側なのにか」
「大野設備工業にしか必要のない設備があります」
神谷は、図面を開く。
「資材の保管方法。工具の洗浄設備。車両の動線。すべて、大野設備工業の皆さんから伺った条件です」
「仕事に必要なものだ」
「はい。だから、残します」
神谷は図面の上にある線を指す。
「ただし、それをすべて高槻興産へ負担させれば、ほかの十六社から同じ条件を求められたときに説明できません」
「うちは三十二年いる」
「ほかの会社にも、それぞれの時間があります」
大野社長が黙る。
「大野設備工業だけが、特別に守られる提案にはできません」
「だったら、何でここまでやった」
「特別扱いをせずに、残せる方法を探すためです」
神谷の隣で、樹里が資料を開く。
『高槻興産、大野設備工業、島川不動産。そのすべてが負担し、すべてに利益が残る形へ調整します』
「都合がよすぎる」
『誰か一社だけに都合のいい条件では、合意できません』
「高槻さんは、この金額を認めたのか」
『まだです』
「大野が受けるなら考える。どうせ、そう言うんだろ」
『その可能性があります』
「だったら、また待たされるだけじゃないか」
「同じ席で話していただけませんか」
神谷が言った。
「高槻社長と、です」
「俺を高槻さんの前で説得するつもりか」
「高槻社長にも、同じ資料を見ていただきます」
「断ったら?」
『高槻興産の負担理由を、私から説明します』
「日高さんが?」
『はい』
「高槻さんが怒ってもか」
『関係ありません』
「随分、簡単に言うな」
『簡単ではありません』
樹里は資料を閉じなかった。
『ですが、別々に条件を伝えていても、どちらも相手の返事を待つだけです』
「昨日まで、あんたは条件が決まってから話すと言ってただろ」
『考えを変えました』
「どうして」
樹里は、隣にいる神谷を見る。
『条件は、私たちだけで決めるものではないからです』
神谷も樹里を見る。
それは、数日前の樹里であれば選ばなかった方法だった。
正確な条件を作り。
間違いがないことを確認し。
それから相手へ示す。
樹里は、その順番を変えようとしている。
「日高さん」
大野社長が呼ぶ。
「高槻さんと同じ席につけば、本当にこちらの話もするんだな」
『確認した内容は、すべてお伝えします』
「都合の悪いこともか」
『はい』
「高槻さんが契約どおりに出ていけと言ったら?」
『それでは合意にならないと申し上げます』
「仕事を切られるぞ」
『その場合は、島川不動産へ戻って黒澤部長に謝ります』
「そこは俺じゃないんですね」
神谷が小さく言う。
『神谷さんも一緒です』
「やはり、俺もですか」
『当然です』
大野社長が、僅かに口元を緩めた。
すぐに表情を戻し、図面を見る。
「一千二百万円は、まだ認めない」
『承知しております』
「家賃もだ」
『はい』
「でも、高槻さんとは話す」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、話がまとまってからにしろ」
大野社長は、閉じていた資料を再び開いた。
誰が、いくら負担するのか。
誰が、どこまで譲るのか。
まだ、何一つ決まっていない。
ただ。
別々の場所で相手の返事を待っていた二社が。
初めて、同じ一つの机につこうとしていた。




