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269話「働く人の図面」

翌日の午後。


 旧資材管理棟の前に、二台の車が止まった。


 先に降りてきたのは、大野社長だった。


 続いて、作業服を着た三人の従業員が車から降りる。


 倉庫を管理している者。


 車両と資材の手配を担当している者。


 長く現場へ出ている者。


 全員が建物を見上げ、険しい表情を浮かべていた。


「ここです」


 神谷が門を開ける。


「昨日、日高さんと内部を確認しました」


「思っていたより古いな」


 大野社長が言った。


「十九年前から、ほとんど変わってないんじゃないか」


『八年前から使用されていません』


 樹里が答える。


『本日は施工会社にも来ていただいております。建物の状態を確認しながら、必要な改修を整理します』


「直せると決まったのか」


『まだです』


「昨日と同じか」


『はい』


 樹里は大野社長を真っ直ぐに見る。


『ですから、今日は使えるかどうかではなく、使うために何が必要かを教えてください』


 少し離れた場所には、萌と陸も立っていた。


 二人とも手には図面と記録用の用紙を持っている。


『川原さんは、建物内で必要な設備を確認してください』


「はい」


『山本さんは、車両の動線と資材の搬入方法をお願いします』


「分かりました」


「新人に任せるのか」


 大野社長が二人を見る。


『二人だけで判断はさせません』


「なら、何をさせる」


『働く方の言葉を、そのまま記録してもらいます』


 樹里の返答に、大野社長が僅かに眉を動かす。


『私たちが必要だと考えたものではなく、大野設備工業の皆さんが必要だと考えるものを残すためです』


「書くだけか」


「まずは、です」


 神谷が答える。


「聞いた内容を持ち帰り、条件と費用へ置き換えます」


「また数字にするのか」


『数字にしなければ、実現できません』


「日高さん」


 神谷が樹里を見る。


『ただし、数字にする前に、すべて伺います』


 樹里が続ける。


『昨日、神谷さんから指摘されました』


「日高さんが、認めるんですね」


『必要だと判断しただけです』


 神谷はそれ以上何も言わなかった。


 大野社長が、二人を交互に見る。


「まだ揉めてるのか」


『揉めておりません』


「意見を合わせている途中です」


 二人の答えは、また少しだけ違っていた。


     ◇


 最初に確認したのは、車両の出入口だった。


 大野設備工業が使用している車両の中で、最も大きなものと同程度の車が敷地へ入る。


 運転しているのは、車両管理を担当する従業員だった。


 一度目。


 車両は門を通過できたが、建物の前で大きく切り返した。


 二度目。


 倉庫の入口へ後方を向けようとしたところで、左側の植え込みに近づきすぎる。


「これでは、朝に何台も続けて出せないですね」


 陸が図面へ線を引く。


「門の幅は足りていますが、敷地内で方向を変える場所が狭いです」


「今の倉庫は、一周できるようになってる」


 従業員が答える。


「前から入って、資材を積んで、そのまま前から出られる。ここだと、一台ずつ入れ替えないと無理だ」


「植え込みを撤去しても難しいでしょうか」


「多少は広くなる。ただ、倉庫の入口が一つしかないからな」


 陸は、現在の建物と空き地を見比べる。


「増設する倉庫の入口を、反対側へ向けた場合は?」


「反対側?」


「こちらから入った車が、既存の倉庫で資材を積みます。そのまま増設部分の中を通って、裏側から出られるようにします」


 陸が図面へ新しい線を引く。


 既存倉庫と、増設予定の空き地。


 二つを繋ぐように、車両の動線を描く。


「倉庫そのものを、通路にするのか」


「資材の保管場所と重ならないようにする必要はあります」


「それなら、今の倉庫と同じ流れにできるかもしれない」


 従業員が図面を受け取り、自分でも線を書き足す。


「ただ、ここに柱があると大型車は曲がれない」


「柱の位置は、施工会社へ確認します」


「洗い場も必要だ。泥がついたままの工具を、倉庫へ入れられない」


「場所は、どこがいいですか」


「出口の前だな。洗って、そのまま道具だけ中へ戻せる方がいい」


 陸は、言われた場所へ印をつけた。


 最初は何もなかった図面に。


 車両が通る線。


 資材を積む場所。


 工具を洗う場所。


 働く者にしか分からない動きが、一つずつ加わっていった。


     ◇


 建物の中では、萌が設備の確認を進めていた。


「この棚は、壁際へ置けますか」


「無理だな」


 倉庫を管理する従業員が答える。


「どうしてですか」


「配管は長さがある。壁へ向けて置いたら、出すときに全部動かすことになる」


「では、中央ですか」


「中央に二列。両側から取れるようにする」


 萌は図面へ長い四角を二つ書き込む。


「通路には、どれくらいの幅が必要ですか」


「台車二台がすれ違えるくらいだ」


「具体的な長さを測ります」


「そこまでやるのか」


「必要だと言われたものを、必要だと分かる形にしないと、日高先輩が条件へ入れられません」


 従業員が、少し離れた場所にいる樹里を見る。


「怖そうな人だな」


「怖くありません」


 萌は、すぐに答えた。


「厳しいですけど、必要なことなら必ず確認してくれます」


「怒られたことがあるのか」


「あります」


「それでも信用してるのか」


「理由もなく怒る人ではないので」


 萌は図面へ視線を戻す。


「ほかに必要なものはありますか」


「資材を洗う場所と、乾かす場所は分けたい」


「山本さんも、洗い場について確認しています」


「だったら、乾燥させる場所はこっちだ。濡れたものと、電気工具は一緒に置けない」


「分かりました」


「事務所から倉庫の中が見える窓も欲しい」


「窓ですか」


「急な依頼が入ったとき、誰が戻ってるかすぐに確認できる。いちいち電話を掛けなくて済む」


 萌は、事務所と倉庫の間にある壁を見る。


「ここへ窓を作れるか、確認します」


「今の建物にはある」


「同じものが必要ですか」


「同じじゃなくていい。仕事が止まらなければいい」


 萌の手が止まる。


「同じでなくても」


「ああ」


「仕事が止まらなければ、いいんですね」


「建物を残したいわけじゃないからな」


 従業員は、古い倉庫を見回す。


「俺たちが残したいのは、仕事だ」


 萌は、その言葉を用紙の端へ書いた。


 設備の名称でも。


 必要な寸法でもない。


 それでも、この場所を整えるうえで最も忘れてはいけない条件だと思った。


     ◇


 施工会社による確認は、二時間近く続いた。


 屋根の損傷。


 外壁のひび。


 電気設備。


 給排水。


 床の強度。


 既存建物と増設部分を繋げられるか。


 すべてを見終えた担当者は、建物の前で資料をまとめた。


「正式な調査結果は後日になりますが、建物の主要部分は残せる可能性があります」


「取り壊さなくていいんですか」


 神谷が尋ねる。


「現時点では、全面解体が必要な状態には見えません。ただ、屋根は広い範囲で補修が必要です。電気設備も、ほぼ入れ替えになると思います」


『使用開始まで、どれくらい掛かりますか』


「設計と申請を含めれば、早くても四か月です」


『短縮は可能ですか』


「調査と設計を同時に進めれば多少は。ただし、調査結果によって変わります」


「九月までには間に合うんですか」


 大野社長が尋ねる。


「すぐに着手できれば、可能性はあります」


「可能性か」


「今は、それ以上のことは言えません」


 大野社長の表情が曇る。


 樹里は日程表を開いた。


『大野設備工業の現在の契約は、九月末までです』


「ああ」


『八月中に建物の改修を終え、九月の一か月を移転期間とする工程を組みます』


「今から間に合うのか」


『間に合わせるための条件を、施工会社と確認します』


「また、条件か」


『はい』


「金額は?」


『概算が出るまで、数日掛かります』


「高槻さんが払わないと言ったら?」


『払っていただくための根拠を作ります』


「全部は無理だろ」


『大野設備工業にも負担をお願いする可能性はあります』


 その場にいた従業員たちの表情が変わる。


『ですが、通常の移転で必要になる費用を超える部分まで、負担していただくつもりはありません』


「そんな都合よく分けられるのか」


『分けます』


「日高さん」


 大野社長が、低い声で名前を呼ぶ。


「高槻さんから、いくらまで出せると言われてる」


『まだ、金額は提示されておりません』


「それで、言い切るのか」


『必要な費用が分からないうちに、上限だけを決めるべきではありません』


「高槻さんが認めなかったら終わりだ」


『終わりません』


 樹里は、萌と陸が書き込んだ図面を見る。


『認められない理由を確認し、別の条件へ変えます』


「費用を減らすのか」


『この建物を、大野設備工業だけのために改修するとは考えておりません』


「どういう意味だ」


『再整備後、大野設備工業が北側区画へ戻るのであれば、ここは再び空きます。その後も別の会社へ貸し出せる状態にします』


「誰が使う」


『それを探すことも、島川不動産の仕事です』


 樹里は建物を見る。


『高槻興産にとって、この場所は八年間利益を生んでいません。改修によって賃貸可能な物件へ戻せば、今回の移転後も収益を得られます』


「大野設備工業への補償じゃなく、物件への投資にするんですね」


 萌が言った。


『はい』


「それなら、一社だけを特別扱いしたことにはなりません」


 陸も続ける。


「再整備後に、ほかの会社の倉庫として使うこともできます」


 樹里が二人を見る。


『その内容も、提案書へ加えてください』


「はい」


「分かりました」


 大野社長は、再び古い建物へ目を向けた。


「うちがここへ移ったあと、北側区画へ戻らなかったら?」


『その場合は、継続して使用できる契約を提示します』


「家賃は上がるのか」


『改修費だけを理由に、大幅な増額はしないよう交渉します』


「約束できるのか」


『今はできません』


「やっぱり、何も決まってない」


『はい』


 樹里は否定しなかった。


『ですから、大野設備工業が受け入れられる条件を、すべて教えてください』


「全部通るのか」


『通りません』


 大野社長の眉が動く。


『すべてを通すことはできません。高槻興産にも、施工会社にも、ほかの十六社にも事情があります』


「なら、何で聞く」


『何を残し、何を変えられるのかを決めるためです』


 樹里は、萌が記録した用紙を受け取る。


 車両の動線。


 倉庫の広さ。


 洗い場。


 乾燥場所。


 事務所と倉庫を繋ぐ窓。


 そこに、数字ではない一文が書かれていた。


 ――残したいのは、建物ではなく仕事。


 樹里は、その文字を見る。


「川原さんが書いたんです」


 倉庫を管理する従業員が言う。


「俺が話したことを」


『そうですか』


「変でしたか」


 萌が不安そうに尋ねる。


『いいえ』


 樹里は用紙を図面の一番上へ重ねた。


『この言葉を、提案の基準にします』


「数字ではないですよ」


『分かっています』


「それでも、使うんですか」


『数字に置き換える前に、必要です』


 萌は小さく頷いた。


 少し離れた場所で、神谷が樹里を見ている。


 樹里も、その視線に気づいた。


『何でしょうか』


「いえ」


『言いたいことがあれば、話してください』


「日高さんも、先に人の話を聞いていると思っただけです」


『川原さんが聞いた内容です』


「それを残したのは、日高さんです」


『仕事に必要だと判断しました』


「はい」


 神谷は、それ以上続けなかった。


     ◇


 確認を終えたあと。


 大野社長と三人の従業員は、建物の前に残っていた。


 もう一度、敷地全体を見回している。


「どうだ」


 大野社長が尋ねる。


「直せるなら、今出ている候補よりはいいと思います」


 車両を管理する従業員が答える。


「道も、今とほとんど変わりません」


「倉庫は?」


「増設できるなら足ります。ただ、図面どおりに車を通せるかは、もう一度確認したいです」


「ほかは」


「事務所と倉庫を分けなくて済むなら、その方が働きやすいです」


 大野社長は、最後の一人を見る。


「お前は?」


「家から、今より五分くらい遠くなるだけです」


「それだけか」


「はい」


「辞める話は?」


「ここなら、辞める理由はありません」


 大野社長が黙る。


 神谷は、少し離れた場所でその言葉を聞いていた。


「社長」


「まだ、決めないぞ」


「分かっています」


「金額も、工期も出てない」


「はい」


「高槻さんが認めるとも限らない」


「そのとおりです」


「なら、何も変わってない」


「一つだけ変わりました」


「何がだ」


「大野設備工業の皆さんが、移れるかもしれない場所を確認できました」


 大野社長は建物を見る。


 昨日までは、移転そのものを拒んでいた。


 今日は、建物の中を歩き。


 必要な設備を伝え。


 車両を動かし。


 ここで仕事を続けられるかを、自分たちで確かめた。


「次は、金額を持ってこい」


「はい」


「払えない金額なら意味がない」


『高槻興産が負担する理由も、同時にお持ちします』


 樹里が答える。


「日高さん」


『はい』


「昨日より、少しは期待してもいいのか」


 樹里は、すぐには答えなかった。


 まだ、建物の調査結果は出ていない。


 改修費も。


 工期も。


 高槻興産が認める条件も決まっていない。


 安易に期待させるべきではない。


 それでも。


 使える可能性を探すために、ここまで多くの者が動き始めている。


『期待だけで終わらせないようにします』


 大野社長は、小さく息を吐いた。


「それを、期待してると言うんだ」


 樹里は何も返さなかった。


 大野社長たちが車へ戻っていく。


 その背中を見送りながら、神谷が樹里の隣へ立つ。


「人が残る可能性は、できました」


『まだ可能性です』


「はい」


『これから、数字にします』


「お願いします」


『神谷さんにも、手伝っていただきます』


「もちろんです」


 二人の手には、同じ図面がある。


 最初は、建物の線だけが引かれていた。


 今は、その中に車両が通る道があり。


 資材を置く場所があり。


 工具を洗う場所があり。


 そこで働き続けたいと願う者たちの言葉が残されている。


 樹里が記録から見つけた建物。


 神谷が人から聞き出した、守るべきもの。


 二つが初めて、一枚の図面の上で形になろうとしていた。

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