268話「残っていた建物」
翌日の午前十時。
樹里と神谷は、高槻興産本社から一キロほど離れた場所に立っていた。
目の前には、錆びた金網の門がある。
門の向こうには、伸びた雑草に囲まれた平屋の建物が残されていた。
外壁の塗装は剥がれ、屋根の一部には変色が見える。
入口に掲げられていたはずの看板は取り外され、壁に四角い跡だけを残している。
「ここが、旧資材管理棟ですか」
『住所は一致しています』
樹里は、十九年前の資料と現在の地図を見比べた。
『土地と建物は、現在も高槻興産が所有しています。登記上の変更もありません』
「どうして、現在の物件一覧に入っていなかったんでしょうか」
『八年前に、貸出対象から外されています』
「理由は?」
『建物の老朽化です。改修費が見込めず、解体時期も決まらないまま保留資産として扱われています』
「使える可能性はありますか」
『それを確認するために来ました』
樹里が門へ近づく。
高槻興産から預かった鍵を差し込み、錆びついた錠を開ける。
門を動かすと、金属の擦れる音が周囲へ響いた。
敷地内へ入った神谷が、建物ではなく地面を見る。
「大型車両は入れそうですね」
『出入口の幅は足りています』
「道路までの傾斜もありません」
『ただし、舗装の一部が沈んでいます。大型車両が継続して出入りするのであれば、補修が必要です』
二人は敷地の奥へ進む。
建物の横には、広い空き地があった。
雑草に覆われているが、十九年前の図面では資材置き場として記載されている。
「倉庫を増設する場所はありそうです」
『用途地域と建蔽率を確認する必要があります』
「日高さん」
『何でしょうか』
「使えない理由を探していますか」
樹里は足を止めた。
『必要な確認をしています』
「使える理由も探してください」
『神谷さんは、使えると決めているのですか』
「いいえ」
『でしたら、同じです』
「違います」
神谷は建物を見る。
「俺は、ここを使えるようにする方法を探しています」
『私は、使えるかどうかを判断するための事実を確認しています』
「また意見が分かれましたね」
『昨日から、分かれたままです』
「ですが、今日は同じ場所にいます」
樹里は神谷を見る。
神谷は、僅かに笑っていた。
『仕事中です』
「分かっています」
『でしたら、先に進みます』
二人は建物の入口へ向かった。
◇
扉を開けた瞬間、閉じ込められていた埃の匂いが外へ流れ出した。
樹里はすぐには入らず、天井と床を確認する。
『足元に気をつけてください』
「はい」
電気は止められている。
神谷が懐中電灯をつけ、内部を照らした。
入口の先には、かつて事務所として使われていた空間がある。
古い机と棚は撤去され、何も残っていない。
壁紙は変色し、窓枠の一部には雨水が入った跡があった。
「そのまま使うのは難しそうですね」
『はい』
「屋根の補修。内装の交換。電気設備と水回りも確認が必要です」
『耐震基準も、現在のものを満たしていない可能性があります』
樹里は図面へ書き込む。
建物の奥には、事務所と同じほどの広さを持つ倉庫があった。
天井は高い。
床にも大きな損傷は見られない。
ただし、大野設備工業が現在使用している倉庫と比べると、面積が足りなかった。
「全部の資材は入りませんね」
『現在の七割程度です』
「残りを外へ置くことは?」
『雨に濡らせない資材があります。防犯上の問題もあります』
「増設すれば足りますか」
『図面上では可能です』
神谷が、倉庫の奥にある扉を開ける。
外へ出ると、先ほど見た空き地へ繋がっていた。
「ここへ新しい倉庫を建てる」
『時間が足りません』
「簡易倉庫なら?」
『保管する資材によって必要な設備が変わります』
「大野設備工業へ確認しましょう」
『確認する前に、建築できるかを調べます』
「両方、同時に進めませんか」
樹里が神谷へ顔を向ける。
「日高さんは、建築できるか確認してください。俺は、大野設備工業に必要な保管条件を聞きます」
『できないと分かれば、聞き取りが無駄になります』
「できると分かってから聞けば、間に合わなくなるかもしれません」
『二度手間になる可能性があります』
「何もしないまま時間を失うよりはいいです」
樹里は図面へ視線を落とした。
高槻社長が求めているのは、十七社すべての合意。
工期を遅らせることはできない。
一つずつ確認していては、時間が足りない。
だが、同時に進めれば、使えない案のために複数の人間を動かすことになる。
『川原さんと山本さんに、保管条件の聞き取りをお願いします』
「いいんですか」
『神谷さんだけでは、ほかの取引先調査が進みません』
「分かりました」
『私は、増設の可否と改修費を確認します』
「ありがとうございます」
『まだ、この案を採用したわけではありません』
「はい」
『確認するだけです』
「分かっています」
神谷はそう答えたが、また僅かに笑った。
『何ですか』
「少しだけ、同じ方向を向けたと思ったので」
『建物が使用できなければ、最初からやり直しです』
「そのときは、別の場所を探します」
『簡単に言わないでください』
「日高さんと一緒なら、見つけられると思っています」
樹里は何も答えなかった。
倉庫の外へ顔を向ける。
伸びた雑草の向こうに、高槻興産本社の建物が見えていた。
現在の大野設備工業からも近い。
取引先へ向かう道路も、大きく変わらない。
建物さえ使えるのであれば。
ここは、現在の候補地よりも多くの条件を満たしている。
『先に、高槻社長へ確認します』
「はい」
◇
高槻興産本社へ戻った二人は、そのまま社長室へ通された。
高槻社長は、樹里から渡された資料へ目を通す。
「旧資材管理棟か」
『はい』
「まだ残っていたのか」
「登記上は、高槻興産の所有です」
「それは知っている。使える状態で残っていたのかと聞いている」
『現状のままでは使用できません』
樹里が答える。
『屋根、内装、電気設備、水回り、舗装の補修が必要です。耐震性能についても、専門業者による調査が必要になります』
「だったら使えないだろ」
『改修できないとは決まっていません』
「いくら掛かる」
『まだ算出できておりません』
「いつ使える」
『現時点では、お答えできません』
高槻社長が資料を机へ置く。
「金額も時期も分からない案を、私に持ってきたのか」
『使用の検討を進める許可をいただくためです』
「許可を出せば、高槻興産が金を払うことになる」
『費用負担については、改修内容が決まってから協議させてください』
「日高」
『はい』
「私は、十七社すべてを任せた」
『承知しております』
「一社のためだけに、使っていない建物を直せと言うのか」
『大野設備工業との合意が得られなければ、全体の工期へ影響します』
「契約どおり、九月末で出てもらえばいい」
『契約上は可能です』
「なら、それで進めろ」
『お断りします』
神谷が樹里を見る。
高槻社長の眉が動いた。
「何?」
『契約どおり退去させるだけであれば、島川不動産へ一括して任せる必要はありません』
社長室の空気が変わる。
それでも樹里は、視線を逸らさなかった。
『高槻社長が私たちへ任せたのは、十七社すべてを動かすためです。大野設備工業を契約だけで退去させれば、合意にはなりません』
「随分と言うようになったな」
『事実を申し上げています』
「その古い建物を直せば、大野設備工業は納得するのか」
『まだ分かりません』
「分からないことばかりだな」
「だから、調べる時間をいただきたいと考えています」
神谷が口を開く。
「旧資材管理棟は、現在の事務所から近く、取引先への対応時間も大きく変わりません。従業員の通勤への影響も、ほかの候補地より抑えられます」
「建物は使えないんだろ」
「使えるようにできる可能性があります」
「可能性へ金は出せない」
「はい。ですから、現時点で費用を負担していただくつもりはありません」
「では、何を求めている」
「建物の調査と、改修案を作成する許可です」
「誰が調べる」
「島川不動産から、施工会社へ依頼します」
「費用は?」
「調査段階では、こちらで負担します」
樹里が神谷を見る。
その話は、事前に聞いていない。
高槻社長も同じことに気づいた。
「勝手に決めたのか」
「まだ、社内へ正式な確認はしていません」
「それでよく私の前に来たな」
「許可をいただけなければ、社内へ持ち帰る必要もありません」
「順番が逆だ」
「申し訳ありません」
「黒澤は知っているのか」
「旧資材管理棟については、まだ報告していません」
高槻社長は椅子の背へ身体を預けた。
「日高。お前も同じ考えか」
『調査を進めることには賛成です』
「費用を島川不動産で持つこともか」
『それは、黒澤部長と協議します』
樹里は即答した。
『調査費用を負担することと、確認せずに可能性を捨てることでは、失う金額が違います。高槻興産の再整備が遅れた場合の損失を考えれば、調査する価値はあります』
「お前たち二人とも、あの会社を残すことに随分と熱心だな」
『大野設備工業だけではありません』
「何?」
『同じ条件を必要とする会社が、ほかにも出る可能性があります。旧資材管理棟を使用できれば、一社だけでなく、複数の移転先として活用できるかもしれません』
高槻社長が、再び資料を手に取る。
「敷地を分けるのか」
『大野設備工業が必要とする面積を確認してからになります』
「再整備後は?」
「北側区画へ戻ることを希望する会社には、優先的な入居条件を提示できないでしょうか」
神谷が尋ねる。
「新しい区画へ戻し、そのあと旧資材管理棟を別の用途へ転用する方法もあります」
「二度も移転させるつもりか」
「希望する会社だけです」
「費用が掛かる」
『その費用を含めて、現在の計画と比較します』
「時間も掛かる」
『期限を決めます』
「何日だ」
樹里は神谷を見る。
神谷も、樹里へ視線を向ける。
『一週間です』
「日高さん」
『長いですか』
「いいえ」
神谷が高槻社長へ向き直る。
「一週間で、建物調査、改修費の概算、使用開始までの工程をまとめます。大野設備工業に必要な条件も、同時に確認します」
「大野が断ったら?」
『別の会社の移転先として使用できるか検討します』
「使えないと分かったら?」
『この案を破棄します』
「その一週間、ほかの十六社はどうする」
「止めません」
『並行して進めます』
二人の声が続いた。
高槻社長は、樹里と神谷を交互に見る。
「昨日は、外で意見が割れていたな」
二人とも答えなかった。
「今日は、揃っているのか」
『目的は同じです』
「方法については、まだ意見が違います」
神谷が答える。
「それで一週間後に、同じ資料を出せるのか」
『出します』
「出せます」
再び二人の声が重なる。
高槻社長は机の引き出しから鍵を取り出し、樹里たちの前へ置いた。
旧資材管理棟の門と建物を開けるために、昨日貸し出された鍵だった。
「一週間だけ預ける」
『ありがとうございます』
「まだ礼を言うな」
高槻社長は、二人を真っ直ぐに見る。
「使えるかどうかを調べるだけなら、誰にでもできる」
机の上の資料を指先で叩く。
「大野が納得する条件を持ってこい。そのうえで、高槻興産にも利益があると説明しろ」
『はい』
「一社を助けるために、残り十六社へ負担を掛ける案は認めない」
「承知しました」
「お前たちが見つけた建物だ」
高槻社長は、鍵から手を離した。
「最後まで、お前たちで使い道を決めろ」
◇
高槻興産を出たあと、二人はすぐに島川不動産へ戻った。
黒澤へ事情を説明すると、最初に返ってきたのは長い溜め息だった。
「お前ら、俺へ相談する前に会社で金を出す話をしたのか」
「申し訳ありません」
『調査費用だけです』
「金額も分からないんだろ」
『これから確認します』
「日高さん。そういう意味じゃない」
『ですが、必要です』
「神谷」
「はい」
「お前が言い出したんだな」
「はい」
「何で日高さんが庇ってる」
『庇っていません』
「お前には聞いてない」
樹里は口を閉じる。
神谷が、旧資材管理棟の資料を黒澤へ差し出した。
「現在の候補地では、大野設備工業の従業員と取引先を維持できない可能性があります」
「それで、古い建物を直すのか」
「調査したいと思っています」
「一週間で?」
「はい」
「ほかの十六社も進めながら?」
「はい」
黒澤は資料を受け取り、ページをめくる。
敷地面積。
現在地からの距離。
取引先への移動時間。
十九年前に移転候補として検討された記録。
すべてに目を通してから、資料を閉じた。
「調査費用の上限を決める」
『はい』
「その範囲を超えるなら、先に俺へ報告しろ」
「ありがとうございます」
「まだ許可しただけだ」
黒澤は二人へ資料を返す。
「一週間後、使えませんでしたで終わったら、俺がお前ら二人を高槻まで連れていって頭を下げることになる」
『そのようにはいたしません』
「使えなかったら、どうする」
『使えなかった理由を、次の条件に変えます』
黒澤が僅かに目を細める。
「神谷は?」
「別の場所を探します」
「また別々か」
『同時に進めます』
樹里が答える。
『旧資材管理棟だけに絞るつもりはありません。使用できなかった場合に備え、ほかの候補地も引き続き探します』
「最初から、そう言え」
黒澤は自分の席へ戻ろうとする。
途中で足を止め、二人を振り返った。
「意見が違うのは構わない」
昨日と同じ言葉だった。
「だが、相手に勝つために仕事をするなよ」
『していません』
「ならいい」
黒澤が離れていく。
樹里は自分の席へ向かおうとした。
「日高さん」
『何でしょうか』
「先ほどは、ありがとうございました」
『何のことですか』
「調査費用の件です。俺が先に言ったことを、否定しなかったので」
『必要だと判断しただけです』
「相談せずに決めたことは謝ります」
『次からは、先に相談してください』
「はい」
『私も、先に条件を提示しようとしたことについては見直します』
神谷が僅かに目を開く。
『ただし、神谷さんの方法が正しいと認めたわけではありません』
「分かっています」
『一週間後に判断します』
「では、同じ資料を作るために、別々の確認を進めましょう」
『はい』
二人は、それぞれの席へ向かった。
意見は、まだ完全には重なっていない。
互いの方法を、すべて受け入れたわけでもない。
それでも。
どちらかの答えを捨てるのではなく。
二つの答えを、一つの提案へ変えるための一週間が始まった。
◇
その日の夕方。
樹里と神谷は、大野設備工業を再び訪れた。
「今度は何だ」
応接室へ入ってきた大野社長が、警戒するように二人を見る。
「移転先として、確認していただきたい場所が見つかりました」
「昨日、今ある候補には動かないと言ったはずだ」
『現在の候補一覧には入っていない場所です』
樹里は、旧資材管理棟の地図を机へ置く。
大野社長は、その住所を見た瞬間に表情を変えた。
「ここは」
『ご存じですか』
「昔、高槻さんから話が出た場所だ」
「十九年前ですか」
「そうだ」
大野社長は地図を手に取る。
「あのときも、ここへ移れないかと言われた。だが、建物が古くて、倉庫も狭かった。直すくらいなら別の場所を借りた方が安いと、高槻さんが断った」
『現在も、建物は残っています』
「まだ壊してなかったのか」
『現状のままでは使用できません』
「なら、同じだろ」
『改修と倉庫の増設が可能か、これから調査します』
「なぜ今さら、高槻さんが金を出す」
『まだ、費用負担は決まっておりません』
「結局、何も決まってないじゃないか」
大野社長が地図を机へ戻す。
「そんな話で、うちを動かせると思ってるのか」
「思っていません」
神谷が答える。
「今日は、移転を決めていただくために来たのではありません」
「なら何だ」
「大野設備工業に必要な条件を、確認させていただきたいと思っています」
「昨日も話した」
「倉庫へ保管する資材の種類。必要な設備。車両の台数。事務所と倉庫を分けられるか。旧資材管理棟を使うために必要な条件です」
「使えないと分かってる場所のためにか」
『使用できる状態へ変えられるかを判断します』
樹里が資料を開く。
『一週間で、改修費と工程をまとめます。そのために、大野設備工業からも情報をいただきたいと考えております』
「一週間で何が分かる」
『少なくとも、実現できるかどうかは判断します』
「できると言ったあとで、やっぱり無理だと言うんじゃないだろうな」
『確定するまで、できるとは申しません』
「だったら、期待するだけ無駄だ」
『期待していただくために来たのではありません』
樹里は、大野社長を真っ直ぐに見る。
『判断するための材料を、一緒に確認していただくためです』
大野社長は何も答えなかった。
「社長」
神谷が続ける。
「旧資材管理棟へ、従業員の皆さんと一緒に来ていただけませんか」
「何?」
「実際に働く方が見なければ、俺たちには必要なものをすべて判断できません」
「ボロボロの建物を見せて、ここへ移れと言うのか」
「違います」
「何が違う」
「使えない理由を、皆さんから教えていただきたいんです」
大野社長の目が細くなる。
「使えない理由?」
「俺たちだけで見ても、倉庫が狭いことしか分かりませんでした。どの設備が足りないのか。どこを変えれば使えるのか。それを知っているのは、大野設備工業の皆さんです」
「全部直せと言ったら、高槻さんは払うのか」
「その条件を持って、高槻興産と交渉します」
「断られたら?」
『別の方法を探します』
「またそれか」
『はい』
樹里は迷わず答える。
『大野設備工業が現在の仕事と従業員を失わずに済む方法が見つかるまで、条件を変えて探します』
「契約は九月までだぞ」
『承知しております』
「間に合わなかったら?」
『間に合わせます』
「言い切るんだな」
『そのために、今ここにいます』
大野社長は椅子へ深く座り直した。
机に置かれた十九年前の地図を見る。
かつて一度、使われなかった場所。
高槻興産からも、大野設備工業からも、長い間忘れられていた建物。
「いつ見る」
「ご都合に合わせます」
「明日の午後なら、現場へ出てる人間も何人か戻る」
「では、明日の午後にお願いします」
「全員は連れていけない」
『倉庫、設備、車両について判断できる方にお願いできますか』
「分かった」
大野社長は地図を折り畳み、自分の手元へ置いた。
「移るとは言ってない」
「はい」
「見て、無理だと思ったら、その場で断る」
『構いません』
「高槻さんへ都合のいい話だけ持って帰るなよ」
『確認した内容は、すべて報告します』
「なら、一度だけ見に行く」
大野社長の答えに、樹里と神谷が頭を下げる。
『ありがとうございます』
「礼は、使える場所を持ってきてからにしろ」
昨日と同じような言葉だった。
だが、大野社長は地図を返さなかった。
十九年前には、条件が合わずに消えた計画。
今も建物は古く、問題は何一つ解決していない。
それでも。
使えないと決めるのは、書類でも、高槻興産でもない。
そこで働く者たちが、自分たちの目で確かめる。
大野設備工業との交渉は、初めて移転を拒むための話から、移転できる条件を探す話へ変わり始めていた。




