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267話「別々の答え」

大野設備工業から戻った二人を、営業部にいた陽菜が最初に見つけた。


『おかえりなさい』


「ただいま戻りました」


『どうでした?』


 神谷は答える前に、隣を歩く樹里を見る。


 樹里は陽菜の前で足を止めた。


『移転を拒んでいる理由の一部は確認できました。これから条件を整理します』


『合意は?』


『まだです』


『日高先輩たちでも、すぐには無理でしたか』


『最初から、一度で合意できるとは考えていません』


 樹里の声は、普段と変わらない。


 表情にも、目立った変化はなかった。


 それでも陽菜は、樹里と神谷の間にある僅かな距離へ目を向けた。


 行きに持っていた資料は、すべて樹里が抱えている。


 神谷は何も持っていなかった。


「櫻井さん」


 神谷が呼ぶ。


「大野設備工業について、午後から少し手を借りてもいいですか」


『何をすればいいですか?』


「現在の取引先と、対応地域を調べたいと思っています」


『分かりました。萌と陸にも手伝ってもらいます』


「お願いします」


『日高先輩は?』


『私は、過去の契約と物件資料を確認します』


『別々にやるんですか?』


 陽菜の問いに、二人とも答えなかった。


『喧嘩しました?』


「していません」


『していません』


 同時に返事が重なる。


 陽菜は二人を交互に見る。


『してますね』


『櫻井さん』


『仕事します』


 陽菜は自分の席へ戻った。


 だが、途中で一度だけ振り返る。


 神谷は黒澤の席へ向かい、樹里は自分の机に資料を置いていた。


 いつもなら、二人は同じ資料を見ながら報告内容を確認する。


 今日は、互いに声を掛けなかった。


     ◇


「それで?」


 黒澤が、神谷から受け取った報告書へ目を通す。


「何が分かった」


「移転によって、少なくとも四名の従業員が退職を考えています。ただ、迷っている方はほかにもいるそうです」


「理由は通勤か」


「それだけではありません。現在地から離れることで、緊急対応が遅れる可能性があります」


「取引先を失うと?」


「大野社長は、そう考えています」


 黒澤が報告書を机へ置く。


「日高は?」


「移転に伴う損失を、数字に置き換えようとしています」


「お前は気に入らないのか」


「必要なことです」


「聞いたことに答えろ」


 神谷は僅かに黙った。


「今の段階で条件を示すことには、反対です」


「日高は示したがってる」


「はい」


「また倒れるまで一人で走るつもりか」


「今回は倒れません」


「そういう話じゃない」


 黒澤は椅子の背へ身体を預けた。


「日高のやり方を止めるなら、代わりの答えを持ってこい。正しいことを言ってる人間に、気持ちだけで反対しても意味がない」


「分かっています」


「向こうの話を聞いて、かわいそうだと思っただけなら、今すぐこの仕事から外れろ」


「違います」


 神谷は、はっきりと答えた。


「大野設備工業が拒んでいる理由を、条件に変える必要があると思っています」


「それは日高と同じだろ」


「はい」


「だったら、何で揉める」


「順番が違います」


 黒澤が眉を上げる。


「日高さんは、確認できる条件から答えを作ろうとしています。俺は、守らなければならないものを確かめてから、必要な条件を決めたいと思っています」


「どっちが正しい」


「まだ分かりません」


「高槻は待ってくれないぞ」


「分かっています」


「なら、早く確かめろ」


「はい」


 神谷は報告書を受け取り、頭を下げた。


「失礼します」


「神谷」


 会議室を出ようとした神谷が振り返る。


「仕事で意見が割れることはある」


「はい」


「そこで相手を否定し始めたら、終わりだ」


「否定するつもりはありません」


「日高も同じことを言うだろうな」


 黒澤は机の上の資料へ視線を落とした。


「似た者同士は、面倒だ」


     ◇


 午後。


 営業部の小さな会議室には、陽菜、萌、陸の三人が集まっていた。


 机の上には、大野設備工業の取引先一覧と地図が広げられている。


「取引先は、確認できる範囲で四十三社です」


 萌が一覧を指す。


「そのうち、現在地から車で三十分以内が三十一社あります」


『多いね』


「定期契約のある取引先だけです。単発の依頼を含めると、さらに増えると思います」


 陸が地図へ色をつける。


「学校や商業施設もありますね。設備の故障なら、営業時間外に呼ばれることもありそうです」


『大野設備工業が、早く動けるから選ばれてる可能性があるってこと?』


「はい。価格だけで契約しているとは限りません」


『神谷さんが言ってた、今の場所にいる理由か』


 陽菜は地図を見る。


 中央に、大野設備工業。


 そこから多くの線が伸びている。


 距離だけを見れば、移転候補地からでも届く場所は多い。


 だが、道路の混雑や出発までの準備時間を含めれば、同じとは言い切れない。


「櫻井先輩」


 萌が尋ねる。


「事務所と倉庫は、必ず同じ場所にないといけないんでしょうか」


『今は一緒だね』


「事務所だけを別にすることはできませんか」


『どうだろ』


 陽菜は物件資料を開く。


『社員全員が毎朝、倉庫へ集まるわけじゃないなら、分けられるかもしれない』


「ですが、家賃は二か所分になります」


 陸が言う。


『管理する人も必要になるね』


「移動の手間も増えます」


「それでも、全員が遠くへ移るより負担は少ないかもしれません」


 萌は地図の上へ指を置く。


「現在地の近くに、小さな倉庫だけ残せれば」


『それ、神谷さんに伝えた?』


「まだです」


『じゃあ、報告してきて』


「私がですか」


『見つけたのは萌でしょ』


「ですが、まだ可能かどうかも分かりません」


『だから確認するの。間違ってたら、神谷さんが止めてくれるよ』


 萌は少し迷ったあと、資料を持って立ち上がった。


「分かりました」


『陸は、緊急対応の契約がどれくらいあるか調べて』


「はい」


『あたしは、高槻興産側の再整備計画を見てみる』


「日高先輩へ確認しなくていいんですか」


 陸に尋ねられ、陽菜は会議室の外を見る。


 樹里は、古い契約書を抱えて資料室へ入るところだった。


『今は、それぞれでやった方がよさそう』


「やっぱり、喧嘩しているんですか」


『本人たちは違うって言ってるけどね』


「仕事の意見が違うだけでは?」


『樹里先輩が、神谷さんにご自由にどうぞって言ったらしいよ』


「それは」


 陸が言葉を止める。


『喧嘩でしょ?』


「否定はできません」


 陽菜は小さく笑った。


『でも、大丈夫』


「そうなんですか」


『目指してるところは同じだから』


 陽菜は再整備計画書を開く。


『道が違うなら、最後に同じ場所へ着けばいいよ』


     ◇


 資料室の奥。


 樹里は、高槻興産に関する過去の資料を机へ積み上げていた。


 現在の物件情報だけでは足りない。


 大野設備工業が移転できる場所。


 現在地から遠くないこと。


 大型車両が出入りできること。


 資材を保管できる倉庫があること。


 二十六人が働き続けられること。


 すべてを満たす物件は、現在の一覧にはなかった。


 条件を一つ緩めれば、候補は増える。


 だが、何を削れば誰が困るのか。


 それを確認しないまま、候補を示すことはできない。


 樹里は手を止めた。


 午前中、大野設備工業で神谷に言われた言葉が残っている。


 ――正しい条件でも、人が残らなければ意味がない。


 樹里は、数字だけを見ているつもりはなかった。


 相手の事情を聞かずに進めるつもりもない。


 ただ、約束できないことを口にする方が、無責任だと考えている。


 期待させたあとで、できないと伝える。


 その方が、相手を傷つける。


「日高先輩」


 資料室の入口から、凛が声を掛ける。


『遠藤さん。どうしましたか』


「昨日確認した、過去の契約資料を持ってきました」


『ありがとうございます』


 凛は、数冊のファイルを机へ置いた。


「初回契約から現在までの変更点を、年代順にまとめています」


『確認します』


「ほかに必要なものはありますか」


『高槻興産が所有している土地と建物の一覧を、過去十年分確認できますか』


「現在使われていないものもですか」


『はい。売却済みのものも含めてお願いします』


「分かりました」


 凛は返事をしたが、その場から動かなかった。


『まだ何かありますか』


「神谷さんと、意見が合わなかったんですか」


 樹里は資料から顔を上げる。


『櫻井さんから聞いたのですか』


「何も聞いていません。ただ、お二人が別々に動いているので」


『担当を分けているだけです』


「いつもは、先にお二人で方針を決めていますよね」


『今回は、別の考え方を確認する必要があります』


「どちらかが間違っているんですか」


『まだ分かりません』


「では、両方とも正しい可能性もありますね」


 凛の言葉に、樹里の目が僅かに動く。


『仕事では、答えを一つにする必要があります』


「最後には、ですよね」


『何が言いたいのですか』


「途中まで別々でも、最後に一つになればいいと思っただけです」


『それを決めるのは、結果です』


「はい」


 凛は素直に頭を下げる。


「過去十年分、探してきます」


『お願いします』


 凛が資料室を出ていく。


 樹里は一人になった室内で、再び契約書へ視線を落とした。


 両方とも正しい可能性。


 それだけでは、仕事にならない。


 どちらの方法を選ぶのか。


 何を相手へ提示するのか。


 最後には、必ず一つの形にしなければならない。


 樹里は、初回契約書の次に保管されていた資料を開いた。


 十九年前。


 高槻興産が北側区画の利用状況を見直した際の記録だった。


 大野設備工業の事務所と倉庫を、別の場所へ移す案が一度だけ検討されている。


 しかし、計画は実行されていない。


 資料には、短い理由だけが残されていた。


 ――代替地の確保が困難なため、継続使用。


 樹里は、その一文へ印をつける。


 当時の代替地が、どこだったのか。


 候補が見つからなかったのか。


 それとも、見つかったあとで使えなくなったのか。


 添付資料は、ファイルに入っていない。


 樹里は管理番号を確認し、別の保管箱を探す。


 同じ年代。


 同じ計画名。


 番号の近い資料を、一つずつ取り出していく。


 数分後。


 一冊の薄いファイルが見つかった。


 表紙には、手書きで文字が記されている。


 北側区画・協力会社移転検討。


 樹里はファイルを開いた。


 中には、十九年前に作られた周辺地図が入っていた。


 大野設備工業の現在地。


 高槻興産本社。


 主要な取引先。


 そして、現在地から一キロほど離れた場所に、赤い印がつけられている。


 印の横に書かれた文字を、樹里は読む。


 ――旧資材管理棟。


 高槻興産所有。


 建物老朽化のため、使用保留。


 樹里は現在の物件一覧を開いた。


 旧資材管理棟という名称は、どこにもない。


 売却済み物件の記録にもなかった。


 取り壊された記録もない。


 樹里は、地図に記された住所をパソコンへ入力する。


 現在の地図が表示される。


 そこには、会社名も、建物名も載っていなかった。


 航空写真へ切り替える。


 木々に囲まれた敷地の中に、古い建物の屋根が見えた。


 敷地へ続く道路は残っている。


 周囲に住宅は少ない。


 大型車両が入れる幅があるかは、写真だけでは判断できない。


 建物を今も使用できるかも分からない。


 それでも。


 現在地からの距離だけなら、これまでの移転候補より遥かに近い。


 樹里はファイルを閉じ、立ち上がった。


     ◇


 一方。


 神谷は、大野設備工業から許可を得て、二人の従業員と話をしていた。


 業務を止めないため、休憩時間を使った短い聞き取りだった。


「移転した場合、退職を考えていると伺いました」


「まだ、決めたわけじゃありません」


 作業服を着た男性が答える。


「家族と相談しているところです」


「通勤が難しくなるからですか」


「それもあります。候補になってる工業団地だと、今より四十分くらい遠くなるので」


「ほかにもありますか」


 男性は少し考えた。


「子どもを保育園へ送ってから来てるんです。今は妻と交代でできてますけど、四十分増えたら、どちらかが仕事を変えないと難しいと思います」


「会社が現在地の近くに一部残った場合はどうでしょうか」


「一部ですか」


「例えば、事務所だけを近くへ置く方法です」


「自分たちは、朝に倉庫へ来ます。資材と車があるので」


「では、倉庫だけを残した場合は?」


「仕事はできます。でも、事務所が遠いと面倒かもしれません」


「どのようなときに事務所へ行きますか」


「報告書を出したり、次の現場を確認したり。急な依頼が入ったら、事務の人から指示をもらいます」


「電話やデータで対応することはできませんか」


「できることもあると思います」


 男性は、隣に座る別の従業員を見る。


「でも、今までやってないので」


「できないのではなく、したことがない?」


「そうですね」


 もう一人の従業員が口を開く。


「事務所と倉庫を分ける話なら、前にも出たことがあるらしいですよ」


「以前ですか」


「自分が入る前なので、詳しくは知りません。昔、社長から聞いただけです」


「なぜ実現しなかったのでしょうか」


「近くに使える建物がなかったとか、そんな話だったと思います」


 神谷の手が止まる。


「いつ頃の話か、分かりますか」


「二十年くらい前じゃないですか。当時いた人も、今はほとんど残ってないです」


「大野社長なら、詳しくご存じでしょうか」


「知ってると思います」


 休憩の終了を知らせる音が鳴る。


 二人の従業員が立ち上がった。


「ありがとうございました」


 神谷も席を立つ。


「最後に、一つだけよろしいですか」


「はい」


「皆さんが残りたいのは、この建物ですか。それとも、この地域ですか」


 二人が顔を見合わせる。


 先ほどの男性が答えた。


「建物に思い入れがないわけじゃないです。でも」


 一度、倉庫の中を見る。


「仕事が続けられて、今の生活も大きく変わらないなら、建物は変わってもいいと思います」


「そうですか」


「社長は、違うかもしれませんけど」


「ありがとうございます」


 二人が仕事へ戻っていく。


 神谷は、聞き取った内容を確認した。


 守るべきものは、現在の建物だけではない。


 現在地を中心に作られた仕事。


 従業員の生活。


 取引先との距離。


 それらを大きく変えずに済む場所があれば、答えは変わる可能性がある。


 しかし、現在の候補にはない。


 神谷はスマートフォンを取り出した。


 樹里とのLINEを開く。


 午前中に交わした業務連絡が、最後に残っている。


 ――大野設備工業へ到着しました。


 ――承知しました。


 それ以降、二人の間に連絡はない。


 神谷は文章を入力する。


「事務所と倉庫を分ける案について、従業員から話を聞きました。過去にも同じ案が出たことがあるそうです」


 送信する前に、一度手を止める。


 仕事の報告としては、それだけでいい。


 神谷は、そのまま送信した。


 数分後。


 既読がつく。


 返事はすぐに届いた。


『十九年前の移転検討資料を見つけました』


 続けて、地図の写真が送られてくる。


 赤い印。


 旧資材管理棟。


 高槻興産所有。


 神谷は画面を見つめた。


 自分が従業員から聞いた、過去の案。


 樹里が資料から見つけた、当時の候補地。


 別々に探していた二つの答えが、同じ場所を指している。


 神谷は樹里へ電話を掛けた。


 数回の呼び出し音のあと、声が聞こえる。


『日高です』


「資料を確認しました」


『現在も高槻興産が所有しているかは、まだ確認できていません』


「大野設備工業へ聞いた話と一致します」


『そうですか』


「明日、一緒に現地を確認しませんか」


 短い沈黙があった。


『神谷さんは、別の方法を探すのではなかったのですか』


「探した結果が、日高さんと同じ場所へ着きました」


『まだ、使えるとは決まっていません』


「はい。だから、一緒に確認したいです」


 電話の向こうで、紙をめくる音がする。


『午前十時でしたら、時間を空けられます』


「分かりました」


『高槻興産へ、所有状況の確認をお願いします』


「すぐに確認します」


『私は、建物の登記と過去の使用記録を調べます』


「お願いします」


 再び、短い間が空いた。


「日高さん」


『何でしょうか』


「先ほどは、言い方がよくありませんでした」


『何のことですか』


「日高さんの方法では、人が残らないと言ったことです」


 樹里は答えなかった。


「日高さんが、人を見ていないとは思っていません」


『仕事の途中です』


「はい」


『謝るのは、答えが出てからにしてください』


「分かりました」


『私も、そのときに話します』


「はい」


 通話が終わる。


 意見の違いは、まだ消えていない。


 旧資材管理棟が使える保証もない。


 十九年前に使用できなかった場所が、今になって条件を満たす可能性は低い。


 それでも。


 神谷が人から聞いた話と。


 樹里が記録から見つけた事実は。


 初めて、同じ一つの場所で重なった。


 別々の道を進んだ二人は、まだ互いの方法を認めたわけではない。


 ただ。


 次に向かう場所だけは、再び同じになった。

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