266話「書類にない理由」
翌朝。
樹里が島川不動産へ出社したとき、営業部にはまだ数人しかいなかった。
照明の半分だけがついた室内を進み、自分の席へ鞄を置く。
机の上には、昨日持ち帰った大野設備工業の資料が重ねられていた。
現行の賃貸借契約書。
三十二年前の初回契約。
その後に交わされた更新契約。
高槻興産との打ち合わせ記録。
移転候補として挙げられている物件の一覧。
樹里はパソコンを立ち上げ、昨夜まとめた資料を印刷した。
現在の事務所からの距離。
倉庫面積。
幹線道路までの所要時間。
従業員の通勤時間の変化。
移転費用の概算。
高槻興産側が負担できる可能性のある範囲。
まだ確定していない部分には、すべて印をつけてある。
「早いですね」
背後から声を掛けられ、樹里が振り返る。
神谷が、自分の鞄を持って立っていた。
『神谷さんもです』
「昨日、何時まで確認していたんですか」
『それほど遅くはありません』
「日付は変わりましたか」
樹里は答えなかった。
神谷が、机の上へ積まれた資料を見る。
「変わったんですね」
『必要な確認をしただけです』
「今日は話を聞きに行く日です」
『条件を何も持たずに伺っても、相手の時間を奪うだけです』
「提示するんですか」
『必要であれば』
「まだ、大野設備工業が何を問題にしているのか分かっていません」
『事務所と倉庫を失うことです』
「それだけでしょうか」
『昨日も同じ話をしました』
「答えは出ていません」
『だから、確認できる材料をそろえました』
神谷は資料を一冊手に取った。
一枚ずつ目を通していく。
樹里が整理した数字には、抜けがない。
現時点で確認できる条件は、ほとんど網羅されている。
「ここまで用意していただいたことは助かります」
『でしたら、持っていきます』
「ただ、先に見せるかは、話を聞いてから決めさせてください」
樹里の視線が神谷へ向く。
『理由を伺ってもよろしいですか』
「条件を先に見せれば、相手はその中から答えを選ぼうとします」
『選択肢を示さなければ、話が進みません』
「本当の理由が、こちらの用意した選択肢に入っていなかった場合はどうしますか」
『そのときは追加します』
「後からですか」
『聞き取りだけで、すべてを把握できるとは思っていません』
「俺も、一度で分かるとは思っていません」
二人の間で、言葉が止まる。
声を荒らげているわけではない。
互いの考えを否定しているわけでもない。
それでも、昨日から続く小さな食い違いは、まだ消えていなかった。
「朝からやってるな」
黒澤が、営業部へ入ってくる。
二人の間にある空気を見ても、足を止めない。
「出発は九時だろ」
『はい』
「大野設備工業へ行くのは二人だけでいい。俺がついていけば、向こうは高槻興産から説得しに来たと思う」
「分かりました」
「今日は合意を取らなくていい」
黒澤は自分の席へ鞄を置く。
「向こうが断ってる理由を持って帰ってこい」
『契約条件については、どこまで伝えて構いませんか』
「聞かれたことには答えろ。ただし、こっちから結論を押しつけるな」
『分かりました』
「神谷」
「はい」
「聞くだけで終わるなよ」
「分かっています」
黒澤は二人を見比べる。
「日高は答えを急ぎすぎる。お前は相手の話を待ちすぎる。今日は真ん中で帰ってこい」
樹里は何も答えなかった。
神谷も、短く頭を下げる。
「行ってきます」
『行ってまいります』
◇
大野設備工業は、高槻興産本社の北側区画にあった。
二階建ての事務所。
その裏には、事務所よりも広い倉庫が続いている。
建物は新しくない。
外壁には何度も補修された跡があり、会社名の入った看板も一部が薄くなっている。
それでも、敷地内は整えられていた。
資材を積んだ車両が決められた場所へ並び、作業服を着た従業員たちが倉庫と車両の間を行き来している。
社用車を降りた樹里は、周囲へ視線を向けた。
正面の道路は、大型車両がすれ違える幅がある。
幹線道路へ続く交差点も近い。
資料に記載されていた内容と、大きな違いはなかった。
「日高さん」
神谷が小さく呼ぶ。
「今日は、資料を見る前に周囲を見てください」
『見ています』
「数字にするためではなく、です」
樹里は神谷を見た。
『意味が分かりません』
「すぐには分からなくても構いません」
神谷は事務所の入口へ向かう。
樹里も資料を抱え、その後に続いた。
応接室へ案内されてから、数分後。
大野社長が姿を見せた。
六十代半ばほどの男性だった。
作業服の上着を着たまま、二人の向かいへ座る。
「島川不動産さんだったな」
「はい。神谷と申します」
『日高と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます』
二人が名刺を差し出す。
大野社長は受け取った名刺を机へ置いた。
「高槻さんから、話は聞いてる」
「ありがとうございます」
「先に言っておくが、うちは動かない」
神谷が口を開くより先に、樹里が尋ねた。
『理由を伺ってもよろしいでしょうか』
「三十二年、ここで仕事をしてきた。それで足りないか」
『長年使用されてきたことは承知しております』
「だったら、分かるだろ」
『ですが、現在の契約では、六か月前までに通知することで更新しないことが可能です。今回の通知時期にも、契約上の問題はありません』
「契約書の話をしに来たのか」
大野社長の声が低くなる。
『契約だけで決めるつもりはありません。そのために、移転条件についても――』
「日高さん」
神谷が、静かに止めた。
樹里は言葉を切る。
大野社長の視線が、二人の間を動いた。
「何だ。そっちも話がまとまってないのか」
「申し訳ありません」
神谷は頭を下げる。
「今日は、社長のお話を伺うために来ました」
「さっき話した。動かない。それだけだ」
「この場所でなければならない理由を、教えていただけませんか」
「三十二年やってきたと言っただろ」
「はい」
「それ以上、何を聞く」
「三十二年という時間の中にあるものです」
大野社長の表情が変わる。
神谷は続けた。
「事務所と倉庫が必要であることは、資料で確認しています。取引先への距離や、従業員の通勤についても調べました」
「なら、もう分かってるじゃないか」
「数字としては分かっています」
神谷は、机の上へ置いた資料に触れなかった。
「ですが、社長が移転しないと決めた理由は、まだ分かっていません」
「分かったところで、何が変わる」
「変えられるものがあるかもしれません」
「なかったら?」
「そのときは、ないとお伝えします」
「移転しろと言うのか」
「お話を伺わないまま、できるとも、できないとも申し上げられません」
大野社長は神谷を見つめた。
しばらくして、椅子の背へ身体を預ける。
「高槻さんから、いくらもらってる」
「今回の業務に関する契約金額は、お答えできません」
「そうじゃない。うちを追い出せば、いくら入る」
「私たちの仕事は、大野設備工業を追い出すことではありません」
「同じだろ」
「違います」
神谷は、はっきりと答えた。
「十七社すべてが納得できる条件を整えることが、私たちの仕事です」
「納得しなかったらどうする」
「納得できない理由を探します」
「それでも動かないと言ったら?」
「その答えを、高槻興産へそのまま持ち帰ります」
大野社長が、わずかに眉を動かす。
「高槻さんに怒られるぞ」
「その可能性はあります」
「仕事を失うかもしれない」
「はい」
「それでもか」
「理由が分からないまま、契約書だけで動かすよりはいいと思っています」
樹里は隣で神谷を見た。
高槻社長から与えられた条件は明確だった。
十七社すべての合意。
一社でも残れば、施工工程全体へ影響する。
大野設備工業が動かないという答えを持ち帰ることは、島川不動産が仕事を果たせないと認めることにもなる。
それでも神谷は、できない約束をしなかった。
大野社長は机へ置かれた二人の名刺を見る。
「現場を見ていくか」
「よろしいんですか」
「見たいんだろ」
「お願いします」
神谷が立ち上がる。
樹里も資料を閉じ、席を立った。
◇
倉庫の中には、種類の異なる資材が並んでいた。
配管。
継手。
工具。
複数の現場へ運ぶため、行き先ごとに分けられた箱。
大野社長は倉庫へ入ると、通路の奥を指した。
「あそこが、朝一番に出る車の分だ」
数人の従業員が、資材を車両へ積み込んでいる。
「午後に連絡が来て、その日のうちに動くこともある。水が止まった。設備が壊れた。明日の営業までに直してくれ。そういう仕事も多い」
『移転候補地からでも、対応できる距離だと思います』
樹里が答える。
「地図の上ではな」
『候補地の一つは、現在地から車で二十分程度です。幹線道路にも近く、倉庫面積は現在より広くなります』
「朝と夕方に走ったのか」
『交通量を考慮した所要時間も確認しています』
「何曜日の、何時だ」
樹里は資料を開く。
『平日の午前七時から九時までと、午後五時から七時までです』
「雨の日は?」
『そこまでは確認できておりません』
「月末は?」
『今後確認します』
「工業団地の入口で事故があった日は?」
樹里の指が止まる。
「そんなことまで、契約書には書いてないだろ」
『はい』
「二十分余計に掛かるだけで、別の業者へ仕事が流れることもある。設備屋なんて、どこへ頼んでも同じだと思ってる客もいるからな」
「この場所からの対応の早さが、取引先との信頼に繋がっているんですね」
神谷が言う。
「それだけじゃない」
大野社長は、倉庫の奥へ進む。
壁には、何枚もの地図が貼られていた。
地域ごとに色が分けられ、取引先や現場の位置が細かく書き込まれている。
新しく印刷されたものではない。
書き込みの色も、筆跡も違う。
「昔は、今みたいに携帯電話で地図を見られなかった。先輩が道を覚えて、後輩へ教えた。この道は朝に混む。この橋は雨で動かなくなる。この建物は裏から入る。全部、ここを基準に覚えてる」
「従業員の方々も、ですか」
「ここで働いてる二十六人のうち、半分以上は十年以上いる」
一台の車両が、倉庫から出ていく。
運転席にいた従業員が大野社長へ頭を下げた。
大野社長は片手を上げ、それを見送る。
「遠くへ移れば、辞める人間も出る」
『通勤時間の増加については、補償の対象にできる可能性があります』
「金を出せば、毎朝三十分早く家を出られると思うか」
『少なくとも、負担を軽減する方法にはなります』
「子どもを保育園へ送ってから来る人間もいる。親の介護をしながら働いてる人間もいる。金をもらえば、一日が長くなるわけじゃない」
樹里は口を閉じた。
資料には、従業員二十六名と書かれている。
平均の通勤時間。
移転後に増える距離。
交通費の増額。
だが、その一人一人が、出勤するまでに何をしているのかまでは書かれていない。
「全員の事情を、確認させていただけませんか」
神谷が尋ねる。
「何のために」
「移転によって、誰にどのような負担が生じるのかを知るためです」
「一人ずつ説得する気か」
「違います」
「同じだ」
「説得するためではありません。残れる条件があるかを探すためです」
大野社長が立ち止まる。
「ここに残れる条件か」
「はい」
「再整備するのに?」
「同じ場所へ残るという意味だけではありません」
「だったら移転だろ」
「会社として同じ仕事を続けられること。今いる従業員が、できる限り残れること。取引先との関係を失わないこと。そのすべてを含めて考えたいと思っています」
「綺麗なことを言うな」
「そうかもしれません」
「十七社全部に、同じことをするのか」
「必要であれば」
「間に合わないぞ」
「間に合わせます」
神谷の返答に迷いはなかった。
樹里は、その横顔を見る。
大野設備工業だけではない。
ほかにも十六社ある。
すでに合意の見込みが立っている会社もあれば、条件の調整が必要な会社もある。
一社へ掛けられる時間には限りがあった。
それでも、神谷は一人ずつ事情を確認すると言った。
大野社長は倉庫を出ると、事務所の裏へ二人を案内した。
そこには小さな物置があり、その前に古い木製のベンチが置かれている。
作業を終えた二人の従業員が、缶コーヒーを飲んでいた。
「社長、お客様ですか」
「ああ。高槻さんの再整備の件だ」
二人の表情から笑みが消える。
一人が、樹里と神谷へ頭を下げた。
もう一人は、手にした缶を見つめたまま口を開く。
「本当に、ここを出るんですか」
「まだ決まってない」
大野社長が答える。
「でも、九月までなんですよね」
「仕事へ戻れ」
「はい」
二人は立ち上がり、倉庫へ戻っていった。
神谷は、その背中を見送る。
「従業員の方には、すでに説明されたんですか」
「高槻さんから通知が来た日に話した」
「皆さんは、何と」
「今のを見ただろ」
大野社長は、空いたベンチへ腰を下ろす。
「若い人間は、会社が決めたなら従うと言う。長くいる人間は、何で今さらと怒る。家族に相談してから決めたいと言う人間もいる」
『退職を考えている方はいらっしゃいますか』
「いる」
『何名ですか』
「今のところ、四人だ」
樹里は資料へ書き込む。
従業員二十六名。
移転した場合、少なくとも四名が退職を検討。
その数字を見た大野社長が、小さく息を吐く。
「やっぱり、あんたは数字にするんだな」
『必要な情報です』
「そうだろうな」
『感情だけでは、高槻興産へ条件を求めることができません』
「日高さん」
神谷が止めようとする。
だが、樹里は続けた。
『大野社長がお話しくださった内容を、話だけで終わらせないためです』
大野社長が樹里を見る。
『退職を検討している方が四名いるのであれば、それによって失われる資格や技術も確認します。採用や教育に必要な費用も、移転に伴う損失として交渉できる可能性があります』
「契約で認められなかったら?」
『別の条件を探します』
「さっきの人と、言ってることが違うな」
『方法が違うだけです』
「同じ会社なのにか」
『同じ会社でも、同じ考えである必要はありません』
神谷が樹里を見る。
大野社長は、初めてわずかに笑った。
「仲が悪いのか」
『いいえ』
「そうは見えないが」
「仕事の進め方について、意見が違うだけです」
神谷が答える。
『必要なことです』
「喧嘩なら、外でやってくれ」
『申し訳ありません』
「ただ」
大野社長は、樹里の持つ資料へ視線を向けた。
「数字にするなら、四人で終わらせるな」
『ほかにもいらっしゃるのですか』
「辞めると言ってるのが四人だ。迷ってる人間は、もっといる」
『全従業員の方へお話を伺う機会をいただけますか』
「仕事の邪魔にならないならな」
『ありがとうございます』
「まだ、移転するとは言ってないぞ」
『承知しております』
樹里は資料を閉じる。
『移転をお願いするためではなく、現在の大野設備工業を失わないために確認します』
大野社長は、しばらく何も言わなかった。
「言葉だけなら、何とでも言える」
『はい』
「次は、何を持ってくる」
『確認した事実と、実現可能な条件を持ってまいります』
「できない条件を並べるなよ」
『いたしません』
「それと」
大野社長が、神谷を見る。
「あんたは、何を持ってくる」
「まだ分かりません」
樹里の眉がわずかに動く。
大野社長も、怪訝そうに神谷を見る。
「分からないのか」
「はい。今日伺った内容だけでは、まだ足りません」
「正直だな」
「次に来るまでに、私たちが知らなかったものを探します」
「見つからなかったら?」
「もう一度、探します」
大野社長は立ち上がった。
「期待はしない」
「構いません」
「でも、次の話くらいは聞く」
「ありがとうございます」
神谷と樹里は、深く頭を下げた。
◇
大野設備工業を出ると、昼を過ぎていた。
社用車へ戻っても、神谷はすぐにエンジンをかけなかった。
樹里は助手席で資料を開く。
退職を検討している者が四名。
長年勤務している従業員が半数以上。
緊急対応を含む取引先との関係。
現在地を基準に積み重ねられた移動経路と、現場対応の経験。
確認すべき項目が増えている。
「日高さん」
『何でしょうか』
「先ほど、移転候補地の話を出そうとしましたよね」
『はい』
「まだ早いです」
『しかし、現在の場所に残れない以上、いずれ必要になります』
「だからといって、今ある候補から選ばせるべきではありません」
『選ばせるとは言っていません。比較するために提示するつもりでした』
「大野社長には、同じことです」
『根拠を教えてください』
「移転を前提にした資料だからです」
『再整備が決まっている以上、移転は避けられません』
「本当にそうでしょうか」
樹里が資料から顔を上げる。
『高槻社長から、北側区画をすべて空けるよう求められています』
「今の建物に残れるとは思っていません」
『でしたら、何を疑っているのですか』
「大野設備工業が移るしかないという考えです」
『建物に残れないのであれば、会社が移るほかありません』
「会社全体が、一度に同じ場所へ移る必要はありますか」
樹里の手が止まる。
「事務所と倉庫を分ける。緊急対応のための拠点だけを現在地の近くへ残す。再整備後の区画へ優先的に戻す。そのほかにも方法はあるかもしれません」
『費用と管理の負担が増えます』
「はい」
『高槻興産が認める保証もありません』
「だから、これから確認します」
『可能性だけで話を広げれば、相手へ期待を持たせます』
「できると約束したつもりはありません」
『次の話は聞くと言わせました』
「期待はしないとも言われました」
『言葉どおりとは限りません』
「では、何も言わずに帰るべきでしたか」
『少なくとも、見込みのない方法を口にするべきではありません』
「まだ、見込みがないとは決まっていません」
『決まっていないからです』
二人の視線がぶつかる。
大野設備工業の前を、資材を積んだ車両が通り過ぎていく。
神谷は窓の外へ目を向けた。
「日高さんの資料が必要です」
樹里は黙った。
「今日、日高さんが四人という数字を拾わなければ、俺は従業員が辞める可能性だけを聞いて終わっていました」
『でしたら――』
「でも、数字がそろってから相手を見るのでは、遅いと思っています」
『私は、数字だけを見ているわけではありません』
「分かっています」
『分かっていません』
樹里の声が、僅かに低くなる。
『神谷さんは、私が契約書だけで大野設備工業を動かそうとしていると思っています』
「そうは言っていません」
『同じことです』
「日高さん」
『正しい条件を示すことが、なぜ相手を見ていないことになるのですか』
「正しい条件でも、人が残らなければ意味がないからです」
言葉が止まった。
樹里は神谷を見つめる。
神谷も、目を逸らさなかった。
『私の方法では、人が残らないとお考えですか』
「今のままでは、残らない可能性があります」
はっきりとした返答だった。
これまで、神谷が樹里の判断へここまで強く異を唱えたことはなかった。
樹里は資料を閉じる。
『分かりました』
「何がですか」
『次回までに、実現可能な移転条件を整理します』
「俺は、別の方法を探します」
『ご自由にどうぞ』
「日高さん」
『会社へ戻りましょう。ほかの十六社も進める必要があります』
神谷は何かを言おうとした。
だが、樹里は窓の外へ顔を向けている。
神谷はエンジンをかけた。
社用車が、大野設備工業の前を離れる。
二人が目指しているものは同じだった。
大野設備工業を残すこと。
二十六人が働き続けられる条件を作ること。
十七社すべての合意を得ること。
それでも。
そこへ向かうための道だけは、初めて明確に分かれた。
樹里は、膝の上に置いた資料へ手を添える。
書類にない理由を、神谷は先に聞こうとする。
言葉だけでは守れないものを、樹里は条件へ変えようとする。
どちらが正しいのか。
まだ、答えは出ていなかった。




