265話 最後の条件
高槻興産へ提出する資料の締め切りまで、残り二日。
営業部の一角には、普段とは違う緊張が漂っていた。
会議室の壁には、北側区画に関わる十七社の一覧が貼られている。会社名の横には、契約状況、従業員数、必要資格、現在の所在地、移転の可否、工期への影響。それぞれの情報が、色の違う付箋で整理されていた。
萌は一覧表と契約書を何度も見比べ、陸は各社から届いた資料を業種ごとに分けている。
「これ、同じ協力会社でも立場が全然違いますね」
萌の声に、隣で書類を確認していた陽菜が顔を上げた。
『どの会社?』
「大野設備工業です。高槻興産との取引だけじゃなくて、北側区画の中に事務所と倉庫があります」
萌が指したのは、一覧の一番下に記された会社だった。
従業員二十六名。
空調や給排水設備の施工、保守を請け負う小規模な会社で、高槻興産とは三十年以上の取引がある。
北側区画の一角に事務所を構え、その裏には資材と工具を保管する倉庫が併設されていた。
「ほかの会社は、現場の工程や人員について調整すれば済みます。でも、ここは再整備が始まったら、自分たちの拠点そのものを動かさないといけません」
陸も別の資料を手に取る。
「しかも、夜間の緊急対応をしています。取引先の工場まで三十分以内で行けることを条件にしている契約が複数あります。単純に安い物件を紹介すればいいという話ではなさそうです」
『そこまで見たんだ』
「はい。所在地だけ移しても、今の業務を続けられない可能性があります」
陽菜は二人が作った資料を覗き込んだ。
以前なら、抜けがないかを探すことから始めていた。
だが、今は違う。
自分が気づく前に、萌と陸が問題を見つけている。
『じゃあ、その内容を一覧に追加して。移転先の候補は距離だけじゃなくて、幹線道路への出やすさも必要になるね』
「分かりました」
「過去の緊急対応の範囲も調べます」
陸がすぐに自分の席へ戻る。
萌も資料を抱えて後を追いかけようとしたが、二歩進んだところで振り返った。
「櫻井先輩」
『何?』
「昨日、任せるって言ってくれましたよね」
『うん』
「今日も、途中で取り上げないでくださいね」
陽菜は一瞬、言葉に詰まった。
萌は笑っていたが、その目は本気だった。
『……分かってるって』
「本当ですか?」
『しつこいな。分かってる』
萌が今度こそ自分の席へ戻っていく。
その背中を見送りながら、陽菜は小さく息を吐いた。
仕事を渡すことは、自分の仕事がなくなることではない。
昨日、樹里に向かって偉そうに言った言葉が、自分へ返ってきている。
頭では分かっている。
それでも、自分がやった方が早いと思うたびに、口を出したくなる。
『人に言うのは簡単なんだけどな』
「何がですか?」
中井の声に、陽菜は慌てて顔を上げた。
彼はコピーした資料を腕に抱えていた。
『何でもない。そっちは?』
「高槻興産へ提出する資料を、必要部数そろえました。予備も二部あります」
『早いじゃん』
「日高さんから、午前中に終わらせるよう言われましたから」
中井はそう答えたあと、陽菜の机に置かれた一覧へ目を向けた。
「何かありましたか?」
『萌と陸が、一社だけ条件の違うところを見つけた』
「大野設備工業ですか?」
『知ってたの?』
「前回の現場確認の時に、倉庫の前を通りました。古い建物でしたけど、車の出入りは多かったです」
中井が思い出すように言う。
「社長らしい人もいました。現場の人と一緒に資材を運んでいました」
『社長が?』
「たぶんです。ほかの人が社長と呼んでいたので」
陽菜は一覧の会社名を見つめた。
数字の上では、十七社のうちの一社にすぎない。
だが、そこにいる二十六人にとっては、その一社が生活のすべてだ。
『……こういうの、総長が一番抱え込みそう』
「日高さんですか?」
『契約も、人の事情も、どっちも放っておけないから』
「神谷さんもいます」
『そうだね』
陽菜は素直に頷いた。
『だから今回は、あたしたちが総長の仕事を増やさないようにしないとね』
「はい」
中井の返事を聞いてから、陽菜は彼の左手へ目を向けた。
まだ何もついていない薬指。
けれど、二人の間には約束がある。
それだけで、昨日までとは違って見えた。
「陽菜さん?」
『何でもない。仕事中』
「見ていたのは陽菜さんですよね」
『うるさい』
陽菜は書類へ視線を戻した。
顔が緩みそうになるのを隠すためだった。
◇
「日高さん、少しよろしいですか?」
午後、凛が数冊のファイルを持って樹里の席を訪れた。
樹里は作成中の体制表から顔を上げる。
『はい。どうしましたか、遠藤さん』
「十七社の契約更新について確認していたのですが、大野設備工業だけ少し気になる点があります」
凛は樹里の机へファイルを広げた。
「現在の契約書では、北側区画の使用期限は九月末です。高槻興産側が六か月前までに通知すれば、更新しないことができるようになっています」
『再整備の日程には間に合いますね』
「書面上は、そうなります」
凛が別のファイルを開く。
そこには、古い契約書の写しが年代順に綴じられていた。
「ただ、この会社が最初に区画を借りたのは三十二年前です。その後、何度も契約書を作り直していますが、一度も更新を断られたことがありません」
『自動更新に近い状態ですか』
「法的な判断は専門家に確認する必要があります。ただ、少なくとも相手は、今年も使えると思っていたはずです」
樹里は契約書へ目を落とした。
現在の条文だけを読めば、高槻興産側に大きな問題はない。
定められた期日までに通知し、契約を満了させる。
それだけだ。
しかし、三十二年という時間は、一枚の契約書だけで切り離せるものではない。
『過去に、移転や契約終了の話は出ていますか』
「二十年ほど前に一度あります。ただ、高槻側の計画がなくなり、そのまま更新されています」
『当時の交渉記録はありますか』
「議事録は残っていません。担当者の手書きのメモが一枚だけです」
凛が透明な袋に入れられた紙を差し出した。
色あせた紙には、短い文章が記されている。
――将来的な移転については、代替地を含めて協議する。
樹里の視線が、その一文で止まった。
『正式な合意書ではありませんね』
「はい。ただ、相手がこの話を覚えている可能性はあります」
『確認します』
「日高さんお一人で確認されますか?」
樹里が顔を上げる。
凛は真剣な表情でこちらを見ていた。
『まずは資料を確認するだけです』
「それでしたら分かりました」
『遠藤さん』
「はい」
『私も、昨日話したことは覚えています』
「そうですか」
凛はわずかに口元を緩めた。
「それでしたら、神谷さんにも同じ資料を渡しておいてください」
『はい。ありがとうございます』
凛が去ったあと、樹里は再び古いメモを見た。
正式な契約書ではない。
会社を拘束するほどの効力もない。
それでも、誰かが相手へ伝えた言葉だった。
樹里はメモの写しを取り、神谷の机へ向かった。
『神谷さん、こちらを確認していただけますか』
「大野設備工業の資料ですか?」
『はい。現行契約と過去の対応に、少しずれがあります』
神谷は一通り目を通し、最後の手書きのメモで眉を寄せた。
「代替地を含めて協議する、ですか」
『正式な約束とは言えません。ただ、移転条件を整理する際には考慮する必要があります』
「そうですね。明日の提案にも入れましょう」
『まだ相手の希望を確認できていません』
「だからこそです。現時点で分からないことを、分かったように書く方が危険です」
樹里は神谷を見る。
以前の彼なら、何とかなると言っていたかもしれない。
今は違う。
できることと、まだできないことを分けている。
『では、個別事情の確認後に移転条件を決定すると記載します』
「お願いします。それと、高槻興産には、この会社との過去のやり取りをすべて出してもらいましょう」
『私もそのつもりです』
「よかったです」
『何がですか』
「日高さんが、先に全部調べてから私に報告するとおっしゃらなかったことです」
樹里は返事をしなかった。
ただ、神谷の机へ置こうとしていたファイルを、そのまま彼の手に渡した。
◇
三日目。
高槻興産本社の大会議室には、前回よりも多くの人間が集まっていた。
高槻社長と緒方だけではない。
開発部門、管理部門、法務担当、施工側の責任者。
島川不動産からは黒澤、樹里、神谷が出席している。
机の上には、三日間で作り上げた実施体制案が並べられていた。
神谷が説明を進め、樹里が数字と契約上の根拠を補足する。
十七社を三つに分類し、それぞれに担当と補助を置く。
現場確認、契約整理、移転先の仲介、工程調整。
さらに、担当者が不在になった場合の引き継ぎ先まで明記していた。
一時間近い説明が終わると、高槻が資料を閉じた。
「前に出したものより、ずいぶん現実的になったな」
「ありがとうございます」
神谷が頭を下げる。
「日高が動けなくなった場合は?」
高槻の質問に、樹里ではなく神谷が答えた。
「契約整理は遠藤さんが引き継ぎます。最終確認は私と黒澤部長が行います」
「神谷が倒れた場合は?」
「対外調整は佐藤さんと私で分担します。社内の進捗管理は櫻井さんが担当します」
「二人とも動けない場合は?」
「会社として対応します」
神谷の声に迷いはなかった。
「この案件を、日高さんと私だけの仕事にはしません」
高槻は黙って神谷を見る。
その視線は厳しいままだったが、やがて小さく頷いた。
「三日で、よくここまで直した」
「社員たちが作ったものです」
「お前たちだけではないと、わざわざ言うか」
「はい」
「そういうところは、相変わらずだな」
高槻が背もたれへ身体を預ける。
隣にいた緒方が別の資料を差し出した。
「社長」
「ああ」
高槻はそれを受け取ると、島川不動産の三人へ向けた。
「北側区画の再整備に伴う契約整理、移転調整、再整備後の管理、新規区画の募集。提示した業務については、島川不動産へ一括して任せる」
黒澤の表情が変わる。
神谷は膝の上で拳を握った。
樹里だけは表情を動かさなかったが、資料を持つ指へわずかに力が入った。
「ただし、条件がある」
喜ぶ間も与えず、高槻が続けた。
「十七社すべての合意を取ることだ。一社でも残れば、施工工程全体に影響する」
「承知しました」
神谷が答える。
高槻はその返事を聞いてから、一枚の紙を机へ置いた。
そこには、大野設備工業の名前が記されていた。
「ここの社長には、計画の概要だけ先に伝えてある」
樹里が書類へ目を落とす。
『回答はどうでしたか』
「移転するつもりはない、だそうだ」
会議室の空気が変わった。
『理由は確認されていますか』
「三十二年、あそこで商売をしてきた。従業員も取引先も、あの場所を前提に動いている。今さら書面一枚で出ていけと言われても納得できない。それが向こうの言い分だ」
『契約上は、九月末で満了できます』
「分かっている。向こうも分かっている」
高槻は樹里をまっすぐに見た。
「分かった上で、動かないと言っている」
樹里は黙った。
契約が正しいことと、相手が納得することは同じではない。
「条件は先ほど伝えたとおりだ」
高槻が十七社の一覧を指先で叩く。
「全部だ。一社も置いていくな」
◇
高槻興産を出ると、外は薄い雲に覆われていた。
黒澤は携帯電話を取り出し、会社へ正式受注を知らせるため、少し離れた場所へ歩いていく。
樹里はその場に立ったまま、大野設備工業の資料を開いた。
『契約条件を整理して、移転に伴う補償の範囲を提示します』
「その前に、会いに行きましょう」
神谷の言葉に、樹里が顔を上げる。
『資料をそろえてからの方が、具体的な話ができます』
「向こうが何を失うと思っているのか、まだ私たちは知りません」
『事務所と倉庫、取引先への距離、従業員の通勤条件です』
「それは書類に書かれていることです」
『事実です』
「はい。しかし、それだけで三十二年いた場所を離れないと言い切るでしょうか」
樹里の眉がわずかに動く。
『先に条件を示さなければ、話し合いになりません』
「先に話を聞かなければ、示す条件を間違えます」
二人の視線がぶつかった。
どちらも、声を荒らげてはいない。
それでも、今までとは違うものが、その間に生まれていた。
黒澤が電話を終えて戻ってくる。
「何だ。もう始まったのか?」
神谷は樹里から目を逸らさなかった。
「明日、大野設備工業へ伺います」
『その前に、私は契約と過去資料を確認します』
「分かりました。では、それを持って一緒に伺いましょう」
『……はい』
樹里は資料を閉じた。
十七社。
島川不動産にとって、過去にない規模の案件が正式に動き始めた。
その最初の日。
最後まで残ることになる一社の名前を、樹里と神谷は同時に見つめていた。




