264話「一人分の名前」
高槻興産から戻った三人を待っていたのは、普段と変わらない営業部だった。
電話が鳴る。
印刷機から資料が吐き出される。
外回りから戻った社員が、顧客との打ち合わせ内容を報告している。
高槻社長から三日間の期限を与えられたことを、まだほとんどの社員は知らない。
黒澤は営業部へ入ると、自分の席へ戻らず、正面にあるホワイトボードへ向かった。
「全員、手を止めてくれ」
社員たちが、一斉に顔を上げる。
『黒澤部長、どうしたんですか?』
陽菜が尋ねた。
「緊急で、仕事を一つ組む」
『高槻興産ですか?』
「そうだ」
黒澤はホワイトボードへ、大きく文字を書く。
【高槻興産北側区画・再整備計画】
それだけで、営業部の空気が変わった。
これまで、高槻興産の仕事へ直接関わっていなかった社員も、その会社の名前は知っている。
「高槻興産から、北側区画の再整備に関わる業務を一括して任せたいという話が来た」
「一括というのは、どこまでですか?」
中井が尋ねる。
「既存契約の整理。入居企業とテナントの移転先仲介。ゼネコンとの工程調整。再整備後の管理契約。それから、新規区画への入居募集だ」
「全部ですか?」
佐藤が驚いたように聞き返す。
「全部だ」
黒澤が答える。
営業部の中に、小さなどよめきが起きた。
「関係する会社は17社。施工会社も入れれば、さらに増える」
「契約は一つではないということですね」
凛が言う。
「そうだ。高槻興産との業務委託契約だけで終わらない。移転する会社ごとに、新しい仲介契約が発生する可能性がある。再整備が終われば、管理と新規募集も始まる」
『すごい仕事ですね』
陽菜の声が、僅かに弾む。
「まだ取ってないぞ」
『でも、任せたいって言われたんですよね?』
「三日以内に、最後まで責任を持てる体制を出せと言われた」
『出せたら、決まるんですか?』
「それを見て、高槻社長が判断する」
『じゃあ、三日で作りましょう』
「簡単に言うな」
『だって、やるんでしょ?』
「やるために、今から考えるんだ」
黒澤は会議室を指した。
「神谷、日高さん。先に入ってくれ」
「はい」
『承知しました』
「櫻井さんもだ」
『あたしも?』
「この前のモデルハウスで、誰が何をできるかは見ただろ。お前の意見も聞く」
『分かりました』
「中井と佐藤も来い。遠藤さん、早川さん、川原さん、山本は、今の仕事を整理しておいてくれ。あとで呼ぶ」
名前を呼ばれた者たちが、それぞれ返事をする。
樹里が資料を抱え、会議室へ向かう。
神谷はその隣へ並んだ。
『神谷さん』
「はい」
『先ほどの人員案を使いますか』
「いいえ。まず、全員の現在の業務を確認します」
『時間が掛かります』
「三日あります」
『三日しかありません』
「だからこそ、最初に確認します」
二人の会話を聞きながら、黒澤が後ろから言う。
「廊下で始めるな。中へ入れ」
◇
会議室の机には、高槻興産から渡された資料が広げられた。
黒澤がホワイトボードの前へ立つ。
神谷。
樹里。
陽菜。
中井。
佐藤。
最初に呼ばれた五人が、机を囲んでいた。
「まず、この仕事を分ける」
黒澤は、ホワイトボードへ項目を書いていく。
高槻興産との窓口。
17社との調整。
既存契約の整理。
移転先物件の選定。
施工工程の確認。
再整備後の管理計画。
新規区画の募集準備。
記録と社内共有。
『一つの仕事には見えませんね』
陽菜が言う。
「最初から一つじゃない。これを全部まとめて任せたいと言われてるだけだ」
「責任者は、神谷さんですか?」
中井が尋ねる。
「そのつもりだ」
黒澤は、神谷の名前を高槻興産との窓口の横へ書いた。
「神谷には、高槻側と17社の窓口を任せる。全部の情報が最後に集まる場所だ」
「承知しました」
「ただし、自分で全部処理するな。集めて、必要な人間へ渡せ」
「はい」
「日高さん」
『はい』
「既存契約と全体工程を頼む」
『承知しました』
「契約の満了時期、更新条件、途中解約の扱い。工事日程とぶつかるところを先に出してくれ」
『本日中に一覧を作成します』
「今日中?」
『期限は三日です』
「日高さん」
『何でしょうか』
「一覧を作るのは、一人でやる必要があるか?」
樹里の返事が止まった。
『契約内容の確認には、一定の知識が必要です』
「必要な判断は、日高さんがすればいい。転記や日付の整理まで全部やる必要はないだろ」
『誤りが生じる可能性があります』
「確認だけ最後にやればいい」
黒澤は、記録と社内共有の横へ凛の名前を書いた。
「遠藤さんに、契約情報の一覧化を手伝ってもらう」
『遠藤さんには、通常業務があります』
「それを今から確認する」
『でしたら、私が――』
「また自分の名前を増やすな」
樹里は口を閉じた。
陽菜が、隣で笑いそうになる。
樹里の視線が向く。
『櫻井さん』
『何も言ってません』
『顔に出ています』
『気のせいです』
「二人とも、会社だぞ」
黒澤が止める。
『申し訳ありません』
『すみません』
樹里と陽菜は、それぞれ頭を下げた。
黒澤は次の項目へ移る。
「移転先の物件選定は、中井と佐藤」
「はい」
「承知しました」
「17社すべてが移転するとは限らない。戻る会社、別の場所へ移る会社、契約だけ整理する会社に分かれる。神谷から情報を受け取ったら、条件に合う物件を探せ」
「会社ごとに担当を分けますか?」
佐藤が尋ねる。
「まだ分けるな。必要な条件を揃えてからだ」
「分かりました」
「櫻井さんには、移転先を探す会社への初期確認を手伝ってもらう」
『あたしが?』
「人と話して、相手が何を求めてるか拾うのは得意だろ」
『はい』
「ただし、単独では行くな。最初は神谷か中井と一緒に動け」
『どうしてですか?』
「高槻案件の契約関係を、まだ全部把握してないからだ」
『覚えれば一人でもいいですか?』
「そのとき判断する」
『分かりました』
陽菜は嬉しそうに頷いた。
「櫻井さん」
『はい』
「今抱えている仕事は?」
『通常の顧客対応と、モデルハウスの記録整理。それから、次回イベントの改善案です』
「結婚式の準備は?」
『それは仕事じゃありません』
「だからといって、時間が増えるわけじゃない」
『仕事には影響させません』
「影響させるなじゃない。影響が出る前に言えって話だ」
『でも、まだ会場も決まってません』
「決まったら忙しくなるだろ」
『多分』
「その返事が一番信用できない」
黒澤は陽菜を見る。
「この案件をやるなら、何かを手放す必要がある」
『モデルハウスを手放せってことですか?』
「全部とは言ってない」
『あたしが始めた仕事です』
「始めた人間が、最後まで全部抱える必要はないだろ」
陽菜は何も言わなかった。
チーム櫻井モデルは、陽菜の名前から始まった。
それでも今は、陽菜が指示しなければ動けないチームではない。
凛が見つける。
柚希が繋ぐ。
萌が判断する。
陸が周囲を見る。
自分がいないから止まる状態を変えるために、これまで取り組んできた。
「高槻の仕事を受けたいなら、自分が何を持っていて、何を誰へ渡せるかを出せ」
『……分かりました』
「今日中に決めなくていい。明日までに考えろ」
『はい』
黒澤は、ホワイトボードへ陽菜の名前を書いた。
すべてを任せるのではない。
17社の声を聞くための一人として。
「神谷」
「はい」
「日高さんと櫻井さんが抱えすぎたら止めろ」
『どうして私たちだけなんですか』
陽菜が尋ねる。
「自覚がないからだ」
『日高先輩と一緒にしないでください』
樹里が陽菜を見る。
『櫻井さんに言われたくありません』
『ほら。日高先輩も納得してないじゃないですか』
『私は、櫻井さんと一緒にされることへ納得していないだけです』
『ひどい』
「会社で喧嘩するな」
黒澤が、額へ手を当てる。
「二人とも、止める人間が必要なのは同じだ」
「責任を持って止めます」
神谷が答える。
『神谷さん』
「何でしょうか」
『黒澤部長の命令であっても、不要な場合は従いません』
「必要な場合を、日高さん一人で決めないでください」
『では、誰が決めるんですか』
「私と日高さんで話します」
『話している間に仕事が終わります』
「それなら、それで構いません」
神谷は穏やかに答えた。
樹里は言葉を失う。
陽菜が、今度こそ吹き出した。
『神谷さん、強くなりましたね』
「櫻井さんも、止められる側ですよ」
『あたしは中井くんがいるので』
陽菜が隣を見る。
中井は僅かに困った顔をした。
「努力します」
『そこは任せてくださいって言ってよ』
「確実ではありませんから」
『誰の味方なの?』
「陽菜さんの味方です。だから止めます」
『最近、本当に強くなったね』
黒澤は、短く息を吐いた。
「続けるぞ」
◇
午後。
凛、柚希、萌、陸も会議室へ呼ばれた。
高槻興産の案件について説明を受け、現在の仕事と照らし合わせる。
「私は、何を担当するんですか?」
凛が尋ねる。
「契約情報の一覧化と、記録の形式を整えてほしい」
黒澤が答える。
「契約の判断は、日高さんが行う。遠藤さんには、誰が見ても更新時期と条件が分かる形へまとめてもらう」
「分かりました」
『遠藤さん』
樹里が声をかける。
「はい」
『日付と金額は、必ず元の契約書と照合してください。判断に迷う項目は、空欄にせず私へ確認をお願いします』
「承知しました」
『それから、契約書を社外へ持ち出さないよう、共有方法も先に決めてください』
「社内の限定フォルダを使用します。閲覧できる人も、案件の担当者だけに絞ります」
『お願いします』
「早川さんには、通常業務の調整を頼みたい」
黒澤が続ける。
「高槻案件へ人を出せば、その分だけ営業部の手が減る。誰かが外出している間、電話や来客が止まるわけじゃない」
「皆さんの予定を確認して、受付と社内業務が不足しないようにすればいいですか?」
「そうだ。無理が出そうなら、すぐ俺に言ってくれ」
「分かりました」
柚希は予定表を開き、すでに書き込みを始めている。
「川原さんと山本には、17社の基本情報をまとめてもらう」
「基本情報とは、どこまでですか?」
萌が尋ねる。
「会社の規模。従業員数。現在使っている区画。契約満了時期。それから、移転の必要があるかどうかだ」
「契約書を確認するんですか?」
「契約内容は遠藤さんと日高さんが見る。川原さんたちは、公開されている情報と、高槻興産から提供された会社概要を整理してくれ」
「その情報は、誰が使いますか?」
「全員だ」
黒澤は答えた。
「神谷が各社と話すとき。櫻井さんが希望を聞くとき。中井と佐藤が移転先を探すとき。知らない相手へ、いきなり会いに行くわけにはいかないだろ」
「形式は、こちらで決めてもいいですか?」
「任せる」
萌の表情が僅かに変わる。
「分かりました」
「山本」
「はい」
「川原さんが数字をまとめている間、お前は各社が実際に何をしている会社なのか見ろ」
「何をしているか?」
「会社概要に、事業内容は書いてある。だが、それだけじゃ分からないこともある。倉庫を多く使うのか。人の出入りが多いのか。客が来るのか。移転先を探すときに必要になる」
「分かりました」
「見つけたことは、勝手に判断せず川原さんへ渡せ」
「はい」
萌が、陸を見る。
「山本くん。私が項目を作るから、足りないと思ったら言って」
「分かりました」
「言われる前に見つけて」
「……はい」
陸が、少しだけ姿勢を正す。
チーム櫻井モデルで繰り返してきたことと同じだった。
見えた者が伝える。
受け取った者が判断する。
誰か一人の指示だけを待たない。
扱う仕事の大きさは違う。
それでも、そこで覚えたことは無駄ではなかった。
◇
夕方。
会議室には、樹里と神谷だけが残っていた。
ホワイトボードには、それぞれの名前と役割が並んでいる。
神谷は全体を見渡し、不足している部分を確認していた。
樹里は、机の上で新しい人員表を作っている。
「日高さん」
『はい』
「見せていただいてもいいですか」
『まだ途中です』
「途中で構いません」
神谷が隣へ立つ。
樹里の作った表には、業務ごとに責任者と担当者が記されていた。
既存契約の整理。
責任者、日高。
施工工程の確認。
責任者、日高。
再整備後の管理計画。
責任者、日高。
新規区画の募集準備。
担当者、日高。
記録内容の最終確認。
確認者、日高。
「日高さん」
『何でしょうか』
「一人分の名前に見えません」
『私が内容を把握する必要があります』
「把握することと、すべての責任者になることは違います」
『契約と工程は繋がっています』
「それでも、管理計画まで日高さんが作る必要はありません」
『高槻興産の意向を、最も理解しています』
「高槻興産の意向を理解している人間を増やしてください」
神谷は、人員表を自分の方へ向ける。
再整備後の管理計画。
責任者、日高。
その文字を消し、別の社員の名前へ変更する。
『神谷さん』
「はい」
『勝手に変えないでください』
「では、誰が適任だと思いますか」
『私です』
「日高さん以外で、です」
樹里は黙る。
「日高さんがいなければ、この仕事は止まるんですか」
『いなくなりません』
「体調を崩す可能性はあります」
『崩しません』
「事故や急な予定変更もあります」
『仮定の話です』
「仕事の体制は、その仮定に備えるものです」
樹里は、人員表へ視線を落とした。
正しいことを言っている。
それでも、自分の手から仕事を離すことには抵抗があった。
誰かへ渡せば、確認が必要になる。
説明する時間も掛かる。
自分で進めた方が早い。
そう考える癖が、今も残っている。
「日高さん」
『何ですか』
「この案件を、最後まで私と一緒にやっていただけますか」
樹里が顔を上げる。
『そのつもりです』
「でしたら、日高さんが途中で倒れない体制にしてください」
『神谷さんも同じです』
「はい」
神谷は、自分が責任者になっている項目を一つ指した。
「17社との窓口は私が担当します。ただし、訪問記録は櫻井さんと山本さんにも共有します」
次に、高槻興産との調整を指す。
「高槻社長との最終的な窓口は私ですが、緒方さんとの日常的な連絡は佐藤さんにも入っていただきます」
『神谷さんが不在でも、情報が止まらないようにするためですか』
「はい」
『……分かりました』
樹里は、人員表を自分の前へ戻す。
再整備後の管理計画。
そこに書いた自分の名前を消す。
別の担当者の名前を書いた。
新規区画の募集準備からも、自分の名前を外す。
すべてではない。
契約整理と工程確認だけは、譲らなかった。
それでも、最初の表からは樹里の名前が二つ減った。
「ありがとうございます」
『礼を言わないでください』
「では、何と言えばいいですか」
『何も言わなくて構いません』
「分かりました」
神谷は、僅かに笑った。
『なぜ笑うんですか』
「日高さんが、きちんと人へ任せたので」
『必要だと判断しただけです』
「そうですね」
『それ以上、何か言いたそうな顔をしないでください』
「していません」
『しています』
樹里は人員表を閉じた。
時計を見る。
すでに定時を過ぎている。
「今日は、ここまでにしましょう」
『まだ確認する項目があります』
「黒澤部長から、全員で帰るように言われました」
『全員ではなく、もう二人しかいません』
「だから、二人で帰ります」
『私はもう少し残ります』
「私も残ります」
『神谷さんの担当分は終わっています』
「日高さんを一人で残さないことも、今日の仕事です」
『そのような仕事はありません』
「黒澤部長から指示されました」
樹里は、神谷を見つめた。
神谷も退く様子はない。
『……分かりました』
「帰っていただけますか」
『はい』
「では、片づけます」
二人は資料を社内の保管棚へ戻した。
持ち帰ることはできない。
機密情報を含む以上、家で続きをするわけにもいかなかった。
営業部の照明を消し、二人で会社を出る。
樹里が一人で残らなかったことを確認してから、神谷は駅へ向かった。
◇
自宅へ戻った樹里は、鞄を机の横へ置いた。
高槻興産の資料は入っていない。
仕事用のパソコンも、会社へ残してきた。
今夜は、仕事の続きをすることができない。
樹里は着替えを済ませ、温かい茶を淹れた。
机へ座る。
そこには、私物のノートパソコンが置かれている。
画面を開くと、前回閉じなかった文書が表示された。
友人代表挨拶。
題名の下には、今も何も書かれていない。
仕事なら、必要な情報を集められる。
項目へ分けられる。
期限を決め、担当者を置くこともできる。
今日、自分の名前を減らすことさえできた。
だが、この白紙だけは誰にも分けられない。
陽菜との六年間を、誰かへ書かせることはできない。
樹里はキーボードへ指を置いた。
新婦の櫻井陽菜さんとは。
最初の一文を打つ。
その文字を、しばらく見つめた。
会社の後輩を紹介する文章のようだった。
自分と陽菜の間にあるものが、何一つ入っていない。
樹里は、再びすべてを消した。
高槻興産の人員表からは、自分の名前を減らすことができた。
だが、陽菜について書く言葉だけは。
誰かへ渡すことも。
別の名前へ置き換えることもできなかった。




