↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
263/329

263話「即答しない」

月曜日の朝。


 陽菜が目を覚ましたとき、中井は隣でまだ眠っていた。


 新しい家で迎える、三度目の朝。


 見慣れなかった天井も、少しずつ自分の部屋のものに変わり始めている。


 寝室の隅に積まれていた段ボールは、昨日までに半分ほど片づいた。


 二つの枕。


 二人分の着替え。


 同じ時刻に設定された、二台のスマートフォン。


 まだ完成したとは言えない。


 それでも、二人の生活は確かに始まっていた。


 枕元に置かれた陽菜のスマートフォンが、小さく震える。


 陽菜は中井を起こさないよう、手探りで端末を取った。


 画面には、佳菜の名前が表示されていた。


 昨夜送った二つの文章。


〈結婚することになった〉


〈式は10月の予定〉


 その下に、佳菜からの返信が届いている。


〈おめでとう〉


〈詳しいことが決まったら教えて〉


 短い二行。


 怒ってはいない。


 驚いたとも書いていない。


 相手について尋ねる言葉も、いつから付き合っていたのかという質問もない。


 陽菜が送った内容へ、必要な返事だけを返した文章だった。


 昔から、佳菜とのやり取りはそうだった。


 学校の予定。


 食事が必要か。


 帰宅時間。


 生活費。


 両親が亡くなったあと、二人で暮らしていた頃も、必要な話はしていた。


 だが、それ以上のことを話した記憶はほとんどない。


 陽菜は入力欄を開く。


〈ありがとう〉


 そこまで打って、止まった。


 中井のことを説明するべきか。


 今度会ってほしいと伝えるべきか。


 結婚式へ来てほしいと、今から書くべきなのか。


 どの言葉も、自分のものではないように感じられた。


 結局、打った文章を消す。


〈分かった〉


 それだけを送った。


 すぐに既読がつく。


 新しい返信は来なかった。


「お姉さんですか」


 隣から聞こえた声に、陽菜が振り返る。


『起きてたの?』


「スマートフォンが震えたので」


『ごめん』


「何と書いてありましたか」


『おめでとうって』


「そうですか」


『詳しいこと決まったら教えてって』


「はい」


 中井は、それ以上何も聞かなかった。


『来るかどうか、聞かないの?』


「今は、まだ聞いていないんですよね」


『うん』


「でしたら、決まったときに考えましょう」


『式場も、まだ決めてないしね』


「はい」


『日付も仮だし』


「そうですね」


 陽菜はスマートフォンを伏せた。


『怒ってなかった』


「怒る理由はないと思います」


『そうなんだけど』


 短い返信を見て安心したのか。


 少し寂しいと感じたのか。


 自分でも分からなかった。


 中井が、布団の中で陽菜の手を取る。


 薬指の指輪へ、指先が触れた。


「起きますか」


『あと五分』


「昨日も、そう言って十五分寝ました」


『今日は本当に五分』


「信用できません」


『じゃあ、中井くんが起こして』


「もう起こしています」


『もっと優しく』


「陽菜さん。朝ですよ」


『そうじゃなくて』


「では、どうすればいいんですか」


『キスして』


 中井の動きが止まる。


『婚約者なんだから、それくらいいいでしょ』


「朝から何を言っているんですか」


『嫌?』


「嫌ではありません」


『じゃあ、早く』


 中井は、陽菜の額へ短く口づけた。


『そこ?』


「起きてください」


『けち』


 そう言いながらも、陽菜は笑って布団から起き上がった。


     ◇


 同じ頃。


 島川不動産の営業部には、まだほとんど社員が出勤していなかった。


 樹里は自分の席に座り、高槻興産から届いた資料を開いている。


 机の上には、複数のファイルが並んでいた。


 北側区画の全体図。


 現在の契約一覧。


 入居企業とテナントの情報。


 再整備後の区画案。


 施工会社が作成した工程表。


 17社分の資料を含めれば、昨夜だけで読み切れる量ではない。


 それでも樹里は、ほとんどのページへ目を通していた。


「おはようございます」


 神谷が営業部へ入ってくる。


『おはようございます、神谷さん』


 樹里は画面から目を離さずに答えた。


 神谷が自分の席へ鞄を置く。


 その机にも、印刷した資料が入った厚いファイルがあった。


『神谷さん』


「はい」


『昨日、最初の数ページだけ確認したとおっしゃいましたよね』


「はい」


『こちらは何ですか』


 樹里が、神谷のファイルを見る。


「今朝、印刷しました」


『付箋がついていますが』


「印刷したあと、少しだけ確認しました」


『少し、ですか』


「日高さんこそ、全資料を確認されたんですか」


『内容を把握しただけです』


「同じですね」


『私は、少しとは言っていません』


「そうでした」


 神谷は自分のファイルを持ち、樹里の隣へ立った。


「どこまで確認されましたか」


『現契約と、新しい区画案を中心に見ました。再整備後の募集計画は、まだ概要しかありません』


「私は、施工側の工程を確認しました」


『問題はありましたか』


「現時点では、予定どおりに全社が退去することを前提にしています」


『契約満了の時期は揃っていません』


「はい。その調整も、委託業務へ含まれると思います」


 神谷が北側区画の全体図を広げる。


 17社が使用している建物と土地。


 倉庫。


 事務所。


 小規模な店舗。


 それぞれに色がつけられている。


「既存契約を整理するだけではありません。退去が必要な企業には、移転先も用意する必要があります」


『再整備後に戻る会社と、別の場所へ移る会社を分ける必要がありますね』


「その判断を、工事が始まる前に終わらせなければなりません」


『期限は』


「資料上では、最初の区画の着工が九か月後です」


『九か月』


「ただし、施工会社との調整を考えれば、契約関係は半年以内に整理する必要があります」


 樹里は、工程表へ視線を落とした。


『10月より前に、大きな山を越える必要がありますね』


「結婚式のことですか」


『櫻井さんから、仕事を入れないよう言われましたので』


「覚えていたんですね」


『当然です』


「昨日、友人代表の挨拶も頼まれたんですよね」


 樹里の手が止まる。


『誰から聞いたんですか』


「櫻井さんです」


『いつですか』


「昨夜、私たちの三人のLINEへ連絡が来ました」


『三人?』


「私と佐藤さんと中井さんです」


『何の集まりですか』


「相談を受けることが多いので、佐藤さんが作りました」


『聞いていません』


「お伝えする必要があるとは思いませんでした」


『私の話をしているんですよね』


「挨拶をお願いした、とだけです」


『余計なことを』


「引き受けられるんですか」


『まだ考えているところです』


「そうですか」


 神谷は、それ以上踏み込まなかった。


 樹里は、再び高槻興産の資料へ視線を戻す。


 だが、一瞬だけ、自宅のパソコンに残してきた白い画面が頭をよぎった。


「日高さん」


『何ですか』


「こちらの契約一覧ですが、更新時期だけでなく、従業員数も確認した方がいいと思います」


 神谷が、一社の資料を指す。


「移転する場合、建物の広さだけを合わせても足りません。通勤経路が大きく変われば、働いている方に影響が出ます」


『まだ移転すると決まったわけではありません』


「はい。ですが、候補を探すなら先に必要になる情報です」


『分かりました。高槻興産へ確認項目として出しましょう』


「ありがとうございます」


 そのとき、営業部の入口から黒澤が入ってきた。


「朝から何をやってる」


『おはようございます、黒澤部長』


「おはようございます」


「二人とも、来るのが早すぎるんだよ」


『打ち合わせが午前10時ですので』


「だからって、始業一時間前から始めるな」


 黒澤は二人の机に並んだ資料を見る。


「全部見たのか?」


『概要は確認しました』


「お前は?」


「施工工程と、移転に関わる部分を確認しました」


「似た者同士だな」


『違います』


「どこがだ」


『神谷さんは、少ししか見ていないとおっしゃいました』


「日高さん。それは昨日の時点です」


「どっちでもいい。会議室へ持ってこい」


 黒澤は自分の鞄を置くと、二人を会議室へ呼んだ。


     ◇


「会社史上、最大になる可能性がある」


 会議室。


 黒澤は、高槻興産から届いた計画書の表紙を机へ置いた。


「これを島川不動産が全部引き受ければ、入るのは仲介手数料だけじゃない」


 既存契約の整理。


 17社の移転先仲介。


 再整備後の管理契約。


 新規区画への入居募集。


 それぞれの業務から、複数の契約が生まれる。


 再整備後も、北側区画の管理が続けば、一度きりの利益では終わらない。


「高槻興産との取引だけでも大きい。それに、17社の移転を扱えば、新しい取引先が一気に増える」


 黒澤は腕を組んだ。


「成功すれば、営業部どころか会社全体の実績になる」


『失敗した場合は、これまでの信用まで失います』


 樹里が答える。


「そういうことだ」


「高槻社長は、本当にすべてを弊社へ任せるつもりでしょうか」


 神谷が尋ねる。


「その話を聞くために、今日呼ばれたんだろ」


『候補の一社という可能性もあります』


「それもある。他社と比べるために、俺たちの考えを聞きたいだけかもしれない」


 黒澤は、二人を見る。


「だから、向こうで勝手に引き受けるなよ」


 樹里の表情が僅かに動く。


『条件が明確であれば、回答できます』


「できてもするな」


『なぜですか』


「会社一つ分の仕事じゃない。今いる人員で回せるか、通常業務にどれだけ影響が出るか、先に確認する必要がある」


『体制は、受注後に組むこともできます』


「受けてから無理でしたじゃ済まないんだよ」


『無理にはしません』


「日高さんなら、そう言うと思った」


 黒澤は、樹里の正面へ資料を戻した。


「できるかどうかじゃない。誰が、どこまで、どの期間でやるのかを決めてから受けるんだ」


 樹里は何も答えなかった。


 神谷が口を開く。


「本日は、先方の意向と条件を確認することに留めます」


『神谷さん』


「正式な回答は、社内の体制を確認したあとです」


『その間に、他社へ話が進む可能性があります』


「あります」


『なら、その場で回答できる準備をしておくべきです』


「日高さん一人が背負えばできる、という準備では意味がありません」


 樹里の視線が、神谷へ向く。


 声を荒らげたわけではない。


 それでも、神谷の言葉は明確だった。


「この仕事を受ければ、日高さんだけでは終わりません。営業部全体の仕事になります」


『分かっています』


「でしたら、全体が動ける状態かを確認する必要があります」


 短い沈黙が落ちる。


 黒澤は口を挟まず、二人を見ていた。


 樹里は、一度資料へ視線を落とした。


『……分かりました』


 神谷が僅かに目を見開く。


『本日は条件の確認に留めます。正式な回答は持ち帰ります』


「ありがとうございます」


『礼を言われることではありません』


「それでもです」


「話がまとまったなら行くぞ」


 黒澤が席を立つ。


「約束の時間に遅れたら、受ける前に終わるからな」


     ◇


 午前10時。


 三人は、高槻興産の応接室へ通された。


 ほどなくして、高槻社長と緒方が入ってくる。


「待たせたな」


「いえ。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


 黒澤が頭を下げる。


 神谷と樹里も、それに続いた。


 高槻は席へ着くと、挨拶もそこそこに計画書を開いた。


「資料は見たか」


「はい」


「どこまで理解した」


「北側区画の再整備に伴う契約整理、移転仲介、再整備後の管理、新規募集までを一括した計画だと理解しています」


 神谷が答える。


「日高」


『はい』


「お前はどう見た」


『現在の資料だけでは、17社すべての合意時期を確定できません』


 高槻の目が僅かに細くなる。


『契約満了時期が揃っていないうえ、移転の必要性も会社ごとに異なります。施工工程を先に固定すれば、一部の企業へ過度な負担が生じます』


「できないと言いたいのか」


『いいえ』


 樹里は、高槻から目を逸らさなかった。


『必要な情報が不足していると申し上げています』


 緒方が、僅かに息を呑む。


 だが高槻は怒らなかった。


「相変わらず、はっきり言うな」


『曖昧なままお引き受けする方が、失礼だと考えています』


「神谷は?」


「日高さんの意見に加え、各社で働く方の通勤や生活についても確認が必要だと考えています」


「契約の話をしている」


「契約が成立しても、そこで働く方が残れなければ、移転先として適切とは言えません」


「時間が掛かるぞ」


「はい」


「全体工程が遅れてもか」


「遅らせないために、先に確認します」


 高槻は、机の上で指を組んだ。


「お前たちを呼んだ理由は、一つだ」


 樹里と神谷を順番に見る。


「この計画を、島川不動産へ一括して任せたい」


 黒澤の表情が、僅かに引き締まる。


 候補ではない。


 他社との比較でもない。


 高槻社長は、最初から島川不動産を委託先として考えていた。


「これまで、北側区画で問題が起きるたび、お前たちは現場へ来た」


 高槻が言う。


「神谷。お前は、俺に追い返されても一人で来た」


「はい」


「日高。お前は、契約と工程の間違いを見つけた。俺の前でも、できないことはできないと言った」


『はい』


「だから、任せる」


 高槻は計画書を閉じた。


「ただし、中途半端は許さない」


 応接室の空気が変わる。


「契約だけ取って終わり。移転先を見つけて終わり。工事が始まったら施工会社へ投げる。そんな仕事なら、ほかへ頼む」


 高槻は、黒澤へ顔を向ける。


「島川不動産が、最後まで責任を持てるか」


 黒澤は、すぐには答えなかった。


 隣に座る樹里が、僅かに身を乗り出す。


『お引き受けします』


 その言葉が出る直前。


「本日中の回答は、控えさせてください」


 神谷が先に答えた。


 樹里の動きが止まる。


 高槻の視線が、神谷へ向く。


「断るのか」


「いいえ」


「なら、なぜ今答えない」


「最後まで責任を持つためです」


 神谷は、落ち着いた声で続けた。


「この計画は、私と日高さんだけでは完了できません。営業部だけでも足りない可能性があります」


「人が足りないなら、増やせばいい」


「誰でもいいわけではありません。既存契約を扱う者、移転先を探す者、工程を管理する者、再整備後の募集を行う者。それぞれに必要な経験が異なります」


「それを確認してから返事をすると?」


「はい」


「その間に、俺が別の会社へ話を持っていくとは考えないのか」


「考えています」


 神谷は、それでも答えを変えなかった。


「ですが、取るためだけの返事はできません」


 高槻は黙って神谷を見ていた。


 樹里は、膝の上で手を組んでいる。


 今すぐ引き受けると言いたかった。


 必要な仕事なら、自分がやる。


 足りない人間がいれば、自分が補う。


 そうすれば、少なくとも断る理由はなくなる。


 だが神谷は、それを許さなかった。


 日高さん一人が背負えばできる、という準備では意味がない。


 先ほどの言葉が、樹里の中へ残っている。


「日高」


 高槻が呼ぶ。


『はい』


「お前も、持ち帰るのか」


 一瞬だけ迷った。


 ここで引き受けると言えば、仕事は始まる。


 高槻社長の期待にも、すぐに応えられる。


 だが、それでは神谷の判断を否定することになる。


 自分だけで背負わないと決めたのは、つい先日のことだった。


 樹里は神谷を見る。


 神谷は何も言わない。


 答えを譲るのではなく、樹里自身が決めるのを待っている。


『はい』


 樹里は、高槻へ顔を戻した。


『持ち帰らせてください』


「理由は」


『最後まで責任を持てる体制を作るためです』


「神谷に合わせたわけじゃないだろうな」


『違います』


 樹里は、僅かに間を置いた。


『神谷さんの判断が正しいと考えました』


 神谷の目が、僅かに動く。


 高槻は、二人をしばらく見比べた。


 やがて、椅子の背へ身体を預ける。


「三日だ」


「三日、ですか」


「三日で、誰が何をするのか決めろ」


 高槻は計画書を、二人の方へ押し出した。


「人員。役割。期限。問題が起きたときの責任者。全部持ってこい」


「承知しました」


『承知しました』


「それを見て、最後に決める」


 高槻は立ち上がる。


「お前たちに任せるか。ほかへ回すかをな」


     ◇


 高槻興産を出ると、三人は社用車の前で足を止めた。


 黒澤が、神谷を見る。


「よく止めたな」


「申し訳ありません。先に回答してしまいました」


「謝るところじゃない」


 黒澤は次に樹里を見る。


「日高さんも、よく引いた」


『引いたわけではありません』


「じゃあ何だ」


『神谷さんの判断を受け入れただけです』


「それを引いたって言うんだよ」


『少し違います』


「相変わらず細かいな」


 黒澤は社用車の鍵を神谷へ渡した。


「三日しかない。戻ったら、営業部の仕事を全部洗い出すぞ」


「はい」


『黒澤部長』


「何だ」


『本当に、引き受けるつもりですか』


「日高さんは?」


『引き受けたいです』


「神谷は?」


「私もです」


「なら、受けられる形を作る」


 黒澤は、北側区画の資料が入った鞄を見る。


「ただし、誰か一人を潰して取る仕事にはしない」


 樹里は、すぐに答えなかった。


 神谷が倒れた日。


 誰にも頼らず、自分一人で高槻興産へ通っていた姿。


 その後を埋めるため、自分がすべてを引き受けようとしたこと。


 同じことを繰り返せば、この仕事は始まる前から失敗している。


『承知しました』


「本当に分かってるか?」


『分かっています』


「なら、今日は全員で帰れよ」


『まだ始業したばかりです』


「今夜の話だ」


『期限は三日です』


「三日ある。今日一日で終わらせようとするな」


 樹里は何も言わなかった。


 黒澤は、その沈黙を肯定とは受け取らなかった。


「神谷」


「はい」


「日高さんが残ろうとしたら、止めろ」


『なぜ神谷さんへ頼むんですか』


「俺の話を聞かないからだ」


『聞いています』


「従ってないだろ」


『必要な場合は従います』


「その必要を自分で決めるな」


 黒澤は後部座席の扉を開ける。


「会社へ戻るぞ。ここからが仕事だ」


 神谷が運転席へ乗り込む。


 樹里も助手席へ座った。


 膝の上には、高槻興産から渡された計画書がある。


 一人なら、すぐに引き受けると答えていた。


 できるかどうかを考える前に、自分がやると決めていた。


 今日は違った。


 神谷が止めた。


 そして樹里は、その判断を受け入れた。


「日高さん」


 車を発進させる前に、神谷が呼ぶ。


『何ですか』


「先ほどは、ありがとうございました」


『何に対する礼ですか』


「私の判断を信じてくださったことです」


『信じたわけではありません』


「違うんですか」


『正しいと判断しただけです』


「そうですか」


『それに』


 樹里は、膝の上にある計画書へ視線を落とした。


『受けると決めたわけではありません。三日で、受けられる形を作ります』


「はい」


『神谷さんにも、働いていただきます』


「もちろんです」


『途中で倒れないでください』


「気をつけます」


『気をつけるだけでは困ります』


「では、日高さんも同じ条件でお願いします」


 樹里が神谷を見る。


「日高さんだけは、倒れるまで働いていいということにはなりません」


『私は倒れません』


「私も、そう思っていました」


 神谷の言葉に、樹里は返せなかった。


「一緒に、受けられる形を作りましょう」


『……はい』


 神谷がエンジンをかける。


 社用車が、高槻興産の駐車場を出た。


 北側区画再整備計画。


 17社。


 複数の契約。


 会社史上最大になる可能性のある仕事。


 そのすべてを引き受けるための、三日間が始まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。