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262話「書けない言葉」

次の休日。


 陽菜と中井は、駅から少し離れた場所にある結婚式場を訪れていた。


 白い外壁。


 大きな窓。


 敷地の奥には、小さな礼拝堂が見える。


 入口を抜けると、正面の壁に何組もの新郎新婦の写真が飾られていた。


 白いドレスを着た女性。


 その隣で笑う男性。


 家族や友人に囲まれ、花びらの舞う中を歩いている。


 陽菜は足を止め、その一枚を見つめた。


「どうしましたか」


『別に』


「見ていますよね」


『ちょっとだけ』


「緊張していますか」


『してないよ』


「先ほどから、私の腕を掴んでいます」


 陽菜は、自分の手を見る。


 式場へ入ってからずっと、中井の腕へ両手を絡ませていた。


『迷子にならないように』


「ここは、それほど広くありません」


『あたしじゃなくて、中井くんが』


「僕ですか」


『一人でどこか行きそうだから』


「行きません」


『じゃあ、このままでいいでしょ』


「はい」


 二人が受付へ向かうと、明るい色のスーツを着た女性が立ち上がった。


「櫻井様、中井様ですね。本日はお越しいただき、ありがとうございます」


『よろしくお願いします』


「よろしくお願いいたします」


「担当いたします、長谷川と申します。まずはこちらへどうぞ」


 二人は相談用の個室へ案内された。


 室内には、式場の写真や料理の資料が並んでいる。


 机の中央には、一枚の記入用紙が置かれていた。


「お飲み物をご用意する間に、こちらへ分かる範囲でご記入をお願いいたします」


「承知しました」


『今、全部決めないと駄目ですか?』


「いいえ。現時点でのご希望だけで構いません。まだ決まっていない項目は、空欄で大丈夫ですよ」


『よかった』


 長谷川が部屋を出る。


 陽菜は記入用紙を自分の方へ引き寄せた。


『新郎、中井くん』


「はい」


『新婦、あたし』


「それは分かっています」


『書いて』


「陽菜さんが持っているペンで書けばいいでしょう」


『中井くんの字の方が綺麗』


「名前は本人が書くものではないんですか」


『契約書じゃないから大丈夫だよ』


「では、希望日から確認しましょう」


 中井は用紙を陽菜との間へ戻した。


 挙式希望時期。


 10月。


 希望する曜日。


 土曜日、または日曜日。


 招待予定人数。


『何人くらい?』


「会社の方をどこまでお呼びするかで変わりますね」


『営業部は、みんな呼びたい』


「全員ですか」


『来てほしい人、いっぱい居るよ』


「高槻興産の方もですか?」


『高槻社長は、来ないでしょ』


「取引先の方ですからね」


『呼んだら来るかな』


「招待するつもりですか?」


『怒られそうだからやめとく』


「誰にですか」


『日高先輩』


「その前に、黒澤部長へ相談してください」


『やっぱり怒られるじゃん』


 二人で招待したい相手を書き出す。


 黒澤。


 樹里。


 神谷。


 佐藤。


 凛。


 柚希。


 萌。


 陸。


 総務部へ異動した彩花。


 零。


 美園。


 そのほかにも、仕事を通じて知り合った者や、二人の共通の友人がいる。


『思ったより多いね』


「まだ、ご家族を入れていません」


 中井の一言に、陽菜の手が止まった。


 用紙には、両家の参列予定人数を記す欄がある。


 新郎側親族。


 新婦側親族。


「僕の家族については、あとで確認します」


『うん』


「陽菜さんは」


『両親はいないよ』


 陽菜は、用紙を見たまま答えた。


 中井も、それを知っている。


 陽菜が十六歳のとき、両親は亡くなった。


 それから二年間、姉の佳菜と二人で暮らした。


 十八歳になると、陽菜は佳菜のもとを離れた。


 中井は詳しい事情まで聞いたことがない。


 陽菜も、自分から話そうとはしなかった。


「お姉さんは、どうしますか」


『まだ分かんない』


「結婚することは、伝えますか」


『そのうち』


「昨日も、そう言っていましたね」


『まだ式場も決まってないし』


「結婚すること自体は決まっています」


『分かってるよ』


 陽菜の声に、僅かな硬さが混じった。


 中井は、それ以上問い詰めなかった。


「こちらは、空欄にしましょう」


『いいの?』


「長谷川さんも、決まっていない項目は空欄でいいとおっしゃっていました」


『そうじゃなくて』


「何ですか」


『中井くん、聞かないの?』


「陽菜さんが話したくないことを、無理に聞くつもりはありません」


『でも、結婚するんだよ』


「はい」


『家族になるんでしょ』


「家族になれば、何でも聞いていいわけではありません」


 以前、中井の鞄に隠されていた小さな箱を見つけそうになったとき。


 陽菜自身が、同じようなことを言った。


 一緒に暮らしても、何でも勝手に見ていいわけではない。


 中井は、その言葉を覚えていた。


「話したいと思ったときに、聞かせてください」


『いつになるか分かんないよ』


「待ちます」


『総長みたい』


「そうですか?」


『何も聞かないところ』


「日高さんは、必要だと思えば聞く方だと思います」


『そうだけど』


「お姉さんを招待するかどうかも、陽菜さんが決めてください」


『中井くんは、来てほしくない?』


「僕は、まだお会いしたことがありません」


『そっか』


「陽菜さんが来てほしいと思うなら、ご挨拶したいです」


『思わなかったら?』


「無理にお呼びする必要はないと思います」


『それでいいの?』


「僕の家族になるのは、陽菜さんです」


 中井は空欄のまま、用紙を次へ進める。


「ただ、一人で決められないなら、一緒に考えます」


『うん』


 陽菜は小さく答えた。


     ◇


 長谷川が戻ってくると、式場についての説明が始まった。


 礼拝堂。


 披露宴会場。


 料理。


 衣装。


 写真撮影。


 招待状。


 決めなければならないことは、陽菜が想像していたより遥かに多かった。


「10月ですと、こちらの日程に空きがございます」


 長谷川が、カレンダーへ三つの印をつける。


『もう、これだけですか?』


「土曜日と日曜日をご希望の場合は、こちらになります。平日も含めますと、もう少しご案内できます」


『みんな仕事あるもんね』


「そうですね。遠方から来られる方が多い場合は、翌日が休日になる土曜日を選ばれる方も多いです」


 陽菜は中井を見る。


『どれがいい?』


「陽菜さんは?」


『またあたしに聞く』


「二人で決めることですから」


『じゃあ、これ』


 陽菜が指したのは、10月の土曜日だった。


「この日ですか」


『うん。次の日も休みなら、みんなゆっくりできるでしょ』


「僕もいいと思います」


 長谷川が、希望日の欄へ印をつける。


「仮予約も可能ですが、いかがなさいますか?」


 陽菜は、礼拝堂の写真を見る。


 まだ実際の会場を見ていない。


 ほかの式場とも比べていない。


 それでも、胸の奥では少しずつ現実になり始めていた。


「見学してから決めても構いませんか」


 中井が尋ねる。


「もちろんです。それでは、実際に会場をご案内いたします」


 二人は長谷川の後を追い、個室を出た。


 廊下の先に、大きな扉がある。


 扉が開く。


 白を基調とした礼拝堂へ、柔らかな光が差し込んでいた。


 天井は高く、正面には細長い窓が並んでいる。


 陽菜は入口で足を止めた。


「どうしましたか」


 中井が隣から尋ねる。


『ここ、歩くの?』


「挙式をするなら、そうなりますね」


『一人で?』


「途中から、僕が待っています」


『途中までは?』


 中井は答えられなかった。


 一般的には、家族と歩く道。


 父親や、親しい身内に付き添われ、新郎のもとへ向かう。


 だが、陽菜の両親はもういない。


 佳菜との関係も、陽菜が望む形とは限らない。


 長谷川は、二人の間に流れたものを察したように、穏やかに口を開いた。


「お一人で歩かれる方もいらっしゃいますし、お二人で最初から歩くこともできます」


『二人で?』


「はい。決まった形に合わせる必要はありません。お二人が、どのように始めたいかで決めていただけます」


 陽菜は、正面へ続く白い道を見る。


 誰かに連れられて、中井のもとへ向かう。


 その姿は、まだ想像できなかった。


 だが、中井と並んで同じ入口から歩き始める姿なら、少しだけ思い浮かべることができた。


『中井くん』


「はい」


『一緒に歩く?』


「陽菜さんが望むなら」


『中井くんは?』


「僕も、一緒に歩きたいです」


『じゃあ、そうしよっか』


「もう決めるんですか?」


『嫌?』


「嫌ではありません」


『なら決まり』


 陽菜は中井の手を取った。


 まだ挙式の日ではない。


 客席にも、誰もいない。


 それでも二人は並び、入口から数歩だけ白い道を歩いた。


     ◇


 式場を出る頃には、外が少し暗くなり始めていた。


 仮予約はしなかった。


 ほかの会場も見たうえで、二人で決めることにした。


 それでも、資料の入った袋には希望日が記されている。


 10月の土曜日。


 二人の結婚式が、ただの話ではなく、日付を持ち始めていた。


 帰りの電車。


 陽菜は中井の隣で、何度もスマートフォンの画面をつけていた。


 佳菜とのLINEを開く。


 最後に交わしたのは、陽菜が島川不動産へ入社して間もない頃だった。


 佳菜から届いた、仕事はどうかという短い質問。


 陽菜が返した、普通という一言。


 そのあとにも、必要な連絡だけは何度か交わしている。


 誕生日には短いメッセージが届く。


 陽菜も、佳菜の誕生日には同じように返す。


 喧嘩をしているわけではない。


 嫌いなわけでもない。


 ただ、何を話せばいいのか分からなかった。


「陽菜さん」


『何?』


「無理に、今日伝えなくてもいいですよ」


『見てた?』


「何度も同じ画面を開いていたので」


『結婚するって言うだけなのにね』


「大きな話です」


『総長たちには、普通に言えたよ』


「はい」


『会社のみんなにも』


「はい」


『何で、姉ちゃんには言えないんだろ』


 中井は、すぐには答えなかった。


「言えないのではなく、言い方が分からないんじゃないですか」


『同じじゃない?』


「少し違うと思います」


『どう違うの』


「伝えたい気持ちがあるから、画面を閉じていません」


 陽菜は、佳菜の名前が表示された画面を見る。


『伝えたいのかな』


「僕には分かりません」


『そこは分かるって言ってよ』


「陽菜さん自身が分からないことを、僕が決めるのは違うと思います」


『真面目』


「すみません」


『謝らなくていいよ』


 陽菜は文字を打ち始めた。


〈久しぶり〉


 そこで止まる。


 消す。


〈元気?〉


 それも違う気がして、消した。


〈話があるんだけど〉


 重すぎる。


 再び消す。


『難しい』


「短くてもいいと思います」


『急に結婚するって送ったら、びっくりしない?』


「驚くでしょうね」


『怒るかな』


「どうして怒るんですか」


『先に言わなかったから』


「まだ、決まったばかりです」


『でも、付き合ってることも言ってない』


「そうなんですか?」


『聞かれなかったから』


「陽菜さんも、話さなかったんですよね」


『うん』


「でしたら、今から話せばいいと思います」


 陽菜は、もう一度入力欄を開いた。


 余計な言葉を入れず、短く打つ。


〈結婚することになった〉


 その下へ、もう一文。


〈式は10月の予定〉


 送信ボタンの上で、指が止まる。


「押さなくてもいいですよ」


 中井が言う。


『押さない方がいい?』


「陽菜さんが決めてください」


『中井くん、役に立たない』


「申し訳ありません」


『冗談だよ』


 陽菜は小さく息を吐いた。


 そして、送信ボタンへ触れた。


 二つの文章が、画面の中へ並ぶ。


 既読は、すぐにはつかなかった。


『送っちゃった』


「はい」


『どうしよう』


「待ちましょう」


『返事来なかったら?』


「そのとき考えましょう」


『怒ってたら?』


「一緒に話します」


『中井くんも?』


「僕のことでもありますから」


 陽菜は、中井の腕へ自分の腕を絡ませた。


『じゃあ、逃げないでね』


「逃げません」


 電車が、二人の住む街へ向かって走っていく。


 佳菜からの返信は、まだ届かなかった。


     ◇


 同じ頃。


 樹里は自宅の机へ座っていた。


 ノートパソコンの画面には、昨夜と同じ文書が開かれている。


 友人代表挨拶。


 題名の下には、白い空白が続いていた。


 樹里は何度も文章を書きかけては消していた。


 新婦の櫻井陽菜さんとは、長年にわたり。


 ありきたりすぎる。


 陽菜を知っている者なら、誰にでも書ける。


 だが、樹里にしか書けないことを書けば、会社へ隠してきた過去へ触れることになる。


 夜の街。


 特攻服。


 背中の薔薇。


 総長と呼ばれていた自分。


 そのすべてを伏せたまま、陽菜との六年間をどう語ればいいのか。


 一文字も浮かばなかった。


 机の端では、仕事用のスマートフォンが震えた。


 画面には、神谷の名前が表示されている。


 休日に連絡が来ることは珍しい。


 樹里は白い画面を残したまま、電話へ出た。


『はい。日高です』


「休日に申し訳ありません。神谷です」


『何かありましたか』


「先ほど、高槻興産の緒方さんから連絡がありました」


 樹里の表情が変わる。


『高槻興産から?』


「はい。高槻社長から、日高さんと私へ直接話したいことがあるそうです」


『内容は聞いていますか』


「北側区画について、とだけ」


 樹里は、机の端に置かれた高槻興産の資料へ視線を向ける。


 これまでにも、北側区画の工事や管理について、何度も調整してきた。


 17社の工程。


 居住者への説明。


 施工会社との交渉。


 ようやく大きな問題を越え、案件は安定し始めている。


 それでも、高槻社長が休日に二人を名指しする理由は分からなかった。


『日時は』


「明日の午前10時です」


『黒澤部長には?』


「先ほど報告しました。日高さんにも伝えるように言われています」


『承知しました』


「緒方さんから、先に資料が届いています」


『確認します』


「量が多いので、今日は見なくても構いません」


『明日の打ち合わせですよね』


「そうですが、休日ですから」


『神谷さんは、もう見たんですか』


 電話の向こうで、僅かな間があった。


「最初の数ページだけです」


『なら、私も確認します』


「日高さん」


『何ですか』


「すべてを今夜中に読む必要はありません」


『内容だけ確認します』


「その言葉は、あまり信用できません」


『神谷さんに言われたくありません』


 神谷は返す言葉を失った。


『明日の朝、会社で情報を合わせましょう』


「……承知しました」


『休日に連絡していただき、ありがとうございます』


「こちらこそ、出ていただきありがとうございました」


『それでは、明日』


「はい。失礼いたします」


 通話を終える。


 間もなく、仕事用のパソコンへ新しいメールが届いた。


 送信者は、高槻興産の緒方。


 添付資料は、複数に分かれている。


 樹里は最初のファイルを開いた。


 表紙に、大きな文字が並んでいた。


【高槻興産北側区画・再整備計画】


 その下には、計画の概要が記されている。


 既存契約の整理。


 入居企業とテナントの移転。


 再整備後の管理。


 新規区画の募集。


 ゼネコンとの工程調整。


 関係企業、全17社。


 樹里は、ゆっくりと画面を下へ動かした。


 これまで関わってきた業務の延長に見える。


 だが、規模が違った。


 一つの工事。


 一つの契約。


 一つの管理物件。


 そのどれかではない。


 北側区画に関わる業務のすべてを、一つの会社へ任せるための計画だった。


(まさか)


 樹里は次のページを開く。


 業務委託先の候補欄。


 そこには、島川不動産の名前が記されていた。


 まだ決定ではない。


 高槻社長が、何を話そうとしているのかも分からない。


 それでも、この計画が動けば、これまでとは比べものにならない仕事になる。


 成功すれば、島川不動産にとって会社史上でも大きな契約になる。


 一方で、どこか一つでも調整を誤れば、17社すべての工程へ影響する。


 樹里は、さらにページを進めようとした。


 そのとき、背後にある白い画面が目に入る。


 友人代表挨拶。


 一文字も書けない私事。


 そして、数字と条件だけでは終わらない仕事。


 二つの白い画面が、樹里の前に並んでいた。


 どちらも、まだ何も始まっていない。


 それでも。


 10月へ向かう約束と。


 高槻興産との最後の大仕事が。


 同じ夜、静かに動き始めていた。

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