261話「考えておく」
翌朝。
島川不動産の営業部へ入った陽菜は、昨日までとは違い、左手を隠していなかった。
『おはようございまーす』
「おはようございます」
すでに出勤していた凛と柚希が、ほぼ同時に答える。
二人の視線は、すぐに陽菜の薬指へ向いた。
指輪は、今日もそこにある。
「今日は隠さないんですね」
凛が言う。
『昨日、黒澤部長に堂々としろって言われたから』
「それで、堂々としているんですか?」
『うん』
「昨日まで、日高先輩と中村さんへ先に伝えたいと言っていましたよね」
『もう言ったからいいの』
「お二人は、何とおっしゃっていましたか?」
柚希が尋ねる。
『美園さんは、すぐおめでとうって言ってくれた』
「日高先輩は?」
『最初は「そうか」だけ』
「日高先輩らしいですね」
『それで、あたしが言わせた』
「何をですか?」
『おめでとう』
「言ってくださったんですか?」
『二回も』
陽菜は得意げに、指を二本立てた。
「催促したんですよね」
凛の指摘に、陽菜の手が止まる。
『一回目はね』
「二回目は?」
『美園さんに言われて』
「どちらも催促ではありませんか?」
『細かいなあ』
凛は、陽菜の左手を改めて見る。
「でも、よかったですね」
『うん』
「日高先輩から祝っていただけたことが、です」
『指輪も褒めてよ』
「似合っています。それは昨日も言いました」
『今日は?』
「今日も似合っています」
『よし』
陽菜は満足そうに、自分の席へ鞄を置いた。
少し遅れて、中井が営業部へ入ってくる。
「おはようございます」
『おはよう、中井くん』
陽菜は普段と変わらない声で答えた。
だが、中井の顔を見るなり、左手を持ち上げる。
わざわざ指輪を見せるような仕草だった。
「外さなかったんですね」
『外した方がよかった?』
「いいえ」
『じゃあ、もっと喜んで』
「何をですか?」
『今日も着けてきたこと』
「ありがとうございます」
『何か違う』
「では、どう答えればいいんですか?」
『かわいいとか』
「会社で言わせるんですか?」
『小さい声ならいいよ』
「言いません」
『けち』
「櫻井さん」
落ち着いた声が、二人の間へ入る。
陽菜が振り返る。
樹里が、自分の席から二人を見ていた。
会社用の穏やかな表情。
声にも、昨夜のような荒さはない。
『業務中です』
『まだ始業前ですよ』
『もうすぐ朝礼が始まります。私的な話は、そのあとにしてください』
『日高先輩、昨日は――』
『櫻井さん』
樹里の目が僅かに細くなる。
陽菜は続きを飲み込んだ。
『分かりました』
『中井さんも、席へ戻ってください』
「はい。申し訳ありません」
『別に謝らなくても』
『櫻井さん』
『はい』
中井は自分の席へ向かった。
陽菜も不満そうに椅子へ座る。
その直後、黒澤が営業部の前へ立った。
「朝礼始めるぞ」
社員たちが仕事の手を止め、黒澤へ顔を向ける。
黒澤は、今日の訪問予定と会議の時間を順番に確認した。
高槻興産との打ち合わせ。
モデルハウスの来場記録。
翌週に予定されている社内研修。
一通りの連絡を終えたあとも、黒澤はその場を動かなかった。
「業務連絡は以上だ」
そう言いながら、陽菜と中井を見る。
「あと一つ。櫻井さんと中井が結婚することになった」
『黒澤部長!』
陽菜が声を上げる。
「何だ」
『いきなり言うんですか?』
「昨日、あれだけ騒いでおいて今さら隠すのか?」
『心の準備が』
「昨日一日あっただろ」
営業部にいた社員たちの視線が、二人へ集まる。
「おめでとうございます」
「いつ決まったんですか?」
「指輪、見せてください」
複数の声が重なった。
陽菜は照れたように左手を隠しかける。
だが、途中で思い直し、指輪が見えるように手を上げた。
『昨日、プロポーズされました』
「引っ越しの日に?」
『そうです』
「中井さん、やりますね」
「いえ。そんな」
中井は困ったように答えた。
その隣から、佐藤が顔を覗かせる。
「本当に昨日だったんですね」
『佐藤くん、知ってたの?』
「指輪を選ぶときに少しだけ相談されました」
『何で黙ってたの』
「中井さんから口止めされていたので」
『美園さんには言った?』
「言っていません」
『本当に?』
「本当です」
『美園さん、気づいてたよ』
「やっぱり、気づきますよね」
『やっぱりって何』
陽菜が佐藤を問い詰めようとすると、黒澤が手を叩いた。
「質問は休憩中にしろ。今は朝礼だ」
『発表したの、黒澤部長じゃないですか』
「俺は報告しただけだ」
『勝手に』
「どうせ五分後には櫻井さんが自分で言いふらすだろ」
『言いふらしません』
「昨日、遠藤さんたちに見せたんだろ」
『見つかっただけです』
「同じだ」
黒澤は呆れたように息を吐いた。
それから、もう一度二人を見る。
「櫻井さん。中井」
『はい』
「はい」
「おめでとう」
今度は、冗談の混じらない声だった。
『ありがとうございます』
「ありがとうございます」
二人は揃って頭を下げた。
「結婚式は?」
『10月の予定です』
「日付は」
『まだです』
「会場は」
『これから探します』
「何も決まってないじゃないか」
『10月は決まりました』
「分かった。日程が決まったら早めに出せ。二人とも同じ部署なんだから、休みの調整が必要になる」
『休んでいいんですか?』
「結婚式の日まで働かせたら、俺が怒られるだろ」
『黒澤部長、来てくれます?』
「呼ばれたらな」
『じゃあ呼びます』
「まだ返事はしてない」
『来てくれるんだ』
「話を聞け」
営業部に笑いが広がる。
黒澤は、今度こそ朝礼を終わらせようとした。
そこへ神谷が手を挙げる。
「一つ、よろしいですか」
「何だ」
「高槻興産の今後の予定ですが、10月まで続く可能性があります」
『結婚式の日は、高槻社長にも仕事を入れないよう言ってください』
陽菜がすぐに頼む。
「私からですか?」
『神谷さんなら言えますよね』
「相手は取引先の社長です」
『じゃあ、日高先輩から』
陽菜が樹里を見る。
樹里は、ほかの社員と同じ穏やかな表情を崩さなかった。
『日程が決まりましたら、早めに教えてください。高槻興産側とも調整します』
『ありがとうございます』
『ただし、会場も決まっていない段階で先方へ話すことはできません』
『やっぱり日高先輩、仕事の話になると厳しい』
『当然です』
「神谷」
黒澤が呼ぶ。
「高槻の案件は長引かせるな。10月までには終わらせろ」
「承知しました」
『あたしたちの結婚式のために?』
「違う。仕事は予定どおりに終わらせるものだからだ」
『でも、間に合ったら神谷さんのおかげですね』
『櫻井さん』
樹里の声が、僅かに低くなる。
『神谷さんを困らせないでください』
『日高先輩が庇った』
『仕事の話です』
「日高さん。ありがとうございます」
『神谷さんも、余計なことを言わないでください』
「申し訳ありません」
神谷は僅かに笑いながら頭を下げた。
陽菜は二人を見比べ、何かを言おうとした。
樹里の視線に気づき、口を閉じる。
「今度こそ朝礼を終わるぞ」
黒澤が全員を見回した。
「結婚する二人も、仕事は今までどおりだ。準備で忙しくなるのは分かるが、勝手に抱え込むな。休みが必要なら早めに言え」
『はい』
「中井。櫻井さんを止めるのは、お前の役目だからな」
「努力します」
『何であたしだけ止められる側なんですか』
「自覚がないからだ」
『あります』
「あるなら、返事を伸ばすなよ」
『はい』
陽菜が今度は短く答える。
「以上。仕事に戻れ」
朝礼が終わった。
社員たちが自分の席へ戻っていく。
陽菜もパソコンを立ち上げようとした。
そのとき、樹里が書類を持って隣へ立つ。
『櫻井さん』
『はい』
『こちらの来場記録ですが、午後までに修正をお願いします』
『分かりました』
樹里は書類を机へ置く。
そして、周囲に聞こえないほどの声で続けた。
『指輪、似合ってる』
陽菜が顔を上げる。
樹里はすでに背を向け、自分の席へ戻ろうとしていた。
『日高先輩』
呼び止める。
樹里が足を止める。
『ありがとうございます』
陽菜も、会社で使う言葉だけを返した。
樹里は振り返らず、自分の席へ戻った。
◇
昼休み。
陽菜は社員食堂で、凛と柚希に挟まれて座っていた。
向かいには、萌と陸がいる。
食事を始めてからも、話題はほとんど結婚式のことだった。
「ドレスは、もう決めたんですか?」
柚希が尋ねる。
『まだ会場も決まってないって』
「どんな形がいいんですか?」
『分かんない。着たことないし』
「普通は、結婚するまで着ないと思います」
凛が言う。
『仕事で着る人もいるじゃん』
「陽菜さんは、着たことがあるんですか?」
『ないよ』
「でしたら、普通です」
萌は、スマートフォンのカレンダーを開いている。
「10月の土曜日は、四回あります」
『まだ押さえなくていいよ』
「予定が入ってからでは遅いです」
『だからって、全部空けるの?』
「はい」
『萌、真面目すぎない?』
「結婚式は、何度もあるものではありません」
『中井くんとは一回だけの予定』
「ほかの人ともある予定なんですか?」
『ないよ』
萌は真顔で聞き返した。
陽菜は慌てて否定する。
凛が味噌汁へ口をつけてから、何でもないことのように尋ねた。
「ご家族へは、もう報告したんですか?」
陽菜の箸が止まった。
『まだ』
「お姉さんがいらっしゃるんですよね」
『うん』
「近いうちに報告されるんですか?」
『そのうちね』
陽菜は、止まっていた箸を再び動かした。
「結婚式には、来ていただくんですか?」
凛に悪意はない。
ただ、家族なら呼ぶのだろうと考えただけだった。
『まだ分かんない』
「そうなんですか?」
『日付も決まってないし』
「決まってから、お話しするんですね」
『多分』
短く答え、陽菜は別の話題へ移した。
『それより、凛ちゃんは青柳さんと来る?』
「私ですか?」
『うん。名古屋から呼ぶの大変かな』
「聞いてみます」
『柚希ちゃんは零と一緒ね』
「はい」
柚希が嬉しそうに答える。
会話は、そのまま招待客の話へ移った。
陽菜も笑っている。
だが、佳菜へどのように結婚を伝えるのか。
その答えだけは、まだ胸の中で見つからなかった。
◇
その日の夜。
Roseの扉が開く。
『ただいま』
『おかえり』
美園が、カウンターの中から答えた。
昨日とは違い、陽菜は一人だった。
店内には樹里がいる。
カウンターの端で、グラスへ口をつけていた。
『中井くんは?』
美園が尋ねる。
『新居の片づけ。あたしは抜けてきた』
『手伝いなさいよ』
『あとで戻るよ』
『何しに来たんだ』
樹里が尋ねる。
『総長に話』
『会社で一日一緒だっただろ』
『会社じゃできない話』
『また面倒なことか』
『まだ何も言ってないじゃん』
陽菜は樹里の隣へ座った。
美園が、酒ではなく温かい茶を出す。
『今日はこれね』
『何で?』
『昨日飲んだでしょ』
『一本だけだって』
『引っ越しの翌日に寝不足で来た人へ、酒は出さない』
『寝不足じゃないよ』
『目の下、少し黒い』
美園に指摘され、陽菜は顔へ手を当てた。
『化粧で隠したのに』
『隠れてない』
『会社では誰にも言われなかったよ』
『みんな、理由が分かってたんじゃない?』
『何の理由?』
美園が意味ありげに笑う。
陽菜は少し遅れて理解し、頬を赤くした。
『違うから』
『何も言ってないよ』
『美園さん、絶対変なこと考えてる』
『新婚初日だったんでしょ』
『まだ結婚してないって、中井くんにも言われた』
『じゃあ、婚約初日』
『もういい』
陽菜は茶を飲み、話題を終わらせた。
樹里が呆れたように二人を見る。
『それで、私に何の話だ』
『総長』
『何だ』
陽菜は茶の入ったカップを、両手で包んだ。
『結婚式で、お願いしたいことがある』
『仕事を休めなら、もう聞いた』
『それじゃない』
『パソコンも持っていかない』
『違うって』
『なら何だ』
陽菜は、一度美園を見た。
美園も、まだ何を頼もうとしているのか分かっていない。
陽菜は樹里へ向き直った。
『友人代表のスピーチ、総長にやってほしい』
樹里の手が止まる。
『嫌だ』
『早い』
『ほかを当たれ』
『まだ理由も聞いてないじゃん』
『理由を聞いても、やらない』
『総長』
『そういうのは、佳菜に頼め』
陽菜の表情が、僅かに止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐに笑い、カップへ視線を落とす。
『姉ちゃんは、違うよ』
『何が違う』
『友人代表じゃないでしょ』
『姉なら、お前のことを話せる』
『話せないと思う』
樹里が陽菜を見る。
美園も、何も言わずに二人の会話を聞いている。
『まだ結婚することも言ってないし』
『先に言え』
『そのうち言うよ』
『そのうちって、いつだ』
『日付が決まってからでいいでしょ』
『そういう問題じゃない』
『姉ちゃんの話はいいの』
陽菜の声から、僅かに笑いが消えた。
それ以上踏み込まれたくない。
樹里にも、それは伝わった。
佳菜と陽菜が姉妹としてどのように暮らしていたのか。
樹里はすべてを知っているわけではない。
佳菜とは同級生だった。
陽菜が十六歳で両親を亡くしたあと、二人で暮らし始めたことも知っている。
そして陽菜が十八歳で、姉のもとを離れたことも。
だが、その間に何があったのかを陽菜自身から聞いたことはなかった。
樹里は、無理に続きを尋ねなかった。
『なら、美園に頼め』
『私?』
突然名前を出され、美園が顔を上げる。
『美園の方が向いてる』
『勝手に決めないでよ』
『人前で話すのは、お前の方が上手い』
『それは否定しないけど』
『美園さんじゃ駄目なの』
陽菜が言った。
『ちょっと』
『違う。美園さんにやってほしくないって意味じゃないよ』
『言い方を考えなさい』
『ごめん』
陽菜は樹里を見る。
『総長に、やってほしい』
『何でだ』
『総長だから』
『理由になってない』
『あたしには、なるの』
樹里は眉間へ指を当てた。
『私は、そういう話に向いてない』
『知ってる』
『人前で話すのも嫌いだ』
『会社でいっぱい話してるじゃん』
『仕事とは違う』
『じゃあ練習して』
『簡単に言うな』
『まだ時間あるよ』
『時間の問題じゃない』
『お願い』
陽菜は、からかうような笑顔を見せなかった。
真っ直ぐ樹里を見ている。
『総長に、やってほしい』
同じ言葉を、もう一度繰り返す。
細かな理由は話さない。
樹里が自分にとって何なのか。
なぜ、その言葉を結婚式で聞きたいのか。
すべてを説明しようとすれば、きっと上手く言えない。
それでも、樹里でなければならないことだけは決まっていた。
樹里は、陽菜の視線から逃げるようにグラスを持ち上げた。
『断る』
『総長』
『まだ何も考えてない』
『じゃあ考えて』
『考えた結果、断るかもしれない』
『今断るよりいいよ』
『面倒な解釈をするな』
『だって、考えてくれるんでしょ』
樹里は返事をしなかった。
陽菜は待っている。
美園も口を挟まない。
やがて樹里は、深く息を吐いた。
『……考えておく』
陽菜の表情が、一気に明るくなる。
『本当?』
『引き受けるとは言ってない』
『でも考えてくれるんでしょ』
『そう言った』
『やった』
『まだ喜ぶな』
『総長、絶対やってくれるもん』
『勝手に決めるな』
陽菜は笑いながら、美園へ顔を向ける。
『美園さんも聞いたよね』
『聞いた』
『証人ね』
『何の証人よ』
『総長が考えるって言った証人』
『逃げられないように?』
『うん』
『お前ら』
樹里の目が細くなる。
『じゃあ、私からもお願いしようかな』
美園が笑う。
『総長。陽菜のために、考えてあげて』
『余計なことを言うな』
『私も聞きたいし』
『何を』
『総長が、陽菜のことを人前でどう話すのか』
『話さない』
『そこを考えるんでしょ』
陽菜と美園が、同じような笑顔で樹里を見る。
樹里は、完全に逃げ道を失っていた。
『帰る』
『もう?』
『用事は済んだだろ』
『まだお茶残ってるよ』
『お前が飲め』
樹里は席を立ち、鞄を持った。
『総長』
陽菜に呼び止められる。
『何だ』
『ありがとう』
『まだ何もしてない』
『考えてくれるから』
『礼を言うのは、引き受けてからにしろ』
『じゃあ、そのときもう一回言う』
『好きにしろ』
樹里はRoseを出ていった。
扉が閉まる。
陽菜は、先ほどまで樹里が座っていた席を見る。
『やってくれるかな』
『やるでしょ』
美園が答えた。
『本当に?』
『嫌なら、考えておくなんて言わないよ』
『総長、断るときは絶対断るもんね』
『そういう人だから』
美園は樹里の残したグラスを片づける。
『ただ、相当困ると思うよ』
『何が?』
『あの子、自分の気持ちを話すのが一番苦手だから』
『仕事の説明は上手いのにね』
『仕事には、正しい答えがあるから』
『あたしの話にはない?』
『ありすぎるんじゃない』
陽菜は、その意味を考えるように黙った。
やがて、薬指の指輪へ触れる。
『総長が話してくれるなら、何でもいい』
『それ、本人に言わない方がいいよ』
『何で?』
『余計に困るから』
◇
自宅へ戻った樹里は、着替えを済ませてもすぐには眠らなかった。
机の上には、高槻興産の資料が置かれている。
明日までに確認すべき数字。
工程の変更案。
各社から届いた報告書。
普段なら、帰宅後も迷わず開いている。
だが今夜、樹里が手に取ったのは仕事の資料ではなかった。
ノートパソコンを立ち上げる。
新しい文書を開く。
白い画面の左上で、細いカーソルが点滅していた。
――友人代表挨拶。
題名だけを入力する。
その下へ、最初の一文を書こうとする。
新婦の櫻井陽菜さんとは。
そこまで打ち、手が止まった。
『……違う』
文字を消す。
新婦とは、長年にわたり親しく。
それも途中で消した。
陽菜との関係を、何と呼べばいいのか分からなかった。
元総長と元副総長。
会社の先輩と後輩。
友人。
仲間。
家族。
どれも間違いではない。
だが、どれか一つだけでは足りなかった。
六年前。
細い路地で、男を追い詰めていた十八歳の陽菜。
何度止めても追いかけてきた。
何度叱っても、自分の後ろを走った。
四年前。
何も言わずに姿を消した自分を、陽菜は探し続けた。
そして今。
左手に指輪をつけ、幸せそうに笑っていた。
思い出せることは、いくらでもある。
それなのに、言葉へ変えようとすると、何一つ書けなかった。
樹里は椅子の背へ身体を預ける。
画面には、題名だけが残っている。
友人代表挨拶。
その下では、白い空白が続いていた。
樹里はパソコンを閉じなかった。
書けないまま。
消すこともできないまま。
白紙の前に座り続けていた。




