260話「それだけ?」
新しい家で迎えた、最初の朝。
陽菜が目を覚ますと、隣に中井はいなかった。
新しいカーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
見慣れない天井。
まだ何も入っていない棚。
寝室の隅に積まれた、開封前の段ボール。
一瞬だけ、自分がどこにいるのか分からなかった。
だが、左手を動かしたとき。
薬指にある小さな感触で、昨夜のことを思い出した。
陽菜は布団の中から左手を持ち上げる。
朝の光を受け、指輪が静かに輝いていた。
『本当にある』
昨夜、中井から結婚を申し込まれた。
自分も、中井と家族になりたいと答えた。
夢ではなかった。
陽菜は指輪を見つめたまま、ゆっくりと口元を緩めた。
『中井くん』
呼んでも、寝室から返事はない。
代わりに、廊下の向こうから何かを動かす音が聞こえた。
陽菜はベッドを出る。
床へ置かれていた部屋着を拾い上げ、身につけながらリビングへ向かった。
台所には、中井が立っていた。
引っ越しの箱から取り出したばかりのフライパンを使い、朝食を作っている。
テーブルには、二人分のカップ。
まだ椅子は届いていないため、昨日と同じように床へクッションが並べられている。
『おはよう』
「おはようございます」
『起きたらいなかった』
「朝食を作っていました」
『新婚初日の朝なのに』
中井の手が止まる。
「まだ結婚していません」
『細かい』
「婚約した翌朝、です」
『もっと固くなった』
「事実です」
陽菜は後ろから中井へ抱きついた。
「危ないですよ」
『火、ついてないじゃん』
「今からつけます」
『じゃあ、その前に』
中井の背中へ頬をつける。
『昨日、嬉しかった』
「はい」
『ちゃんと寝られた?』
「寝られました」
『本当に?』
「陽菜さんは、すぐに眠りましたね」
『疲れてたから』
「僕の腕を掴んだままでした」
『離したら、いなくなるかもしれないじゃん』
「いなくなりません」
『分かってるよ』
口ではそう答えながら、陽菜はすぐには腕を解かなかった。
中井も、急かさなかった。
新しい台所。
二人分の朝食。
背中へ回された陽菜の腕。
昨日まで想像していた生活が、もう始まっている。
「陽菜さん」
『何?』
「朝食を作ってもいいですか」
『仕方ないなあ』
陽菜はようやく離れ、中井の隣へ立った。
『あたしも手伝う』
「では、皿を出してください」
『どの箱?』
「台所用品と書かれた箱です」
『靴が入ってた箱?』
「それは昨日出しました」
『じゃあ、これかな』
「そちらは洗面用品です」
『字、小さいよ』
「大きく書きました」
『中井くんが出して』
「手伝うと言ったのは誰ですか」
『あたし』
「では、探してください」
陽菜は不満そうにしゃがみ込み、段ボールの側面を一つずつ確認した。
◇
朝食を終えたあと。
二人は床へ座ったまま、コーヒーを飲んでいた。
陽菜は指輪のついた手でカップを持ち、何度も角度を変えている。
「落とさないでくださいね」
『取れないよ』
「緩くないですか」
『ちょうどいいって』
「昨日は、多分と答えました」
『一晩つけてたけど大丈夫だった』
「それなら、よかったです」
『中井くん』
「はい」
『今日、みんなに言っていい?』
「構いません」
『総長と美園さんに、最初に言いたい』
「昨日も話していましたね」
『うん。だから、会社では隠す』
「指輪を着けたままで、ですか」
陽菜が左手を見る。
『気づくかな』
「気づくと思います」
『じゃあ、外す?』
「無理に外さなくてもいいですよ」
『でも、総長たちより先に知られるの、ちょっと嫌だな』
「日高さんは会社にいます」
『会社で言うのは違うじゃん』
「では、今日だけ外しますか」
陽菜は指輪へ触れた。
しばらく考えたあと、首を横に振る。
『やっぱり着けてく』
「いいんですか?」
『中井くんにもらったのに、すぐ外したくない』
「そうですか」
『気づかれたら、中井くんのせいね』
「どうしてですか」
『指輪くれたから』
「理不尽ですね」
『婚約したんだから、これくらい我慢して』
陽菜は笑いながらコーヒーを口へ運んだ。
その横顔を見たあと、中井が静かに尋ねる。
「陽菜さん」
『何?』
「式は、どうしますか」
陽菜の動きが止まった。
『式?』
「結婚式です」
『ああ』
陽菜は、何でもないことのようにカップへ視線を落とした。
『別に、籍だけでもよくない?』
「そうですか」
『お金も掛かるし。準備も大変そうだし』
「はい」
『中井くんは、やりたいの?』
「僕は、陽菜さんが望む形にしたいです」
『またそれ』
「嫌でしたか?」
『嫌じゃないけど、それだと中井くんがどうしたいのか分かんない』
中井は少し考えた。
「僕は、式を挙げたいです」
陽菜が顔を上げる。
『そうなの?』
「はい」
『意外』
「どうしてですか」
『目立つの苦手でしょ』
「苦手です」
『じゃあ何で?』
「陽菜さんが、結婚式をしたいと思っているからです」
『あたし、そんなこと言った?』
「言っていません」
『じゃあ、何で分かるの』
「以前、結婚式場の広告を見ていました」
『仕事でしょ』
「ウェディングドレスのページを、ずっと見ていました」
『見てないよ』
「僕が声を掛けるまで、画面を閉じませんでした」
『覚えてたの?』
「はい」
陽菜はカップの縁へ口をつけたまま、視線を逸らした。
『ドレスが、ちょっと気になっただけ』
「着たいですか」
『別に』
「では、着たくないんですか」
『そういう聞き方、ずるい』
「陽菜さんが本当のことを言わないので」
『着たいって言ったら、笑わない?』
「どうして笑うんですか」
『あたしが、白いドレスだよ』
「似合うと思います」
『まだ見てないじゃん』
「見なくても分かります」
中井は迷わず答えた。
陽菜はしばらく黙った。
耳が少しだけ赤くなっている。
『……着たい』
「はい」
『中井くんにも、隣にいてほしい』
「います」
『会社のみんなも呼びたい』
「呼びましょう」
『凛ちゃんと柚希ちゃんと、萌と陸も』
「はい」
『零も』
「もちろんです」
『それから、美園さんと』
陽菜は、そこで一度言葉を止めた。
『総長にも、来てほしい』
「来てくださいます」
『絶対?』
「招待すれば、必ず来ます」
『でも、面倒だって言いそう』
「言うかもしれません」
『式の途中で仕事しないかな』
「日高さんでも、そこまではしないと思います」
『分かんないよ。パソコン持ってくるかも』
「その場合は、神谷さんに預かっていただきましょう」
『いいね。それ』
陽菜の表情が、少しずつ明るくなる。
誰を呼ぶか。
どのような場所にするか。
まだ何も決まっていない。
それでも、陽菜の頭には一つの光景が浮かび始めていた。
白いドレスを着た自分。
隣に立つ中井。
会社で出会った者たち。
仕事を通じて繋がった後輩たち。
零や、今も自分のそばにいてくれる人々。
そして、樹里と美園。
Rose girlsとして走っていた頃には、想像したこともなかった場所へ三人で立つ。
『式、やりたい』
今度は、誤魔化さなかった。
「はい」
『中井くんと、ちゃんと結婚式したい』
「僕もです」
『いつにする?』
「今からですと、準備に半年ほどは必要だと思います」
『半年』
「会場によっては、それ以上掛かるかもしれません」
『秋くらい?』
「そうですね」
陽菜は、スマートフォンのカレンダーを開いた。
春。
夏。
秋。
指で画面を動かしながら、何度も月を行き来する。
『10月がいいかも』
「10月ですか」
『うん。暑くないし、寒くもないでしょ』
「会場によっては、希望する日がすでに埋まっている可能性があります」
『もう?』
「結婚式場は、かなり前から予約する方もいますから」
『じゃあ、早く探さないと』
「今度の休みに見に行きますか」
『いきなり?』
「決める必要はありません。話を聞くだけでもいいと思います」
『中井くん、本当にやる気だね』
「陽菜さんと結婚するための準備ですから」
陽菜は、少し照れたように画面へ視線を落とした。
『じゃあ、10月』
「はい」
『まだ何日かは決めないけど』
「まずは会場を探しましょう」
『うん』
陽菜は、カレンダーの10月へ小さな印をつけた。
詳しい日付は、まだ決まっていない。
会場も。
招待する人も。
どのような式にするのかも、これから二人で考える。
それでも、二人の約束には初めて季節がついた。
10月。
そこへ向かって、二人は夫婦になる準備を始める。
◇
島川不動産へ出勤すると、陽菜はできるだけ左手を見せないようにしていた。
書類は右手で持つ。
鞄も右肩へ掛ける。
デスクへ座ると、左手は机の下へ隠した。
「陽菜さん」
向かいの席から、凛が呼ぶ。
『何?』
「左手を怪我したんですか」
『してないよ』
「先ほどから、使っていません」
『今日は右手を鍛えてるの』
「どうしてですか」
『左右のバランス』
「意味が分かりません」
凛は眼鏡の位置を直し、陽菜の机を見る。
「昨日お渡しした来場記録へ、確認印をお願いします」
『置いといて。あとでやる』
「今、確認していただけますか」
『右手で押すから』
「印鑑は左側の引き出しですよね」
『取って』
「陽菜さんの机です」
『今日だけ』
凛の目が、陽菜の左手へ向く。
陽菜は慌てて、さらに机の下へ隠した。
「見せてください」
『嫌』
「やはり怪我をしているんですか」
『してないって』
「では、どうして隠すんですか」
『凛ちゃん、仕事中だよ』
「仕事に必要な手を隠しているのは陽菜さんです」
言い返せない。
陽菜が困っていると、柚希が近づいてきた。
「どうしたんですか?」
「陽菜さんが、左手を使わないんです」
「痛いんですか?」
『痛くないよ』
「見せてください」
『二人とも、何でそんなに気になるの』
「いつもと違うからです」
柚希も、陽菜の机の前へ回り込む。
逃げ場がなくなった。
『分かった。見せるけど、騒がないでね』
「はい」
「分かりました」
陽菜は周囲を確認した。
樹里は神谷と一緒に外出している。
中井も、客先へ向かったばかりだった。
黒澤は会議室。
萌と陸は、少し離れた席で資料を確認している。
今なら、凛と柚希にしか見えない。
陽菜は、ゆっくりと左手を机の上へ出した。
薬指には、指輪がある。
凛が動きを止めた。
柚希は一度目を見開き、すぐに両手で口元を押さえる。
「陽菜さん、それ」
『声、抑えて』
「もしかして」
『うん』
「中井さんからですか?」
『ほかに誰がいるの』
「おめでとうございます!」
柚希の声が、営業部全体へ響いた。
『柚希ちゃん!』
「す、すみません!」
萌と陸が、同時に顔を上げる。
「何がおめでたいんですか」
萌が尋ねる。
「櫻井先輩、何かあったんですか?」
陸も立ち上がった。
『何でもないよ』
「左手を隠しましたね」
萌は見逃さなかった。
『萌まで来なくていいって』
「報告する必要があることですか」
『仕事の話じゃないから』
「でしたら、何ですか」
「指輪です」
凛が答えた。
『凛ちゃん!』
「もう隠せないと思います」
萌と陸の視線が、陽菜の左手へ向く。
陽菜は諦めて、指輪を見せた。
「婚約指輪ですか」
萌が尋ねる。
『うん』
「中井先輩から?」
『そう』
「昨日ですか」
『そうだけど』
「新居へ引っ越した日に?」
『質問多くない?』
「順番を確認しています」
『何の順番?』
「結婚までの予定です」
『まだほとんど決まってないよ』
「式は?」
『10月』
「決まっているじゃないですか」
『10月のどこかってだけ。会場も、日付もまだだよ』
「決まり次第、早めに教えてください」
『萌、そんなに予定埋まってるの?』
「他の予定を入れないためです」
『まだ呼ぶって言ってないよ』
「呼んでくれないんですか」
『嘘。呼ぶよ』
「分かりました。予定を空けます」
陸が慌てて頭を下げる。
「櫻井先輩、おめでとうございます」
『ありがとう』
「俺、結婚式って出たことないです」
『陸も呼ぶよ』
「本当ですか?」
『うん』
「ありがとうございます」
「私たちも呼んでもらえるんですね」
柚希が嬉しそうに言う。
『うん。凛ちゃんも、柚希ちゃんも』
「零ちゃんも一緒でいいですか?」
『もちろん』
凛は指輪を見つめたあと、柔らかく笑った。
「本当に、おめでとうございます」
『ありがとう』
陽菜は照れたように、左手を机の下へ戻した。
そのとき、会議室の扉が開く。
「何を集まってる」
黒澤が、営業部へ戻ってきた。
『何でもありません』
「その人数で?」
『仕事の相談です』
「何の仕事だ」
『秘密です』
「仕事を秘密にするな」
黒澤は陽菜たちを見回す。
萌と陸は自分の席へ戻り、凛と柚希も慌てて離れた。
黒澤は、最後まで左手を机の下へ隠している陽菜を見る。
「櫻井さん」
『はい』
「指輪くらい、堂々と見せればいいだろ」
陽菜が顔を上げる。
『知ってたんですか?』
「それだけ騒いでれば聞こえる」
『おめでとうは?』
「仕事中だ」
『けち』
「終業後に言ってやる。今は仕事しろ」
『はーい』
「返事を伸ばすな」
黒澤は自席へ戻る。
陽菜は机の下で、もう一度指輪へ触れた。
最初に樹里と美園へ伝える計画は、半分ほど失敗した。
それでも、二人へは自分の口から言いたかった。
◇
その日の夜。
Roseの扉を開けると、美園がカウンターの中から顔を上げた。
『いらっしゃい』
『ただいま』
「お邪魔します」
陽菜と中井は並んで店へ入った。
カウンターの端には、すでに樹里が座っている。
『遅い』
『仕事終わってすぐ来たよ』
『私の方が先に着いてる』
『日高先輩は高槻興産から直帰でしょ』
『だから何だ』
『会社に戻ってない分、早かっただけ』
『言い訳するな』
『勝負してないじゃん』
美園が二人の前へグラスを置く。
『座りな。中井くんも』
「ありがとうございます」
陽菜は樹里の隣へ座り、中井もその隣へ腰を下ろした。
店内には、ほかの客はいない。
美園が、いつもより早い時間に一度店を閉めてくれた。
『それで?』
美園が尋ねる。
『話があるんでしょ』
『うん』
陽菜は、自分の左手を膝の上へ置いたまま答えた。
樹里がグラスを持ち上げる。
『引っ越しなら、昨日終わっただろ』
『引っ越しの話じゃないよ』
『また何か壊したのか』
『壊してない』
『会社から持ち帰った資料をなくした?』
『なくしてないって』
『なら何だ』
『総長、あたしのこと何だと思ってるの』
『放っておくと何か起こす人間』
『ひどい』
『事実でしょ』
美園が笑う。
中井は、二人のやり取りが終わるのを黙って待っていた。
陽菜は一度、中井を見る。
中井が僅かに頷く。
陽菜は左手を持ち上げ、カウンターの上へ置いた。
『あたしたち、結婚する』
樹里の手が止まった。
美園は、陽菜の薬指にある指輪を見る。
『やっぱり』
『知ってたの?』
『中井くんが鞄を守ってたときに、何となくね』
『教えてくれてもよかったじゃん』
『私が言うことじゃないでしょ』
『そっか』
美園はカウンター越しに身を乗り出し、陽菜の左手を取った。
『見せて』
『うん』
指輪をさまざまな角度から確認する。
『似合ってる』
『本当?』
『うん。陽菜には、もう少し派手なものを選ぶかと思ってた』
「普段も着けられるものがいいと思いまして」
『中井くんらしいね』
『あたしも気に入ってる』
陽菜は嬉しそうに答えた。
美園はその手を離し、中井へ顔を向ける。
『中井くん』
「はい」
『おめでとう』
「ありがとうございます」
『陽菜のこと、よろしくね』
「はい」
『何かあったら、ここへ逃げてきてもいいから』
『何で中井くんが逃げるの』
『陽菜と毎日暮らすんでしょ。逃げ場くらい必要よ』
『美園さん』
「覚えておきます」
『中井くんまで』
陽菜が頬を膨らませる。
美園は笑いながら、陽菜へ改めて顔を向けた。
『おめでとう、陽菜』
その声は、先ほどまでより少しだけ柔らかかった。
『幸せになりな』
陽菜の表情から、からかうような色が消える。
『うん。ありがとう』
隣では、樹里が何も言わずにグラスを見ている。
陽菜は、その横顔へ向き直った。
『総長』
『聞こえてる』
『あたし、結婚するよ』
『そうか』
陽菜の眉が動く。
『それだけ?』
『何がだ』
『美園さんは、おめでとうって言ってくれた』
『聞いてた』
『総長は?』
『何で私に言わせる』
『言ってくれないから』
『聞いた。それで十分だろ』
『十分じゃない』
陽菜は椅子ごと樹里の方へ身体を向けた。
『ねえ』
『近い』
『総長』
『うるさい』
『おめでとうは?』
『自分から催促するものじゃないだろ』
『総長が言わないからでしょ』
『分かった。離れろ』
『言ってくれたら』
樹里は、しばらく陽菜を見つめた。
六年前。
何も考えず、一人で危険な場所へ飛び込んでいた十八歳の陽菜。
叱っても、殴っても、翌日には同じことを繰り返した。
誰かに愛されることを信じられず、先に笑って誤魔化していた。
そんな陽菜が今、自分で選んだ男の隣に座っている。
左手には、未来を約束した指輪がある。
樹里は、グラスをカウンターへ置いた。
『……おめでとう』
短い言葉だった。
それでも、誤魔化さず陽菜を見ていた。
陽菜は目を瞬かせる。
催促したのは自分だった。
それなのに、実際に言われると、すぐには何も返せなかった。
『もう一回』
『調子に乗るな』
『今の録音してない』
『しなくていい』
『写真も撮ってない』
『何を撮るんだ』
『総長がおめでとうって言ってるところ』
『意味が分からない』
『じゃあ、もう一回言って』
『二度と言わない』
『けち』
そう言いながら、陽菜は笑っていた。
目の端には、僅かに涙が浮かんでいる。
美園は何も指摘せず、陽菜の前へ新しいグラスを置いた。
酒ではない。
薄い色のジュースだった。
『今日はこれで乾杯しようか』
『お酒じゃないの?』
『昨日飲んだんでしょ』
『一本だけだよ』
『引っ越しで疲れてるんだから、今日は休みな』
『美園さんまで中井くんみたい』
『その中井くんと結婚するんでしょ』
『そうだった』
美園は樹里と中井のグラスにも飲み物を注いだ。
『総長』
『何だ』
『乾杯くらいしてあげなよ』
『分かってる』
四人が、それぞれグラスを持ち上げる。
『陽菜、中井くん。婚約おめでとう』
「ありがとうございます」
『ありがとう』
陽菜は樹里を見る。
樹里は僅かにため息をついた。
『おめでとう』
『二回目!』
『うるさい』
グラスが触れ合う。
小さな音が、閉店後のRoseへ響いた。
『式はどうするの?』
美園が尋ねる。
『やるよ』
『決めたんだ』
『うん。10月』
『会場は?』
『まだ』
『招待する人は?』
『これから』
『日付も?』
『これから』
美園が呆れたように眉を上げる。
『決まってるの、10月だけ?』
『うん』
『相変わらずね』
『これから二人で決めるからいいの』
「次の休みに、式場の話を聞きに行く予定です」
中井が補足する。
『中井くんがいるなら、何とかなるか』
『どういう意味?』
『陽菜一人だったら、10月になっても会場が決まってなさそうだから』
『そこまでじゃないよ』
『引っ越しの箱に靴を入れた人が言ってもね』
『それはもういいじゃん』
美園と陽菜が話す横で、樹里は一人、グラスへ視線を落としていた。
10月。
陽菜が白いドレスを着る。
中井と並び、多くの人間から祝福される。
頭では想像できる。
だが、その姿を思い浮かべると、胸の奥に説明できないものが生まれた。
寂しさではない。
陽菜が離れていくとも思っていない。
それでも、かつて自分の後ろを走っていた少女が、自分とは違う未来へ進もうとしている。
樹里には、その感情を表す言葉がまだ見つからなかった。
『総長』
陽菜の声に、樹里が顔を上げる。
『ちゃんと来てね』
『当たり前だろ』
『仕事入れないでよ』
『入れない』
『パソコン持ってこないでね』
『持っていくわけないだろ』
『神谷さんに預けるから』
『何であの人が出てくる』
『中井くんが言った』
樹里が中井を見る。
「申し訳ありません」
『謝るなら言わないで下さい』
『神谷さんも呼んでいい?』
陽菜が尋ねる。
樹里は僅かに言葉を詰まらせた。
『私に聞くことじゃない』
『来てほしい?』
『知らない』
『じゃあ呼ぶね』
『勝手にしろ』
樹里はグラスへ口をつけた。
耳が僅かに赤くなっている。
それを見つけた陽菜が、美園へ目配せする。
美園は小さく笑った。
10月。
まだ何も決まっていない結婚式。
会場も。
日付も。
招待状も。
その場所に誰を呼ぶのかも、これから決める。
陽菜は左手の指輪へ触れた。
中井と家族になる日。
これまで自分を支えてくれた者たちの前で、新しい人生を始める日。
秋へ向けた最初の約束が、閉店後のRoseで交わされた。




